士郎が昼寝をしている。
その日、わたしは朝から工房に篭って作業に没頭していた。ギリシャで、冬木で派手な夏休みを過ごした附け。どうしても、今日中に仕上げなければならない課題があったのだ。
それもどうやら目鼻がつき、やれやれお茶でも飲もうと出てきたところで、リビングの絨毯の上でごろりと昼寝をしている士郎に出くわしたと言うわけだ。
「ほんとにでっかくなっちゃって……部屋が狭く見えるわね」
大の字になって眠っている士郎は、体つきのわりに可愛らしいくらい幼い寝顔だった。そのせいでもないだろうが、わたしはちょっとした悪戯心から、傍らに屈み込んで士郎の顔を覗き込んでしまった。
「枕くらい使いなさいよ」
こいつは極上のペルシャ絨毯だ。洋間であってもここだけは土足厳禁。
そんなわけでここでは皆、直接床に座り込んで寛ぐのだが、多分、士郎はそのままごろりと横になって寝入ってしまったのだろう。枕も上掛けも無く、ただ仰向けに寝転んでぐっすりと眠っている。
仕方がない。わたしはクッションを枕代わりにと、少しばかり不自然な格好で士郎の頭をそっと持ち上げた。
「まったく……きゃ!」
その瞬間だ。いきなり士郎の手がわたしの腰を抱きかかえた。わたしはバランスを崩し、そのまま士郎の脇に倒れこんでしまった。
「……ちょっと……」
おかげ様でクッションはわたしの手を離れ、代わりにわたしの腕が士郎の頭の下にすっぽり嵌り込んでしまう。なんというか、その……士郎の頭を腕枕した上で、抱え込むように添い寝する形になってしまったのだ。
思わず目の前の士郎の顔を睨みつけてやったのだが……
やっぱりぐっすり眠っていらっしゃる。
「……狙ってやってるんじゃないってのが、また腹立つのよね」
わたしは幸せそうに眠る士郎の顔を見詰め。ほっと溜息混じりに呟いてしまった。
さっき、わたしの腰に回した手も寝ぼけていただけなのだろう、今は外れて空を掴んでいる。起き上がろうと思えば起き上がれるのだが、そうなると流石の士郎も目を覚ましてしまうだろう。
「……このところ忙しかったし」
ま、仕方がないか。夏休みに入ってから、ギリシャでの大騒ぎ、日本での大騒動、それに倫敦に帰ってきてからもバイトやら来期の準備やらで休まる暇もない忙しさだった。
こうやって、昼寝をしている士郎なんて、それこそ春先まで戻らなきゃ記憶にないくらいだ。
「しょうがないか……」
そうなると、このまま起こすのは可哀想だ。それに、こうして士郎の顔を見ていると……わたしの方もなんだか眠くなってきた。
別に急ぐ用事があるわけでなし、わたしはそのまま士郎と共にお昼寝と洒落込むことにした。……何かひとつ大事な事を忘れているような気がするが……うん、きっと大したことじゃない。わたしは士郎の頭を抱きかかえ、そのまま夢の世界へと旅立った。
うん、いいなぁ、これ……
…………
……
あかねのひとみ | |
「橙金の盾」 | −Ayako Mituzuri−Fate/In Britain外伝-4 前編 |
Αιγιζη |
「ねえ、これっていつも?」
「いえ、いつもはこの様な事はありません。御互いのプライベートな場所ではともかく、この様に共有の場では二人とも禁欲的なほどで」
「へえ、苦労してるんだね」
「それほどでも、慣れていますから。ですが、少しは自重して欲しいものです」
夢心地の耳に、遠くから聞き覚えのある声が響いてくる。女が二人……一人は……ああ、セイバーだな。
なんか文句を言っているようだが、良いじゃないの、自分の家なんだから、他の誰かが見ているわけでもなし……
……他の……誰か……?
何か引っかかった。そういえばセイバーは誰かと話している。知らない声じゃない、どこかで聞き覚えがある。昔から知ってて……そう、最近も聞いたような……
「――っ!」
思いっきり目が覚めた。いきなり夢の世界から現実へ。寝起きがとことん悪いわたしだが、これには飛び上がるほどの勢いで起き上がってしまった。
Illusted by Maki akari
「よ、遠坂、御目覚め? 邪魔しちゃったかな」
わたしの横で、飛び起きざまに弾き飛ばしてしまった士郎が、テーブルに頭をぶつけて声にならない悲鳴を上げている。だが、そんな事は問題じゃない。わたしはセイバーの隣でにやにや笑っている人影に、はしたなくも指を突きつけてしまった。
「み、み、み、み、み……」
「寝起きだから、頭に血が回ってないのは分かるんだけど、あたしの名前くらいちゃんと言って欲しいもんだね」
すっかり忘れてた。昨日からこいつわたしの家に泊まってたんだ。三人ともオフなのにセイバーが居なかった理由もこいつのせい。午前中、来期の準備で手の離せないわたしと士郎の代わりに倫敦観光の案内役を頼んだんだった。午後からは合流して夕食を食べに出かける予定で……作業に没頭しちゃってすっかり忘れてた。
「美綴さん……」
「おはよう、遠坂。なんだやっぱり衛宮と爛れた生活送ってたんじゃない」
わたしが漸く絞り出した声に、綾子は腕を組んで思い切り人の悪い笑みを浮かべながら、楽しそうに応えやがる。くそ、反論できない……
溜息をついて苦笑するセイバーと、未だ頭を抱えてのた打ち回る士郎に挟まれて、わたしは天に向かって心の声で叫んでいた。こんな時に昼寝なんかする士郎が悪い!
八つ当たりだけど……
「なあ、遠坂は明日どうする?」
「ルヴィアんとこパーティー? 士郎は裏方だっけ?」
「ああ、シュフランさんの手伝いで、切り盛りする事になってる」
話は前日に遡る。その日、わたしたちの朝はそんな会話から始まった。
「そうね、どうしようかな……“仮面舞踏会”だっけ?」
「おう、ルヴィアさんは社交好きだからな」
魔術師が催す“仮面舞踏会
ホストのルヴィアをはじめ、参加者は全て魔術師である事を終始伏せたまま楽しむ。今回はどの程度いるか知らないが、表の顔である以上一般人も混じっての催しだ。
一般人に魔術は秘されねばならない。とはいえ魔術一般には恐ろしくお金が掛かる。表の顔でそれなりの経済的な基盤を持っていない魔術師など、何も出来ないと言って良い。
だからこそ、時たまこういった形式の集いを設け、表の世界に顔を繋いで置く必要があるのだが、それでもかなり危険で、恐ろしく酔狂な催しであることに変わりはない。
「相変わらず物好きね、一応参加するって言っておいて。セイバーも来るんでしょ?」
「はい、私も別に招待状を頂いていますから」
律儀な事です、とどこか嬉しそうなセイバー。最近わたし達の周りの連中は、すっかりセイバーを使い魔扱いしなくなった。ま、士郎はともかく、わたしだっていつの間にかそんな風になってしまっているんだから、仕方ない事かもしれない。
そんな時だ、問題の電話が掛かってきたのは。
「はい、遠坂です」
何気に士郎が受けた電話。取った途端なにやら懐かしそうに、えらく伝法な口調の日本語で話し出した。
「誰? 士郎の知り合い?」
こちらに来てからの士郎は、結構友人は多い。専科の連中やシュトラウスにルヴィアの屋敷の人たちと、通り一遍以上の知り合いは日本に居た時より多いんじゃないかってくらいだ。ま、それに関してはわたしやセイバーも一緒なのだが。この電話は日本語。日本でここの番号を知っている知り合いは、確か片手で数えられるくらいのはずだ。
「おう、すまん遠坂への電話だ。美綴からだぞ、懐かしいんで思わず話し込んじまったけどな」
「美綴さん?」
士郎は、ごめんごめんとわたしに電話を渡してくれた。それにしても綾子か、あいつここの電話番号知ってたっけ? まあ、あいつなら桜や藤村先生から聞きだすことくらいは簡単だろうけど。
「はい、遠坂です」
「や、遠坂。元気そうじゃない」
受け取った電話から聞こえてきたのは、相も変わらず気さくな口調の綾子の声。
「お久しぶり、美綴さん。どうしたの?」
「いやあ、倫敦へ行ってから音沙汰なしだったでしょ? どうしてるかと思って」
言われてみれば、倫敦に来てからは時候の手紙のやり取りくらい、直接話すのは本当に久しぶりだ。あれ? そういえば冬木でもこいつ居なかったな……
と、そこまで考えて気がついた。電話口から漏れてくる周りの音。話し声も混じってるけど、これって日本語じゃないわね。ってことは……
「美綴さん。あなた何処にいるの?」
「ははは、分かる?」
「分からないから聞いてるんでしょ? 日本じゃないわね」
「ビンゴ。実はさ、今ヴィクトリア駅」
「へぇ……って倫敦じゃないの!」
驚いた。なんでも大学を一年休学して、バイトで貯めたお金で、貧乏旅行を敢行している最中だという。
「じゃあ、わたし達が冬木に帰ってたときには……」
「そうね、丁度入れ違いかな? 新大陸を回ってた」
で、ひと当たり新大陸も回りきったということで、欧州上陸。手始めに倫敦へやってきたという。女の子が一人で海外のバックパッカーとは……綾子らしいというか危なっかしいというか、豪快な話だ。
「それで? 倫敦案内でもしろって言うわけ?」
「それもあるけどね。宿貸してくれない?」
「はい?」
「いやそれがさ、貧乏旅行なんで。宿の手当てがまだなんだわ。そっちの知り合いってのもあんたとこくらいだし」
「それがさじゃないわよ! いきなり言われても……」
ちょっと待て、そりゃ泊めてくれって頼まれて泊めないでもないけど。こっちにも色々と事情が……
「そりゃ、遠坂が倫敦で衛宮と爛れた生活送ってるのは知ってるけどね」
「してない!」
「じゃおっけーね?」
「うっ……」
くっ、電話口の向こうでの綾子のにやにや笑いが目に浮かぶ。しかしこう言われて泊めなきゃ、こいつの言い分を認めることになる。そりゃ確かに士郎とは……って、違う!
まあ、別にそれだけって理由じゃないけど、こうして済し崩しの内に綾子は、数日うちに泊まることになったと言うわけだ。
「へえ、英国料理って評判よりずっと美味いんだね」
「はい、英国料理だから不味いと言うわけではありません、要は手の入れ方です」
夕食はシティの外れにある、オールド・チェシャー・チーズと言うパブレストラン。格式があるわけじゃないが十九世紀から変わらぬ英国のパブ料理を出してくれる。英国料理ながら、味もセイバーが合格を出しているのだからそう悪くもない。なにより、いかにも英国って雰囲気が良い店だ。チキン・チィカ・マサラ
「それにしても、美綴は随分と男っぷりが上がったな」
そんな様子を、どこか楽しそうに眺めながら士郎が呟いた。
確かに、日本にいた頃は気風のいい姉御肌ながら、どこか乙女趣味的なものがあった綾子だが、大学に進んでからは随分と変わった。
今は流石にカジュアルな服装に着替えてはいるが、駅に迎えに行ったときは、カモフラージュパンツにジャングルブーツ。上もフィールドジャケットで、更にその上からアサルトベストを引っ掛け、どでかいバックパックを背負うという、こいついったいどこの傭兵だってな格好だった。長く伸ばした髪だけは、女の子らしくきちんと結んでキャップに突っ込んでいたが。遠目には男か女か判別不能で、わたしだって一瞬誰かと思ったくらいだ。
「ほら、やっぱり女の子の一人旅じゃない。それっぽく偽装したってわけなんだけどさ」
男の子の一人旅もやっぱりやばかったんだよね、ちょっと失敗したかなぁ、などと危ない話をしながら豪快に笑ってくれる。
「それでは、新大陸ではずっとヒッチハイクを?」
「そうでもなかったわよ。あたし色々と武道かじってるでしょ? その師匠筋の紹介でね、各地の道場の厄介になって回ったってわけよ」
「おう、じゃ武者修行の旅か?」
「おうよ、あたしより強い奴に会いに……ってなわけないでしょうが!」
「いやあ、美綴は変わらないなぁ」
がぁ――とばかりに食って掛かる綾子に、笑顔で答える士郎。こら、じゃれ合ってるんじゃない。
「ほら、遠坂。何時までもそんな顔してないでさ。本気で爛れてたなんて思ってるわけじゃないんだから」
と、綾子を睨みつけていたら。人の悪い笑みを浮かべて話をぶり返しやがる。ふん、言ってなさいって。
「別に不機嫌なわけじゃないわよ、美綴さん」
「美綴、遠坂にその言い方は逆効果だ。遠坂が拗ねてる時は関係ない話題を持ち出して、暗に気にしてないって思わせるのが一番だぞ」
わたしがにっこりと綾子と対峙してるってのに。士郎、どうしてあんたがここで突っ込む。
「誰が拗ねてるって言うのよ!」
「成程。いや、衛宮は随分と遠坂に詳しくなったもんだね」
「そりゃ、詳しくもなるぞ。遠坂は結構難しいからな」
「ちょっと! こら!」
こいつら、わたしの話はスルー? 綾子、なに? そのご馳走様って目は? 士郎も嬉々として喋るんじゃないわよ!
「そうですね、凛は自分で思っているほどクールでもありませんし」
セイバーまで乗ってきやがった。
「……あんた達ね、本人目の前にして肴にしないでくれる?」
わたしが睨みつけてやっても、綾子の奴は何とも言えない目で見返してくる。
「な、なによ」
それがあんまり優しげだったもんで思わず聞き返してしまった。
「いやね、遠坂はこんなに表情豊かだったんだなってね」
綾子は、あたしだってあんたの猫には気付いてたけど、そのあたしにもここまで素直に底は見せなかったからねえ、と何とも感慨深げに微笑みかけてくる。そりゃ。確かに。いくら気心が知れてるったって、綾子は一般人だ。魔術師であるわたしの素をそうそう明かせられるもんじゃない。
ああ、そうか。
倫敦に来てから周りは魔術師ばかり。だから、こういった偽装が甘くなってきてるってわけか。ちょっと拙いかも、わたしは少しばかり気を引き締め直した。
「そうか? 俺の前だと遠坂はずっとこんなもんだぞ」
だってのに、士郎の奴は。こんな時にこんな事を言い出しやがる。
「へぇ。ってことは、遠坂は男の前だと素に戻っちまうタイプか。意外といえば意外だけど、そうだって言われると当然って気もするね」
「凛は素直ですが素直ではありませんから」
「そうだな、妙に意地っ張りだし」
「だ、か、ら! 本人の前でそういうこと話さない!」
豪快に笑う綾子、生暖かい苦微笑を浮かべて悪戯っぽく目を光らすセイバー、そして思いついた事を何も考えずに口にする士郎。わたしが肴ってのがちょっと気に入らなかったが、この日の夕食は、何とも妙に気持ちのいい時間であった。
「悪いな美綴、今日は付き合えないんだ」
「別に気にすること無いわよ、急に来たのはあたしの方なんだし」
朝食の席。元気一杯の三人と違って、わたしは些か頭が重い。朝が弱いってのもあるが、それより昨夜の宴会が堪えている。
昨日の晩、夕食から帰ってから。妙な心地よさと懐かしさから、思わず酒宴になだれ込んでしまったのだ。美綴はかなりいける口だったし、セイバーはそれ以上のうわばみ、士郎だって直ぐ赤くなるくせに一晩寝ればけろりとしたもんだ。結局、昨日の晩のお酒が残っているのはわたし一人。なんか凄く不公平な感じがする。
「良いわよ、士郎。今日一日はわたしとセイバーがこいつに付き合うから」
今日は朝から、士郎はルヴィアのとこでバイトだ。わたしも仕事がないわけじゃないが、講座の用意や魔具の作成で、どっちも急ぎでもないし、どこかに行かなきゃならないわけでもない。第一、綾子の前で魔術関係の作業をするわけにもいかない。それに、二日続けてセイバー一人に任すわけにもいかないだろう。
「それは良いけど、今晩はどうする?」
「今晩?」
はて、なにがあったかな?
「ルヴィアゼリッタの家でパーティではなかったのですか?」
あっと、忘れてた、今日はルヴィアの家で“仮面舞踏会
「いいよ、あたしは。急な客なんだし、ご飯位どっかで勝手に食べてるから」
「そういうわけにはいかないわよ……」
仕方がない、どうせ仲間内での集まりだ。士郎はホスト側だし外せないが、わたしの代理はセイバーに任せて、わたしが綾子の相手を勤めるか。
「美綴も来ないか? ホストのルヴィアさんって言う人は遠坂の友達なんだ」
と、思ってたところで、士郎がとんでもない事を言い出した。ちょっと、魔術師のパーティなのよ? そこに一般人なんか……
「遠坂、朝は弱いんだな、本当に」
食って掛かろうとしたわたしに、士郎は苦笑混じりで唇だけで“仮面舞踏会
あ、そうか……あれは魔術師の顔を出さないのが仕来り、万全ってわけではないが、綾子を連れて行っても構わないといえば構わないか。
「良いの? あたし関係ないでしょ?」
「美綴なら問題ないぞ、ルヴィアさんだってきっと気に入る」
こっちの考え事を余所に、士郎はなにせ遠坂の友達だからなぁ、などと能天気に笑いやがる。わたしに言わせりゃ却って危ないわよ。その、具体的に言うとわたしが。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
ほらみなさい、あたしも遠坂の友達ってのには興味あるわね、って目を輝かせちゃったじゃないの。
「服はどうするの? 一応フォーマルだからドレスとかも要るけど?」
とはいえ、流石に迷彩服の綾子を連れて行くわけには行かない。わたしのドレスでも、サイズがちょっとなぁ……くそ、どいつもこいつも膨らましやがって……
「ふふふ、準備おさおさ怠りなし」
綾子は人差し指を軽く振りながら不敵に笑うと、どでかいバックパックの底からなにやら箱を取り出した。
「じゃーん」
中から取り出したのは白いシルクのカクテルドレスと、ハイヒール。
「……あんた、こんなもの持ち歩きながらバックパッカーやってたの?」
「ええ。だって、ほら。何時何処でなにがあるか分からないじゃない。かぼちゃの馬車を仕立ててくれるお婆さんってのも、何処にでも居るわけじゃないしさ」
本当はイブニングドレスが良いんだけど流石にねえ、と豪快に笑う綾子。あんたはシンデレラか。全然柄じゃないけど、それを口にすると綾子の奴は目がマジになるからなぁ。
「それじゃ、行って来る。後で電話入れるからな」
朝食を終らせ士郎を送り出すと、わたし達は綾子と三人で街に出る用意をした。
「それでは、今日はどちらへ? 昨日の続きから参りましょうか?」
「いや、その前にちょっと顔出さなきゃいけない所があるのよね」
仕度を整えたセイバーの問いに、綾子が実にあっさりと言ってのける。こら、ちょっと待て。
「倫敦には、うちしか当てがなかったんじゃないの?」
「ええと、それがね。ない事もなかったんだけど」
悪い悪いと、ちっとも悪びれない綾子の言う事には、なんでも新大陸同様に武道の師匠筋の紹介で、倫敦にも伝のある道場があることはあるそうなのだ。だが、何故かその師匠は、そこに泊まる事だけは極力避けろとも言っていたという。
「なによそれ?」
「良くわからないんだけど、冗談を言うような人じゃなかったし」
とはいえ、紹介状も貰っているし、連絡も入れてもらっているので、顔だけでも出しておこうということなのだそうだ。
「成程、此処ですか。綾子の師匠は正しい……」
ここなんだけど、と綾子が少しばかり気味悪げに差し出した住所を見て、セイバーが、なにやら微妙な表情を浮かべて頷いた。
「セイバー、知ってるの?」
「ええ、知っています。私が案内しましょう」
詳しく聞こうとしても、セイバーはどこか楽しそうな表情で、行けば分かりますと苦笑するだけだ。ちょっとばかり気にはなったが、セイバーの知り合いだったらおかしな所じゃ無いだろう。わたし達はそのままセイバーの案内で、その道場に向かう事にした。
「ここかあ、なんだ結構良いとこじゃない。洒落てるし」
着いた先は、ホワイトチャペルの川沿い。昔は倉庫か何かだったのだろう、それを小奇麗に改装した道場だった。
「確かにお洒落よね。カフェかなんかかと思ったわ」
道場は二階らしい、そのグランドフロアの一角には、本当に洒落たオープンカフェまである。しかもイタリアンの。
「やあ、君がアヤコかい? 話は聞いているよ。さあ上がって上がって」
で、少しばかりこめかみが痛くなったわたしの横で、陽気に笑顔を振りまいて、ごくごく自然に綾子の手をとって導くこいつがこの道場の主。こいつのことは良く知っている。
ジュリオ・エルヴィーノ。士郎の友達で魔術師、ついでにイタリアの種馬。
成程、セイバーの言ったとおり、綾子の師匠は正しい。こいつの道場では、女の子に気軽に泊まって良いとは言えないなあ。
「へえ、エルヴィーノさんも、遠坂と同じ学校だったんですか?」
「同じといっても僕は演劇の方だからね、専門学校みたいなものさ」
余所行きの顔で乙に澄ます綾子に、ジュリオで良いよと、地中海の微笑で懐柔するジュリオ。惚れ惚れするほど如才がない。
確かにこいつは女の敵ではあるが、それはなにも力づくや、卑劣な手を使うわけではない。本気で女性に親切で優しいのだ。しかも陽気で口が上手い。ちょっとでも気抜くとすぐにこいつのペースに持って行かれる。でも、この如才なさは士郎も少しは……いや、見習わない方がいいか。
「で、身体動かして行くんだろ?」
「ええ、胴着は持ってきてますから」
「それじゃあ、更衣室は麗下に案内してもらって。僕も着替えてくるから」
ジュリオは笑顔のまま、軽くウィンクするとステップを踏みながら退場する。と、綾子がほっと息をついたような顔でわたしの耳に口を寄せてきた。
「ねえ、あの優男、本当につかえるの?」
「ジュリオは強いです」
わたしが応えるより先に、セイバーが立ち上がりながら綾子に応えた。ちょっと含みのある、どこかやんちゃな子供でも見るような口調だ。
「綾子も立ち会えば分かります」
そのままきっぱりと言い切る。
綾子も藤村先生と一緒で日本に居る頃、士郎の家でセイバーに挑んであっという間にやられた口だ。セイバーの実力を知っている以上、こう言われては黙るしかない。
それでも、まだ些か不審げではあったが、綾子はセイバーに連れられて更衣室へと消えていった。
「――はっ」
綾子の気合と共に、道場の板の間が小気味良い悲鳴を上げる。
武芸百般に精通していると言っても、綾子の基本は合気道と薙刀だと言う。豪快な癖にどこか乙女な綾子らしいと言うべきだろう。
「いやあ、凄いね。あっさりひっくり返されちゃったよ」
板の間に、叩き付けられたわりにのほほんとしたジュリオの賛辞。が、綾子の方はというと、先ほどからどんどん表情が険しくなっていく。
それはそうだろう、ここは畳で無く板の間。だってのに、さっきからぽんぽん投げ飛ばされているジュリオは、何度投げ飛ばされてもしれっとした顔をして立ち上がって来るのだ。わたしだって気がつく、こいつはわざと投げられている。
「エルヴィーノさん……いい加減にしてくれる?」
ほら、ついに綾子の奴が腹を立てた。
「あたしだって馬鹿じゃない。あんたが強いってのも分かる。最後のは腕と肩極めて投げ飛ばしたってのに、するりと抜けてくれて……結構自信あったんだけどさ」
袴姿も凛々しい綾子は、更に腰に手を当ててぐいっとばかりに、床に胡坐をかいて座り込んだジュリオを睨みつける。
「これでも、新大陸ほっつきまわって、そこそこ危ない橋も渡ってきた。叩きのめされたって文句は言わない。あたしは、その為にこんなとこまでやって来てるわけだしさ。ちったぁまともに相手してくんないかな?」
「参ったなぁ……」
眉間に皺を寄せ、それこそ触れんばかりまで顔をくっつけて迫ってくる綾子に、流石のジュリオも頭を掻いて回りに助けを求めている。
「ジュリオ、綾子なら大丈夫です」
そんなジュリオに、ここでセイバーの助けに入った。
「私が叩きのめしたこともありました。ジュリオ、一度“本気”で掛かってみてください」
更ににっこり笑ってとんでもない事を言い出す。綾子は少しばかりきょとんとしているが、ジュリオは目を剥いて驚いている。わたしだって腰が浮いた。セイバーは、ジュリオに制限なしで立ち会えと言ったのだ。
「宜しいですね、綾子」
「望むところよ」
綾子は、単に本当の実力を見せてみろと言っているのだと取ったのだろう、セイバーの声に莞爾と笑って応えている。
「それじゃあ、アヤコ。思い切り行くよ」
そんな二人を見て天を仰いでいたジュリオだが、覚悟を決めたのか、一息で起き上がると、ゆっくりと笑みを消して綾子に対峙した。
「……」
同時に綾子の顔からも表情が消える。
褐色の胴着で軽く膝を曲げ、両手を自然と前に倒すジュリオを、一足一刀の間合いを保ったまま、綾子は半身中段で迎える。
「……ちょっと、大丈夫なの?」
完全に空気の質が変わった。ぴんと引き締まり、一歩間違えば命のやり取りさえ始まりかねない空気だ。
わたしはセイバーにそっと声をかける。ジュリオの方は承知してたけど、綾子の奴いつの間に……
「大丈夫です。それに綾子の目的はこれにありますから」
セイバーは落ち着いた声音で応えてくれた。が、ちょっと気になる言い方だ、何か知ってるのだろうか?
―― 瞬!――
詳しく聞こうと、もう一度セイバーに声をかけようとした時だ、空気が動いた。
ジュリオが綾子の半身の反対側に素早く飛び込む。
「――はっ」
それに綾子は体を回さず、身を引く事で躱す。と即座に踏み込み、ジュリオの顎に掌底を突き出す。
無論そんなものは素早くガードされるのだが、それはフェイント。掌底は、瞬時に鷲爪にかわりガードの手首を掴むと、そのままの勢いで当身倒しに持って行く。
「――ちっ!」
だが浅かったか、ジュリオは素早く横に身を滑らすと、なんと手首を軸にバク転で綾子の腕は外してのけた。こいつ一体どう言うばねをしてるんだろう。
「参ったね……」
素早く引いて、間合いを取り直したジュリオが軽く頭を振った。ほんの僅かにだけ口の端に笑みを浮かべると、ふっと身を沈めるとさっきの倍ほどの素早さで綾子の正面に躍り出た。
「――っ!」
次々と繰り出される、肘を、掌を綾子は巧みに受け流す、うわぁ本当にこいつ腕あげたなぁ。わたしだったら到底捌ききれない速さの動きに付いていってる。
いける。そう思った瞬間だ。打ち合いに見切りをつけたジュリオが一歩下がって鋭い視線を綾子に向けた。
凍るほど冷たい殺気を秘めた魔術師の目。本当に本当のジュリオが顔を出したのだ。
「――え?」
思わず声を上げてしまった。その瞬間、ほんの一瞬だが綾子が棒立ちになったのだ。
そんな隙を見逃すジュリオではない。瞬く間に間合いの内懐に滑り込むと、ものの見事に綾子を刈り倒した。
「綾子!」
板の間に先ほどとは比べ物にならない倒音が響く。ほぼ同時、わたしとセイバーが道場中央に飛び出す。拙い、今まったく受身を取ってなかったじゃないの!
「綾子?」
「……ん? ああ、遠坂か」
綾子は直ぐ気がついた。何の受身も取らずに、真後ろに倒れたのが却って良かったのだろう、軽い脳震盪といったところか。
「おお! アヤコ! 大丈夫かい!?」
そこに間髪入れずジュリオが飛び込んできた。思いっきり慌てている。さっきの殺気なんか、一体何処へ行ったって程の狼狽振りだ。
「あ、良い、良い。あたしが気を抜いちゃったんだから」
「そうはいかないよ、アヤコ。僕のせいだ」
へらっと笑う綾子の手を両手で取っていたジュリオは、涙さえ浮かべて、そっと抱き上げながら顔を近づけていく。
「ジュリオ、その辺で良いでしょう。あとは私達が」
と、その両腕を徐
「一応検査をしてもらった方が良いでしょう。ジュリオ、近くにお医者様は?」
「あ……えっと。三軒先の四番地。開業はしてないけど、いつも世話になってる医者が居るよ」
どこか残念そうに暫く両手をひらひらさせていたジュリオに、セイバーは有無を言わせぬ笑みを浮かべて声をかける。綾子の師匠って人は確かに正しい。このままジュリオに任せてたら、身体はともかく貞操の危機だ。
「それでは参りましょう」
そのままセイバーは道場をあとにしようとしたのだが、
「あの……セイバーさん?」
セイバーにお姫様抱っこされていた綾子が、小さな声で呟いた。
「自分で歩けるから、それに……着替えもしたいしシャワーも浴びたいな。随分、汗かいちゃったし、このままお医者様って言うのもどうかと……」
子供が両親にでもお伺いを立てるような目つきで、わたしとセイバーを見上げる綾子。悲嘆にくれるジュリオを余所に、わたし達は身繕いをしてからお医者様に向かう事にした。
「ここ?」
「らしいわね、普通の家に見えるけど」
ジュリオに紹介された家は、クレッセントに代表される英国の街ではよくある集合住宅
「とにかく、尋ねてみましょう」
徐にセイバーが呼び鈴を押すと、可愛らしい鈴の音に応えて、これまた可愛らしい応えが返ってきた。
「はい、どちらさまでしょうか?」
「こちらがお医者様だと伺ってまいりました。エルヴィーノの道場で些か頭を打った者がおります、診て頂きたいと」
「それは大変でしょう。いまごあんないします」
開いた扉から顔を出したのは、やっぱり可愛らしい女の子だった。あれ? この娘どっかで……
「セ、セ、セ、セ、セイバーさん!?」
「ああ、ここはイライザの家だったのですか」
いきなり発条が弾けた様に名前を叫ぶ女の子に、セイバーがやんわりと微笑みながら挨拶した。ああ、思い出した。『真鍮
「開業はしていないのだがな」
出た。
「御久しぶりです。カーティス殿」
「うむ、久しぶりですな。レディセイバー」
出やがった。奥から堂々と現れ、礼儀正しくセイバーの手を取って口付けをするこいつは、紛れも無く、
「それで患者は? ミストオサカ。まさか君とは言わないだろうね?」
『真鍮
綾子 in Britain。外伝の四本目は美綴さんの登場です。
時期的には、メニュー表示にあるように、In FUYUKI の後、おうさまのけん第六話の前と言う事になります。
ワイルドに逞しくなった綾子。彼女が出会うBritain面々。凛や士郎が魔術師である事は秘密のまま、彼女はかの面々とどんなお話を紡ぎだすのでしょうか。
ちなみに題名「あかねのひとみ」の理由については後ほど、それでは後編をお楽しみください。
Text by dain
Illusted by 東 麻姫
(麻姫屋旅芸団)
2004/11/3