逃げた。

必死で逃げた。

午後から降り始めた雨の中、車はひたすら倫敦から、我が家から逃げるように走り続けた。

「セイバー、迷惑かけるわね」

何度目だろう、らしくない。思いっきりらしくない。気丈な振りをしてもこれは泣き言。本当にらしくない。

「構いません、凛。貴女の判断は間違いではない」

セイバーの応えははっきりしている。慰めではない。彼女は本当にそう思っている。

「逃げても意味は無いんだけど」

そう、時間や距離を稼いでも意味は無い。「角」さえあれば“猟犬”ティンダロスは何処へでも、何度でも追ってくる。だから、今、逃げているのは“猟犬”からじゃない。

「ですが、出来るだけ人目の付かない場所で、確実な準備をして待ち受けると言ったのは凛です。その判断は間違いはない」

この判断に付いては間違えたつもりは無い。逃げても無駄。ならば受けて立つしかない。その為にあの“猟犬”を待ち構える場所は、人目につかず可能な限り相手の出方を限定できる場所が必要だ。たとえ倒せても、いや、たとえわたしが倒されても、誰かが“猟犬”に見られるようなことがあってはならないのだから。……特に、士郎が。

「凛……」

「良いのよ、さっさと行って、とっとと片付けちゃいましょ」

わたしは逃げた。誰よりも士郎から逃げていた。





あかいあくま
「真紅の悪魔」  −Rin Tohsaka− 第五話 後編
Asthoreth





「凛! 入れてください!」

「駄目! セイバーまでこいつらに捕らえられるわけにはいかないの!」

セイバーを無理やり工房の外へ叩き出し、わたしは“猟犬”と対峙した。

――Gruuuu……

はらわたが凍る、気が遠くなる。今すぐ叫びだして目も耳も塞ぎたくなる。だが、それは出来ない。
負けるのは良い、殺されるのも仕方がない。だが、断じて戦わず死ぬことだけは出来ない。遠坂凛は。敵に後ろだけは決して見せないんだから。
奴の舌に絡められ、痺れる右手を押さえながら、わたしは防護陣の中で呪を唱える。火、水、地、風。順次流れる力を、立て続けに奴に叩き込む。よし、目を潰した。

「セイバー!」

「はい!」

扉の向こうで、地を踏み抜かんばかりに焦れていたセイバーが、脱兎の如く飛び出してくる。

―― 尖!――

まさに一閃。流石はセイバー、ただ一突きで“猟犬”の息の根を止める。死んだ“猟犬”はその場で気化をはじめ、徐々に部屋の隅に吸い込まれていく。異界の妖物とはいえ、単体では所詮、英霊の敵ではない。こいつらの恐ろしさは強さではない。決して諦めぬ、決して尽きることの無い執念。永劫の飢えを満たさんとする、この執念こそが奴等の狂おしいばかりの恐怖なのだ。

「凛」

「大丈夫、かすり傷。でも……厄介なことになったわね」

わたしは、傷ついた腕に応急処置を施しながら時計を見る。

「三十二時間か、次は十六時間後ね」

「凛、それは?」

「次の“猟犬”が現れるまでの時間。まいったなあ、やっぱりあの時に“見られ”てたんだ、わたし」

へたり込みたくなるような恐怖を堪え、セイバーに向かって出来るだけ軽い調子で話をする。
あの時、わたしの真正面でわたしに向かって放たれた視線。空虚な穴の奥にたった一つの感情だけがぎらついていた瞳。それは“飢え”。おぞましくも圧倒的な“飢え”だけが、あの瞳から溢れ出していた。いや、奴等にはただそれだけしか無いのだ。“飢え”それこそが奴等の起源そのものだった。
奴等のなしえることは、ただそれを多元時空を越えて、わたしに送り込んでくることだけなのだ。並列世界から伸ばされてきた、ただ一本のライン。ただし此方からは決して切れない、食う者が食われる者へ刻み付けた一方的な契約の絆。

今の奴等の襲撃ではっきりした。奴等は此方にやってくるわけではない。此方に伸ばしたラインを通じて影を結んでいるのだ。いわばサーヴァントと一緒。向こう側の本体から時空を越えて獲物に楔を打ち込み、それをアンカーにして影を現界させる。だからこそ、幾ら倒しても次から次に現れる。
“猟犬”が獲物を食い殺すと消えるのも道理。食い殺すと同時に此方の世界へ伸ばしたラインは消え、“猟犬”を現世に繋ぎとめるアンカーも消えるのだ。マスターが死ぬとサーヴァントが消えるのと同じ理屈だ。システムとしては現界させるのが魔力によるものか“飢え”と言う概念によるのものかに違いくらいだ。いや、概念をここまで具象化した力にしてしまうあたり、やはり一種の魔法レベルの現象と言うべきか。

「凛! それでは」

「まともに行ったら根競べ。違うか、向こうは絶対折れないからこっちの一方的な我慢大会かな?」

わたしはじっとセイバーを見据えた。そう、まともにやっていたなら勝ち目は無い。何せ相手は此方が消えるまで追いかけ続けるのだ。終わりは無い。あいつらの起源“飢え”と一緒だ、生き続ける限り追いかけてくる。

「その言い方ですと、凛。何か手があるのですね」

「あるわ。知ってるでしょ? わたしはただ待つって言うのは性に合わないの。こっちから先手を取らないとね」

セイバーが息を呑む。当たり前だろう、何気ない口調で言ったものの、わたしは魔法に挑むと言っているのだ。
普通なら考え付きもしないことだろう。だが、わたしも大師父シュバインオーグの系譜、それなりの研鑽も積んでいる。第一それがわたしの目標なのだ。相手が並列宇宙に居ようとも実際にラインを送って来ているのなら、そのラインを逆にたどって、呪を送り返すことくらいの術式なら立てられる。問題はその術式を実行できるのかと言うこと。とはいえ、天文学的に低い確率とはいえ手段はあるのだ。ならば諦めることは出来ないし、諦めるつもりも無い。

「セイバー、用意して」

だったら、とっとと進むべきだ。立ち止まっている時間は無い。

「はい、ですが何の用意でしょう?」

「ここを離れるの。士郎が帰ってくる前に」

だが、そんな危険に士郎を付き合わすわけには行かない。この方法の失敗が怖いわけでも、わたしが結局“猟犬”に食われるのが怖いわけでもない。ただ、その過程で士郎がわたし同様に奴等と繋がれてしまうのが怖い。そんな危険は冒すわけには行かない。
それに、わたし達がここを去れば、最悪、士郎だけは生き残れる。

「分かりました、凛。お付合いいたします」

「悪いわね、セイバー」

「なにを言うのです。貴女は私のマスター。マスターとサーヴァントは一心同体なのです」

セイバーは莞爾と笑って応えてくれた。でもね、セイバー。わたしは、そう簡単に貴女も心中させるつもりはないわ。




「セイバー」

「なんでしょう、凛」

雨の中、郊外のカントリーハウスへ向かう車の中で、わたしはセイバーに呼びかけた。なんやかやで、今まで告げなかったことを言わねばならない。これを伝えれば向後の憂いは無くなる。

「もしもだけど、万が一わたしが死んだら、ルヴィアのところに急ぎなさい。話はつけてあるから」

「凛!」

一瞬、車が奇妙な揺れ方をする。危ないわね、セイバー。今ハンドルきり損なったでしょう、まだ死にたくないわよ。

「一体どういうつもりなのですか! 私は貴女以外のサーヴァントになるつもりは無い」

「もとは士郎のサーヴァントだったじゃない」

「そ! それとこれとは話が違う! あの時は、その緊急避難的な意味で……」

「あ、やっぱりわたしって二号さんなのね。いいわ、日陰でひっそりと咲いてるから」

「凛! 話を逸らさないで欲しい!」

予想通りセイバーが激昂した。でもね、セイバー。今の会話が現すように、貴女にはわたしが絶対必要って訳じゃないのよ。

「別に士郎をマスターにしても構わないけど。どの道、士郎のこともあいつに頼んであるし」

「凛……」

とうとうセイバーは黙り込んでしまった。駄目だなあ、茶化すような口調でも悲壮さが出ちゃったのかな。

「セイバー、だから無茶はしないでよ。わたしの代わりにとかも無し。そんなことをしても、結局時間稼ぎにしかならないんだから」

どうしてもそっちに頭を持って行っちゃう娘だけど、今回はそれをさせるわけには行かない。だから、止めを刺しておく。

「士郎のこと、お願いね」

「凛、それは卑怯だ……」

唇をかみ締め、絞り出すような声。ごめん、卑怯は重々承知してるけど、それがわたしの願い。自分のことに誰かを引き摺り込むのは趣味じゃない。

「とにかく、いいわね? 万が一のときはあいつと一緒に士郎をよろしく。二人が居てくれれば安心だから」

わたしはシートに背を預け目を瞑る。そう、これで安心して事に挑める。セイバーとルヴィアが居れば大丈夫。悔しいが、あいつなら士郎をおかしな道に進ませはしないだろう。

「分かりました。ですが、凛。良いのですか? そう簡単にルヴィアゼリッタに士郎を渡してしまって」

「はん、気前のいい遺言状渡しておいて、あっさり目の前で破り捨ててやるのが、今回の趣向よ、その時のあいつの顔を想像するだけで、力が沸こうってものよ」

セイバーの軽口にこちらも応える。そう、諦めるつもりも引くつもりも無い。全力で挑んで必ず打ち勝ってみせる。だからお願い。士郎、今は大人しくしててね。




車は昼前には目的地に着いた。
ロンドン郊外の半ば崩れたカントリーハウス。先日、降霊学科の馬鹿どもがぶち壊した屋敷だ。セイバーとわたしは、かなりの大荷物を担いで、ここの地下室へと降りていった。

「へえ、意外と綺麗じゃない」

地下室は思ったよりも、きちんと片付けられていた。どうやら時計塔がくいんの儀式にでも使うつもりだったらしく、瓦礫は掃除され、壁や床も綺麗に修復されていた。

「凛、何からはじめましょう」

二十キロ単位の大袋を三つほど抱えてセイバーが聞いてくる。やっぱり英霊ってのは本当に大した物だ。

「まずは、そのセメント溶いて、ここの「角」を一つに絞るから」

わたしはセイバーに命じ、まずは施術の下ごしらえから始めた。
傍から見たら間抜けな光景だろう、うら若き乙女二人がセメントを捏ね、部屋の角を次々に塗り潰す。奴等は「角」を伝ってラインを引く。だからこの部屋の「角」を一つにして辿り易い様にしておかなければならない。

「一風呂浴びたい気分ね」

半日がかりの作業が終わった頃には、二人そろってかなり悲惨な有様だった。最後は綺麗で居たいけど、こんな廃屋じゃ無理だろうなあ。

「お湯は無理ですが、水風呂でしたら何とかなりますが?」

「本当!?」

「ええ」

こくんと頷くセイバーの姿、ああ、今はそれが天使に見える。なんと、既に目星をつけていたらしい。上の屋敷跡で浴槽を見つけ、小奇麗な部屋に用意をしていたという。凄く有難いんだけど、王様をこんな所帯じみさせて良いのだろうか?

「ありがと、セイバー。準備が全部終わったら一緒に入りましょう」

確かに、これから行う儀式魔術の為にも沐浴は必要だ。わたしはセイバーに感謝しつつ、儀式用の魔法陣の構成に取り掛かった。

溶かした宝石で魔法陣を敷き、要所要所に呪刻された宝石をはめ込む。磨きだされたダイヤモンドワイヤーを洗練し、制御陣に結ぶ。もうこれで四度目だ、流石に手順も手馴れてくる。今回は、いままでと異なり制御陣は一つ。だが、今までには無い切り札がある。

「頼むわよ、全財産担保にしたんだから」

わたしは布陣の最後の仕上げとして、魔法陣の中央に大粒の『蒼紅玉』ブルー・カーバンクルを設置した。

並行時空通過遠視ゼルレッチ・フライバイ・スクライング』。ルヴィアと何度か挑み、ギリギリで失敗した施術。だが、失敗の原因ははっきりしていた。ようは要石の純度。
今回それは問題ない。今回の要石は代用品や、妙なおまけの付いた石ではない、大英博物館に所蔵されていた最大級の『蒼紅玉』ブルー・カーバンクルだ。

「折角、借りを返したと思ったのに。またでっかい借り作っちゃったなあ」

命がけのつもりで談判したにもかかわらず、教授の手から、それこそ無造作なまでに渡された30カラットの『蒼紅玉』ブルー・カーバンクル。ここで死んだら冬木の管理権は根こそぎ協会の物だ。もっとも、今、死んだら遠坂家そのものが断絶だけど。

わたしがやろうとしているのは、先日の実験の応用。無作為に打ち出す探査針の代わりに、“猟犬”がわたしに繋いだラインをたどって、向こうに接触しようと言うものだ。接触できたらしめたもの、そのラインを通して此方から呪を送り込み奴等の本体を叩く。
純粋な魔法ではない、相手の魔法級の現象を逆手に取った返し技だ。難易度としては先日の実験よりちょっと高いだろうが、やってやれないことは無い。

大丈夫、わたしには異世界に触れた経験もある。あの時は此方のラインを手繰られたが、今度はそれをわたしがやるだけのこと。此方に送り込まれた“猟犬”から、相手の大体の力量は分かる。向こうの奴等を倒すことは決して難しくは無い。魔法陣に込められた魔石の力を一気に叩き付ければ、殺せぬまでもラインを引きちぎることくらいは出来る。

「セイバー、終わったわ。お風呂入りましょ。それと食事」

「はい、凛」

最後の仕上げが終わったのは真夜中過ぎ、“猟犬”が現れるまであと二時間弱。なんだ、わたしの一番波長のいい時間帯じゃない。うん、ついてるぞ幸先が良い。早く終わらせて士郎に会おう。絶対、必ず会ってやる。




時計の針が時を刻む。沐浴を済ませ、食事を済ませたわたしとセイバーは最後の打ち合わせに入った。

「セイバー。先ず、そこの「角」から霧が湧き上がる、それから頭、最後に胴。“猟犬”が全身を出すまではそこから出ないこと、良いわね」

「はい、先ず目を潰す。それからは凛の施術が終わるまで、逃がさず殺さず繋ぎとめておけば良いのですね?」

「そ、こっちの術が完成したら仕留めて。それで終わり、万事解決ね」

セイバーは頷いて、唯一つ残された「角」の脇に描いた魔法陣に入る。そこに入ってる間は“猟犬”の目から隠されているはずだ。

わたしはひとつひとつ確認しながら制御陣に入る。先ずは魔術回路の起動、ざくりとナイフが突き立つような感覚は、物心付いた時から慣れ親しんだもの、もはや身を震わすことも無い。続いて魔術刻印が自動的に立ち上がる。制御陣の刻印とあわせ、『蒼紅玉』の嵌った魔法陣を起動し、ゆっくりとアイドリングさせる。

よし、魔力は十分。あとは“猟犬”を待つばかり。回路の疼痛も、刻印の掻痛も武者震いに取って代わられる。
行ける、今日なら届く。わたしと刻印、制御陣と魔法陣。全てが一体となり、体の一部として感じられる。こんな時で無ければ踊りだしたいくらいの絶好調だ。

「凛……」

セイバーの低い、それでいて良く通る声。
来た。この部屋で唯一つの「角」から霧が沸きあがってくる。時刻は午前二時をいくらか廻ったところ。

「――――bereite dich帷子の如く、wie eine Feierkied展けよ、広がるべし.――」

魔法陣とは別の呪を紡ぐ。捕らえるための呪。わたしと“猟犬”そして“猟犬”と向こう。その全てを繋ぐラインを捕らえ、手繰り寄せる為……


――Gruuuuuu……」


霧の中から、影が、そして頭が現れた。蒼くぬめる膿に覆われた醜悪な“犬面”。軟体動物のように蠢き脈打つ舌と牙。怖気が震るう。吐き気がする。このまま一目散に逃げ出したくなる。だが……まだだ。

魔法陣が自然と輝きを増す。共鳴しているのだ。間違いない、あれは第二魔法を源とする現象だ。源を同じくするこの施術が、同胞を見出して喜び身悶えているのだ。

――Gyuaaaa!

“猟犬”が身を震わせ、おぞましい産声を上げる。まるで胎児が生まれるが如く霧から這い出してくる。異界の胎盤を破り、母親の腹を引き裂き、“猟犬”は飢えに焦されながら全身を晒そうとしている。

「――――Herr: es ist Zeit時は至れり). lass deine Sinne besigen今こそ 全ての心を解き放つべし.」

“猟犬”を呪で包む。よし、良いぞ。心は震えても、呪を編む声は震えていない。わたしはまだ戦える。

――Grooooooom!

捕らえた! “猟犬”が全身を晒した瞬間。誕生の雄叫びを上げた瞬間。ラインをしっかり掴まえた。

「セイバー!」

“猟犬”が踊りかかる直前、わたしの指示がセイバーに飛ぶ。

―― 閃!――
――Ugyun!

電光が無言で走り、セイバーの剣が稲妻の速度で一閃する。よぉし、目を潰した! 後は任せたわよセイバー。

視覚を除く五感を総動員してセイバーに踊りかかる“猟犬”。その牙を、舌を、爪を、弾き、いなし、賺しながらも決して逃さず釘付けにするセイバー。そんな眼前の戦いも、今のわたしの目には入っていない。

「――――Selig dem Himmel gesellt,天空の至福に加わり)――Wir lassen die Erde zuruck.母なる大地をあとにせん――」

呪を紡ぐ。がりがりと魔術刻印に切り刻まれながら、魔力の奔流に胸を鷲掴みにされながら、わたしは次々に呪を紡ぐ。
“猟犬”のラインをしっかりと掴み、そのラインに沿って呪の銀線を着実に伸ばし、そのラインが到達したとき送り込む魔弾を確実に準備する。全身に神経を引きずり出されるような感覚を味わいながらも、わたしは三つの呪をこともなげに操っている。
心は既に異界を泳ぐラインの先、しかし身体は魔法陣を維持し呪を紡ぐ。自分で自分のことを褒めたくなる。これって錬金術師の分割思考並みの荒業よ。

「――――Sie verkundet unsres Macht力もて、知らしめん)――Denn wir fahren我ら永久に進まん――」


セイバーと“猟犬”の戦いは既にホワイトノイズ。わたしの思考は多元時空を走り、身体は自動機械として呪を紡ぐ。

届く、届く、届く、届く、届く、届く。

現状も、“猟犬”の恐怖も、今は何も感じない。ただ、ただわたしは歓喜の予感に打ち震えていた。届く。魔法の一端に届く。
それは、確かに“猟犬”という現象が、いわば歩行器があっての事かも知れない。第二魔法と言う巨獣の尻尾の先に、指先でかすかに触れるだけの事かも知れない。だが、間違いなく、いまわたしは魔法に触れようとしている。多元時空を渡り、別の世界に触れようとしている。
魔術師として、それは紛れもなく歓喜の瞬間だ。それが、もう少し、もう少しで届く。
この瞬間、わたしはセイバーを、“猟犬”を、士郎すら忘れて恍惚に震えていた。あの光景を目にするまでは。


――届いた――


わたしは届いた。別の世界、別の宇宙に。時空を越え、ただ意思だけ、ただ一本のラインだけにせよ届いた。歓喜のうちに目を開ける。初めての別世界、新世界。


――なによこれ……


歓喜が一瞬にしてしぼむ。怖気が恐気が狂気が一瞬のうちに心を染めつくす。
すばらしき新世界、新たな地平のその先には、唯一つの物しかなかった。

“飢え”

世界一杯の“飢え”世界一杯の蒼い膿、世界一杯の“猟犬”。
飢え、餓え、渇き、求め、訴える。

欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。

なにを求めているかすらわからず、それでもなおも訴える。
永遠に満たされることのない“飢え”

悟った、解った、理解した。わたしが繋がれていたのはこの世界に住む“猟犬”にではなかった。否、この世界に“猟犬”など居ない。“猟犬”はこの世界の影に過ぎない。
わたしはこの世界の・・・・・飢え・・そのもの・・・・に繋がれてしまっていたのだ。
こんなものをどうやって相手にすれば良いの?

わたしはただ呆けて漂った。ただ意識に過ぎないのが救い。
なのに、見えないはずなのに。

世界中の“猟犬”が一斉にわたしを見据えた。

「         !」

自分にすら聞こえない悲鳴がこだまする。狂った、そしてもう一度狂って正気に戻ってしまった。この世界は狂わせてもくれない。正気のまま狂気が喜び勇んで犯しにくる。
狂えていたなら幸せだったろう。だが正気に戻ってしまった以上、わたしは逃げるしかない。

「――――Der Riese und brennt火炎   流星),EileSalve一 斉 射 撃――」

こちらの世界の身体が悲鳴のような呪を紡ぐ。魔法陣の宝石が一斉に輝き、一斉にラインの中に雪崩れ込む。
わたしは叩きつけた。ラインを通し流れてくる呪を、見境なく一斉に追いすがる“猟犬”どもに叩き付けた。そして、


逃げた。

必死で逃げた。

ラインを伝い必死で自分の世界に向かって駈けた。無様に四つ這いになり、狂ったように逃げだした。

逃げた。

逃げた。

必死で逃げた。

逃げて逃げて逃げ切って、ようやく自分の身体にたどり着いたときには。全ての呪は使い果たされ、魔力は空っぽ、魔術刻印は輝きを失い、魔法陣も沈黙していた。
ただ、わたしと“猟犬”そしてあの飢えた世界を繋ぐラインだけが残っていた。

「凛!」

セイバーの驚愕の声が虚ろに響く。何も出来ない。もう終わった。魔法の輝きも魔法にたどり着ける喜びも歓喜も、泡沫の夢のように消え去った。もう、何も、出来ない……
いや、あった。もう一つだけやり残したことが。

「セイバー、そいつ殺して」

感情の無い声でセイバーに命じる。もうそいつに用はない。

「凛! 大丈夫ですか?」

一閃で“猟犬”を始末したセイバーが、生気を失ったわたしの元に駆けつけてくる。有難うセイバー。貴女のことは無駄にはしない。

「逃げなさい、セイバー。後の落とし前はわたしがつける」

うん、良いぞ。自分でも意外なほど気丈な声だ。「角」からはまた霧が立ち上り始めている。ああ、やっぱり。振り切れなかったんだなあ。

「凛! 諦めるのですか!?」

諦めたわけではない。ただセイバーがいても無駄なだけ。幾らセイバーとはいえ、これから始まる無尽の“猟犬”との戦いに、勝ち残れないだろうと知っているだけ。反則だよなあ、世界丸ごと“猟犬”だなんて。

「逃げなさい、セイバー」
「嫌です」

わたしの命令を無視して、セイバーがわたしと霧の間に立ちふさがる。困ったなあ、この娘、強情だから。どうやって逃がそう。

「士郎の所に行って」
「……嫌……です」

困った、本当に困った。霧の向こうでは“猟犬”の影が実体化しつつある。顔が出てきたら手遅れになる。

「士郎を一人にして良いの?」

「凛……それは……」

よし、もう一押しだ、ああ、まずい“猟犬”が顔を出す……

「士郎は……」



――「俺は一人じゃないぞ」



―――え?
「……え?」

何か今、後ろの方で聞こえないはずの声がした気がする。あ、やば、そうこうしている内に“猟犬”の頭が。

―― 射!――

と同時に銀線が走る、一筋、いや二筋、ほぼ同時だ。

――Gyuuun!

“猟犬”が悲鳴をあげた。矢だ、両目が二本の矢で貫かれ潰されたのだ。

「セイバー!」

ああ、また聞こえないはずの声だ。だってのにセイバーは素直にその声に従う。瞬時に間合いを詰め、身体が這い出す前の“猟犬”を両断した。なんか悔しい。わたしの命令には逆らうくせに。

「セイバー、しばらくそっちは任せる」

「はい、任せてください」

セイバーが声に従い剣を握りなおす。斜に構え、相手の視線に囚われぬうちに叩き伏せるつもりだろう。
それにしてもおかしな話だ、やっぱりわたしは狂ったのだろうか。どうしてこうも立て続けに聞こえないはずの声が。

「遠坂……」

ほら、また。

「馬鹿、こっちを向け!」

なんか腹が立つ。わたしは聞こえないはずの声の主を睨みつけてやろうと、振向いた。

「……士郎」

居ないはずの人影が居た。

「この馬鹿!」

そして怒鳴りつけられた。その上、物凄い視線で睨みつけてくる。

「ば、馬鹿って何よ!」

「うるさい馬鹿は馬鹿だ! 馬鹿遠坂!」

ずんずん、ずんずん迫ってくる。あ、やだ怒ってる。凄く怒ってる。こんな怒った士郎を見るのは初めてだ。

「ば、馬鹿馬鹿言わないでよ! 士郎に馬鹿っていわれたら、本当に馬鹿みたいじゃない!」

「黙れ馬鹿。俺に馬鹿って言われるほどの馬鹿やったのは遠坂だろう!」

罵声と共に、士郎はわたしの事を睨み付けてくる。怖いくらい本気で怒ってる。

「遠坂、お前、自分を信じなかったろ」

士郎の言葉が胸に突き刺さった。

「そ、そんな事……」

「うるさい馬鹿! だったら何故俺を外した。自分を信じてれば、成功するって信じてればそんなことする必要ないだろうが」

ぐうの音も出ない。士郎に叱られた。怒られた。士郎から逃げた本当の理由を言い当てられて、何も言えなくなってしまった。

「もういい、だから遠坂。俺を信じろ」

「――え?」

「信じるな?」

士郎がわたしの目を覗き込む。真っ直ぐな、何も持っていない癖に、歪んでもいる癖にひたすら真っ直ぐで愚直な瞳。俺はお前を信じる、だからお前は俺を信じろと訴えかけてくる。

「……う、うん」

わたしは小さく頷いた。わたしでさえ信じられなかったわたしを、信じてくれた士郎に報いるために。士郎はそんなわたしを抱きしめてくれた。そして静かに呪を紡ぐ。

「――――投影開始トレース・オン

士郎に抱きしめられたまま、わたしは背中に冷たい切っ先が当たるのを感じた。でも、わたしは士郎を信じている。だから黙って目を閉じた。






「俺はまだ怒ってるんだからな」

後部座席で小さくなっている二人に、俺はもう一度宣言した。

「わ、わたし間違ってないんだから」

だってのに遠坂さんはまたこれだ。でも今日の俺は一味違うぞ。

「でもミスを犯したろ? 俺を連れて行かなかった」

流石に、ぐっと詰まってそっぽを向く遠坂。ふん、今日は負けないぞ。またこんなことになったら堪らないからな。

自分達だけで始末をつけるとの置手紙。腹に据えかねた。自慢じゃないが、今の俺なら助けにはなっても邪魔って事はないはずだ。だとしたら俺を外すって事は、俺の安全を考えた為。つまりは遠坂に自信が無いって事だ。そんな事を放っておけるかって言うんだ。
俺は頭が沸騰する勢いで考えた。ヒントはある。手紙には後のことはルヴィア嬢に任せたと書いてあったのだ。俺は大急ぎでルヴィア嬢の元へと向かった。

最初はルヴィア嬢はかなり渋っていた。だが事情を説明し、それをルヴィア嬢が解釈する中。俺が解決策を考え付いてからは、すんなり協力してくれた。
一つ貸しですわよ、と言いながら、協会のコネを使い、遠坂がなにを持ち出したのか、遠坂が何処を借りたのかを突き止め、俺を送り出してくれた。後がちょっと怖いけど、ルヴィア嬢は助けられる可能性があるのに、遠坂を見殺しに出来るような人じゃない。

――破戒すべき全ての符ルールブレイカー

これが俺の解決策きりふだだった。
ルヴィア嬢の話で、“猟犬ティンダロス”と獲物の関係が、ある意味サーヴァントとマスターの関係に酷似していることを聞き、俺はすとんと腑に落ちた。
最初に“猟犬”を見た時の焦燥と、何か術があると言う確信。その正体がこれだったのだ。
その役割とは裏腹に、契約と言う意味では“猟犬”がいわばマスター、そして獲物が“サーヴァント”だった。ならばこの絆は破戒すべき全ての符ルールブレイカーで断ち切ることが出来る。俺はそう判断したわけだ。

その判断は正解だった。背中に僅かな傷はついたものの、こうして遠坂は“猟犬”と縁を切ることが出来たわけだ。ふん、誰が“猟犬”なんかに遠坂を渡すかってんだ。

「セイバーもだ。セイバーが付いていながら、何で遠坂に意見しなかったんだ?」

「そ、それは……」

セイバーの小さいからだが益々小さくなる。俺を心配してくれたからだと思うが、それはちょっと過保護すぎるぞ。俺だって男なんだからな。

「遠坂」

「なによ」

俺はまだ剥れている遠坂にもう一度話しかけた。

「遠坂のやり方は正しかったと思う」

「だったら」

「最後まで聞け。いいな?」

「うん……」

「でも自信をもてなかった、そうだろ? だから俺を外した。正しいと思ったら自信を持って最後まで進め。遠坂は正しいんだから」

「ごめん……」

ああ、ようやく謝ってくれた。本当に強情だからな、遠坂は。俺がこんだけ怒っても、今の今まで謝罪の言葉がなかったほどだ。でも、これで終わりだ。

「それに、俺は遠坂と何処までも一緒に行くつもりだからな」

これは俺の誓いだ。たとえ死が二人を分かつといっても、俺は最後まで戦ってやる。

「な、なに恥ずかしい事言ってるのよ……」

一瞬きょとんとした遠坂だが、すぐに真っ赤になってそっぽを向く。それでも最後に小さく呟く有難うの言葉を聴くことはできた。

ああ、そうだとも。

富めるときも貧しきときも
病めるときも健やかなときも

俺は最後まで遠坂と一緒に歩むつもりだ。

END


凛様「初めての間違い」な話。
一人でできる事だと思い定めてしまったら。そっちに突っ走っちゃう娘ですから。
士郎大事はセイバーも一緒、今回は二人揃って明後日の方向に全力疾走してしまいました。
最後の誓いはまだ心の中。でも私はこの二人、事実上その関係だと思って書いております。
ティンダロスですが、実は名前だけ。あっちの性格と描写を頂いた上で、奈須世界的な意味づけをしてみました。


By dain

2004/6/30 初稿

back   index

inserted by FC2 system