逃げた。
必死で逃げた。
午後から降り始めた雨の中、車はひたすら倫敦から、我が家から逃げるように走り続けた。
「セイバー、迷惑かけるわね」
何度目だろう、らしくない。思いっきりらしくない。気丈な振りをしてもこれは泣き言。本当にらしくない。
「構いません、凛。貴女の判断は間違いではない」
セイバーの応えははっきりしている。慰めではない。彼女は本当にそう思っている。
「逃げても意味は無いんだけど」
そう、時間や距離を稼いでも意味は無い。「角」さえあれば“猟犬”は何処へでも、何度でも追ってくる。だから、今、逃げているのは“猟犬”からじゃない。
「ですが、出来るだけ人目の付かない場所で、確実な準備をして待ち受けると言ったのは凛です。その判断は間違いはない」
この判断に付いては間違えたつもりは無い。逃げても無駄。ならば受けて立つしかない。その為にあの“猟犬”を待ち構える場所は、人目につかず可能な限り相手の出方を限定できる場所が必要だ。たとえ倒せても、いや、たとえわたしが倒されても、誰かが“猟犬”に見られるようなことがあってはならないのだから。……特に、士郎が。
「凛……」
「良いのよ、さっさと行って、とっとと片付けちゃいましょ」
わたしは逃げた。誰よりも士郎から逃げていた。
あかいあくま | |
「真紅の悪魔」 | −Rin Tohsaka− 第五話 後編 |
Asthoreth |
「凛! 入れてください!」
「駄目! セイバーまでこいつらに捕らえられるわけにはいかないの!」
セイバーを無理やり工房の外へ叩き出し、わたしは“猟犬”と対峙した。
――Gruuuu……
腸
負けるのは良い、殺されるのも仕方がない。だが、断じて戦わず死ぬことだけは出来ない。遠坂凛は。敵に後ろだけは決して見せないんだから。
奴の舌に絡められ、痺れる右手を押さえながら、わたしは防護陣の中で呪を唱える。火、水、地、風。順次流れる力を、立て続けに奴に叩き込む。よし、目を潰した。
「セイバー!」
「はい!」
扉の向こうで、地を踏み抜かんばかりに焦れていたセイバーが、脱兎の如く飛び出してくる。
―― 尖!――
まさに一閃。流石はセイバー、ただ一突きで“猟犬”の息の根を止める。死んだ“猟犬”はその場で気化をはじめ、徐々に部屋の隅に吸い込まれていく。異界の妖物とはいえ、単体では所詮、英霊の敵ではない。こいつらの恐ろしさは強さではない。決して諦めぬ、決して尽きることの無い執念。永劫の飢えを満たさんとする、この執念こそが奴等の狂おしいばかりの恐怖なのだ。
「凛」
「大丈夫、かすり傷。でも……厄介なことになったわね」
わたしは、傷ついた腕に応急処置を施しながら時計を見る。
「三十二時間か、次は十六時間後ね」
「凛、それは?」
「次の“猟犬”が現れるまでの時間。まいったなあ、やっぱりあの時に“見られ”てたんだ、わたし」
へたり込みたくなるような恐怖を堪え、セイバーに向かって出来るだけ軽い調子で話をする。
あの時、わたしの真正面でわたしに向かって放たれた視線。空虚な穴の奥にたった一つの感情だけがぎらついていた瞳。それは“飢え”。おぞましくも圧倒的な“飢え”だけが、あの瞳から溢れ出していた。いや、奴等にはただそれだけしか無いのだ。“飢え”それこそが奴等の起源そのものだった。
奴等のなしえることは、ただそれを多元時空を越えて、わたしに送り込んでくることだけなのだ。並列世界から伸ばされてきた、ただ一本のライン。ただし此方からは決して切れない、食う者が食われる者へ刻み付けた一方的な契約の絆。
今の奴等の襲撃ではっきりした。奴等は此方にやってくるわけではない。此方に伸ばしたラインを通じて影を結んでいるのだ。いわばサーヴァントと一緒。向こう側の本体から時空を越えて獲物に楔を打ち込み、それを錨
“猟犬”が獲物を食い殺すと消えるのも道理。食い殺すと同時に此方の世界へ伸ばしたラインは消え、“猟犬”を現世に繋ぎとめる錨
「凛! それでは」
「まともに行ったら根競べ。違うか、向こうは絶対折れないからこっちの一方的な我慢大会かな?」
わたしはじっとセイバーを見据えた。そう、まともにやっていたなら勝ち目は無い。何せ相手は此方が消えるまで追いかけ続けるのだ。終わりは無い。あいつらの起源“飢え”と一緒だ、生き続ける限り追いかけてくる。
「その言い方ですと、凛。何か手があるのですね」
「あるわ。知ってるでしょ? わたしはただ待つって言うのは性に合わないの。こっちから先手を取らないとね」
セイバーが息を呑む。当たり前だろう、何気ない口調で言ったものの、わたしは魔法に挑むと言っているのだ。
普通なら考え付きもしないことだろう。だが、わたしも大師父
「セイバー、用意して」
だったら、とっとと進むべきだ。立ち止まっている時間は無い。
「はい、ですが何の用意でしょう?」
「ここを離れるの。士郎が帰ってくる前に」
だが、そんな危険に士郎を付き合わすわけには行かない。この方法の失敗が怖いわけでも、わたしが結局“猟犬”に食われるのが怖いわけでもない。ただ、その過程で士郎がわたし同様に奴等と繋がれてしまうのが怖い。そんな危険は冒すわけには行かない。
それに、わたし達がここを去れば、最悪、士郎だけは生き残れる。
「分かりました、凛。お付合いいたします」
「悪いわね、セイバー」
「なにを言うのです。貴女は私のマスター。マスターとサーヴァントは一心同体なのです」
セイバーは莞爾と笑って応えてくれた。でもね、セイバー。わたしは、そう簡単に貴女も心中させるつもりはないわ。
「セイバー」
「なんでしょう、凛」
雨の中、郊外のカントリーハウスへ向かう車の中で、わたしはセイバーに呼びかけた。なんやかやで、今まで告げなかったことを言わねばならない。これを伝えれば向後の憂いは無くなる。
「もしもだけど、万が一わたしが死んだら、ルヴィアのところに急ぎなさい。話はつけてあるから」
「凛!」
一瞬、車が奇妙な揺れ方をする。危ないわね、セイバー。今ハンドルきり損なったでしょう、まだ死にたくないわよ。
「一体どういうつもりなのですか! 私は貴女以外のサーヴァントになるつもりは無い」
「もとは士郎のサーヴァントだったじゃない」
「そ! それとこれとは話が違う! あの時は、その緊急避難的な意味で……」
「あ、やっぱりわたしって二号さんなのね。いいわ、日陰でひっそりと咲いてるから」
「凛! 話を逸らさないで欲しい!」
予想通りセイバーが激昂した。でもね、セイバー。今の会話が現すように、貴女にはわたしが絶対必要って訳じゃないのよ。
「別に士郎をマスターにしても構わないけど。どの道、士郎のこともあいつに頼んであるし」
「凛……」
とうとうセイバーは黙り込んでしまった。駄目だなあ、茶化すような口調でも悲壮さが出ちゃったのかな。
「セイバー、だから無茶はしないでよ。わたしの代わりにとかも無し。そんなことをしても、結局時間稼ぎにしかならないんだから」
どうしてもそっちに頭を持って行っちゃう娘だけど、今回はそれをさせるわけには行かない。だから、止めを刺しておく。
「士郎のこと、お願いね」
「凛、それは卑怯だ……」
唇をかみ締め、絞り出すような声。ごめん、卑怯は重々承知してるけど、それがわたしの願い。自分のことに誰かを引き摺り込むのは趣味じゃない。
「とにかく、いいわね? 万が一のときはあいつと一緒に士郎をよろしく。二人が居てくれれば安心だから」
わたしはシートに背を預け目を瞑る。そう、これで安心して事に挑める。セイバーとルヴィアが居れば大丈夫。悔しいが、あいつなら士郎をおかしな道に進ませはしないだろう。
「分かりました。ですが、凛。良いのですか? そう簡単にルヴィアゼリッタに士郎を渡してしまって」
「はん、気前のいい遺言状渡しておいて、あっさり目の前で破り捨ててやるのが、今回の趣向よ、その時のあいつの顔を想像するだけで、力が沸こうってものよ」
セイバーの軽口にこちらも応える。そう、諦めるつもりも引くつもりも無い。全力で挑んで必ず打ち勝ってみせる。だからお願い。士郎、今は大人しくしててね。
車は昼前には目的地に着いた。
ロンドン郊外の半ば崩れたカントリーハウス。先日、降霊学科の馬鹿どもがぶち壊した屋敷だ。セイバーとわたしは、かなりの大荷物を担いで、ここの地下室へと降りていった。
「へえ、意外と綺麗じゃない」
地下室は思ったよりも、きちんと片付けられていた。どうやら時計塔
「凛、何からはじめましょう」
二十キロ単位の大袋を三つほど抱えてセイバーが聞いてくる。やっぱり英霊ってのは本当に大した物だ。
「まずは、そのセメント溶いて、ここの「角」を一つに絞るから」
わたしはセイバーに命じ、まずは施術の下ごしらえから始めた。
傍から見たら間抜けな光景だろう、うら若き乙女二人がセメントを捏ね、部屋の角を次々に塗り潰す。奴等は「角」を伝ってラインを引く。だからこの部屋の「角」を一つにして辿り易い様にしておかなければならない。
「一風呂浴びたい気分ね」
半日がかりの作業が終わった頃には、二人そろってかなり悲惨な有様だった。最後は綺麗で居たいけど、こんな廃屋じゃ無理だろうなあ。
「お湯は無理ですが、水風呂でしたら何とかなりますが?」
「本当!?」
「ええ」
こくんと頷くセイバーの姿、ああ、今はそれが天使に見える。なんと、既に目星をつけていたらしい。上の屋敷跡で浴槽を見つけ、小奇麗な部屋に用意をしていたという。凄く有難いんだけど、王様をこんな所帯じみさせて良いのだろうか?
「ありがと、セイバー。準備が全部終わったら一緒に入りましょう」
確かに、これから行う儀式魔術の為にも沐浴は必要だ。わたしはセイバーに感謝しつつ、儀式用の魔法陣の構成に取り掛かった。
溶かした宝石で魔法陣を敷き、要所要所に呪刻された宝石をはめ込む。磨きだされたダイヤモンドワイヤーを洗練し、制御陣に結ぶ。もうこれで四度目だ、流石に手順も手馴れてくる。今回は、いままでと異なり制御陣は一つ。だが、今までには無い切り札がある。
「頼むわよ、全財産担保にしたんだから」
わたしは布陣の最後の仕上げとして、魔法陣の中央に大粒の『蒼紅玉』
『並行時空通過遠視
今回それは問題ない。今回の要石は代用品や、妙なおまけの付いた石ではない、大英博物館に所蔵されていた最大級の『蒼紅玉』
「折角、借りを返したと思ったのに。またでっかい借り作っちゃったなあ」
命がけのつもりで談判したにもかかわらず、教授の手から、それこそ無造作なまでに渡された30カラットの『蒼紅玉』
わたしがやろうとしているのは、先日の実験の応用。無作為に打ち出す探査針の代わりに、“猟犬”がわたしに繋いだラインをたどって、向こうに接触しようと言うものだ。接触できたらしめたもの、そのラインを通して此方から呪を送り込み奴等の本体を叩く。
純粋な魔法ではない、相手の魔法級の現象を逆手に取った返し技だ。難易度としては先日の実験よりちょっと高いだろうが、やってやれないことは無い。
大丈夫、わたしには異世界に触れた経験もある。あの時は此方のラインを手繰られたが、今度はそれをわたしがやるだけのこと。此方に送り込まれた“猟犬”から、相手の大体の力量は分かる。向こうの奴等を倒すことは決して難しくは無い。魔法陣に込められた魔石の力を一気に叩き付ければ、殺せぬまでもラインを引きちぎることくらいは出来る。
「セイバー、終わったわ。お風呂入りましょ。それと食事」
「はい、凛」
最後の仕上げが終わったのは真夜中過ぎ、“猟犬”が現れるまであと二時間弱。なんだ、わたしの一番波長のいい時間帯じゃない。うん、ついてるぞ幸先が良い。早く終わらせて士郎に会おう。絶対、必ず会ってやる。
時計の針が時を刻む。沐浴を済ませ、食事を済ませたわたしとセイバーは最後の打ち合わせに入った。
「セイバー。先ず、そこの「角」から霧が湧き上がる、それから頭、最後に胴。“猟犬”が全身を出すまではそこから出ないこと、良いわね」
「はい、先ず目を潰す。それからは凛の施術が終わるまで、逃がさず殺さず繋ぎとめておけば良いのですね?」
「そ、こっちの術が完成したら仕留めて。それで終わり、万事解決ね」
セイバーは頷いて、唯一つ残された「角」の脇に描いた魔法陣に入る。そこに入ってる間は“猟犬”の目から隠されているはずだ。
わたしはひとつひとつ確認しながら制御陣に入る。先ずは魔術回路の起動、ざくりとナイフが突き立つような感覚は、物心付いた時から慣れ親しんだもの、もはや身を震わすことも無い。続いて魔術刻印が自動的に立ち上がる。制御陣の刻印とあわせ、『蒼紅玉』の嵌った魔法陣を起動し、ゆっくりとアイドリングさせる。
よし、魔力は十分。あとは“猟犬”を待つばかり。回路の疼痛も、刻印の掻痛も武者震いに取って代わられる。
行ける、今日なら届く。わたしと刻印、制御陣と魔法陣。全てが一体となり、体の一部として感じられる。こんな時で無ければ踊りだしたいくらいの絶好調だ。
「凛……」
セイバーの低い、それでいて良く通る声。
来た。この部屋で唯一つの「角」から霧が沸きあがってくる。時刻は午前二時をいくらか廻ったところ。
「――――bereite dich
魔法陣とは別の呪を紡ぐ。捕らえるための呪。わたしと“猟犬”そして“猟犬”と向こう。その全てを繋ぐラインを捕らえ、手繰り寄せる為……
――Gruuuuuu……」
霧の中から、影が、そして頭が現れた。蒼くぬめる膿に覆われた醜悪な“犬面”。軟体動物のように蠢き脈打つ舌と牙。怖気が震るう。吐き気がする。このまま一目散に逃げ出したくなる。だが……まだだ。
魔法陣が自然と輝きを増す。共鳴しているのだ。間違いない、あれは第二魔法を源とする現象だ。源を同じくするこの施術が、同胞を見出して喜び身悶えているのだ。
――Gyuaaaa!
“猟犬”が身を震わせ、おぞましい産声を上げる。まるで胎児が生まれるが如く霧から這い出してくる。異界の胎盤を破り、母親の腹を引き裂き、“猟犬”は飢えに焦されながら全身を晒そうとしている。
「――――Herr: es ist Zeit
“猟犬”を呪で包む。よし、良いぞ。心は震えても、呪を編む声は震えていない。わたしはまだ戦える。
――Grooooooom!
捕らえた! “猟犬”が全身を晒した瞬間。誕生の雄叫びを上げた瞬間。ラインをしっかり掴まえた。
「セイバー!」
“猟犬”が踊りかかる直前、わたしの指示がセイバーに飛ぶ。
―― 閃!――
――Ugyun!
電光が無言で走り、セイバーの剣が稲妻の速度で一閃する。よぉし、目を潰した! 後は任せたわよセイバー。
視覚を除く五感を総動員してセイバーに踊りかかる“猟犬”。その牙を、舌を、爪を、弾き、いなし、賺しながらも決して逃さず釘付けにするセイバー。そんな眼前の戦いも、今のわたしの目には入っていない。
「――――Selig dem Himmel gesellt,
呪を紡ぐ。がりがりと魔術刻印に切り刻まれながら、魔力の奔流に胸を鷲掴みにされながら、わたしは次々に呪を紡ぐ。
“猟犬”のラインをしっかりと掴み、そのラインに沿って呪の銀線を着実に伸ばし、そのラインが到達したとき送り込む魔弾を確実に準備する。全身に神経を引きずり出されるような感覚を味わいながらも、わたしは三つの呪をこともなげに操っている。
心は既に異界を泳ぐラインの先、しかし身体は魔法陣を維持し呪を紡ぐ。自分で自分のことを褒めたくなる。これって錬金術師の分割思考並みの荒業よ。
「――――Sie verkundet unsres Macht
セイバーと“猟犬”の戦いは既にホワイトノイズ。わたしの思考は多元時空を走り、身体は自動機械として呪を紡ぐ。
届く、届く、届く、届く、届く、届く。
現状も、“猟犬”の恐怖も、今は何も感じない。ただ、ただわたしは歓喜の予感に打ち震えていた。届く。魔法の一端に届く。
それは、確かに“猟犬”という現象が、いわば歩行器があっての事かも知れない。第二魔法と言う巨獣の尻尾の先に、指先でかすかに触れるだけの事かも知れない。だが、間違いなく、いまわたしは魔法に触れようとしている。多元時空を渡り、別の世界に触れようとしている。
魔術師として、それは紛れもなく歓喜の瞬間だ。それが、もう少し、もう少しで届く。
この瞬間、わたしはセイバーを、“猟犬”を、士郎すら忘れて恍惚に震えていた。あの光景を目にするまでは。
――届いた――
わたしは届いた。別の世界、別の宇宙に。時空を越え、ただ意思だけ、ただ一本のラインだけにせよ届いた。歓喜のうちに目を開ける。初めての別世界、新世界。
――なによこれ……
歓喜が一瞬にしてしぼむ。怖気が恐気が狂気が一瞬のうちに心を染めつくす。
すばらしき新世界、新たな地平のその先には、唯一つの物しかなかった。
“飢え”
世界一杯の“飢え”世界一杯の蒼い膿、世界一杯の“猟犬”。
飢え、餓え、渇き、求め、訴える。
欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい。
なにを求めているかすらわからず、それでもなおも訴える。
永遠に満たされることのない“飢え”
悟った、解った、理解した。わたしが繋がれていたのはこの世界に住む“猟犬”にではなかった。否、この世界に“猟犬”など居ない。“猟犬”はこの世界の影に過ぎない。
わたしはこの世界の
こんなものをどうやって相手にすれば良いの?
わたしはただ呆けて漂った。ただ意識に過ぎないのが救い。
なのに、見えないはずなのに。
世界中の“猟犬”が一斉にわたしを見据えた。
「 !」
自分にすら聞こえない悲鳴がこだまする。狂った、そしてもう一度狂って正気に戻ってしまった。この世界は狂わせてもくれない。正気のまま狂気が喜び勇んで犯しにくる。
狂えていたなら幸せだったろう。だが正気に戻ってしまった以上、わたしは逃げるしかない。
「――――Der Riese und brennt
こちらの世界の身体が悲鳴のような呪を紡ぐ。魔法陣の宝石が一斉に輝き、一斉にラインの中に雪崩れ込む。
わたしは叩きつけた。ラインを通し流れてくる呪を、見境なく一斉に追いすがる“猟犬”どもに叩き付けた。そして、
逃げた。
必死で逃げた。
ラインを伝い必死で自分の世界に向かって駈けた。無様に四つ這いになり、狂ったように逃げだした。
逃げた。
逃げた。
必死で逃げた。
逃げて逃げて逃げ切って、ようやく自分の身体にたどり着いたときには。全ての呪は使い果たされ、魔力は空っぽ、魔術刻印は輝きを失い、魔法陣も沈黙していた。
ただ、わたしと“猟犬”そしてあの飢えた世界を繋ぐラインだけが残っていた。
「凛!」
セイバーの驚愕の声が虚ろに響く。何も出来ない。もう終わった。魔法の輝きも魔法にたどり着ける喜びも歓喜も、泡沫の夢のように消え去った。もう、何も、出来ない……
いや、あった。もう一つだけやり残したことが。
「セイバー、そいつ殺して」
感情の無い声でセイバーに命じる。もうそいつに用はない。
「凛! 大丈夫ですか?」
一閃で“猟犬”を始末したセイバーが、生気を失ったわたしの元に駆けつけてくる。有難うセイバー。貴女のことは無駄にはしない。
「逃げなさい、セイバー。後の落とし前はわたしがつける」
うん、良いぞ。自分でも意外なほど気丈な声だ。「角」からはまた霧が立ち上り始めている。ああ、やっぱり。振り切れなかったんだなあ。
「凛! 諦めるのですか!?」
諦めたわけではない。ただセイバーがいても無駄なだけ。幾らセイバーとはいえ、これから始まる無尽の“猟犬”との戦いに、勝ち残れないだろうと知っているだけ。反則だよなあ、世界丸ごと“猟犬”だなんて。
「逃げなさい、セイバー」
「嫌です」
わたしの命令を無視して、セイバーがわたしと霧の間に立ちふさがる。困ったなあ、この娘、強情だから。どうやって逃がそう。
「士郎の所に行って」
「……嫌……です」
困った、本当に困った。霧の向こうでは“猟犬”の影が実体化しつつある。顔が出てきたら手遅れになる。
「士郎を一人にして良いの?」
「凛……それは……」
よし、もう一押しだ、ああ、まずい“猟犬”が顔を出す……
「士郎は……」
――「俺は一人じゃないぞ」
―――え?
「……え?」
何か今、後ろの方で聞こえないはずの声がした気がする。あ、やば、そうこうしている内に“猟犬”の頭が。
―― 射!――
と同時に銀線が走る、一筋、いや二筋、ほぼ同時だ。
――Gyuuun!
“猟犬”が悲鳴をあげた。矢だ、両目が二本の矢で貫かれ潰されたのだ。
「セイバー!」
ああ、また聞こえないはずの声だ。だってのにセイバーは素直にその声に従う。瞬時に間合いを詰め、身体が這い出す前の“猟犬”を両断した。なんか悔しい。わたしの命令には逆らうくせに。
「セイバー、しばらくそっちは任せる」
「はい、任せてください」
セイバーが声に従い剣を握りなおす。斜に構え、相手の視線に囚われぬうちに叩き伏せるつもりだろう。
それにしてもおかしな話だ、やっぱりわたしは狂ったのだろうか。どうしてこうも立て続けに聞こえないはずの声が。
「遠坂……」
ほら、また。
「馬鹿、こっちを向け!」
なんか腹が立つ。わたしは聞こえないはずの声の主を睨みつけてやろうと、振向いた。
「……士郎」
居ないはずの人影が居た。
「この馬鹿!」
そして怒鳴りつけられた。その上、物凄い視線で睨みつけてくる。
「ば、馬鹿って何よ!」
「うるさい馬鹿は馬鹿だ! 馬鹿遠坂!」
ずんずん、ずんずん迫ってくる。あ、やだ怒ってる。凄く怒ってる。こんな怒った士郎を見るのは初めてだ。
「ば、馬鹿馬鹿言わないでよ! 士郎に馬鹿っていわれたら、本当に馬鹿みたいじゃない!」
「黙れ馬鹿。俺に馬鹿って言われるほどの馬鹿やったのは遠坂だろう!」
罵声と共に、士郎はわたしの事を睨み付けてくる。怖いくらい本気で怒ってる。
「遠坂、お前、自分を信じなかったろ」
士郎の言葉が胸に突き刺さった。
「そ、そんな事……」
「うるさい馬鹿! だったら何故俺を外した。自分を信じてれば、成功するって信じてればそんなことする必要ないだろうが」
ぐうの音も出ない。士郎に叱られた。怒られた。士郎から逃げた本当の理由を言い当てられて、何も言えなくなってしまった。
「もういい、だから遠坂。俺を信じろ」
「――え?」
「信じるな?」
士郎がわたしの目を覗き込む。真っ直ぐな、何も持っていない癖に、歪んでもいる癖にひたすら真っ直ぐで愚直な瞳。俺はお前を信じる、だからお前は俺を信じろと訴えかけてくる。
「……う、うん」
わたしは小さく頷いた。わたしでさえ信じられなかったわたしを、信じてくれた士郎に報いるために。士郎はそんなわたしを抱きしめてくれた。そして静かに呪を紡ぐ。
「――――投影開始
士郎に抱きしめられたまま、わたしは背中に冷たい切っ先が当たるのを感じた。でも、わたしは士郎を信じている。だから黙って目を閉じた。
「俺はまだ怒ってるんだからな」
後部座席で小さくなっている二人に、俺はもう一度宣言した。
「わ、わたし間違ってないんだから」
だってのに遠坂さんはまたこれだ。でも今日の俺は一味違うぞ。
「でもミスを犯したろ? 俺を連れて行かなかった」
流石に、ぐっと詰まってそっぽを向く遠坂。ふん、今日は負けないぞ。またこんなことになったら堪らないからな。
自分達だけで始末をつけるとの置手紙。腹に据えかねた。自慢じゃないが、今の俺なら助けにはなっても邪魔って事はないはずだ。だとしたら俺を外すって事は、俺の安全を考えた為。つまりは遠坂に自信が無いって事だ。そんな事を放っておけるかって言うんだ。
俺は頭が沸騰する勢いで考えた。ヒントはある。手紙には後のことはルヴィア嬢に任せたと書いてあったのだ。俺は大急ぎでルヴィア嬢の元へと向かった。
最初はルヴィア嬢はかなり渋っていた。だが事情を説明し、それをルヴィア嬢が解釈する中。俺が解決策を考え付いてからは、すんなり協力してくれた。
一つ貸しですわよ、と言いながら、協会のコネを使い、遠坂がなにを持ち出したのか、遠坂が何処を借りたのかを突き止め、俺を送り出してくれた。後がちょっと怖いけど、ルヴィア嬢は助けられる可能性があるのに、遠坂を見殺しに出来るような人じゃない。
――破戒すべき全ての符
これが俺の解決策
ルヴィア嬢の話で、“猟犬
最初に“猟犬”を見た時の焦燥と、何か術があると言う確信。その正体がこれだったのだ。
その役割とは裏腹に、契約と言う意味では“猟犬”がいわばマスター、そして獲物が“サーヴァント”だった。ならばこの絆は破戒すべき全ての符
その判断は正解だった。背中に僅かな傷はついたものの、こうして遠坂は“猟犬”と縁を切ることが出来たわけだ。ふん、誰が“猟犬”なんかに遠坂を渡すかってんだ。
「セイバーもだ。セイバーが付いていながら、何で遠坂に意見しなかったんだ?」
「そ、それは……」
セイバーの小さいからだが益々小さくなる。俺を心配してくれたからだと思うが、それはちょっと過保護すぎるぞ。俺だって男なんだからな。
「遠坂」
「なによ」
俺はまだ剥れている遠坂にもう一度話しかけた。
「遠坂のやり方は正しかったと思う」
「だったら」
「最後まで聞け。いいな?」
「うん……」
「でも自信をもてなかった、そうだろ? だから俺を外した。正しいと思ったら自信を持って最後まで進め。遠坂は正しいんだから」
「ごめん……」
ああ、ようやく謝ってくれた。本当に強情だからな、遠坂は。俺がこんだけ怒っても、今の今まで謝罪の言葉がなかったほどだ。でも、これで終わりだ。
「それに、俺は遠坂と何処までも一緒に行くつもりだからな」
これは俺の誓いだ。たとえ死が二人を分かつといっても、俺は最後まで戦ってやる。
「な、なに恥ずかしい事言ってるのよ……」
一瞬きょとんとした遠坂だが、すぐに真っ赤になってそっぽを向く。それでも最後に小さく呟く有難うの言葉を聴くことはできた。
ああ、そうだとも。
富めるときも貧しきときも
病めるときも健やかなときも
俺は最後まで遠坂と一緒に歩むつもりだ。
END
凛様「初めての間違い」な話。
一人でできる事だと思い定めてしまったら。そっちに突っ走っちゃう娘ですから。
士郎大事はセイバーも一緒、今回は二人揃って明後日の方向に全力疾走してしまいました。
最後の誓いはまだ心の中。でも私はこの二人、事実上その関係だと思って書いております。
ティンダロスですが、実は名前だけ。あっちの性格と描写を頂いた上で、奈須世界的な意味づけをしてみました。
By dain
2004/6/30 初稿