「痴れ物が……」

闇色の祭壇の上から、臓硯は目の前で無様にも這いつくばる孫の姿を、冷ややかに見下ろした。もはや物を見る目ですらない。

「お、お爺さま……」

「ほほう、まだこの爺を“お爺さま”と呼んでくれるか? いつものようにじじいでも良いのだぞ?」

腰を抜かし右腕を抱え込むように押さえ喘ぐ慎二が、怯えたように息を呑んだ。見る間に、瘧が付いたようにがたがたと震えだす

――この孫は駄目だ。

臓硯はもはや何の感情も篭らぬ思いで慎二を眺めていた。誇りも意地もがかりごとも全てが中途半端。魔術師になったといっても少しも変わらない。否、魔術師になって尚更、愚かな増長で悪くなったとさえ言える。幾許かの期待を抱いた己が愚かであったということだろう。

「茶番は終わりよ。折角の寄り代だけでなく、なけなしの蟲まで失いよって」

「だ、だって……それは衛宮が……」

「お前はこの爺をそこまで無能と思うか?」

目を泳がせ、必死で抜け道を探る慎二の右腕を、臓硯は一本だけになった腕で捻り上げた。

「――ひぃっ!」

途端、じぐじぐと音を立てて腐りだす慎二の右腕。この愚か者はこの腕の価値さえも把握していない。

「ワシが知らぬと思っておったのか。お前が蟲を潰したのはこれで二度目。桜におかしな施術を施したことも知っておる。無駄なことよ。お前では桜は御しきれぬ」

そう、茶番は終わりだ。
蟲を始末し、臓硯の復活を遅らせた事、桜の刻印虫に手を入れ己の物としようとした事、全て端からわかっていた。
これで臓硯を始末できたなら、臓硯に成り代わろうとでも思っていたのだろうが、この孫にそれだけの力はない。第一マキリの秘蹟は臓硯一人しか知らない。間桐の何処を探しても肝心の業だけは残されていないのだ。そんなもの、とうに臓硯は始末していた。
だからこそ今まで放置していた。その無駄な足掻きを嘲う為に、同時に幾許かでも見るところがあるならと、一抹の期待を込め放っておいた。だが、それももう終わりだ。

「ひ! ひゃひゃひゃひぎぃ!!」

「せめて少しは意地を見せ、役に立つかと思えば……何が魔術師になっただ。お前に魔術回路など宝の持ち腐れも甚だしいわ」

痛みにのたうつ慎二に構わず、臓硯は言葉を続けた。ざわざわと、臓硯の身体がざわめきだす。断ち切られ洞のようになった右腕の付け根から、醜悪な蟲が蠢き歯噛みしながら這いずりだそうとする。

「いっそこの腕、ワシが貰ってやろうか? なに、容易いことよ、蟲にお前の血肉を喰らわせ、そのまま入れ替わればよい」

既に、臓硯の身体を構成する蟲そのものが半ば腐り果てている。この蟲で喰らっても寿命を延ばすことなど出来はしない。が、それでもこの愚かな孫に任すよりも、残された短い時間で自分で事を成したほうが効率が良いのではなかろうか。
慎二の醜態は、臓硯にそんな思いさえ抱かせる程だった。





くろいまゆ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第五話 前編
Beelzebul





「はぁ! ……へぎゃひぐぅ!」

腕が腐るにつれ、泣き叫び涙と鼻水を垂れ流す慎二の姿。つくづく情けない、生きながら肉の腐り落ちる思い。そんなもの程度で此処まで乱れるとは、臓硯自身が今この瞬間に同じ思いをしているというのに、この男はただ泣き叫ぶだけだ。

――お前にはまだ腐らぬ体があるではないか。

吐き捨てたくなる。不死を求め、己が身を蟲に変えたと言うのに、魂が枯れていくのだ、命の設定図たる魂が枯れはててしまえば、例えどんなに活きの良い身体を以ってしてもその身は腐っていく。かつて一度で五十年は持った臓硯の肉も今では数ヶ月持てば良い方。しかも見る間に腐るのだ。刻一刻と時間という毒に苛まれ死んでいくのだ。不死でありながら臓硯は常に死に続けているのだ。
死にたくなかった、この苦しみを満身に受けながら生き続ける代償を得ぬうちは、決して死にたくはなかった。それ故に今まで何百年と生き続けて来たのだ、何百人の肉を喰らってきたのだ。例えそれが、今の苦しみを長引かせるだけだと知っても、それでも生き続けたかったのだ。
それなのに、それなのにこの孫はたかが腕が腐るだけの理由で、臓硯からその生を奪おうという。生身の、腐らぬ肉を持ちながら尚も臓硯の命綱を狙っている。増上慢も甚だしい。

――間桐ももう終わりか。

分かっていた。もうずっと昔から分かっていた。臓硯が継いだ時から、既に間桐の血筋は終わっていたのだ。だからこそ非常の手を用い、この身を蟲に変えた。この苦しみに耐え生き続けた。だからこそ、聖杯を求めた。
醜態を晒す孫の姿に何の感慨も抱かぬ臓硯だったが、その視線の先、暗く輝く魔法陣に向けられた目には悲しみがあった。
大聖杯。
二百年前のおこなわれた最初の大魔術の成果。聖杯戦争を制御し“向こう”への扉を固着する為の魔術装置。これこそが“聖杯”の本体。聖杯戦争の都度、用意される聖杯はいわば受け皿に過ぎない。
六十年間、冬木の霊脈を枯らさぬように魔力を集め続け、その力を以って聖杯戦争という機構を起動するこの魔法陣。前の二度の聖杯戦争が不完全なためであるのか、前の戦いから三年と経たぬというのに早くも満ちようとしている。

――それをよもや我が手で抜かねばならんとはな……

絶望にも似た気持ちで胸が一杯になる。臓硯がやろうとしている事は、この聖杯に溜まりつつある魔力を何の制御もなしに解放しようというものだ。
無論、そんな事をしても何の意味も無い。これは、ただ大聖杯を起動する為にのみ使われるはずの魔力だ。霊脈六十年分と量はかなりのものだが、聖杯が起動せぬ限りなんの方向性も持たない。解き放てばただ全方向に力を発しつつ霧散するだけだろう。
最初の施術を行った者達しか、今や臓硯しか知らぬこの機構は、元々何らかの事故が起こった時に緊急停止を行うためだけに付加された機構だ。それこそ、ただ栓を抜くだけの仕様なのだ。

――しかし、今のワシには意味がある。このままでは次まで持たん。

三回目の聖杯戦争で汚染されているとはいえ、解き放てばただ単に燃え上がり消えて無くなるだけの魔力であることに変わりは無い。
だが、そんな力でも臓硯には意味がある。臓硯の手元には今“聖杯”がある。それを用いれば流れ出す魔力の幾分の一なりとも汲み取ることは可能なのだ。
尤も、臓硯の手元にある聖杯は人、これだけの濁った魔力の奔流を受け入れれば持ちはすまい。だが、それとても臓硯にとっては問題では無い、人の部分は壊れても魔力に満ちた身体さえ残っていれば、それを使ってあと百年は生きていけよう。

誰が好き好んで六十年に一度の機会を捨て、このような半端な力を手に入れようとするものか。臓硯は叫び出したい気持ちだった。
折角、用意した実験作は見事に仕上がっているのだ。次には必ず聖杯は臓硯の物となろう、それもあと十年と経たないうちに。
だが、今のままではその十年後まで臓硯が持たない。例え完璧な聖杯が手元にあっても、肝心の臓硯が死んでいては何の意味も無い。だからこそ、臓硯は十年後のきわめて有利な聖杯戦争を捨て、六十年後のいまだ確実ならざる聖杯戦争を選ばざるを得ないのだ。
だからこそ、保険であった。十年後の生存が確実なら、誰がこんな愚かなことに手を出そうか。

臓硯は心底悲しんだ。生き続ける為には、聖杯の達成すら阻害せねばならない。聖杯だけがこの苦しみから、死にたくないという望みからの解放と知りつつ、この愚かな孫のせいでそれすらも先送りにせねばならない。

何ゆえ生き続けねばならないか、その理由を忘れたように、何ゆえ聖杯を必要とするかをもあえて忘れて、臓硯は悲しんだ。ただ、ただ、死にたくない為に。ただ、ただ、生き続けたいが為に。

「お爺さま……」

慎二の醜態を余所に、悲しみにくれる臓硯の視界の隅に小さな影が映った。肩をすぼめ俯いた、まるで亡霊のように人影だ。

「桜か……」

幾分やわらかさを取り戻した声で臓硯は影に声をかけた。この娘も変わらぬ、もう少し骨があれば、このような愚か者に良い様に操られはしなかったろう。
仕方のないことであるとは分かっていた。この器は強固ではあるが、それは全ての罪を己で背負う傲慢さで鍛えられたもの。力ずくの強制では動かなくとも、罪を盾に迫れば己を殺して従ってしまう。何れはそれを使ってやろうと、其のまま捨て置いたのは臓硯だ、文句は言えない。

「兄さんを許してあげてください。わたしの為にしてくれたことなんです」

「ふむ……」

泣き叫ぶ慎二から手を離し、臓硯は桜に目を向けた。相も変らぬ自虐に見えて、何処か違和感があった。

「お爺さまの為に……蟲を集めておきました」

「おお、桜はこの爺に優しいの……」

目線で問う臓硯に、桜は俯いたままポツリポツリと応える。僅かばかりではあるが、間桐の屋敷に冬木中に散らしていた蟲をこぞっておいたのだと言う。
元々は遠坂の小娘たちの動きを探る為に散らした蟲だが、こと此処にいたっては意味も無い。身体を作り直すには到底足りないが、失った腕を生やし、些かばかりこの身体の寿命を延ばすことくらいのことは出来よう。
慎二の愚かさを糊塗する為か、それとも何か他の思惑でもあるのか、臓硯は少しばかり試すことにした。

「では桜よ、慎二の不始末、お前が代わりに埋めるというのか?」

「……はい、この身は既にお爺さまの物ですから」

――惜しい。

顔を上げ哀しげに微笑む桜を見やり、臓硯は心から思った。
こやつ、ついに覚悟を決めたか。実に惜しい。今ならこの娘、自ら望んで聖杯を求めよう。
なのに、その器をこぼたねばならんとは……

「良かろう、だがその前に確かめねばならぬことがある。分かるな? 桜」

「はい……」

臓硯の言葉に再び俯いた桜は、そのまま跪いて身体を開いた。

「……! くぅ……っ!」

いきなり桜が跳ねた。臓硯が触れたわけでも、なにか呪を紡いだ訳でもない。ただ、その意識を桜の心臓に巣食う蟲に移しただけだ。

「ふむ……」

「……はぁ……はぁ……はぅぅっ!」

身もだえ、何かに耐えるように喘ぐ桜の口から別の声が響く。
臓硯の声だ。蟲が形作った身体から離れ、臓硯はそろそろと桜の中に意識を染み込ませる。

「所詮慎二か、この程度なら造作も無い……」

「!――――あがぁっ!」

そのまま臓硯は、全身くまなく張り巡らされた刻印虫を目覚めさせた。精を、魔力を求める蟲達の息吹、それが桜に悦楽を送りつつ魔力を啜りながら暴れまわる。

――些か品代わりしておるが……

臓硯は脳虫の中でじっと乱れ狂う桜を観察する。無理やり幾度か脱皮でもさせたか、蟲に幾分おかしな呪刻が刻まれ、魔力の流れが、自分だけで無く慎二にも流れているようだ。だが、それもほんの二割ほど、こうして中から圧力をかければ造作も無く崩れる。これなら問題はなかろう。

「いやいや、済まなかった桜よ。なにせ慎二は不調法、器に傷でも付けられていたら取り返しが付かぬでな」

「……では兄さんを……」

「をを、をを、許すもなにも、慎二とて可愛い孫よ、端からどうこうするつもりなど無いわ」

再び自らの意思を蟲の身体に戻した臓硯は、好々爺の笑みを浮かべたまま、優しげに孫達に告げた。

「さて、ワシは暫く休んだ後、今一度この老体に鞭打たねばならん。お前達は準備を進めておれ、細かな施術は慎二が心得ておるでな」

臓硯は優しげな言葉とは裏腹に、地を這う兄妹に一顧だにせずその身を闇に溶け込ませる。所詮、この兄妹は臓硯にとって蟲と同じなのだ。飼い喰らう為の蟲。
だからその蟲が伏せた顔の奥で薄く笑っていようとも、些かも気にかけることなどはなかった。




「あ、おはよう」

珍しく寝過ごしてしまったようだ。俺が目を覚ました時には既に、遠坂達は朝食を終え居間に集まっていた。

「トーストとサラダしかないけど良い?」

「おう、それで十分だ」

三人が見守る中で、遠坂が用意してくれた朝食を食べる。誰も口を利かないものだから微妙に重苦しくて居心地が悪い。特にゆったりと紅茶を喫されているルヴィア嬢の御姿が、昨日の記憶とだぶってしまって、どうにも気まずくて仕方がない。

「あの……ルヴィアさん?」

「シェロ、昨日は昨日、今日は今日ですわ。今は今日これからの事を考えましょう」

俺の恐る恐る掛けた言葉に、ルヴィア嬢はしっかりと俺の目を見つめて、力強く応えてくれた。その瞳の微かな揺れから、決して傷ついていないわけではないようだ。ただ、それを傷として甘受し、今は先に進む時だと決めているのだ。
どうやらその辺り、既に遠坂たちとも話をつけてあるらしい、遠坂もセイバーもそんな俺たちに何も言わない。

「でも、ルヴィアさん。無理はしないでくれよ」

ただ、だからと言って放っておけない。出来るだけのことはしたかった。

「シロウ……」
「士郎……」
「シェロ……」

ところが、俺がそう言った途端、三人揃って呆れたような声を出された。なんでさ?

「シロウ、このような時は……」
「セイバー、わたくしが言いますわ」

一瞬、ひどく険しい顔で何か言いかけたセイバーを制し、ルヴィアさんが苦笑交じりに口を開いた。

「いいこと、シェロ。このような事故では殿方の慰めは却って失礼です。何も無かったように振舞うのが紳士の嗜みですのよ」

三人揃って、このにぶちんと睨まれてしまった。

「あ、う……済まない、ルヴィアさん」

何かまた間違ってしまったらしい。俺が小さくなって謝ると三人揃って仕方がないと笑ってくれた。ただ、これであの妙な重苦しさは無くなったようだ。俺はとにかく食事に専念することにした。

「それじゃあ、これからのこと決めるわよ。まずルヴィア。調子はどう?」

「身体は何とでもなりますわ。ただ魔力がいつもの二割といったところですわね」

「わたしも同じようなもの。臓硯とのやりあいで宝石も道具もかなり心細い状態ね。セイバーは?」

「鎧は何とか、ですが宝具の顕現はかなり厳しいかと」

「解放しなくても?」

「はい、風王結界だけでもかなりの魔力を消耗しますから」

俺の食事が終わった頃を見計らって、遠坂が現状の確認を始めた。

「俺もそうだな……投影数回ってとこだ」

俺の答えにうんと頷く遠坂。どうやら俺が起きる前に一通りの確認はしていたらしい。これはあくまで俺に聞かせるための話のようだ。

「ランスはどうなんだ?」

俺はもう一人の戦力について聞いてみた。今は衛宮邸うちの上空で見張りをしているらしいが、あいつだって捨てたもんじゃない。元気そうだし。

「今朝、無理やり様子を見ました。今のように見張りが精々でしょう」

セイバーが難しい顔で応えてくれた。羽根で隠れて見えないが、全身蟲の毒で腫れ上っているらしい。まったく、格好付けやがって。

「つまりわたし達全員いつもの二割って事ね」

ぐるりと一度見渡して、遠坂が溜息混じりに結論を告げる。

「ですが、それは臓硯も同じでなくて?」

「私もそう思います。昨日の分け際、臓硯には殆ど力を感じませんでした。さもなくば、あの場で下がることは考えられません」

教会で蟲の殆どを潰され、衛宮邸でも傷ついた臓硯の方だって万全ではない。しかも慎二や桜も決して臓硯の完全な味方だと言うわけでもない。

「つまり叩くなら今って事か」

御互い苦しいはずだが、ルヴィア嬢を取り戻した俺たちに足枷は無い。魔力の不足は戦い方でカバー出来る。

「問題は臓硯の居場所が掴めない事ですね……」

セイバーが難しい顔で腕組みをする。

「まさか、教会にはもう居ないだろうしな……」

「はい、ランスに上空から偵察をさせましたが既にもぬけの殻でした」

やっぱり俺が寝ている間に一通りの手は打ってあったようだ。結局手詰まりか、何とか先手を取りたいところなんだが……

「手が無いわけではありませんわ」

全員が現状を把握してうむと唸って考え込んだところで、ルヴィア嬢がおもむろに口を開いた。口に端を微かに歪め一同を見渡し、注目が集まったところで、まず俺に視線を向ける。

「シェロ、御風呂は落していないでしょうね?」

「へ? ああ。俺は落してないぞ」

さあどんな話を言い出すのかと固唾を呑んで待っていたところに、ルヴィア嬢はしごく真面目な顔で妙な事を聞いてくる。

「では、今、湯船にあるお湯を煮詰めてくださる?」

俺が頷くと更に妙な事を頼んでくる。へ? 御風呂のお湯を煮詰める?

「あ……そっか」

俺がはて、と首をかしげていると、遠坂が何か思いついたようにルヴィア嬢の顔を覗き込んだ。

「蟲のエキスね」

「ええ、嫌に成る程たっぷり含まれているはずですわ、それを煮詰めて触媒マテリアルにすれば」

「臓硯の居場所を探るにも、罠を仕込むのにも使えるってわけね」

「わたくし達のエキスも混じっていますのよ。ラインを結ぶ事だって不可能ではありませんわ」

「臓硯の奴、残りの蟲を集めるだろうし……」

「上手く紛れ込ませれば……」

どんどん話が進んでいく、それこそ打てば響くような遣り取りだ、言葉そのものがどんどん少なくなって、最後には頷きと視線だけで話が通じるようになっていく。しかし、風呂に蟲のエキス? ああ、昨日ルヴィアさんが御風呂に入って……うわぁ、もしかしてエキスって、あの、その、あれ?

「あのさ、もう少し分かりやすく教えてくれよ。その……昨日の蟲のそれってのは分かるんだけど……」

何とも言いにくいが、とにかく自分が分かる範囲を継げて、とにかくその先についての説明を聞いてみた。

「あ、ごめん。でもちょっと専門的だから……取敢えず士郎は御風呂のお湯煮詰めといて、そういうの得意でしょ?」

「それまでにわたくし達の方も相談を纏めておきますわ」

「良く分からないが……分かった、後で話してくれよ」

「シロウ、私も手伝います」

結局、具体的なことは話してもらえなかった。でもまあ、聞いても何処まで分かるか分からないし、とにかく俺はセイバーに手伝ってもらって、風呂の残り湯を煮詰める作業に取り掛かった。一種の湿潤法なんだが、これ結構大変な作業だぞ。




慎二に最後の転機が訪れたのはちょうど一年前のことだった。

桜へ送られてきたあの恐るべき祖父の指示。自分が復活する為の蟲と肉を用意しろ。
無論、それは慎二への指示ではない。間桐の当代から間桐の後継者、桜への指示だ。
だが、慎二にそんなことが聞けるわけが無かった。あの恐ろしい祖父が復活したら、自分はどうなる。
あの祖父が求めているものは“間桐の後継者”であって間桐の魔術師ではないのだ。あの祖父が戻ったならば、桜の魔力は全部取られてしまう。そうなれば、自分はこの腐った腕を抱え、最後にはまた元の唯人に戻ってしまうだろう。

冗談ではない。

慎二は必死で足掻いた。桜に縋り、神父に泣きつき、どうにかして桜を手に入れる、祖父を滅ぼす手段を見つけようとした。

それを見つけたのもそんな悪足掻きの中であった。
神父から遠坂の家に魔法使いの書庫がある事を聞き、神父を泣き落として桜をそこに入れてもらった。なにがあったかは分からないが、ぼろぼろになって書庫から這い出してきた桜の手にあったのは数冊の魔道草稿。魔術は使えなくとも、魔道の知識に関してはそれこそ血の滲む思いで習得した慎二だ。その内容を把握するのにはさほど手間は掛からなかった。

そこにマキリの真実があった。

マキリの魔術、その本道は蟲使い。特に女王種を介し群体の虫を操る術こそがマキリ最高の秘蹟とされていた。
だが、その女王種を制御、あるいは女王に擬態できるのは女性の魔術師だけ。つまり、マキリの本道は元来女系の魔術なのだ。

マキリの代名詞たる淫虫も、元々は女王に擬した魔術師を頂点とした群体の蟲であった。
女性の肉を食わない、そのくせ女性の胎にだけ執着するのはその名残り。女性の胎に生み落とされた卵子を呪式加工して喰らわせ、それを触媒として成虫に変態させ、卵を排した魔術師を女王に擬して群体を成す。それこそが本来のあの蟲の姿なのだ。

つまり、マキリは臓硯に歪められたのだ。
あの化物は、己が延命の為だけに、マキリを歪め食い物にし続けてきたのだ。
マキリにとってのおぞましい事実。だが、それは同時に慎二にとっての福音でもあった。
間桐の当代はマキリの正当な後継者ではない。否、それどころか敵ともいえる。恐怖が憎悪に、畏怖が侮蔑に取って代わられた。

臓硯を倒し、マキリを本道へ戻す。

道具は全て揃っている。間桐の後継者になれなかったことも、魔術師ですらなかったことも、無駄に魔道の知識を積み上げてきたことも、そして今、臓硯がいない時に魔術師となれたことも、全てはあの化物を倒す為だった。
慎二を構成する全てのピースが綺麗に嵌っていった。

自分は、マキリを本道に戻す為に、今この時に生まれたのだ。

自分自身もその歪んだ道の成れの果てである事を忘れ。慎二はのめりこんで行った。
全ての正義がこの瞬間、間桐慎二の下にあるのだから。

「畜生……」

顔中を涙と涎に塗れさせながら、慎二は地を這いつくばった。ふざけやがって、正しいマキリをあの腐った寄生虫が地に這わせた。糞蟲が本来の主を足蹴にした。許せない、絶対に許さない。

「兄さん……」

のたうち回る慎二の耳に、道具の声が響く。慎二が魔術師たる道具、マキリの後継者足るべく道具。大切な、大切な道具。

「桜……」

慎二は道具の左胸を右腕で鷲掴みにした。強く、強く握り締めた。

「くぅぅぅ……」

握り締める都度に右腕に痛みが走る。いや、これは痛みなどという生易しい物ではない、生きたまま腐り、溶け堕ちようとする苦しみ。
不公平だ、自分だけこの苦しみを受けるのは不公平だ。まるでそんな事を言っているかのように慎二の爪は桜の胸に食い込む

「……兄さん」

それでも道具の声音は変わらない。そっと、膿み爛れた慎二の右腕を包むように両手を当てる。

「…………」

そっと撫でられる度、優しく添えられる度に魔力が流れ込み、腕の苦しみは引いていく。が、掌の力は緩めない。更に強く爪を食い込ます。
痛みが引くほどに、苦しみが引くほどに憎悪が、狂気が増していく。畜生、畜生、畜生。自分がこんなに苦しむのも、全てあの化物のせいだ。あの化物さえいなければ、自分は全き魔術師としてこの世に生を受けたはずだ。
何の根拠も無い言いがかりだが、それは慎二にとって完全な真実だった。慎二はマキリの正義なのだから。

「……あいつらに知らせたか?」

肩で息をしながら、今なお地に這いつくばりながら慎二は桜に狂った瞳を向ける。

「はい……兄さん」

「今度こそあいつらに爺を殺させろ。あいつらにはそれ位してもらわなけりゃわりが合わない。そうだろ?」

どいつもこいつも、正当なマキリの後継者たる自分に見向きもしなかった。もしも最初から魔術師だったら、あの連中こそ自分の眼中に無かったはずだ。今までのうのうと生きてきた代償に、それくらいの事はしてもらわなければならない。

「はい、兄さん」

「爺は最後に逃げ込む先がある、どうせ本気にはならない。あれだけ威張り腐っていた連中だ、そんな爺を始末出来ないわけは無い。そうだろ?」

「はい、兄さん」

「そうなれば僕たちの勝ちだ。そうなれば……僕たちマキリでこの無限の魔力を手に入れられるんだ。そうだろ?」

そうなれば、この“聖杯”の力を手に入れてやる。出来ないはずは無い。自分と桜もまた“聖杯”なのだ。

「はい……兄さん」

全てが手に入る、何もかもがマキリの物になる。今までの無意味は全てこの時の為にあったのだ、その証拠に、今までずっと自分の全てを否定してきた道具が、今まさに自分を肯定したではないか。慎二は笑った。桜と共に慎二は心から笑った。




間桐の地下、緑の闇の中、肉塊が蠢いた。
キキと低い声で鳴く蟲の大群に包まれ、それでも微かに舌打ちする。

「やはりこれでは数が足りん。腕一本も危ういか……」

集めた蟲に喰い喰われ貪り貪られながらも、臓硯は不満げに呟いた。また慎二に力を流しているらしく、桜からの流れも滞りがちだ。

――まあ良い。

聖杯の底を抜くと決めた以上、実のところこの身体は必要が無い。
些か慎二に気がかりがあり、その抑えに最後の瞬間まで傍に目を光らせていたいだけ。いわば保険だ、一晩持てば十分。

「やれやれ、最後までこの年寄りが苦労せねばならんとは」

臓硯はく く と笑った。
元から期待などはしていない。端から使い捨てにする道具。もはやそれがあからさまになっても、臓硯は擬態を続ける。
騙し、変え、奪い、支配する。それこそがマキリの習い性。己自身にさえもそれは同じ事だというように、臓硯は楽しげに芝居を続けた。

「……ぬ?」

ふと、違和感を覚えた。何処が? 臓硯は己の中に手を伸ばす。違う、桜か? そちらも違う。だとすれば……臓硯は周囲に蠢く蟲に視線を走らせた。
蟲の中、混じり蠢きながらも、臓硯には決して近づかぬ数匹の蟲。

「くっ!」

素早く周囲の蟲に食い殺させる。硬い歯ざわり、砕かれた何かがきらきらと蟲の身体から零れ落ちた。宝石だ。

―― 爆!――

途端、宝石の欠片が弾けた。周囲にきらきらと破片を撒き散らし、緑の闇がより深い翠の煌きに包まれる。

「――ちぃ!」

臓硯はとても這いずる蟲とは思えぬ速度で、その煌きから身を躱した。
逃げ送れた蟲どもが酸でもかけられた様に蒸気を上げ溶かされる。孔雀石マラカイト。毒虫を喰らう孔雀の呪法が込められた石。

「遠坂の小娘か……」

「遅い!」

呟きは叫びによって応えられた。




―― 爆!――

臓硯の周りに火柱が立ち上る。
偽の蟲は臓硯が食い殺した数匹で全てだ。だがそれ以外にもこの部屋にはいくつかの呪式を隠してあった。蟲のエキスで魔力を込めた宝石の粉末を溶かし、しっかりと隠匿した火炎陣。わたしはそれを発動させたのだ。

「ちぃ!」

思いのほかの素早さで、臓硯は次々と立ち上がる炎の柱を躱し続ける。無論これで仕留められるとは思っていない。これはまず一の手。わたしは素早く間桐の墓穴から飛び出した。

「蟲には蟲を。覚悟して貰います!」

「なにも擬態はマキリのものだけではありませんわ」

わたしだけではない、ルヴィアも、セイバーも、士郎も、次々と間桐の墓穴から飛び出して臓硯を取り囲む。

「カカカ、何とも楽しい姿をして居るな、遠坂の小娘」

「う、うるさい!」

そんなわたし達を、追い詰められているはずの臓硯が嘲う。ま、確かに尋常な姿ではない。なにせ一人残らず、水着姿に緑色の軟膏を全身に塗りたくっているのだ。
蟲のエキスで作った隠形薬。凄く臭い。だが、好きでやってる訳じゃない。肌に直接塗り付けなくちゃ蟲を騙せないだけだ。

「ふむ、何ゆえここが分かった?」

「蟲を派手に動かせすぎですわね。わたくしが蟲を追えると気づいていなくて?」

「ぬ……流石ですなフィンの姫君。触媒ありと雖も、僅か半日でマキリの蟲に道を通されたか……」

蟲のエキスを触媒に使った探査術式。ルヴィアが即興で編んだものだ。それで冬木の街に散っていた残りの虫の動きを掴んだのだ。こちらを甘く見ていたのか、動きを隠そうともしない蟲達の動きを解析することは簡単だった。まあ普通、あの拷問の中でこんな術を掴み取ったなんて気づくはずも無いことなんだけど。

「窮すれば鈍するか。物惜しみなどするものではないの……」

しかも臓硯は陽光に弱い。動くとすれば日が落ちてから。だからこそこうして準備を整え、罠を張ることが出来た。

「お前はもう此処で終わりだ」

「であろうな。この爺も年貢の納め時か」

両手に干将・莫耶を投影した士郎が一歩前に出る。が、臓硯はさも当然のように肩を竦めるだけだ。
おかしい。こいつはこれで本当に死ぬわけじゃない。だが、それでも落ち着きすぎている。それに……この蛆虫以外の蟲は? あのおかしな泥は? そういえば、臓硯はあの泥についておかしな事を言っていた。もしや……

「臓硯、あんたに聞きたいことがある。あの泥……もしかして聖杯?」

跳びかかろうとする士郎とセイバーを押さえ。わたしは臓硯に問い質した。

「なにを言い出すかと思えば……ただの泥よ、瘴気を水でこねて作った泥にすぎぬわ」

「とぼけないで! だったら何故セイバーから魔力を引き出せる? 英霊に浸透できる泥なんて……聖杯がらみでもなければありえないわ!」

「ふむ、ではそれがもし聖杯だとして、ワシは何処からそれを持ってきたというのかな?」

「それは……」

「カカカ、過ぎた知識を求めてなんとする? 所詮、聖杯の伝承もまともに伝え切れなかった不出来な家の裔が」

揶揄うような臓硯の声。間違いない。こいつは絶対に聖杯がらみの何かを知っている。そして、それが多分こいつの余裕の理由。

「士郎、セイバー。予定変更。こいつなんとしてでも捕まえるわよ」

ここへ来ての計画変更はあまり褒められたもんじゃない。だが、こいつの切り札が聖杯がらみだと言うなら、それを放っておくのは危険すぎる。士郎もセイバーもそれは理解してくれたようだ。二人とも、聖杯がどんな碌でもない代物かは骨身に染みて知っている。

「無駄なことよ……」

そんなわたし達を嘲うかのように、いきなり臓硯の身体が弾けた。

「ばらけて逃げるつもり!? 士郎、セイバー!」

「おう!」

「ちぃ!」

「カカカ、ほれほれ一匹でも逃げられたらしまいぞ……」

拙い、どじった! 捕獲に切り替えようとした一瞬の隙が仇になり、わたしが気づいて戦闘体制をとるより僅かに早く、ざわざわと蠢く蟲がキキと鳴き喚きながら一気に周囲に走りだした。早い!

「凛! 扉を!」

「分かってる!
――――Anfangセット)!」

こうなっては仕方がない、まず逃げられないことが先決だ。わたしは地下室の扉に孔雀石マラカイトで設えた蟲殺しの結界ウツボカズラのふた立ち上げしめた。

「くそ! きりが無い。そこいらじゅうに潜り込みやがる」

「シロウ、無駄口は後で、今そちらに追い込みます!」

一気に散った蟲どもは、出口から外へ出られないせいか、そこら中の隙間と言う隙間にもぐりこみ始めた。こうなったらゴキブリと一緒だ、あっちこっちに飛び散った蟲を探し回っているうちに更に散らばっていく。

「カカカ、ほれほれこちらよ」

「くっ、もう! 
――――Der Riese und brennt火炎   流星), EileSalve一斉射撃――

火で焼く、風で吹き飛ばす、水で押し流す。
ああもう、うじゃぐらしい! 一つ一つの呪は小さいが、士郎じゃないが本当にきりが無い。魔力も残り少ないって言うのに……

「こら、ルヴィア! あんたも手伝いなさい!」

そんな騒動の中、わたしは部屋の中央でいつの間にか漠然と立ちすくんでいるルヴィアに向かって叫んだ。なにさぼってるのよ!

「リン、手伝うのは貴女のほうですわ。臓硯はもう抜け出していますわよ」

へ?

「声は蟲の口真似。それよりも蟲を根絶やしにしては臓硯を辿れませんわ!」

だぁぁ! しまったぁ! 夢中になりすぎて、当初の目的を忘れてた!

「士郎! セイバー! 殺しすぎないで、生きてる奴を部屋の真ん中まで追い立てて」

「……あ!」

「……お、おう!」

わたしの叫びで、ようやく士郎とセイバーも我に返ってくれた、わたし達の本来の目的。それは臓硯が仮初の肉体を離れ本体に向かうところを辿って、本体の隠れている場所を突き止めることだったのだ。
くそ、それを臓硯の挑発に乗って危うく全部殺しちゃうところだった。悔しいけど性格読まれてるわね……

「ルヴィア、陣を起動して――――Anfangセット)

「それはこちらの科白ですわ
――――En Garandレディ)――

わたしは慌てて床に書きとめておいた魔法陣を起動する。臓硯の仮初の肉体だった蟲を集め、そこから僅かに残った軌跡を追う。実際に抜けた直後に追うよりも難しい施術だが。わたしとルヴィア、二人揃えば不可能ではない。

「――――Des ailes comme l'esprit精霊 の 翼もて),――Ils accourraient nuit et jour闇と光越え  駆け往かん.」

「――――Vorwarts, Vorwarts前へ   前へ――kennt keine Gefahren懼れ   無く.」

腐りきり、蕩けそうに歪んだ細い糸を必死で手繰る。切らすわけには行かない。風に靡き千切れそうになる度に、わたしが、ルヴィアが糸を補強しながら先に進む。

「――Das ailes comme l'amour美神 の 衣もて),――Ils voleraient,entncelles炎煌 の 如く 舞い降りん.」

「――――Ist das Ziel auch noch so hoch例え  望み  遥か高からんと,―― Wir zwingt es doch必ずや   成就せん.――」


辿る、辿る、辿る。街を抜け、川を渡り、更に山に……え? ここは…………ちょ、ちょっとあれって!?

―― 餓!――

いきなり糸が切れ落とされた、正面からは巨大な蟲の影。やば、気づかれた。

――逃げるわよ!

わたしはルヴィアの意識に声を飛ばして……って、立ちすくんでるんじゃないわよ!
慌ててルヴィアの襟首を掴み、わたしは必死でラインを駆け戻る。そっか、こいつまだ微妙に繋がってるのか。おかげで辿れたとはいえ、今度はそれが仇になっている。

「セイバー!」

逃げ切った。軽いキックバックと共に、意識は緑の闇に包まれた蟲蔵の中に戻される。わたしはそのまま崩折れるルヴィアを支えると。セイバーに向かって一声叫んだ。

「はい!」

―― 閃!――

わたしの指示を先取りし、セイバーが魔法陣の中央に剣をつきたてる。途端、地下室に響き渡る醜悪な蟲の悲鳴。危ない、危ない。身体は無事でもあんなのに噛み付かれたら精神を持っていかれちゃうわよ。

「ルヴィアさん! 遠坂!」

二人揃ってへたり込んでいるわたし達に、大慌てで士郎が駆け寄ってくる。ルヴィアを先に呼んだってのが微妙に気に入らないけど、ま、気絶してるし今だけは譲ってやるか。

「捕まえた。一度遠坂邸に戻るわよ」

「すぐ行かなくて良いのか?」

わたしの応えに士郎がちょっと不思議そうな顔をする。すぐにでも向かうと思ったのだろう。残念でした、わたしはあんたと違って猪突猛進じゃないの。

「うん、調べたいこともあるし、ルヴィアの手当てもある。それに――」

わたしは、今の騒動で思いっきり蟲の体液に汚れた水着姿の全員を見渡した。

「シャワーくらい浴びたいじゃない」


さて、くろいまゆも最終回。
一つ、また一つと真相が明らかになってまいりました。
Britain一行も反撃開始。そして、マキリも動き出します。
残るは最終局面。それでは、後編をお楽しみください。


By dain

2004/9/29初稿
2005/11/15改稿


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