逃げた。

必死で逃げた。

ここまでは上手くいっていた。大英博物館から持ち出した秘宝は、些か思惑とは違う物であったが、だからと言って返せるような物でもない。これを元に発展させれば、まさにかの大師父シュバインオーグの業へと道は繋がる。末席とはいえ彼の系譜に連なる者としては、時計塔きょうかいの愚物たちに返せる物ではない。

思惑がずれたのは、追手が現れてからだ。まさかこれを取り返すために、あの女が来るとは。
時計塔きょうかいの連中が、そんな危険を犯すとは思っても見なかった。
いや、あの女だけならなんとかなる。一流で優秀な魔術師では有るが、いまだ若輩者、対抗手段の十や二十は用意できる。

が、あの使い魔サーヴァントは拙い。
英霊、最強級のゴーストライナー。人間、いやたとえ魔術師といえども、こと戦いにおいて勝てる相手ではない。現に、防衛手段として用意した魔獣キメラ魔像ガーゴイルは、ことごとく葬り去られてしまった。

だから逃げた。魔獣たちが時間を稼いでいる間に工房を脱出し、夜の街を無様にも駆けながら逃げた。
幸いあの女はぼろを出した。抜け道の幾つかは見抜かれておらず、裏通りの監視もない。優秀な若輩者が良く陥る陥穽だ。自分に自信があるものだから、絡め手の詰めが甘くなりがちなのだ。

心の中で歳若い後進を哂った。聖杯戦争の勝利者であると伝え聞くが、まだまだ青いものだ。
そう、目前の路地の出口、あと僅かで逃げ切れようというその眼前に、白銀の矢が突き立つ直前までは。

「――!」

一瞬、何もかもが頭の中から抜け落ちた。唖然と見上げる視線の先、道を挟んで向かいの屋根の上に、漆黒の影が月を背に浮かび上がる。
黒の胴着を着たその人影は、玄の弓を引き絞り、番えられた二の矢で、真っ直ぐにこちらの心臓を捕らえていた。

「降伏して欲しいな。出来れば殺したくはない」

粛と響くその声は思いのほか若く、その声音は言葉の内容に反して透るほど冷たかった。





あかいあくま
「真紅の悪魔」  −Rin Tohsaka− 第五話 前編
Asthoreth





「どうだった? 士郎」

ビルを出たところで、遠坂が声をかけてきた。

「ああ、間違いない。中は五階しかなかった」

俺は六階建ての雑居ビルを見上げながら応える。登記上も設計上も六階建てのこのビルは、誰からも不審に思われることなく、ワンフロア分が綺麗に消されているのだ。

「こっちの使い魔ウォッチャーじゃ駄目。ランスで覗けない?」

「さっきからやってる。四階だな、窓からだと三階と五階の中身がごっちゃになって見えてる」

俺たちはセイバーの待つミニに乗り込みながら、それぞれが得た情報を交換する。

「セイバー、貴女は何か感じた?」

「場所は特定できませんが、獣の臭いを感じました。近くにかなり強力な魔獣を隠しているようです」

俺たちを此処で拾うまで周囲を巡回し、裏道や抜け道のチェックをしていたセイバーの答え。純粋な魔力はともかく、こういった敵対戦力の感知はセイバーが一番鋭い。

「魔力はうまく隠してる。魔術の腕はともかく結界に関しては一流のようね」

遠坂が論評しながら不敵に笑う。相手にとって不足はないといった顔なんだが、遠坂、お前どうしてこうも好戦的なんだ?

「入り込めそうなところは何箇所か確認した。それと、どうも抜け道を拵えてるみたいだな、配管スペースが不自然に広い」

俺の判断。構造と空間の歪みの把握から出した結論だ。最も、今の段階では突ついていない。藪をつついて蛇を出したくない以上に、逃げられたくないという警戒からだ。

「わかった。今晩乗り込みましょう。一旦帰って準備整えなきゃ。ランスに残ってもらえる?」

「おお、今日は月もあるから夜でも大丈夫だ」

俺たちはランスを見張りに残し、一旦、家に戻ることにした。

何故、こんなわけの判らない建物の周りをうろついていたかと言うと、つまりはお仕事である。遠坂が時計塔きょうかいから受けた仕事の一環と言うわけだ。
数日前、大英博物館の秘匿貯蔵庫に保管されていた、封印遺物アーティフィクトの一つが盗まれた。その品物の発見と回収。それが依頼の内容だった。
殆んど強盗同然であったらしく、一般人も含めて数名の死傷者が出たと聞く。こんな事件が優秀とはいえ、一介の学徒に過ぎない遠坂へとお鉢が廻ってきたのには理由がある。

「しかし、よりによって大師父の遺物アーティフィクトなんて、どうしようってのかしら?」

盗まれた遺物アーティフィクト。それは、大師父キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの残した魔具だった。

「どうしようって、使うんじゃないのか?」

何せ魔法使いの残した遺物だ。当然凄い力を持っているのだろう。全然、想像付かないけど。

「そっか、士郎は大師父について良く知らないんだっけ」

遠坂は一瞬きょとんとした顔で俺を眺めたが、そういう事かと納得するように頷いた。

「良くってどういうことか分からないけど、魔法使いでものすごい魔術師だって言うのは知ってるぞ。時計塔の創立者の一人でもあるんだっけ?」

そして遠坂の遠いお師匠様。ものすごい魔術師なのだろうが、そんなわけで妙に親近感もある。

「士郎、それってどう言うことか分かる?」

「どういうことって、なにさ?」

「つまりね、すんごい“魔術師”なわけ。捻くれ者での中でも超一流のすんごい捻くれ者ってこと」

おお、すごく分かりやすい説明だ。つまり遠い弟子に当たる遠坂よりも、ずっともの凄い捻くれ者なわけだ。

「士郎、あんた今ものすごく失礼なこと考えなかった?」

俺が感心していると、遠坂は胡散臭そうな表情で、むぅ――とばかりに睨みつけてきた。俺は慌てて首を振る。いや、考えてないぞ。遠坂は捻くれ者だけど、可愛いし、時々、たまに、極まれだが素直になることがないでもないんだからな。

「ま、良いわ。そんなわけで大師父の遺物アーティフィクトって、その系譜の者以外には使えないように出来てるの」

ちょっと分かり辛い言い回しだが、これは納得できる。魔術師は秘密主義だ、それが魔法使いとなれば尚更だろう、自分の息のかかった者以外に自分の道具を使わせないってのは分かる。

「それともう一つ、まともな物がない」

はい?

「大師父が残した物って、たいてい弟子への宿題なのよ。で、大師父は稀代の捻くれ者、『弟子になったらほぼ間違い無く廃人にされる』って言われてるくらいのね」

うわあ、つまりそんな物騒な爺様が残した宿題ってのも。

「万が一上手くいったら魔法使いになれるかもしれないけど、下手をすれば廃人になっちゃうような物ってわけ。でも今まで大師父の弟子筋で、魔法使いになった者は出て居ない」

遠坂は肩をすくめて溜息を一つ付くと、話を続けた。

「この盗まれた遺物っていうのもそう。こいつを貰った系譜はこいつのおかげで断絶。大師父の系譜以外使えないし、物騒すぎて他の系譜でも引き取り手は無いってことで」

「封印遺物ってわけか」

とんでもない話だ。やっぱり遠坂のお師匠さんだな、捻くれ方の桁が違う。

「盗んだ奴はそれ知ってるのか?」

「あれだけ大騒ぎして盗んだんだもん、知ってると見るべきね」

「あ、じゃあ」

「そう、犯人も大師父の系譜でしょうね。協会の名簿に見当たらないから、多分未所属フリー。系譜の方も枝葉どころか、葉脈の先っぽか花粉ていどの末席だろうけど」

まったく迷惑な話よね、と遠坂は顔をしかめる。
これが遠坂が選ばれた第一の理由だ。自分のところの系譜の後始末は自分達で付けろと言う事。遠坂が言ったように大師父の弟子は廃人にならなかった方が稀有だと言う。その稀有の魔術師の中で、現在一番優秀なのは遠坂家の当主。つまり遠坂凛というわけだ。

「凛、シロウ。お茶が入りました」

そしてもう一つの理由がセイバー。最近、すっかりお茶の仕度が板に付いてきたこの少女こそ、最強級の使い魔、英霊なのだ。かつてのブリトン王、アーサー王でもあるセイバーを従えた遠坂の実戦闘力は、学生だけでなく、時計塔全体見渡しても抜きん出ている。後のことを考えなければ、それこそ龍が現れても対抗可能なほどの力なのだ。

「ともかく、士郎は工房の配置を図面に起こして。セイバー、これが大英博物館を襲ったときの状況報告。魔獣クリーチャー機像ゴーレムも対応不可能なレベルじゃないわ」

セイバーが入れてくれたお茶を飲みながら、俺たちは段取りの最終確認をする。相手の工房の出入り口を押さえ、セイバーが突っ込む。遠坂はバックアップで、俺は逃走経路の遮断だ。

「多分、とっとと逃げ出すだろうから。士郎、貴方の抑える役回りが重要になる。抜け道一本残しとくから」

「わかった。遠坂、目的は遺物の回収だよな?」

俺は遠坂に確認をしておく。大事な事だ。

「士郎」

遠坂の表情が厳しくなる。容赦ない冷酷な魔術師の目だ。ただ、ほんの少し心配そうな光が伺える。

「向こうは殺すつもりで来るのよ、貴方も甘いこと考えてないで、殺すつもりでいきなさい。そうでないと死ぬわよ」

「わかってる」

分かってはいる。だが、やはり殺さずに済むなら殺したくはない。結局この魔術師も、協会に掴まってしまえば死は免れないだろう。だから、奇麗事にすぎないかも知れない。だが、それでも俺は努力だけはしたかった。

「さ、とっとと準備して、さっさと片付けるわよ。つまんない借りなんだから、早く返すに越したこと無いの」

一つ手を打って俺たちを急かしだす遠坂さん。そうか、どうも遠坂らしくないこと引き受けたと思ったら、やっぱりなんかの借りだったんだな、この仕事。




目に見えない閃光が走った。

例の建物から一ブロックほど離れた屋根の上で、俺はその閃光を遠望していた。
上空を周回するランスの視線と切り替えつつ、俺は幾分ほっとしていた。遠坂たちはどうやら上手くやっているらしい。
音こそ漏れていないが、四階の窓で光りと影が交差しているのが見える。つまり向こうの結界を破ったと言う事だ。
ランスを中継して、セイバーの雄姿も伺える。大丈夫、数が多少厄介だがあの程度の魔獣なら敵ではない。後はその場で取り押さえられるかだけだ。

――Croow

上空からランスの一声。ビルの周回から外れ、こちらに向かって螺旋を描く。
俺は気を引き締めなおし、弓に矢を番える。
どうやら、相手の魔術師は逃げ出すことに成功したようだ。遠坂たちが追いつく前に取り逃がさぬよう、俺がここで相手をしなくてはならない。出来れば、そのまま取り押さえたい。セイバーはともかく、遠坂はこういう状況でよくポカをするからなぁ。

「……さて」

ランスの視界と遠見とを素早く切り替えながら、俺は相手の動きを捉え続ける。よし、この抜け道の構造は既に頭に入っている。遠坂たちの位置を確認しつつ、俺はその瞬間を待った。


―― 射!――


魔術師が路地を抜けようとする直前、俺の矢を放つ。狙いは路地の出口、奴の目前でその進路を塞ぐ。

「降伏して欲しいな。出来れば殺したくはない」

唖然とした立ち止まる魔術師に、俺はできるだけ冷然と声をかける。出来うれば、降伏を受け入れられるだけの誠意を込めて。

「……君も……英霊なのか?」

驚愕の光りを目に浮かべ、その魔術師は搾り出すように呟いた。なんか勘違いしているようだ。

「ただの人だ」

俺は不審の思いが表情に出ないよう、極力努力して応えた。足を止め、呆然としている魔術師には抵抗の意思を感じない。うん、このまま掴まえられたら良いんだが。

「いや、失礼。これでも若干、未来視じみたことが出来てね。君の弓だが、どうにも外れる未来が見えなかった。大したものだ、ふむ、とすると君も大師父の系譜の者か、こんな術者がいるとは聞いていなかったが……」

魔術師は虚ろな瞳のまま、ぶつぶつと呟きだした。妙に落ち着いているのが気になるが、やはり敵意を感じない。

「彼女の弟子さ、大師父の系譜じゃない。それより、盗んだ物を渡して降伏して欲しいんだけど?」

俺としては、向こうが正気に戻る前に何とか片を付けたかった。このまま射殺すことは簡単だが、そんなことはしたくない。

「ああ、それならやはり系譜といえる……良いだろう、降伏しよう。君は信用できそうだ。今から遺物をここに置く。抵抗する気は無いからしっかり見ていてくれ。勘違いで殺されては適わない」

魔術師は、俺に誤解されないためだろうか、ゆっくりとした動作で、胸元に抱え込んでいた包みを開いていった。水晶かな? 虹色のきらめきが僅かに漏れ出す。

「さあ、しっかり確認してくれ、これが大師父の遺物だ。」

魔術師は虹色の水晶を俺に向かって差し出した、俺はそれを確認するため遠見を……


ゾクリ

「――投影開始トレース・オン!」


背筋の悪寒と投影の展開はほぼ同時だった。

―― 破璃!――

一瞬遅れて投影された鏡が砕けた。くそ、やっぱり。
俺は自分の魔術の特性上、とことん邪眼、魔眼の類に弱い。かといって遮断してしまっては、俺の魔術の基礎である解析能力も遮断されてしまう。
“諸刃の剣“
あらゆる意味で俺の魔術特性はそれだった。だから、俺は邪眼、魔眼の類に対する勘というべきものを磨いた。直接防げないのなら事前に察知して避けるしかない。
遠坂やルヴィア嬢、それにミーナさんにも手伝ってもらって、散々痺らされたり寝かされたり、良いように操られたりした結果、最近ようやくそのコツがいくらか掴めて来たところだ。今回はそれが間に合ったといったところだろう。

「! うぎゃぁぁぁぁぁああぁぁぁ$#−!!!」

「――え?」

もはやこれまで、と矢を放とうとした俺は、眼前で繰り広げられていた光景に言葉を失った。そこに繰り広げられていたのは、まったく予想外の光景だった。いや、それどころか、とんでもない異質感さえ感じるものだった。

魔術師が食われていた。

まるで、そこだけ十九世紀の倫敦に戻ったかのような濃い霧に包まれ、魔術師は“なにか”に貪り食われていた。
咀嚼音が聞こえる。飢え餓え渇いた何かが、霧の切れ間から見え隠れする。蒼くぬめる瘠せた胴、舐めるというより抉り取るように蠢く長い舌。似ても似つかぬ姿のはずなのに、俺は何故かソレは犬だと解ってしまった。


ミテハイケナイ

アレトメヲアワセテハイケナイ



原初の記憶が、俺の頭を砕くほどの警戒音を発し続ける。アレは危険だ。アレからは逃れられない。アレから逃れる術は無い。ガンガンと頭が割れそうになる。だが、それでも視線を外せない。俺は魅入られるように霧の中で貪り食らう”犬”の背を注視しつづけていた。

徐々に咀嚼音が収まり、霧が晴れる。全身を蒼いぬめりに覆われた歪な身体、犬と言うよりも蛸や烏賊のような軟体動物を思わせる頭。だがそれは犬だった。これと定めた獲物をあくまで追い続け、ついには食らう、おぞましい猟犬。駄目だ俺は魅入られてしまった……

「士郎! あいつは!?」

そんな俺の意識を覚ましたのは、懐かしくも愛しい遠坂の声だった。が、まずい!

「来るな! 遠坂!!」

俺は喉が張り裂けんばかりの勢いで叫んだ。が、遅かった、角を曲がり一目散に飛び込んできた遠坂は、ものの見事に“犬”の正面に飛び込んでしまっていた。

「――!」

まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい!

俺はこの時、一瞬だけ狂っていたのかもしれない。
あとう限りの速度で矢を放ち続ける。それだけじゃない、それでは到底足りない。血反吐を吐くのも構わず“犬”の上に魔剣を並べ、ミンチにするほどの勢いで叩き落していた。

「うわぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁ!!!」

いや、ミンチになっても終わらない。矢が尽きればこれをも投影し、魔術回路が焼ききれんばかりに魔剣を投影し次々に叩き落した。

「ぐはっ!」

何かが口からあふれ出した。ああ、赤いから血かな? だが止めない、止められない。まだだ、まだ足りない、こんなもんじゃあいつを断ち切れない。なにか……なにかあるなずだ……。俺は尚も投影を続けた。何か決定的なものを探しつつ、投影を続けながら矢を放ち続けた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「シロウ」

誰かに呼ばれた気がする。だが今は、そんな事を気にしている暇は無い。断ち切らなきゃ、切り離さないと、まだだ、まだなんだ! 確か……確か手があるはず……それを……それを!

「うわぁぁぁぁああぁぁぁあああああ!!」

畜生、畜生、畜生、畜生、足りない、足りない、足りない、足りないんだ!

「シロウ!」

―― 頑!――

思いっきり殴り飛ばされた。自分の吐いた血にまみれながら、がたがたの身体になりながら暴走していた俺は、セイバーの手甲でものの見事に屋根から叩き落されていた。

「うわああぁぁぁぁぁぁ…………………… へ?」

「正気に戻りましたか? シロウ」

地面に落ちる瞬間、先に回り込んだセイバーの腕に抱きとめられ、俺はようやく正気に戻った。俺の眼前にはセイバー。俺よりはるかに小さい身体の癖に、まるで雛鳥を抱く親鳥のように俺を優しく抱きかかえ、心配そうに見下ろしてくれている。はぁ…………あ! それどころじゃない! 遠坂!

「と、遠坂は!? あの化物は!?」

俺はセイバーの腕の中でもがきながら叫んだ。

「シロウ、落ち着いて。凛は無事です、あの妖物もシロウの剣と矢でもはや原形を止めていません」

セイバーは落ち着いた声で俺を諭すように言いながら、ゆっくりと下ろしてくれた。視線の先には遠坂がいる。よかった……無事だったんだな。

「遠坂……」

思わず安堵に口元がほころぶ。俺同様に呆けて真っ青になっていた遠坂だが、俺を見て顔に朱がさしてくる。どんどん、どんどん赤くなり、俺に向かって駆け寄ってきてくれる。

「遠坂!」

「……馬鹿!」

両手を広げて迎え入れようとした俺を、遠坂は情け容赦なく、力一杯殴り倒しやがった。しかもグーで……

「い! 痛いじゃないか! 何で殴るんだよ!」

「ベアで殴る! こんなことしでかしたら何回だってベアで殴るんだから!!」

「だ、だって遠坂が!」

「だってじゃない! そりゃちょっと気を抜かれたけど。あそこまでやる必要は無いの。最初の一撃でやっつけたんだから! なによあれ? 街ごと壊すつもり!?」

こっちの非難など吹き飛ばす勢いで、がぁ――っと捲くし立てた遠坂。指先は、先ほどまで“犬”が居た場所に突き付けられている。うわぁ……なんだありゃ。
そこには何も無かった。いや、あることはある。何かで切り裂かれ抉り取られたようなクレーター。まだぶすぶすと煙を吹いている。

「凄いなぁ」

俺は感心して溜息を付いた。と、遠坂にもう一発殴られた。

「凄いじゃない! あんたがやったんでしょうが! なに考えてんのよ、自殺するつもり!?」

更にしこたま怒鳴りつけられた。思いっきり睨みつけてくる遠坂は、微妙に涙目になってるようにも見て取れる。うう、なんか凄い罪悪感。

「いや、なんか、まだ足りないって。これじゃ終われないって気になっちまって……」

泣きそうになりながらも睨みつけてくる遠坂の視線に、俺の言い訳が尻つぼみになる。でも、確かにあれじゃ足りないんだ、その、何か決定的な手が……うう、意味不明だ。

「ごめん、心配かけた」

もうこうなると謝るしかない。自分でも説明できない理由で、遠坂に心配かけちまったのは間違いないんだから。

「わかれば良いのよ……助けてもらったのは確かなんだし」

遠坂はぷいと視線を逸らして膨れる。とはいえ俺の謝罪を受け入れてくれたようだ。

「それにしても、どうしてあそこまで? 私にはさほど危険な妖物に見えなかったのですが?」

そんな俺に、セイバーが不思議そうに聞いてくる。だって、あいつは……。俺はあの“犬”の異質感を思い出し、怖気を奮った。

「そうね、単体としてはそう強い奴じゃないわ」

遠坂が俺とセイバーのそんな様子に、一人口元に手を当て、考え込むように口を開いた。

「ものすごく厄介では有るけどね。あれは“猟犬”ティンダロスよ。まさか実物にお目にかかれるなんて思ってもみなかったけど」

“猟犬”ティンダロスって……、あの“猟犬”ティンダロスか!?」

“猟犬”ティンダロスそれは、この世界の存在ではない。並列宇宙のどこか、「角」で出来た世界で生まれた、飢えと渇きに苛まれ続ける存在。その飢えを満たせるのは、この世界の存在だけであるらしい。本来ならば俺たちが見ることも触れることも無いはずの存在だ。だが、魔術師は知っている。何故なら。

「そう、大師父が見つけちゃったあの“猟犬”ティンダロスよ」

俺は言葉を失った。伝承によると、大師父は第二魔法を駆使し並列世界を遊弋している最中に、“猟犬”のいる世界を見つけたという。世界の全てを貪りつくしていた奴らは、そこで大師父と戦ったらしい。大師父はなんとか奴らを封滅できたものの、奴らは大師父との戦いのさなか、限定的ながら第二魔法を身につけ、その封印を破った。
以来、奴らは「角」を通して時空を渡り歩き、自分と繋がった存在を見つけ出し食らい尽くす“猟犬”となった。ただ、一度見なければ相手の世界には渡れない。しかも、一旦そこで食らってしまえば、程なくして繋がりは絶たれ、元の牢獄に戻るしかない。限定的な魔法といったのはこの為だ。

「……じゃあ、あの遺物って」

そこで気がついた。“猟犬”から見られなければ繋がらない。だが“猟犬”を見、見られることが出来るのは限定的ながら第二魔法を使える者だけのはずだ。

「多分、“猟犬”の世界にだけ繋がった遠見石スクライング・クリスタルね。大師父としてはこう言いたかったんでしょう。“猟犬”に見つからないようにこれを駆使して魔法への道を見つけろって」

あるいは、“猟犬”を掴まえてあいつ等の技を盗めと。そりゃ、こんなもの渡されたら断絶もするわ。本気でとんでもない爺さんだな。大師父ってのは。

「ともかく“猟犬”は消えた。仕事も完了ってわけね。セイバー、悪いけどその水晶、包みなおして持っててくれる。わたし達じゃちょっとばかり危険すぎるから」

「了解しました。そういう事情なら、あの品物に触れるのは私が適任でしょう」

難しい顔をした遠坂の指示に、セイバーはこくんと一つ頷くと、魔術師の残骸に向かった。セイバーは大師父とは何のかかわりもない。関係ない人間なら却って安全と言うわけだ。あれ? わたし達?

「俺もなのか?」

「そうよ、気がついてないの? わたしの弟子ってことは、今じゃ士郎も大師父の系譜なの。その……パスも通しちゃったしさ……」

何でこんなこと言わすのよ、といった顔で、少しばかり赤くなりながらむぅ――と睨みつけてきた。いや、悪かった。そうか、あれってこんな意味もあったんだ。

「そうか、だからあいつ俺が遠坂の弟子であることを確認したんだな」

だが、これで納得できた。そうか、あいつは俺に“猟犬”をぶつけようとした訳だ。うわぁ、また鳥肌が立ってきた。本気でぞっとするぞ。

「士郎、あれだけ甘く見ちゃ駄目だって言ったでしょ?」

う、また睨まれた。くっちゃべってる暇があったんならとっとと片付けなさい。といった顔だ。そうはいってもな遠坂。俺は小さく心の中で謝った。同じ事があったら俺はやっぱり同じように勧告をするだろう。綱渡りじみた生き方だとわかってはいるが、それが俺の選んだ道だ。困難ではあるが、間違ってはいない。ただ、

ごめんな遠坂。心配かけてばかりで。




「ただいま」

後味は悪かったが、あの事件そのものは解決した。報告書をまとめ時計塔に遺物を返して終わり、なんだかあっけない。遠坂にはあの遺物の調査の打診があったようだが、後日改めてと言うことで、丁重にお断りしたらしい。
今はまだ危険すぎると言う事だ。だが、遠からず物にしてみせると、唾をつけることは忘れなかったらしい。不安はあるが、不満は無い。遠坂は魔術師だ、遠坂がそれに命をかけて悔いの無いと判断したのなら、俺はそれを全力でサポートするまでだ。

「あれ? おかしいな」

この日も、遠坂は朝から自宅の工房で実験のはずだった。俺も手伝うといったのだが、午前に講義が入っていたので外された。俺は休んで手伝うといったのだが、あんたは自分のことやってなさいと蹴りだされてしまったのだ。

だから急いで帰って来た。食事の仕度や雑用なんかでも、手伝えることは手伝いたい。が、こうして家に帰ってきたは良いが返事が無い。セイバーも居るはずだから、昼飯を食いに出かけたとも思えない。このあたりで、セイバーの満足いくランチを出せる店は殆んど無い。

「おーい、遠坂、セイバー」

俺は一当たり家の中を探し回った。自室にも風呂にもトイレにも姿は無い。
何故か、一番居そうな工房を後にしたのは、今、思えば気付かぬうちに避けていたのかも知れない。なにか、そこを覗いてしまえば終わりだ、無意識のうちにその事に気が付いていたのだろう。

「なんだよ……これ……」

工房はめちゃくちゃだった。機材は薙ぎ倒され、ビーカーやフラスコは残らず割られていた。そこかしこに焼け焦げさえある。

「これって……」

工房の隅から中央当りにかけて、点々と続く蒼い粘液。いまだ煙を吹いている焼け焦げの跡のそこかしこにも飛び散っている。徐々に気化して消えていこうとしていたが、見覚えがあった。間違いない、あの晩俺はこれを見た。あの魔術師を貪り尽くした、あの“猟犬”の体液だ。

他にも微かだが血の跡も見つけた。大した量ではないが遠坂の血だ、見ればわかる。怪我したんだな。
そして僅かに無事だった作業台の上、俺は見つけてしまった。

「畜生……」

一通の手紙。俺は、今朝別れたばかりなのに、涙が出そうになるほど懐かしい香りに包まれたそれに手を伸ばす。

「ば……馬鹿……馬鹿野郎!!」

俺は天を仰いで叫んだ。何度も何度も叫んだ。馬鹿野郎。大馬鹿野郎。遠坂の馬鹿、セイバーの馬鹿。そして俺の大馬鹿野郎!!

震える手の中で、握りつぶされたその手紙には、遠坂の字で決別の言葉が綴られていた。


今回ちょっと、創作上の魔物を出してみました。
まあC系の話ってのは、すでにある種の共通認識化してると思いますんで良いかなと。
一応こっち世界向けの理屈はこねてあります。
さて、前半は顔見世。これからいったいどんな事態に相成りますか。
それでは後編をお楽しみください。


By dain

2004/6/30 初稿

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