――主よ、よい日和だな。
「そうだなランス、花曇って言うんだぞ、お日様なんか見えやしない」
ちゃぷ……ちゃぷ……
穏やかなとある日の朝、ランスと俺は、のんびりと空を眺めながら話をしていた。
――まあ、たまにはこのように何もせず、のんびりするのも良いものだ。
「なんにも出来ないからな、オールも流されちまったし」
ざぶん……ざぶん……
熱くも寒くも無い、ちょうど良い気候。こうやってボートの中で仰向けになっていると、まどろみに引き摺りこまれそうになる。
――主よ、海は良いな。潮風が心まで洗ってくれる。
「湖だけどな。岸辺が全く見えないけど」
ちゃぷ……ちゃぷ……
しばしの沈黙の後。ランスの奴が器用に肩をすくめて、やれやれと溜息をついた。
――主よ、そなたはかなり悲観的であるな。
「ランス、お前が楽天的過ぎるんだよ」
俺達二人の乗ったボートは、岸辺も見えない湖の中央で、薄い霧に包まれつつ、あてどなく流されていた。
おうさまのけん | |
「剣の王」 | −King Aruthoria− 第五話 前編 |
Saber |
「へえ、結構良いところじゃない」
初夏の風の中、小高い山の中腹から、眼下に連なる丘陵を望みつつ、遠坂がふふんと楽しそうに鼻を鳴らす。視線の向こうには、丘に囲まれた青く澄んだ小さな湖も見える。
「ドーズマリーです」
セイバーが何処か懐かしそうな声音で呟いた。そう言えば、ここはセイバーの故地。多分、良く知っていた場所なのだろう。気持ちよさそうに空を舞うランスも、どこか嬉しげだ。
「それじゃあ、行こうか。昼前にはつくぞ」
休憩はこれくらいで良いだろう。俺は車の脇で二人と一羽に声をかける。目的地はあの湖の傍にあるキャンプ地。俺達は今日、ここコーンウォールにキャンプをする為にやってきたのだ。
「それにしても残念だな、ミーナさんもルヴィアさんも来れないなんて」
最後の休憩を終え、セイバーから運転を替わった俺は、いささか広すぎる車内を見渡した。元々、このキャンプの提案はミーナさんからのものだった。キャンプ行きましょう! とハートマークまで浮かべ、この車をはじめ用意万端整えていたのだが、急な用事ができたため、泣く泣く俺達に後事を託したのだ。
「しかたないわよ、実家の仕事らしいし」
お見合いでもさせられてんじゃないの、と微妙な笑いを浮かべる遠坂さん。ま、見合いかどうかは別だが、特に不幸とかがあったわけでは無いらしい。でも、もしお見合いとかだったら、やっぱりちょっと寂しいなぁ。
「ルヴィアゼリッタも残念でしたね。ギリギリでこれなくなったそうで」
「そ、なまじフランス魔術院なんかにコネあるもんだから、教授に引っ張られちゃったわけ」
これまた小気味よさそうに笑う遠坂さん。なんでも、向こうから優秀な学徒を貸してほしいという話があり、遠坂とルヴィア嬢のどちらかが行く破目になったらしい。
で結局、顔の広さが仇となって、ルヴィア嬢にお鉢が回ることになったと言う。怒髪天で荷物をまとめるルヴィア嬢は、それはそれは迫力あるお姿だったなぁ。
「でも久しぶりだな、俺達三人だけってのも」
「そうかも。ま、せっかく用意まで整ってるんだし。あいつらの分まで楽しみましょう」
俺の呟きに、遠坂がにっこりと笑いかけてくれた。うん、やっぱりこの笑みがいい。しかし、同じ笑顔で、遠坂はどうしてこれだけ表情豊かなんだろうな。
「シロウ」
と、セイバーが複雑な声音で話しかけてきた。
「ん、どうしたんだセイバー?」
「ランスが拗ねています」
ふと見やると、ランスが外の景色を遠い目で見ている。
――主よ、気にすることはない所詮烏だ。
おいおい、拗ねるなってランス。訂正、三人と一羽だったな。お前も仲間だよ。
「しかし、本当に獲物を獲ってくるとは思わなかったな」
「シロウ、それは私たちを馬鹿にして言っているのですか?」
――Crow
俺の不用意な一言に、俄然、剥れるセイバーとランス。すまない、いや、そういうつもりじゃないんだけどな。
農耕民族な俺にとって、狩りに行くと言って、本当に兎を獲ってきてしまうセイバー達は、ちょっと想像外の存在であった。
「狩りは王事の一つでした。仇や疎かに出来ることではありません」
午後の日差しを浴びて、揃って胸を張るセイバーとランス。お前らいい主従だな。
このキャンプ場への到着はちょうど昼頃、俺達は昼飯を持参の弁当で軽く済ませ、しばらく初夏の自然を満喫した。で、一段落ついたところで、俺はテントの設営と夕食の準備に取り掛かった。
その間、遠坂は湖畔で散策、セイバーはといえば、俺の弓を借り出しランスをお供に、狩りに行って参ります、と出かけていたのだ。
テントの設営に小一時間、続いて夕食の準備。車には、それこそ一個中隊の料理ができそうなフィールドキッチンが積み込まれていた。それを開いて形にするまでに小一時間、食材を料理する下準備が、更に小一時間といった按配だ。流石に俺一人だと大変だったが、何せ男手は俺一人。いくら男手でもランスに手伝わすわけにもいかない。
で、ようやく準備が終わり、さてこれから作り始めるか、と言ったところにセイバーが兎を二羽ぶら下げて帰ってきたと言うわけだ。
「しかし兎か、どうやって食おう」
今日のメインはセイバーの希望でチキンのオレンジ蒸しだ。ダッチオーブンで作る、キャンプ料理の定番と言った料理だ。セイバーはこいつをミーナさんのところでご馳走になり、以来病み付きになったらしい。それに兎を加えるとすると、さて。
「血抜きと捌きは私がやりましょう、あとは煮るなり焼くなりシロウにお任せします」
そう言いながら、手早く血抜きを始めるセイバー。このあたりの手際のよさも、ちょっと真似の出来ない所だ。
「じゃ頼む。そうだな一羽はローストにして、一羽は燻製にしよう」
兎の捌きはセイバーに任せ、俺は燻製機の用意を始めた。こんなものまでセットでついているあたり、流石ミーナさんのお道具である。
「ただいま、って何? セイバー、本当に狩りしてたんだ」
そこに、お一人で湖畔の自然を満喫なさった遠坂さんが帰ってこられた。俺と同じような物言いで、同じ様にセイバーとランスに剥れられて、ごめんごめんと謝っている。
「おかえり、遠坂。お前も手伝え」
「じゃ、チキンの方やる。兎はやり方わかんないから」
俺が、いい加減遊んでないでちったあ手伝えと言うと、遠坂は言われなくてもちゃんと心得てるわよと、チキンの方へ手を伸ばす。流石の遠坂も兎捌くのは無理か。
「あ、セイバー。両足は捨てないでね、使うから」
馴れた手つきでチキンの下ごしらえと、一緒に蒸す野菜の支度をしながら、遠坂がセイバーに声をかけた。
「兎の足? 幸運のお守りだって言うけど効果あるのか?」
「家禽のやつはもう共通幻想ないけど、野生のならまだ意味あるの」
俺の疑問に、結構役に立つのよと遠坂さん。更に、セイバーの倒した兎なら殺人兎
「流石にそれは無いかと、私の時代なら魔女が兎に変化することがありましたが、今は凛もルヴィアも兎には変身しない。これも普通の兎でした」
と、ここでセイバーがおかしなことを言い出した。はい?
「そのような魔女と相対したこともありました。きっと、凛の言った、殺人兎
真面目な顔で、うんうん頷きながら、そのようなこともあるでしょうね、とセイバーさん。
「と、とにかくお願い。士郎、こっちもさっさと用意するわよ」
これには流石の遠坂も、一瞬、毒気を抜かれたようだ。俺と間抜け面を合わせていたが、はっと気づくと、ぷいっと顔をそらした。照れたのだろう、ちょっと赤くなって口を尖らすしぐさがなんとも可愛らしい。自分の間抜け面も忘れて、ついつい微笑んでしまう。
「そこ! 笑ってないで手伝いなさい!」
なもんで、遠坂に怒鳴られた。手伝えったって、ここまでの準備は俺がしたんだぞ? とはいえ、むぅとばかりに拗ねるしぐさが、ますます可愛らしくなったから良いか。きょとんとして、これまた可愛らしいセイバーに見送られ、俺は遠坂と一緒に夕食の準備に専念することにした。
「たまには良いわね、こう、開放的で」
黄昏時、夕食を終え満足そうに遠坂が呟いた。赤い色彩に包まれた湖畔で、ちょっとうっとりした視線で景色を見渡している。遠坂自身は倫敦や冬木のような、古めかしい街並みが似合うんだが、こうして黄昏時に紅い色彩に包まれているのも、なかなか風情があっていい。
「はい、大変おいしかった。野外でもこれだけの料理ができるのですね」
こちらも満足そうなセイバー。ふぅとつく溜息にも幸せがにじみ出ている。実に健康的だ。
――Crow
ランスも空に向かって一声鳴く。夕焼けに鴉。思いっきり似合いすぎだぞ。
しばらくして日は沈み、空より目の前の焚き火の方が明るくなってくる。そんなちょっと幻想的な雰囲気の中、俺達は湖を見詰め、ただぼんやりとした時間をすごしていた。
そういえば、こんな無為な時間を過ごしてことなどなかったな。いや、俺だけじゃない。王様だったセイバー、魔術師足らんと努めてきた遠坂、そして不敗を貫いたランス。皆、こんな時間を過ごすことなどなかったろう。
「それでどう? 感想は」
そんな雰囲気のせいだろうか、遠坂が妙にやさしい口調でセイバーに尋ねた。
「ここは、あまり変わっていません」
ランスと顔をあわせ、穏やかに微笑を浮かべながらセイバーは応える。
「日本で現界したときは、ずいぶんと世界は変わってしまったものだと思いましたが、ここは変わっていません。湖の色もあのときのままだ」
目に懐かしそうな光をたたえ、じっと湖を見ている。あれ?
「セイバーは、ここのこと知ってるのか?」
俺が何気なく疑問を口にした途端、周りの空気が一変した。
セイバーはむっとした顔で剥れるし、遠坂は遠坂であちゃーと手で顔を抑えている。む、ランスまであきれ返った顔で天を仰いでやがる。
「なんだよ、俺なんか変なこと言ったか?」
「シロウ、知っていて連れてきてくれたのではなかったのですか?」
セイバーが溜息交じりに聞いてくる。
「なにをさ?」
「衛宮くん、セイバーの宝具って何だったかしら?」
微妙に呆れる皆の中で、遠坂さんが余所行きの顔で話しかけてきた。条件反射でちょっと引いてしまう。でも、何でいまさらそんなこと聞くんだ?
「エクスカリバーだろ?」
「じゃあ、そのエクスカリバーをセイバーがどうやって手に入れたかは?」
「えっと、カリバーンが折られて、湖の乙女からもらったんだっけな?」
そう、湖の乙女に精霊の手で鍛えられた剣として……湖?
俺は目の前の湖に視線を移した、澄んだ青でありながら底知れぬ青、それはとても神秘的な色だ。まるでそのまま妖精の世界にでも続いてそうな……
「ええと、もしかして、ここ?」
「はい、ここでした」
セイバーは残念そうに肩を落とし、溜息をつくように応えてくれた。横で遠坂さんがとっても綺麗な笑顔で、俺を睨み付けている。うわぁ……
「う、すまない。知らなかった」
「ちっとは勉強しなさい! 何度言わすの」
遠坂にがぁ――とばかりに怒鳴りつけられた。更にぐいっと身を乗り出して、半眼で睨みつけてくる。
「その分だと、ここがランスにとって故郷みたいなもんだってのも知らないわね?」
「え?」
そうなのか? 俺はセイバーとランスを交互に見やった。
「ラーンスロットは、幼少のころ湖の乙女に浚われ、此処で武技と礼節の教育を施されたのです。ですから“湖の騎士”とも呼ばれていました」
セイバーの仕方ないと言った口調での解説。へえ、そうだったのか、知らなかった。
――主よ、気にすることはない所詮烏だ。
ランスは晴れやかなまでにそう一声鳴くと、爽やかにそっぽを向いた。う、すまんランス。そう拗ねるな、これからは勉強するから。
「ですが、もう異界への扉は閉ざされているようです」
そんな俺達のしぐさに、ようやく機嫌が直ったのか、セイバーが苦笑しながら話を続けた。
「それは残念。ヴィヴィアンだっけ湖の乙女って?」
「ヴィヴィアンは先代になります。私の為に三つの宝具を鍛えてくださったのですが、代わりに魔術師を篭絡して隠遁してしまいました」
あの時は本当に困りましたと、セイバーがまた苦笑する。ただ、以前の思いつめたような重苦しさはなくなったな。それはそうと、
「三つって何さ? 二つならわかるけど」
エクスカリバーの話は聞いている。鞘と剣、これで二つという意味だろう。ただ三つ目がわからない。
「勝利の剣
腕組みして必死に考える俺に、少しばかりいたずらっぽい笑みを浮かべ、セイバーが教えてくれた。あ、
――主よ、気にすることはない所詮烏だ。
崩折れそうになるのを、ぐっと堪えてランスが一声鳴いた。だから悪かったって。
「あ、それはわたしも知らなかったわね」
とここで遠坂さんが追い討ちをかけた。今度こそがっくりと肩を落とすランス。それを見てセイバーが笑っている。貴方には良い薬です、とか言いながら本当に楽しそうに笑っている。
「でも男作って駆け落ち? 湖の乙女って思ったより俗っぽいのね」
「湖の乙女といっても妖精ですから。王家の守護のような堅苦しい仕事からは、早く引退したいと常々言っていました」
「なんだかなぁ、じゃ今は湖の乙女っていないのか?」
「いえ、ヴィヴィアンも流石にそこまで無責任ではありません。今の湖の乙女は私の姉達が引き継いだはずです」
「あ、そっか。モルガンも湖の乙女だっけ」
遠坂が、ぽんっと手をたたいてうんうんと頷いている。モルガンって確かセイバーの姉さんで魔女だったな。
「仲良くなかったんだっけ」
「さあ、姉は何かにつけ私にちょっかいを出してきましたが、私をからかう事が主眼だったような。今にして思えば、ただ私が頑ななだけであった様な気もします」
セイバーは、遠坂をなにか意味ありげに眺めながら言う。
「な、なによ」
「いえ、別に。ただ凛を見ていると姉を思い出すと思っていただけです」
そんな言葉にむぅ――と膨れる遠坂に、セイバーはまた楽しそうな笑みを返している。
――まあ確かに碌でもない魔女であった。
ランスもなぜか遠坂を見ながら一声鳴いた。で、これまた遠坂と睨み合う。お前ら、本当にどうしてこういう事だけは通じ合うのかな。
「あの頃の私には、ただ頭痛の種に過ぎませんでしたが、ラーンスロットと姉の折り合いが悪かったのも、もしかしたら喧嘩友達の様なものだったのかもしれません。これも今思えば微笑ましいものだったかと」
――王よ、それは勘違いだ。我はあのような魔女と馴れ合ったりはしない。
「なんだって、わたしがこいつと馴れ合わなきゃいけないのよ!」
セイバーの意味ありげな微笑に、二人そろって食って掛かっている。遠坂、お前のこと言ってるんじゃないんだぞ?
「みな、懐かしい思い出です」
セイバーはそんな喧騒を楽しげに眺めながら呟くと、視線を湖に戻した。
御互い半眼で睨みあっていた遠坂とランスもいつしか落ち着き、セイバーと一緒に湖を眺めている。なんだか不思議な気分だ。此処この時だけセイバーの時代に流れついて、そこで共に居るような、そんな玄妙な雰囲気だった。
伝説が正しければ、最後にセイバーが還るのもそこになるのだろう。それは哀しくもあったが、喜ばしいことでもあるのだろう。
今のセイバーには、聖杯を求めていた頃の頑なさは余り見られない。今の俺はまだセイバーへの答えを用意できていないが、その日までに必ず見つけ出してみせる。俺はその事を改めて心に誓った。この穏やかな横顔を、俺は守りたかった。
それは決して無茶な希望ではないはずだ。この日の夕暮れは俺をそんな気持ちにさせてくれた。
ただ、その時ふと漏れてきた思考の一欠けらだけは、何故か俺の心に引っかかった。
ランスの、ほんの小さな独り言のような呟き。
――問題は、いま一人の姉君なのだ……
「釣り? 物好きね」
翌朝、日の出とともに起き出した俺は、車から面白いものを見つけ出した。
でかいゴムのレジャーボートと釣り道具。なんというか、とことん凝り性なミーナさんの性格が出ていて、見事な道具がきっちり一式しまわれていたのだ。
で、これだけお膳立てがされていたら、もう釣りに行くしかないだろうと、ゴムボートを膨らませているところに、遠坂がやってきた、というわけだ。
「どうだ、遠坂も一緒に来るか?」
ゴムボートは四人乗り、セイバーも一緒に乗ってまだお釣りが来る。
「止めとく、船に弱いし。それに釣りって駄目なのよね、こう、待ってるのは性に合わないって言うか」
ああ確かに、なにせ先出し人生の遠坂さんだ、釣りは苦手だろうな。
「セイバーはどうする? 道具はあるぞ」
「私も釣りは余り……」
微妙な表情で視線をそらすセイバーさん。そうでした、セイバーも待ちに不自由な人だったな。
「じゃ、俺とランスで行って来る。何かあったらランスを飛ばすから」
――任せられよ主、この湖には詳しいぞ、昔ちょくちょく抜け出して此処で戯れたものだ。
胸を張って轟然と応えるランス。でも言ってる内容は、学校をサボって抜け出す学生と同じ様なもんだ。余り威張れることじゃないぞ。俺も人のことは言えないけど。
「釣果は余り期待してないけど。お昼までには戻ってきなさいよ」
「おう、でっかい虹鱒釣ってきてやるから覚えてろよ」
遠坂の暖かくもやさしい励ましに、俺は余裕ある大人の対応で応え、湖に向かって乗り出した。
ちゃぷ……ちゃぷ……
でまあ、こうなってしまったわけだ。
最初は朝靄かと思っていた。鏡のような湖面を滑るようにボートを進ませ、ゆっくりと釣り糸を垂れていた俺達だったが、朝靄は日が昇りきっても、晴れるどころかますます濃くなっていった。
で、これはちょっとやばいかなと思って帰ろうとしたところで、鏡のような湖面にいきなり大波が起きてオールが浚われたというわけだ。流石に鈍い俺でも、此処までくれば、今の状態がどういったものかわかる。
「ランス、お前は飛んでいけないのか?」
朝方は飛び回っていたのに、先ほどの大波以来、船縁を離れないランスに聞いてみた。
――ふむ、主も気づいておられるであろう?
「ああ、異界だな。湖のどっかで潜り込んじまったんだろうな」
――そういう事だ。今、飛び立てば例え出口を見つけられたとしても、
――二度と主に会えなくなりうる。まず、此処がどこかを知るべきであろう。
つまり、俺達は今、どこかの妖精なり精霊なりの固有結界に捕らわれてしまったということだ。まず足場を確保しないことにはどうにもならない。
幸い釣果は十分、水も食料も“こちら”のものがそこそこある。となれば、昔話の類に従って、どこかに辿り着くか、向こうからやってくるのを待つばかりだ。
「なあ、ランス。やっぱり此処って“湖の乙女”の世界かな?」
場所が場所だ、その可能性が一番高いだろう。それにそこならランスは良く知っているはず。
――そのようではある。とはいえ、今の乙女達が安易に道を開くとは……
と、此処まで思考が流れてきて、ぷっつりと途切れた。
何事かと思ってランスを見ると、あいつも俺をまじまじと見詰めている。鴉とはいえ、男に見詰められるのは余り良い気持ちじゃないぞ。
――ふむ、こちらから開いてしまった可能性もありうるか……
なにやらぶつぶつと妙な呟きが伝わってきた。
「俺は知らないぞ」
そうは言われても、場所が場所だけにセイバーやランスならともかく、俺には心当たりなぞない。あ、そういう意味か?
――あ、いや。……ふむ、まあ、そういうわけだ。我は元はそこに居たではないか、
――何がしかの繋がりがあっても不思議でないという事だ。
なるほど、じゃ俺は巻き込まれたわけか。やれやれだな。
――なに、今しばらくの辛抱だ。そら、見えてきた。
何か妙な苦笑いと共に、ランスは一声鳴くと、嘴を舳先に向けて突き出した。
ああ、
確かに、まるでナイフで切り裂かれたように霧が分かれていく。
空はいまだに花曇だが、湖面は晴れ、島影が見えてきた。
霧に包まれたようなしっとりとした森に蔽われた、静かで穏やかな島影。それがまるであちらから近づいてくるように、迫ってくる。
「ここってやっぱりそうなのか?」
そのままボートは、まるで導かれる様に、するすると浜辺に打ち上げられた。俺はようやく落ち着いた足元を確かめるように立ち上がり、ランスに声をかける。
――そのようだ。ようこそ主。ここは“湖の乙女”の国。わが懐かしき常世だ。
船縁から俺の肩に飛び移ったランスが、一声鳴くと共に思考を送ってきた。そうか、ここが精霊の島か。
俺達はまず、水と携帯食を取り出し、ボートを近場の木立につないで一休みした。
「取敢えず動いてみるか」
一段落着いたところで、それじゃあまず島の探索でもと、俺はランスを連れて浜辺から森に向かって進むことにした。
「なんだか、普通の森と変わらないな」
しばらく森を進みながらの正直な感想。確かに瑞々しくて清々しいが、これならそこらの鎮守の森とそう変わらない。
――そうでもないぞ主よ。生き物が皆優しかろう。
そんな俺にランスが諭すように小首をかしげる。ああ、そういえば。俺は周囲を改めて見直した。
森の中から不思議そうに顔を出しているのは犬、いや狼だ。兎と並んでいるというのにどちらもちっとも気にしていない。湖に流れ込む小川では熊と鹿が戯れているし、囀る小鳥だって俺を避けようともしない。
立ち止まって見渡していると、そのうちに親しげに近づいて来た兎が、俺の足元でくんくん鼻を鳴らしだすし、ランスを揶揄
――此処では生き物の食い合いはない。皆、この地に流れる蜜で生きていける。
「へえ、そりゃ便利だな」
飢えも乾きもない世界か、そりゃ狼も熊も腹がいっぱいなら他の動物は襲わないか。
――しかし主よ、主は食されてはならんぞ。
多分かなり能天気な顔をしていたのだろう。ここでランスに釘を刺された。
ま、いくら俺でも、流石にそこまで能天気ではない。伝説伝承を見るまでもなく、異界のものを食べることの危険性は良く知っている。それはすなわち現世を捨て、異界の生き物になるということなのだ。
あれ? じゃあ
「そういや、ランスは此処で生活してたんだな。騎士として鍛えられてたんだろ? 食事とかはどうしてたんだ」
――まあ、その為にちょくちょく外へも出た。食事に関しても裏道はある。
――必要なものを外で調達する分には問題はなかったからな。
なるほど、ちょっと狡い気もするが、それがランスとこの世界を維持する術だったのだろう。
とはいえ、俺としては少しばかりうらやましい世界でもあった。皆が平和に生きていける楽園、此処でなら、争いなんてないんだろうな。
――主よ、妖精郷とは楽園ではない。これも一つの現実なのだ。
そんな俺の夢想に、ランスが諭すように言う。妖精や精霊は決して天使ではない。それを言うなら英霊とて精霊の一緒ではないか、と俺の記憶をつつきやがる。
――そう、この世に楽園なぞ……!
いきなりまたランスの思考が途絶えた。何事かと横を見ると、妙にせわしなくランスが周囲をうかがっている。
「どうしたんだ?」
――主よ、済まぬ。
いきなりランスが謝ってきた。おいおい。
――このまま主と共に居れば、主にまで災いがかかる。此処はいったん別れさせていただきたい。
鴉の癖に冷や汗さえかきかねない様子で、慌しく捲くし立ててきた。ちょっと待てよ。
――なに、先ほども言ったであろう。裏道もあると、何とか探し出し、此処に戻って参ろう。
――それでは主よ、しばしの別れだ。
と、そのまま空高く舞い上がってしまった。ちょっと待て! 何がなんだかまったく全然わからないぞ!
「何だってんだよ……」
俺はしばらく呆然と空を見上げていた。なんのかの言って、ランスが居ればそれだけで心強かった。一人になると急に不安が押し寄せてくる。
「こんなことじゃ駄目だな」
俺は頭を振って、そんな弱気を叩き出した。俺は正義の味方になるんだ。それはまず心が強くなくちゃいけない。こんなことで弱気になってどうする。第一、ランスは出口を見つけて、戻ってくるって言ってたじゃないか。俺としてはそれまでに、此処から抜け出す算段をつけるべきだ。
傍らまで来て慰めてくれている鹿や熊に、大丈夫だと合図して、俺は一つ頷くと、よしとばかりに空を見上げた。
そこには鴉が飛んでいた。
先ほどとは別の意味で力が抜ける。何だ、もう返ってきたのか。俺は少しばかり情けない思いで、もう一度空を見上げる。
と、俺の気持ちは一気に引き締まった。
――主よ、妖精郷とは楽園ではない。
視線の先の光景に、俺は先ほどのランスの言葉を思い起こす。空には二つの黒点。大きな点と小さな点がそれぞれ一つずつ。小さな点は鴉だ、そして大きな点は猛禽。
そこで繰り広げられていたのは、鴉と鷹との空中戦。確かに楽園じゃない。
とはいえ、放ってもおけない。俺は躊躇なく呪を編んだ。
「――――投影開始
手馴れた呪式。が、
無い。
呪を編み、俺の心の中に伸ばした掌が空を切る。
――え?
俺は自らの心の中で愕然とした。
無い、無い、無い、無い、無い、無い、無い、無い、無い、無い。
無いのだ。
真っ赤な荒野。無数に突き立って居るはずの剣が無い。
全く無いわけではない。三本、荒野の中に屹立している剣もある。
一本は「選別の剣
今一本は「 約束された勝利の剣
そして最後に鍛床に突き立った「鍛え直されし王道の剣
この赤い荒野には、その三本のみが、突き立てられていた。
俺は慌てて心から意識を引き出した。「約束された勝利の剣
ああ、そうか、しくじった。俺は記憶を反芻し臍をかむ。
此処は妖精郷。つまりは自然
が、躊躇は一瞬、俺は大急ぎでボートをつないだ浜辺に走った。まだ、手はある。
俺は息を切らせながらボートの覆いを引き剥がし、弓と矢を取り出す。今朝、セイバーから返してもらって、何の気なしにボートに積んだこの弓が役に立った。間に合うか、俺も今一度空を見上げた。
よし、まだ大丈夫だ。かなり低空へ移っているが鴉はいまだ健在。位置的にも何とか弓の射程内。俺は、息を整え矢を番える。
引き絞られた弓の先、世界が凝縮される。俺の瞳には二つの点が映っているが、心にはその点はない。あるのは、ただ一つの“的”
魔術を許さぬ固有結界も、身に備わった業は妨げられない。動き回る点に惑わされること無く、俺の心は研ぎ澄まされていく。
――ああ、
そんな俺の業とは別の心が、視線の先の光景に納得する。あれはランスじゃない。静かに浮かぶ心の“的”で、あの鴉には何度も“中
「ま、そんな事は関係ないか」
俺はそんな雑念を払う。始めた以上、完遂しなくてはならない。あの鴉を助ける。そう定めたのは俺自身なんだから。俺は静かに矢を放った。
―― 当!――
一筋の白光が空を切り裂く。上から被り寄られ、失速寸前の鴉の脇を透き通った一本の光陰は、追いすがる鷹を霞めて遥か虚空へと消えていった。
これで良い。俺はほっと息をついて構えを解いた。追いすがっていた鷹はふらりとバランスを崩し、森の中に消えていく。狙いはただ一枚の風切羽。堕ちこそしないがもう追う事は出来ないだろう。鴉が逃げ切れればそれで十分、楽園で無いとは言え、ここで生き物を殺すことは出来るだけ避けたかった。
「あっと……」
一息ついたのもつかの間。鷹を追い払ったは良いが、鴉のほうも既に傷を負っていたようだ。こちらも力なく森の中へと落ちていく。
「ああ、もうしょうがないなぁ」
俺はまたも森の中に駆け込んだ。せっかく助けたのに、ここで死なれたりしては寝覚めが悪い。それにさっきも思ったとおり、始めた以上最後まできちんと片はつけたかった。
「ああ、居た居た」
鴉が落ちたあたりまで一気に駆け、俺は森の下生にあった血の跡をたどり、木陰に身を隠した鴉を見つけた。
――Krow!
そいつは、俺に気が付くと、きっと顔を上げて睨み付けてきた。ランスとは違う、妙に艶のある声で威嚇してくるが、羽が傷ついているらしく、その気丈さが却って痛々しい。
「ほら、意地張ってないで。手当てしてやるから」
出来るだけ安心させようと、俺は弓を置き、そっと鴉に手を伸ばす。
「いて!」
と、その手を突つかれた。ああ、もう、こうなりゃ意地だ。俺は暴れる鴉を、突つかれるのも無視して抱きかかえる。
「大人しくしてろ! まったく怪我人が暴れるな!」
ぎゃーぎゃー騒ぐカラスを胸に、俺はそのまま浜辺に戻る。ボートに備え付けられている救急箱を使うためだ。なんだかさっきから、森と浜の往復ばっかりしている気がするぞ。全く、やれやれだ。
「そら、もう大丈夫だ。まったく世話をかけさせるなよな」
俺が治療を始めると、ようやく納得したのか、鴉も大人しくなった。体中のあちこちに傷が付いていたが、幸い羽には異常が無かった。これなら直ぐに飛べるようになるだろう。まあ、俺もあちこち擦り傷だらけになってしまったが、こっちは本当にかすり傷だ。
――Krow
治療が終わった鴉は、お礼のつもりだろうか、俺の傷を舐めてくれる。しかし、これが却ってこそばゆい。
「良いって、自分の手当てくらい出来るから」
俺がそう言うと、こちらの言葉がわかるのだろうか、傷を舐めるのを止め、足を屈めて優雅に一礼してきた。多分、治療のお礼といったところだろう。
そこで改めて見直したのだが、この鴉やっぱりランスとはだいぶ違う。艶のある羽を含めて全身が漆黒の鴉で、頭の羽が王冠の様に逆立っていて、なんとも立派なのだがやっぱりこれも黒一色だ。
「お前どうしたんだ? なんか追っかけられてたけど」
まあ、此処は妖精郷だし、これだけ立派な鴉だ、人語がわかっても不思議じゃない。
――Kruuu
やっぱり通じたようだ。が、なぜか不機嫌そうに一声鳴くと、睨み付けてきやがった。なぜか遠坂を思わせる表情だ。あ、もしかして、
「お前、雌なのか?」
俺の言葉にますます機嫌が悪くなったのか、つんと顔をそらせてやがる。そう、なんて言うか、レディになんて口を利くんでしょう、とか言ってるような感じだ。えっと、そうなると。
「ごめん。俺は衛宮士郎。君はなんていう名前なんだい」
膝を付き、謝罪してから名乗りを上げてみた。
――Kraw
どうやら正解だったらしい。満足したように頷くと、足元の砂地に足でなにやら書き込んでいる。えっと、こりゃ古い字体だなぁ、なになに、F……A……Y……
「フェイ……さんか」
なんとなく“ちゃん”より“さん”って感じだったので、そう読む。と、鴉嬢は、はいその通りと一つ頷いて、よしよしとばかりに胸をそらせた。うわぁ、ますます遠坂みたいだな、この子。
「さてと、じゃフェイさん。しばらくご一緒しようか」
治療はしたがこのままフェイを放っておくのは些か気がかりだ。かといって俺もこの場で、漠然とランスの帰りを待っているわけにもいかない。だから、俺はそう告げると、フェイを抱き上げた。怪我が治るまでは一緒に居ても構わないだろう。
今回は妖精郷のお話。
アーサー王の故地で、湖の妖精郷といえば一つなんでしょうが、ま、こちらはこちらということで。
まずは始まり、迷い込んだ妖精郷、得意の魔術もまともに使えず、ランスすら失った士郎くん。
“こちら”に残された凛様とセイバーの動きは? ランスは繋ぎを取れるのか?
果たして如何なりますことか。
それでは後編をお楽しみに。
By dain
2004/7/14 初稿