俺は小屋の中を見渡しながら、少しばかり考え込んだ。

あ、そうだ。

もう一度見渡す。うん、中もまだ余裕があるし、これならルヴィア嬢も納得してくれるだろう。

「それじゃあ、俺の方からお願いがあるんだけど」

「シェロのお願いですの? 珍しいですわね。よろしくてよ、何でも仰りなさい」

「実は湿潤法の調薬で家を追い出されちゃってね……」

俺は、遠坂に家の厨房から放り出されたことを説明した。湿潤法は基本的に厨房と同じ設備が必要だ。俺の部屋は鍛冶場の炉でいっぱいいっぱいで調理用の竃までは設置できない。
だから、この東屋を貸して欲しいと。

「つまり、このお家で竃を設けたい。そう仰るのね?」

「うん、駄目かな?」

「よろしいですわ。前にも申しましたでしょう? シェロの必要なものなら、何でも用意してさしあげますと」

こっちが嬉しくなるような表情で、ルヴィア嬢は承諾してくれた。

「それじゃあ、明日からここ借りる。俺も判らないことがあったらルヴィアさんに聞くから。ルヴィアさんも料理で判らない事があったら俺に聞いてくれ」

よしよし、これで目鼻がついた。と、ルヴィア嬢、なんともいえない目つきで俺を見ると、くすりと笑ってつんと横を向いた。

「シェロは狡くなりましたわね。そんな言われ方をされては断れませんわ」

「狡いかな?」

「ええ、とっても。あの純真なシェロが、こんな狡賢くなるなんて思いもしませんでしたわ」

ルヴィア嬢は俺に向き直って微笑んだ。かすかに瞳が揺れる、なんとも魅力的な笑みだ。

「でも、感謝しますわ、シェロ。有難う」

こうして俺は、この東屋で調薬の実験をする傍ら、ルヴィア嬢の料理の指導をすることになった。遠坂には内緒だぞ。





きんのけもの
「金色の魔王」  −Rubyaselitta− 第六話 後編
Lucifer





純白のテーブルクロス、白磁の皿と銀の食器を前にし、俺はゆっくりとスプーンを手にとり、そっとスープを口に運ぶ。

「……いかがかしら? シェロ」

恐る恐るルヴィア嬢が聞いてくる。いつもの勝気さは鳴りをひそめ、ひっそりと咲く野菊のような風情だ。
俺はゆっくりと吟味し、ルヴィア嬢に向かって微笑んだ。

「合格。一月でよくここまで出来るようになったなぁ」

それに応えて花のかんばせを綻ばすルヴィア嬢。両手を胸元にあわせ、飛び上がらんばかりの喜びようだ。
目の前に並ぶ、クリームスープ、小海老のオードブル、海鮮サラダ、ローストビーフ。これは全部ルヴィア嬢の手作りだ。無難なメニューだが、料理を学び始めて一月とは、とても思えない出来だ。
本日は本番前の試食会。明日に備え、同じメニューを一揃いで造ったわけだ。

「シェロのおかげですのよ」

「そんなことはないぞ、こう言っちゃなんだけど、ルヴィアさん食わず嫌いだったろ?」

にっこり笑っていたルヴィア嬢の表情が一瞬だけこわばる。
実のところ、ルヴィア嬢の料理の筋はそう悪くない。元々舌は良いし、刃物の扱いも巧みだ。細かい作業や心配りも十分だった。ルヴィア嬢が料理を苦手としていた理由は、一つは味見をしていなかったこと、あとは練習量の問題だけだった。

だからとにかく数をこなした。本来ならもっと手広く基本的なものから、順次作っていくところなのだが、今回は時間が無い。
失敗しても上手く行っても、手順を確認しながら、とにかくがむしゃらに同じ料理を作って作って作り続けた。
おかげで今ではこうして同じメニューならば、ルヴィア嬢はほぼ完璧にこなせるまでになっていた。

苦手と思い込んでいたのは、なんでも初めての料理でシュフランさんを昏倒させたことが原因らしい。何事も初めから上手く出来たルヴィア嬢にとって、それは唯一の汚点だったそうだ。

「む、昔のことですわ。こうして克服できましたもの」

恥ずかしげに視線を逸らし、それでも胸を張るルヴィア嬢。なんとも可愛らしい。

「でも、ちょっと手間かけすぎたか」

俺は部屋の脇に積まれた鍋や釜の死屍累々を、あえて見ないようにした。

「材料が足りますかしら? 明日の昼食会用には、ぎりぎりになってしまいましたわね」

むぅ――っとちょっと難しい顔のルヴィア嬢。一週間前に買い込んだ材料は、王宮晩餐会でも開けそうな量だったんだがなぁ。

「よし、じゃお茶を終えたら明日の下拵えから始めよう」

俺はゆっくりとお茶をすすりながら提案した。

「それですけれど、シェロ、貴方は今日このままお帰りなさい」

「え? なんでさ? 明日の準備だって手伝うぞ」

「シェロ、教授だけならまだしも、本番まで手伝ってもらってしまったら、リンに合わす顔がなくなりますわ」

嬉しいですけれどと表情を綻ばせながらも、ルヴィア嬢はきっぱりと言い切る。う、ご尤も。確かにそれはまずいな。

「じゃ、足りない物とか無いか? 買い物だけでも手伝おう」

「判りましたわ。ちょっと調べてみますわね」

ルヴィア嬢は、立ち上がって手順良く材料の確認をする。このあたりも、かなりこなれて来た。最初は何処に何があるかさえ判らなかったもんな。

「あ、お塩がちょっと足りませんわね。シェロのを借りてよろしいかしら?」

「ああ、俺の物で使えるやつがあったらどんどん使ってくれ、問題ない」

「有難う、士郎。他には特に有りませんわ」

一通り調べ終わったのか、ルヴィア嬢が戻ってきた。さて、じゃあ俺はお暇しよう。手伝うわけでもない奴が、ぼけっと座っていたら迷惑ってもんだ。

「ああ、じゃあ明日。楽しみにしてるから」

「ええ、うんと美味しく作って見せますわ」

互いに莞爾と微笑みあい、俺は出来の良い弟子に別れを告げた。うん、ルヴィア嬢なら大丈夫だ。きっと明日は楽しい一日になるだろう。




「士郎、用意できた? ちょっとこっち来なさい」

「おう、って、遠坂。本当にこんな格好しなきゃいけないのか?」

タイにジャケット、革靴と、流石にディナージャケットとは行かないけれど、大抵のレストランの服装規定は通りそうな格好をさせられて、俺は遠坂の前に立たされた。

「まったく、曲がってるわよ。ほら」

お約束なネクタイ直しをする遠坂も、今日は赤のドレススーツで決めている。

「凛、シロウ。車の用意が出来ました」

そこに青のドレススーツ姿のセイバーが玄関先から顔を出した。遠坂は自分の服を買うたびに、セイバーの服も見立ててくる。おかげでセイバーの服も随分増えた。

「――Cro……」

と、ランスが情けない鳴き声を上げる。なになに、主よ頼むからこれを外してくれって……誰だ! ランスにリボンつけたのは!
そんなこんなと一騒動した後、俺たちはようやく本日開催のエーデルフェルト邸昼食会に出発することになった。

「流石、ルヴィア。判ってるじゃない」

シュフランさんに迎えられ、俺たちが案内されたのはエーデルフェルト邸の庭先に設えられたガーデンテーブルだった。といっても、いつも庭先に置かれている調度品ではない。
白木作りのガーデンパーティ用の調度品を、この為にきちんと設営したものだ。真っ白なテーブルクロス共々、初夏の爽やかな雰囲気を盛り上げている。

「あ、凛さん、士郎くん、セイバーさん。こんにちは」

席にはミーナさんが先についていた。こちらもシックなパープルのドレススーツだ。キラキラと陽光を反射する銀の髪と良く似合っている。

「お嬢様は、ただいま最後の仕上げを行っております。今しばらくお待ちください」

シュフランさんの言葉を受け、俺たちはドリンク片手に、ルヴィア嬢を待ちながらしばし歓談と相成った。

「――Crow」

「まあ、ランスくんったらお上手ですね」

仲良く話すミーナさんとランス。ミーナさん、貴女いつからランスの言葉が判るようになったんですか?

「ランスが女性に言う言葉は大抵決まっていますから……」

溜息交じりのセイバーの解説。あ、なるほど。

「ほら、士郎。きょろきょろしないで、師匠がこれだと弟子のルヴィアが困るでしょ」

ルヴィア嬢が心配でちょっと落ち着きの無かった俺を、遠坂が諭してくれた。って、え? 師匠? 弟子?

「あ、遠坂。あの……」

「何で知ってるかって? そりゃあれだけ入り浸れば誰だって判るわよ。ま、今日の手伝いしなかったのは正解ね。もし今日まで手伝うようなことしたら、本気で殴り倒してやろうかと思ってたわ」

にっこり朗らかに物騒なことを仰る。うわあ、ルヴィア嬢に止められて良かった。
それでも、士郎の仕込なら料理の味は大丈夫ね、なんて笑いかけてくれる。ううん、ばればれでしたか、敵わないなぁ。




「ちょっと……遅いですね?」

「私も、出来れば早めに食事にしていただきたいのですが」

それから三十分。何時までたってもルヴィア嬢も料理も姿を現さない。最後の仕上げにしては時間が掛かりすぎる。本気で心配になってきた。

「士郎」

遠坂が視線で合図を送ってくる。俺は一つ頷くと席を立った。
ルヴィア嬢が今日、昼食の用意をしているのは館の厨房ではない。俺と一ヶ月料理修行をしたあの東屋だ。俺は真っ直ぐ東屋に向かい、ドアをノックした。

「ルヴィアさん。どうしたんだ?」

「……シェロ?」

応えは返ってきた。ただ、それはいつものルヴィア嬢のそれではなく、寄る辺ない、少しも覇気を感じさせない声音だった。俺は躊躇せず扉を開けた。
中は特に変わったようには見えなかった。勿論、テーブルには昼食会の用意、スープ皿もオードブルも。メインディッシュのローストビーフもきちんと盛り付けされている。
が、ルヴィア嬢が居ない。俺は慌てて室内を見渡した。

「ルヴィアさん?」

居た。スープだろうか? 鍋をかけた竃の前で、ルヴィア嬢は呆けたように床に座り込んでいる。

「シェロ?」

ゆっくりとルヴィア嬢が俺に振り向いた。まずい、目が虚ろだ。

「ルヴィアさん! しっかり」

俺はルヴィア嬢に駆け寄り、抱き起こす。ああ、良かった。ルヴィア嬢の瞳に徐々に光が戻ってくる。

「シェロ……」

「良かった、ルヴィアさん。一体どうしたんだ?」

俺はほっとして腕の中のルヴィア嬢を見下ろした。可愛らしく胸元に手を置き、目を見開いて俺を見ている。怪我とかは無いな、うん、良かった。

「……」

ルヴィア嬢は何か小さく呟いた。

「え? どうしたんだ? どこか痛いのか?」

俺は、良く聞き取ろうと顔を近づけた。

「……好き」

次の瞬間、ルヴィア嬢は俺の首に手を廻し、思いっきり抱きついてきた。


どわあああああああ!


「! ちょ、ちょっとルヴィアさん!」

「シェロ……」

慌てて引き離そうとしてもがっちりと掴まれ離れない。
ルヴィア嬢の淡く桜色に染まった頬は水蜜桃のように潤いに満ち、柔らかそうな唇からは華のように甘い吐息が漏れる。瑪瑙色の潤んだ瞳には万感の思いが込められ、憂いと艶をたっぷりと含んだかんばせが迫ってくる。

「……好き」

ゴクリ……

うわぁぁぁぁあああああああ! 生唾なんか飲み込んでいる場合じゃねえ!

「るるるるる、るヴぃあさん。落ち着いて、ね? 落ち着いて」

「シェロ……わたくし落ち着いていますわ……」

潤んだ瞳を切なそうに細め、何かを求めるように半ば開いた唇からは、蜜の香りの吐息と共に、愛していますと言の葉が紡ぎだされた。
腕の中のルヴィア嬢は、まるで羽のように軽く儚げで、それで居てその吐息と鼓動は何よりも重く俺の理性にのしかかってくる。俺は心のたがが半分ほどずれる音を聞いた。

「……ルヴィアさん」

「……シェロ」

「……衛宮くん」

ルヴィア嬢の俺を呼ぶ声が鼓膜を震わし、俺の理性を突き崩す。シェロ、衛宮くんと続けざまに……? 衛宮くん?

「お邪魔だったかしら? 衛宮くん」

一瞬にして理性の箍がはめなおされ、膨れ上がった煩悩は瞬く間に小さく小さく縮み上がった。脊髄に電撃が走り、音を立てて血の気が引いていく。

「とととととと、と遠坂?」

「あら? わたしの名前をまだ覚えていてくれたのね、嬉しいわ衛宮くん」



振り向くと、そこに「   」が居た。

美しくも恐ろしく、おぞましくも華麗な魔界の美君。

真紅の悪魔あかいあくま」が素敵で無敵な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。


「なななななな、なんでここに?」

「ちょっとね、士郎が遅いからこいつを締め上げてみたの」

口の端を斜めに歪め、遠坂さんはセイバーの肩に止まってるランスを顎で指す。

「――Craw」

――主よ、我は裏切っていないぞ。

ランスの声が脳裏に浮かぶ。

――首を絞められて詰め寄られましたが、我は愛の騎士、
――人の恋路を邪魔するようなことは、到底出来かねると抗弁いたしましたぞ。


……それか。どうりで遠坂、入ってきた瞬間から沸騰していたわけだ。

「で、衛宮くん。とっととルヴィア離して、事情を説明してくれないかしら? 早くしないと殺すわよ」

マジだ。特に最後の“殺す”は本気の本気だ、斜線で訂正さえしてない。

「……シェロ」

だってのにルヴィア嬢は微動だにしない。というか俺にしがみついて離れてくれない。遠坂など居ないかのように、幸せそうに目を閉じて俺に胸に顔を埋めている。

「ルヴィアさんお願いだ、お願いだからちょっとだけ離れて」

俺は必死でルヴィア嬢をかき口説いた。せめてその極めてある手首と肘は解放してください。

「シェロ……わたくしが嫌い?」

なのにルヴィア嬢、今にも泣きそうな顔で迫ってくる。とてもじゃないがむげには出来ない。

「いや、その……別に嫌いって訳じゃないぞ……」

「良かった」

ルヴィア嬢は、一層きつく俺を抱き締める。うわああああああああ! やぶへび!?

「衛宮くん、良い加減にしないと本気で殺すわよ。それにルヴィア! あんたもいい加減にしなさい!」

あまりのことに遠坂もついに切れだした。気持ちはわかるぞ、俺だって切れらるものなら切れたい。

「シェロ……愛しています」

しかしながらルヴィア嬢、遠坂は全く眼中に無い。すっと俺の胸に頬を寄せ、ただ、ただ幸せそうに抱きしめてくるだけだ。

「……ルヴィアゼリッタ?」

「ちょっと様子がおかしいですね」

いつの間にか集合していたセイバーとミーナさん。流石に、ルヴィア嬢がどこか尋常でないことに気がついたようだ。

ぶちっ

しかし、一方で何かが切れる音がした。

「こら! 離せ! それはわたしんだ! 返せ! 戻せぇぇぇ!!!」

ちょっと待て! 遠坂。お前まで壊れてどうするんだ! こら、ひ、引っ張るな! 千切れる、千切れる!!




「……薬物……だと思います。凛さん、貴女も診てみます?」

そんな喧騒に慌てず騒がず、セイバーに遠坂を押さえ込ませ、ミーナさんはそっと俺の胸に顔を埋めるルヴィア嬢に小石を近づけた。どうやら、簡易な走査呪式を発動させていたようだ。

「凛、落ち着きましたか?」

暴れる遠坂をがっちり押さえ込んだセイバーが、これまた落ち着いた声で遠坂に聞く。

「……落ち着いたわよ。最初っからそんな事だろうとは判ってたんだから」

遠坂さんは、ちょっと赤くなってぷいっと視線を逸らしながら応える。文句のつけようの無い負け惜しみだな。

「それでは凛、離しますから決してルヴィアゼリッタやシロウに襲い掛からないでください」

そう念を押して、ようやくセイバーは遠坂を解放した。憮然とした表情ながらも息を整える遠坂、それでも俺を睨みつけることは忘れない。だから、俺のせいじゃないってば。

「こら、ルヴィア。ちょっとこっち向きなさい」

「……貴女嫌い」

ぶちっ

「遠坂! 落ち着け! 頼むから落ち着け!」

開口一番またこれだ。生きた心地がしない。だが、遠坂も今回は暴れない。真後ろに英霊が立ち、即座に取り押さえようと待ち構えているのだ。ここで暴れては振り出しに戻ってしまう、流石にここは我慢したようだ。もう一度大きく深呼吸をすると、バックからなにやら道具を取り出し、ルヴィア嬢を調べ始めた。

「……なにこれ? えらく乱れてる割に方向性が統一されてるわ」

ルヴィア嬢の意向を一切無視して、遠坂は走査をかける。ルヴィア嬢も俺から引き剥がされること以外には、嫌な顔はするものの無抵抗なので、案外あっさりと施術を終えることが出来たのだ。

「なあ、どういうことなんだ?」

胸に顔を埋めるルヴィア嬢をそっと抱きとめながら、俺は聞いてみた。む、そんな睨むな、しょうがないじゃないか。

「一番近い事例で言いますと、『惚れ薬』でしょうか?」

ミーナさんが腕組し、頬に指を当てて応えてくれる。

「――Croo……」

ランスはそれを聞いて、凄く苦い顔で一声鳴いた。なんか嫌な思い出でもあるのだろう。

「なに? ルヴィアの奴、料理に惚れ薬しこもうとしたわけ!?」

「ですが、凛。先ず自分が引っかかってしまっては意味がないかと。何かの事故ではないでしょうか?」

いや、これはこれで意味があるわよ、と何故か俺を睨みつけてくる遠坂さん。なんでさ?

「ルヴィアは魔術師よ、そんな初心者みたいなミス……あ、料理は初心者か。湿潤式の調薬もあまり得意じゃなかったし…」

ふむとばかりに口元に手を当て、遠坂さん内面結界モードに突入である。こっちへのプレッシャーが見るからに減ってきた。いや、助かった……

「メニューからすると、スープかローストビーフが怪しいですね」

「毒を盛るならば、やはり飲み物ではないでしょうか?」

ミーナさんとセイバーも推理モードに入った。俺はごろごろと喉を鳴らすルヴィア嬢の髪を梳いてあやしながら、固唾を呑んで三人の答を待つ。

「となるとスープね、ルヴィアがへたり込んでたのもその前だし」

うんと一つ頷いて遠坂さん、竃の前に歩み寄った。

「ミーナ、なんか持ってない?」

「あ、犀角の処理済の奴があります」

犀角には一角獣の角ほどではないが、毒物や呪物に対する探知の力が備わっている。惚れ薬は毒ではないが一種の呪物だ。だからこれを使って調べようというのだ。
遠坂はミーナさんから受け取った犀角の棒を少しだけスープの鍋に浸け反応を見る。

「ああ、やっぱり。これね」

「シェロ……」

「でもなんでスープが惚れ薬なんかになったんだ?」

耳元で甘く囁くルヴィア嬢の頬をそっと撫でながら、俺は遠坂に聞いた。

「それはこれから調べるわ、……それより衛宮くん。あんたなにやってんのよ……」

遠坂さんは左腕の魔術刻印を輝かせながら、とても朗らかな笑みを浮かべられている……って! よせ! 俺は無実だ!

「じゃ、その腕は何? ルヴィア抱き寄せてるその腕は!!」

うわああああああ! 待て! 待ってくれ! ルヴィアさんも一緒なんだぞ! こら! なんだ、そのそっちの方が好都合ってのは、止めろ! お願いします止めてください!

「凛さん、お取り込み中すいませんが、ちょっと犀角を返してもらえますか?」

「今ちょっと忙しいんだけど。なに?」

良かった、遠坂の気がそがれた。助かった。

「ほら、この塩壺です。一見岩塩っぽいんですけど……」

ミーナさんがスープ鍋の傍らの塩壺を手に遠坂に話しかけている。あれ? あの塩壺には見覚えがある。あれはたしか……

「…………マンドラゴラね。調べなくてもわかったわ。たった今、原因が」

あ、

マンドラゴラというのは魔術植物の基礎中の基礎だ。動物と植物の両相をもつこの植物は、動物要素と植物要素だけでなく鉱物要素すら類感結合させる効果がある。その根底にある概念は“愛”。つまりは異素材間に愛を生み出し結合を促す究極の媚薬なのだ。
実に唐突な解説だが、つまり、その。これは俺の現実逃避なわけで……

「衛宮くん。前に言ったわよね? 調味料の空き瓶ほいほい使うんじゃないって……」

遠坂が再び魔術刻印を煌かせながら俺の眼前に迫ってくる。今回はミーナさんも止めてくれない。セイバーだって溜息つきつつこめかみに血管うかべてる。ああ、そうか。今日の昼飯ぶち壊しになっちまったんだもんなぁ。




「遠坂、これはあんまりだと思うぞ」

一瞬とも永劫とも言える苦痛の後、俺が目を覚ました時、俺の両手は雁字搦めに縛り合わせられていた。

「椅子に縛り付けられなかっただけでも、ありがたいと思いなさい。ルヴィアが士郎に手を出すのはしょうがないわ、薬のせいだもの。でも、あんたがルヴィアに手を出すのは駄目!」

「なんでさ? っていうよりそんな事するか!」

「さっき、抱きかかえていたの誰よ!」

いや、それは成り行きというか……ごめんなさい。俺が悪かったです。

「シェロ、可哀相に。わたくしが解いて差し上げますわ」

そう言ってルヴィア嬢は縄を解こうとするのだが、どうも上手く解けない。

「ふん、ゴルディオスの結び目なんだから。魔術が曲がっちゃった今のルヴィアじゃ解けないわ」

なんでもルヴィア嬢は、薬の影響で魔術行使が出来ない状態らしい。

「シェロ……」

なもんで、ルヴィア嬢は解こうとしては失敗し、そのつど涙目で俺に抱き付いてくる。
それはともかく、その度に、どこぞでブツブツなにかが切れる音がするのは何とかして欲しいもんだ。遠坂、脳溢血で倒れるぞ。

「とにかく、とっとと解毒剤作るわよ。このままじゃ身が持たないわ」

肩で息をする遠坂さん。それはこっちも同じことだ。

「でも、これ結構難しいですよ」

俺の調剤具の中から試験管やビーカーを持ち出して、スープの解析をしていたミーナさんが、難しい顔で遠坂に告げた。

「料理の素材と混じっちゃって、微妙な魔術反応しちゃってるみたいです。いっそ芸術的ですね、これ」

感心なさっている。

「う、それってここじゃ駄目って事?」

「ええ、設備不足です。かといって、ルヴィアさんの工房は使えませんし」

他の魔術師の工房を勝手に使うなんて、よっぽどのことじゃない限り危険すぎる。惚れ薬程度でやって良いものじゃない。

「家に持って帰る? うう、でも……」

なんか、ちらちらこっちを見てはむぅ――と剥れる遠坂。今日のルヴィアさんは遠坂に反応せず、ずっと俺にべったりなもんで、なんかかなりフラストレーション溜まってる感じだ。

「それでは凛が持ちそうにありませんね」

セイバーが溜息混じりに呟いた。

「な、なによ! その持つって」

がぁ――とばかりにセイバーに食って掛かる遠坂。でもセイバーはしれっとしたものだ。

「こういう状況のことです。凛はシロウとルヴィアゼリッタを置いていくことは出来ないのでしょう?」

「う……」

ぐっと詰まる、遠坂。その後いきなり俺に振り向く。

「あんたが確りしないからいけないんでしょうがあ!!」

涙目で怒鳴られた。ちょっと、ルヴィアさん。そこ駄目! 駄目だってば! よ、よせ、落ち着け遠坂。うわあああああ……

「判りました。私が工房に戻って調べてます」

俺がカロンの渡し守に挨拶をして戻ってきた頃に、ようやくミーナさんが引き受けることで方針が決まった。

「それではヴィルヘルミナ。お願いします。こちらの三人は私が何とか抑えておきますから」

「ちょっと! 三人ってなに? なんでわたしも!?」

「お願いします。それじゃランスくん借りて行きますね」

遠坂の抗議をさらりと流すお二人。遠坂本人は、自覚が無いようだ。でもなんでランス?

「連絡するにもこんな話、電話じゃ問題あるじゃないですか」

「魔術で飛ばすにしても、ここは倫敦よ。もしこんな話、他の術者に聞かれたら恥ずかしいじゃない」

ぷんぷんと怒ったままの遠坂さん。ご尤も。確かに恥ずかしいよな……
でも出来れば俺も連れてって欲しいぞ、このままじゃ身が持たない。




大急ぎで調べてきますね、と言って解析に向かったミーナさんを待つ間。俺たちは取敢えず食事をすることになった。ルヴィア嬢の用意した食事は冷めてはしまったがスープ以外はちゃんと食える。なによりこの上セイバーまで飛んでしまったらもう収拾が付かない。渋る遠坂を拝み倒して、食事の用意をしてもらった。……んだが。

「シェロ、あ〜ん」

「あの……ルヴィアさん?」

「あ〜ん」

ぶちっ

ただいまライブで大ピンチ。潤んだ瞳で、俺にローストビーフを差し出すルヴィア嬢。その正面で俯き加減で肩を震わす遠坂嬢。頼みの綱のセイバーも今は食事の真っ最中。助けは無い。

「と、遠坂。我慢しろ、ルヴィアさん病気みたいなもんなんだから」

「あら、シェロ。わたくし正気ですわ。……愛していますのよ、シェロ」

ぶちぶちっ

ああ、また何かが切れた。と、遠坂さんの震えがピタリと止まった。

「と、遠坂?」

「……ええ、もう大丈夫。そうよね病気みたいなものだから。しかたないわ」

遠坂さんは息を整えると、にっこりと笑ってカップに口をつけられた。相変わらず綺麗な笑顔だ。これで目も笑ってくれていたら惚れなおすんだが……え? カップ?

ごくり

「……凛、貴女まさか……」

セイバーも気がついた。

ことん

遠坂は一気に飲み干したスープカップをテーブルに置く。笑顔のままで瞳が一瞬虚ろになり、そして再び灯がともる。熱く、甘く蕩けるほどに潤んだ瞳。

「びょうきだもん、しかたないよね。しろう……」

そのままするすると俺の傍らにぺたんと座りこむと、俺の腰に抱きついて、熱い吐息を吹きかけてきやがった!

「士郎ぉ……大好き」

うがあああああああ! お前もか! お前もなのか!!

「凛……貴女まで……ぬかった」

セイバーの搾り出すような呟き。ちょっと待て! その一歩遅れたってなんだよ! スープカップ物欲しそうに見るなぁ!!

「仕方ありません。辛いでしょうがシロウ我慢してください」

どこか悔しそうなセイバーの忠告。うう……

「ね、士郎。これ食べて……」

遠坂さん、ローストビーフの一方の端を自分の口に咥えて差し出さないでください……

「シェロ、こっちが良いですわね」

ルヴィアさん。赤くなってまで遠坂の真似しなくて良いですって……

「シロウ、耐えてください……」

セイバー、エクスカリバー出して、もし一線を越えたら叩っ切って差し上げます、なんて顔しなくても俺は大丈夫だぞ…………多分。
俺は天に向かって心から神に祈った。ミーナさん、早く帰ってきてくれ。理性が切れてセイバーに叩き切られる前に……




遠坂に迫られ、ルヴィア嬢に抱きしめられ、セイバーに睨みつけられて小一時間。もう俺の全神経は一辺裏返って、もう一度表返っていた。憔悴の局地だ、そんな時ふっとその声が頭の中で響いた。

――「士郎くん。聞こえますか? まだ生きてます?」

ミーナさんの声、ランスを通じての連絡だ。俺は一つ息を整えて意識をそちらに向けた。

――ミーナさん? 解毒剤は? 何時ごろまでに出来ます? 俺もう持ちません。

――「ああっと、状況はランスくんを通じて伺ってます。たいへんですねえ」

ちっとも大変そうに聞こえないのがこの人の声の良さだ。だが今はそれが恨めしい。あ、畜生! その程度でおたおたするとは、主よ修行不足だなってのはなんだ。え? 二人一緒に? 馬鹿! お前じゃ有るまいしそんなこと出来るかぁ!!

「シロウ、どうしたのですか。顔色が悪いようですが」

セイバーがもし限界だというならば、この場でけりをつけましょう、と言った顔で近づいてくる。

「士郎、大丈夫? うん、わたしが看病してあげる。なんでもしてあげるわ」

「シェロ、どこか痛いのですか? わたくしに出来ることがあったらなんでも言って下さってよろしいのよ?」

とろんとした目で、甘い吐息を振りかけてくださるお二方、じゃあ離してくださいとはとても言えない。というか、それだけはお前ら絶対に聞かないだろ?

――「あっと、士郎くん。落ち着きました?」

――こっちのことは大丈夫です、それより薬!

俺は必死でなんでもないと表情を作りながら、心の中で叫び声をあげた。

――「えっと、それがですね。解毒剤ありません」


…………


……


――はい?


――「お料理と混ざっちゃったでしょ? なんか複雑な構成になっちゃって、解毒剤作ろうと思ったら一二週間掛かっちゃうんですよ」


…………


……


――まじ?


――「ええ、本当です」


……


「なんですと―――――!」

俺は思わず叫んでしまった。死にます。マジ死にます。死ぬ前に出来るだけいい思いして死にます。セイバーに叩き切られるって痛いかなぁ。

「シロウ!……そうですか、限界ですか……」

「士郎? 苦しいの? 楽にしてあげる」

「シェロ……その……不束者ですけれど……」

これまでか……切嗣おやじ、済まない。俺、女で身を滅ぼした。アーチャー済まん、俺はお前に届かなかった。

――「あ、でもあまり強い薬じゃないんで一晩寝たら元に戻りますよ、だから早まらないでくださいね」

え?

「だだだだだだ、大丈夫だぞ。うん、セイバー早まるな。ルヴィアさん、気をしっかり持って。大丈夫だよ遠坂、俺は、これからも頑張っていくから」

生きる希望が生まれた。とにかく周りを落ち着かせる。平常心、平常心。さあ、笑ってくれ皆。
三人ともとても残念そうな表情ではあるが、なんとか落ち着かすことが出来た。まて、何でセイバーまで残念そうなんだ?

――「で、対策もあります。どっちにしろ寝ればいったん落ち着きますから。睡眠薬でも飲ませちゃってください。薬はこれからランスくんに届けさせますから」

なるほど、とにかく寝かせつけちまえってことか。良かった、何とかなりそうだ……けども。

――二人とも大人しく薬飲んでくれるかな?

――「無理でしょうね」

どきっぱり言い切ってくださいました。ミーナさんつれないんですね。

――「でも方法がありますよ、今のその二人士郎くんにぞっこんなんですから、口移しで飲ませちゃってください」

……はい?

――「抵抗あるかもしれませんけど、病気の治療ですから、さっとやってさっと終わらせちゃいましょう」

口移しか、確かに今のこの二人なら簡単に出来るだろう。

でも……

俺は遠坂とルヴィア嬢を交互に見た。どちらもとろけるような視線で俺を見詰めている。本当に信頼しきった瞳だ。ルヴィアさんもそうだが遠坂だって魔術師だ。いつだって覚悟の一線を引いている。
だが、今の二人にはそれが無い。薬のせいとはいえ、一切の壁なしに俺に心を開いてくれている。
そこにあるのは絶対の信頼。今なら、俺が二人の胸にナイフを突き立てても蕭然と死んでいくだろう。
俺は、今一度両脇で幸せそうに身を寄せる二人に視線を向けた。

「……遠坂」

「なあに? 衛宮くん」

「……ルヴィアさん」

「なんですの? シェロ」

そこには含みも駆け引きもなかった。確かにえらい災難だと思う。生きた心地がしないのも事実だ。

でも……

多分、俺って馬鹿なんだろうな。


―― 一晩で直るんですよね?

――「ええ、最大で一晩ってとこですね。もっと早いかもしれません」

――だったらこのまま明日の朝まで頑張ります。正気の時ならともかく、こんな時にそんなこと出来ませんから。

俺ははっきりと覚悟を告げた。なに、これくらい大したことじゃない。

――「……良いの? 士郎くん。きついわよ?」

――男の子ですから。

――「男の子だからきついんだけど。良いわ、じゃあ私も戻りますね。頑張ってください」

ふう……

俺はルヴィア嬢と遠坂をもう一度、交互に見詰めた。二人とも、嬉しそうに見詰め返してくれる。裏切れないよな、この瞳は。
よし、頑張るぞ。俺はセイバーに一つ頷くと覚悟を決めなおした。

どうせ一晩どうって事ないさ。






「ルヴィア、起きてるんでしょ?」

隣のベットから聞こえる声にわたくしは目を開いた。
視界の先にはシェロ。二つのベットの間に座り、疲れた顔で舟をこいでいる。その左手はわたくしのベットに向かい、今わたくしの両手で包み込まれている。
ごめんなさいね。わたくしは心の中でシェロに謝罪した。今日はとてもたくさんの我侭をしてしまった。

「ええ、リン。起きていましたわ。貴女も眠っていなかったのではなくて?」

わたくしはシェロをはさんで反対側のベットに向かって返事をした。そこには遠坂凛が居る。そちらでも、わたくし同様、シェロの右手を両手で包んでいることだろう。

「まあね、士郎ってば格好つけちゃって、なかなか眠らないんだから。おかげでタイミング取れなくて苦労したわ」

「だってシェロですもの」

「そうね、士郎だから」

私たちはシェロに気付かれないように、互いのベットの中で小さく忍び笑いをした。本当にシェロですもの、仕方が無い。

「何時お気づきになったの?」

ひとしきり笑いあったあと私は遠坂凛に尋ねた。

「何時って、わたしだってあのスープ飲んだのよ。二十分ほどかな? そこで正気に戻ったから」

惚れ薬その物は純粋な偶然。だが、その惚れ薬はこの程度の持続時間しかなかった。だのに遠坂凛はわたくしを責めようとしない。何故なら――

「だったら、そこでお止めになればよかったんじゃなくて?」

「…………」

ほら、言葉に詰まった。要するに溺れたのだ。
惚れ薬など使わなくとも、わたくしも遠坂凛もとうにシェロに溺れていたのだ。だから止められなかった。
無条件でシェロに甘えられる状態を捨て切れなかった、止める事が出来なかった。
なんとも情けない話だ。魔術師は理性の生き物。それが感情に流されることに溺れてしまったのだ。

「士郎は渡さない。あいつはわたしの大切なパートナーだから」

遠坂凛の代わりの応えはこれ。まったく、この女はまだ仮面を被るのか。

「正直に言ってよろしいのよ。「士郎はわたしの恋人だ」って」

「……言って引く相手なら言うわ。でもあんた引かないでしょ?」

一瞬の沈黙ののち、遠坂凛は返してきた。

「当たり前ですわ。第一恋人といっても今現在。永劫に続く保証は無くてよ」

「はん、刹那を繋いで永劫を紡ぐのが魔術師でしょうが」

「そうですわね、永劫の時に比べれば 二年の先行なんて瞬き一つにもなりませんわね」

「つまり、最後まで張り続けるってわけ?」

「ええ、貴女がわたくしの立場だったらどうなさる?」

「……もち、最後まで張り続けるわ」

「そういうことですわ」

つまりは、そういう事だ。こんな思い、永劫の刻の流れの中では文字どおり瞬き一つ、
刹那の思いだろう。
だがわたくしは魔術師としてでなく、女としてこの刹那に賭ける。この思いが永劫へ連なるか、それとも刹那の輝きで終わるか、それこそやってみなくては判らない。

「判った、でも貴女に勝ち目はないわよ」

「承知の上ですわ」

「ふん、なら叩き潰してあげる。覚悟は良い?」

「相手に不足は有りませんわね」

これは誓約。わたくしの神聖な誓い。勝負が付くのは納得したときだけ。もしかしたら、墓場まで持っていくことになるかもしれない誓約。
負けませんわ。わたくしはこの思いを胸に本当の眠りに付く。今日はきっと士郎の夢が見れるだろう。

END


魔術物の定番、惚れ薬のお話でした。
とは言っても、本当は女の子の意地と葛藤、可愛い我侭のお話。士郎君は幸せものです。
凛様とルヴィア嬢、駆け引き無しのいちびり合いが書きかくて書きました。
さて、最後は宣戦布告。ルヴィア嬢、茨の道に乗り出しました。


By dain

2004/6/9初稿
2005/11/8改稿

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