雷光がそれの影を浮かび上がらす。
巨大な、そして圧倒的な野生。
人間なんて生き物が、しょせん生物としていかに脆弱な存在であるか見せ付けるように存在感。

それは紛れも無く“獣”だった。

だが同時にただの野獣ではかった。

―― 琴!――

「――くっ!」

それは、セイバーの踏み込みより一瞬早く飛び込み、外した間合いで背の棘を逆立て刃を弾く。
続いて、喉元に伸びる牙、肩口に叩きつけられる爪、胸元を槍のように鋭く穿つ尾。全て同時。
セイバーは受け太刀と後退でそれを躱す。が、それらはフェイント。
それは素早く身を翻しセイバーの脇を駆け抜け、森の中に身を躍らせた。今、これ以上の戦いは不利とみなし撤収したのだ。
力だけでなく技を以ってセイバーから逃れたのだ。

更に、飛び込む際の唸り声は明らかに嘲笑。
理解しているのだ、今はすぐには追撃できない事を、セイバーの力を、自分の力を、そして状況を。理解し、解釈し、判断し、そして嘲った。それは人と並びうる高い知性、人と並びうる傲慢な感性の証。

残ったのは、死骸と怪我人とずぶ濡れの女。

「奴がそうなのね……」

降りしきる雨の中、濡れるのも厭わずに、凛は士郎に血止めを施しながら呟いた。
隣に立つルヴィアも同じだ。びしょ濡れになりながらも、瞳に炎を煌かし毅然と言い放った。

「ええ、あれが“ジェヴォーダンの獣”ですわ」





きんのけもの
「金色の魔王」  −Rubyaselitta− 第八話 前編
Lucifer





「――“ジェヴォーダンの獣”?」

俺ははて、と可愛らしく小首を傾げた。
それなのに、士郎がそんなことしても可愛くない、とばかりに遠坂さんは思いっきり胡散臭げな半眼だ。ルヴィア嬢も片眉を吊り上げて睨みつけてる。うっ、セイバーまで溜息付いて呆れてる。
ああ、ミーナさん。貴女だけです微笑んでくれるのは。

「士郎くんが判らないのは予測済みですから、気にしなくて良いですよ」

さらりと仰ってくださる。ははは、端っから見捨てていらっしゃったわけなんですね……

「ま、良いわ。ついでだから説明したげる。士郎、そこ座りなさい」

うんうん頷きながら遠坂は先生モードに移行された。俺は大人しく空いている椅子に座わる。うう、ここ余り場所が良くないな、なんか四人から尋問されてるような気分だ。

「さて、士郎。まさか名前も知らないなんて言わないわよね?

にっこりと綺麗な微笑みの遠坂に、俺はこくこくと人形のように頷いた。名前だけは知っている。確かフランスの魔獣だっけな?

「そ、フランス近世博物史、最大の謎ね」

遠坂先生は徐に講義を開始した。
フランス史上、最大級の謎“ジェヴォーダンの獣”の伝説。
一七六四年、フランス革命の数十年前、フランス中南部の山岳地帯で起こった、謎の獣による惨殺事件。被害者は三桁におよび、目撃数も数知れないほどだ。だというのに、その正体は不明。
なにせ目撃例はどんな動物にも似ていないのだ。曰く、子牛ほどの大きさ。曰く、剛毛の鬣を持つ。曰く、後ろ足で立ち上がる。曰く、恐ろしい爪を持つ。曰く、鋭い牙を持つ。

数十発の弾丸を受けなおも逃げ去り、何度“殺され”ても現れた。
ついに倒すことが出来てさえ、謎は終わらなかった。学者の判定を待つ間も有らばこそ、死体は急速に腐敗し、結局どんな動物であるかさえ特定できなかったのだ。
さらに、フランス革命がこの謎を深めた。革命の混乱が“獣”に付いての資料を散逸させてしまったのだ。

「以上が表の史料。謎の怪物“ジェヴォーダンの獣”よ」

「表って事は裏もあるのか?」

「まあね、協会に少しだけ資料があるわ。テンプル騎士団残党の魔術儀式と、アフリカ渡りの猛獣の結合。一種のキメラだったらしいって。尤も、これさえ確定資料でないのが辛いとこだけど」

難しい顔で腕組みをして、遠坂は分かった? と可愛らしく首を傾けつつ話を締めた。

「でも今時“ジェヴォーダンの獣”は無いんじゃなくて? 二百年以上も前の話ですわ」

尤もな話だ。ずっと居たのなら表の歴史に残らなくとも、協会が何らかの手を打ったはずだ。神秘の隠匿とは単に隠すだけじゃない。情報を独占することで初めて完成するものなのだ。

「ええ、ですからあくまで協会に於ける識別名なんです。場所と事件から、かえって古い因縁に則った方が表への漏洩が少ないだろうって」

「最初は動物か何かと思われていたようでわね」

面白くのなさそうに資料を見やり、ふんっと見下すように鼻を鳴らすルヴィア嬢。

「目撃例が既存の動物と折り合いつかなくなって、ようやくフランス魔術院カルディア・フランセーズも気付いたってわけね」

遠坂の声にも棘がある。対応遅いのよ、とばかりにテーブルに資料を放って眉を顰めた。

「騒ぎが大きくなったんで、慌てて協会本部が収集された情報を調査した結果。隠匿すべき神秘であると認定したわけですね」

「で、何でわたし達? 魔術院には実戦派が殆ど居ないのは知ってるけど」

そうだよな、フランスにも学院はあるんだし、遠坂が言っているように、もし手が足りなくても、学生である俺たちよりもっと実戦派の魔術師だっているだろう。

魔術院かえるさんたちはドイツ人は寄越すなって言ってきたんですよ」

酷いんですよ、といわんばかりに剥れるミーナさん。あの、貴女も結構酷いこと言ってますよ。

「ああ、それでシュトラウスは動けないわけですのね」

「協会本部の偉いさんおじいちゃん達は腰が重いんですよね。で、教授会が将来有望な学生なら宜しかろうと」

「相変わらず、便利使いしてくれるわねぇ」

遠坂が渋い顔をする。尤もだ。なんか、無理やり汚れ仕事を押し付けられるみたいで、納得できないぞ。

「確かに不手際ですよね、三人目までは伝説を騙った猟奇殺人だと思ってたみたいですね」

ミーナさんが何気なしに言う。三人目? 猟奇殺人?

「協会の方針は存じてますが、もっと早く手を打っても良かったと思いますわ。犠牲者を出すなんて醜態ですもの」

犠牲者? なんだよそれ。

「ちょっと待ってくれ。犠牲者ってなにさ? もしかして人が死んでるのか?」

「はい、でも警戒が厳重になってからは死者は増えてはいませんね。二桁にはいっていないはずですよ」

ミーナさんの声が耳の奥に響く。二桁いっていないってことだけど、つまりは七・八人は死んでるってことだろ? そんなになるまで何故放っといたんだ?

「士郎、落ち着きなさい」

遠坂が立ち上がりかけた俺を引っ張り下ろす。思わず睨みつけたら、逆に睨み返されてしまった。なんでさ?

「とにかく座って。士郎の考えはわかってるから」

とりあえず俺は呼吸を落ち着けることにした。わかっていた。倫敦でのほほんと生活している様でも、きちんと判っていたはずだ。冬木で思い知ったじゃないか。魔術が関わるところでは、人の命の極端に廉くなる。
神秘とは公道を時速三百岐路で突っ走るフォーミュラーカーのようなものだ。たとえそれを制御する技術を持っていたところで、ちょっとしたミス一つで大惨事になる。
協会はそれを制止しない。ただ公道を三百キロで走る車があることを、周りにいる人間に知られないようにするだけだ。それさえバレなければ歩行者が何人轢き殺され様が、事故で何人死のうが関知しない。

わかっていた。俺はそれを承知でこっち側に来たんだ。その事故を起こさない為に、もし事故が起こっても、可能な限り一般の人に被害が及ばないようにする為に。
そんな俺を見て遠坂が一つ溜息をついた。ああ、わかってる。だが俺はこれを辞めるわけにはいかないんだ。すまん、遠坂。

「結局こうなるのよね。こんな話聞いて士郎が放って置くはずないから」

「そうですわね。そんな士郎をわたくし達が放って置くはずもありませんもの」

すまん、ルヴィアさん。更にセイバーにも頭を下げようとしたが、にっこり笑って制止された。わかっていますと、シェロはそれで良いと。

「貴女だって最初から判っていたんでしょ? シェロにこの話をすれば脇目も振らずに飛び込んでいくと。違いまして?」

ルヴィア嬢がジロリとミーナさんを睨む。

「否定はしませんよ。士郎くんなら、問答無用で引き受けるだろうってことは、予測してました。だから、凛さんやルヴィアさんもお誘いしたわけですからね」

さらりと仰る。いや、確かに俺一人だと、危なっかしいってのは判るんだけど、ここまで見透かされると、ちょっと哀しいぞ。

「でも、こういうのは今回だけにしといて、でかい貸しよ」

遠坂が、かなり真剣な顔でミーナさんを見据える。遠坂の気持ちもわかる。だが、

「いや、俺に出来そうなことなら、これからも教えて欲しい。勿論、遠坂やルヴィアさんに迷惑が掛かるようなことだけは、二人を通して貰いたいけどな」

「士郎」
「シェロ」

二人とも心配してくれるのはわかる。魔術師らしくない心配だ、遠坂がよく言う“心の贅肉”って奴だろう。本当に有難いと思う。だけど、それ以上にミーナさんからの情報は有難い。

――正義の味方には倒すべきには敵が必要――

俺に対して、言峰の奴は暗にそう告げた。だが違う。
人の幸福は実に危ういバランスの上に立っている。魔術を学んだ俺にはそれが良くわかる。そのバランスを崩すような危機、それこそが“敵”なんだ。
正義の味方の“敵”は本当は何処にでもいる。ただ気付かないだけだ。
それは冬木で思い知った。
あの事件、慎二は“敵”だった。だが、俺は慎二を憎まない、哀れまない。慎二は慎二なりに自分を貫いた。自分の意思で最後を選び取った。だから、あの結果を後悔はしない。あの時あの状況で、俺達にはあれしか出来なかった。
だが、俺には別の悔いがある。何故、ああなるまで気がつかなかったかと言う事だ。
あの状況になってしまった以上、あの結果は避けられなかったかもしれない。だがもっと早く、臓硯に慎二に桜に気がついていれば、もっと違った結果をむかえられたんじゃないか。臓硯をもっと早く止められたんじゃないか、慎二をあそこまで踏み込ませなかったんじゃないか、桜をもっと早く自由に出来たんじゃないか。あの聖杯戦争が終った後、せめて倫敦へ来る前までに正しい情報を掴んでいれば……
だから、俺に必要なのは情報なんだ。何処に“敵”がいるか、何時“敵”が現れるか、何故に“敵”なのか。それが判れば倒せる。いや“敵”になる前に、事を治めることだって出来るかもしれない。
そんなことを考えながらミーナさんを見ていたら、今度はミーナさんが溜息をついた。

「士郎くん、そこまで信用しちゃ駄目ですよ。もう、下手なこと教えられなくなっちゃいます」

「ふん、士郎を甘く見た罰よ」

遠坂が腕組みして楽しそうに仰る。あ、なんか馬鹿にされた気がするぞ。

「シェロですものね」

ルヴィアさんも、なんか深い深い溜息をつかれた。なんでさ?

「ヴィルヘルミナ。シロウに関わるということは、そういう事なのです。覚悟をしてください」

セイバーまで、人を疫病神みたいに言ってくれる。ううむ、自覚は無いんだが。

「ええ、もう本当に良く分かりました。覚悟決めます。さっき言ったように私は行けないんですが、バックアップは任せてください。協会本部とアトラス院から、それらしき魔術師と錬金術師の情報を探し出してみます。持ち出しになっちゃいますが、万全を期しますからね」

ミーナさんは天を仰いだ。なんかとっても悲壮な決意だ。良く分からないんだが凄く責任を感じるぞ。

「アトラス院? 閲覧の許可が下りたんですの?」

「はい、駄目元で申告したら、直接来るなら資料室の閲覧を許可するって。勿論、監視付ですけど」

駄目元と言っていたわりには、伊達に今まで細々こまごまと関わってきたわけじゃありませんと、少しばかり自慢げだ。

「そっちは任せたわ。こっちは現地に飛んで現物を何とかする。それで良いんでしょ?」

何故か遠坂は俺に聞く。ルヴィアさんやセイバーも、ミーナさんまで何故か俺を見て頷いてる。

「お、おう。それで行こう」

これで決まった。俺たちはフランスに渡り“獣”を相手にすることになった。




「いやな雨ですわね」

ジェヴォーダンはフランス中南部の山岳地帯にある。俺たちはパリからで無く、南仏のマルセイユからフランス入りし、そこからに北上する形で現地に向かった。
車と宿の手配はルヴィア嬢が行った。なんでもジェヴォーダン地方の田舎町、ランゴーニュの郊外に知人の山荘があるのだそうだ。俺たちはそこを基点に調査を行う事になった。

今はその途上、降りしきる雨の中ハイウェイを降り、夜のフランス中央高地の山道を進んでいるところだ。
運転はセイバー。運転歴は俺と変わらないが、なにせ夜目が利く上に乗物系の運転にはめっぽう強い。なんで、と聞いたら馬と一緒ですと応えられた時は流石に信じられなかったが、この一年で嫌って程実力を見せ付けられている以上文句は無い。運動神経も英霊と来ては任せないほうがおかしいくらいだ。

「あと一時間ほどです」

ナヴィコンを見事に使いこなし、セイバーは俺たちに予定を告げてきた。助手席の遠坂さんは触ろうともしない。いや、触られたほうが困るか。

「倫敦はシロだって」

ナヴィゲートする代わりに、マルセイユで受け取ったミーナさんからの報告書を読みながら、遠坂が呟いた。

「キメラ、召喚、そのあたりが専門で現在在所不明。その上で魔獣級を何とかできる魔術師はいないらしいわ」

「公式の錬金術師情報はアトラス待ちですの?」

こちらはルヴィア嬢。こういったハードな旅は慣れていないのか、少しばかり眠そうだ。

「うん、今日エジプト入りしたはずだから、こっちに報告くるのは明日以降ね、アトラスの協力具合ではもっと遅れるわ」

「フリーって可能性は無いのか?」

俺は、荷物の山に埋もれいくらなんでもこれは無かろう、と喚くランスを押し込めながら聞いてみる。魔術師は何も全員が協会所属ってわけじゃない。なにしろ俺も学院生だが協会には籍を置いてない。

「ミーナが当たってるのよ? そっちは真っ先に調べたわ。封印指定で、化物じみた使い魔つかってるって噂の魔術師は居るけど、こっちは極東地域で潜伏したまま出てきてないのを確認済みだって」

俺の考え付くくらいのことは、先刻ご承知か。それにしても封印指定ってのは穏やかじゃないな、極東ってことは日本も入るのかな?

「凛、ルヴィアゼリッタ。何か感じませんか?」

そんな事を話し合っていると、急にセイバーが厳しい声で割り込んできた。その声に呼応して遠坂の気が締まる。眠そうだったルヴィア嬢も、眉間に指を当て意識を沈める。

「近いわね」

「一つ……ああ、何か雑念が混じっていますわ。掴まらない。あら?」

なにかきょとんと不思議そうな顔をするルヴィア嬢。こんな状況ながら大変愛らしい。っていうか、なにさ?

「来ます!」

いきなりセイバーが車を路肩に突っ込ませた、と、同時に車側に何か重いもののぶつかる音。ってなんだよ! こっちは三トン近くはあろうってレンジローバーなんだぞ!

「――くっ!」
「きゃ!」
「ひゃ!」
「うわぁ――!」
「――Cow!」

車は、そのままずるずる押し込まれ路肩に横転する。転がる車の中で体勢を整えながら、俺は外で低い唸り声と、なにか取っ組み合っているような音が響いてくるのを聞いた。え? 取っ組み合い?

「遠坂、ルヴィアさん。怪我は無いか?」

小声で聞く。

「怪我は無いわ。ちょっとぶつけたとこあるけど」

「わたくしも大丈夫。それより外の様子はどうなってるんですの?」

よし、二人とも無事だ。俺は改めて自分の状況を確認する。あちこちぶつけてはいるが骨も筋も異常は無い。

「シロウ。私達が外に出ます。その隙に二人を」
「――Coo」

いつの間にか籠から出ていたランスを手に、セイバーは既に完全武装だ。

「いや、ちょっと待て。様子がおかしい」

だが、俺は止めた。どうも外の音の具合がおかしい。車のボディに何かが連続して打ちつけられているのだが、こっちを攻撃しているようには思えない。何かが争っていて、それが車にぶつかっている感じだ。
どうやら今の状況は何かのとばっちりのようだ。耳を澄ませ、様子を探っていると、争いの音は徐々に遠くなる。同時に争いそのものも収まりつつあるようだ。何が争っているにせよ、決着がつくのはそう遠くない。つまり――

「今だ! セイバー頼む」

「はい、士郎。凛とルヴィアゼリッタを頼みます」

セイバーがドアを蹴破り、素早く飛び出す。それ続いて俺はリヤハッチを開けて、遠坂とルヴィア嬢を蹴りだした。
最後に俺が、二人と物音の間に割り込むように飛び出す。よし、二人とも大丈夫だ、蹴飛ばしたのを根に持ってか、二人揃って凄まじい目で睨んでいるが、今はそれどころじゃない。俺はセイバーと争いの音のほうに目を向ける。

剣を構えたセイバーの隙の無い背中の向こうで、獣が二匹争っていた。いや、もうこれは争いじゃない、一方的な虐殺に近い。

一匹は山猫だろうか? こいつがかなりでかい。ちょっとした人並みの大きさの黄色い大山猫リンクスだ。全身からおびただしい血を流し、足も一本引きちぎられて、地に伏したまま動こうとしない。だが、それでもなお必死で牙を剥き、唸りを上げてもう一方を琥珀色の瞳で睨みつけている。そしてもう一方は――


――なんだこれは。


“化物”
そう称す以外、言いようの無い存在がそこに居た。
子牛ほどの鋼を練り上げたような巨躯、ゴリラのような前足には剣のように鋭い爪。猪のように醜い鼻面には鮫のような牙が並び、鬣は鋼鉄の鈍い輝きを持った無数の棘、さらに全身は鋸のような剛毛で覆われている。山猫があれだけの傷を負っていると言うのに、こいつは掠り傷が数箇所あるだけだ。
そしてなによりその目。

嘲っていた。

俺はその目を見た瞬間確信した。こいつは遊んでいる。必死で防戦し、血みどろになってまで戦っているあの山猫を、こいつは弄んでいる。甚振り嘲っている。

「――投影開始トレース・オン

両手に干将・莫耶を投影するのと、駆け出すのとはほぼ同時だった。
許せなかった。
どこぞの騎士ではないが、食べるための狩りならしかたがない。互いに殺しあう戦いなら我慢できる。だが、これは駄目だ。楽しむ為、嘲う為に命を弄ぶ。これだけは我慢がならない。

「士郎!」
「シェロ!」
「シロウ」

遠坂とルヴィア嬢の悲鳴のような声。だがセイバーは違う、目配せすると思ったとおり俺より一足遅れて突っ込んでくれた。案の定、化物は人間ごとき気にもかけない、いける。
俺は化物と山猫の間に割って入り、化物の牙を弾――

――Zawz!

――けない! 待っていた様に一瞬牙を遅らせ、化物は干将をガッキとくわえ込む。莫耶で反撃しようにも、一気に浴びせかけられる体重に、干将に莫耶を添えて堪えるに精一杯だ。くそ、こいつ……
化物が嘲った。愚かな人間の無力を蔑む笑いだ。見せびらかすように右前足の爪がゆっくりと振りかぶられる。

だが、俺は化物の嘲りに笑い返した。

―― 尖!――

雷光のようなセイバーの剣。俺より遥かに素早いくせに、あえて一歩遅らせたわけ。この傲慢な化物を増長させる為の策だ。

――Xhyiii!!

振り上げた右足を半ば切り裂かれ、舌打ちしながら化物が一歩引く。

「――ちっ!」

舌打ちするのはこっちも同じだ、この一閃でセイバーは止めまで持っていくつもりだったのだ。おかげで――

「――ぐわぁ!」

俺の右腕が干将ごとくわえ込まれ、化物にそのまま投げ飛ばされた。
二回転三回転、漸く止まった俺は自分の身体を確認する。まずいな、骨は無事だがどこか痛めたらしい、右腕の感覚が無い。

「士郎!」

すかさず、俺と化物の間に火柱が上がる。遠坂のサポートだ。精密射撃はお粗末だが、こういった派手目な魔術は流石に凄い。
更に白光の槍が、セイバーと俺の間のすり抜けるように走る。収束光弾だ。ダイヤに呪刻を刻み、光弾を一つの波長に収束させて威力と精度を上げる。ルヴィア嬢お得意の宝石魔術。

――Hafun!

ああ、くそ! 一瞬唖然となる。化物は、遠坂とルヴィア嬢が呪を発動する直前、全身の剛毛を逆立たせ身を震わせた。身にまとった雨粒を一気に散らし、霧の壁で火と光を弾いたのだ。いったいなにもんだこいつは!?

「シロウ! 下がって!」

セイバーの切羽詰った声が飛ぶ。だが下がろうにも下がれない。化物は、俺とセイバーたちの間を分断するように、素早く位置を調整する。まさか……こいつ端っからこのために俺を投げ飛ばしたのか?

舐めやがって。俺は慎重に立ち上がり化物の背中を睨む。くそ、隙が無い。ってよりあの尻尾はなんだ? 鋭い嘴を持った蛇なんて何処の世界に居るんだ? 二つの眼でらんらんと睨みつけてくる尾なんて、出鱈目もいいところだ。
となれば無理やりにでも隙を作って貰うだけだ。上? 駄目だ避けられる。 横? 無理、反射速度が速すぎる。なら……

「――投影開始トレース・オン

俺はもう、殆ど感覚の無い右拳を地面に突き立てるように触れさす。狙いは一つ。

――Zruuu!

が、一瞬早く何かに突き上げられたように化物が飛び退る。くっ、なんて勘だ。
化物が飛び退った後には、地面から突き立つ三本の剣。柔らかい下腹を、突き上げるはずのその剣には、血さえ付いていない。
だが隙は出来た。化物が体勢を立て直す僅かの間に、俺は転がるようにセイバーたちの元へ駆け込んだ。

―― 漸!――

隙を伺っていたのはセイバーも一緒だ。即座に、入れ替わるようにセイバーが踏み込み、殴りつけるような斬撃の嵐を見舞う。

――ZAuuu!

体勢を立て直す暇なんぞ無かったはずの化物だが、それでも背の棘を巧みに振りかざしセイバーの剣を受け流す。だが、斬りつけるのはただの斬撃ではない、セイバーの剣だ。一太刀ごとに棘の数本をまとめて切り飛ばす。化物は間合いを計りながらじりじりと後退する。いける、このまま追い詰めれば……
俺はふと化物が後退する先に視線を走らせた。


仕挫った。


失敗した。なんだって俺はこちらに駆けた。なんだって――

――奴はあそこに飛んだんだ

じりじりと後退した化物の足元には、瀕死の山猫が横たわっていた。

――Fuuuuu……

セイバーの止めとばかりに振り下ろされた斬撃に向かい、化物は足元に倒れた瀕死の山猫咥え上げ、晒すように突き出した。

「――くっ!」

セイバーが思わず剣を引いてしまう。セイバーは騎士だ。力の限り戦って、今力尽きようとするものの身体を盾にされ、それごと敵を切り捨てるような非情な真似は出来ない。こいつは……俺たちの性根を見切ってやがる……

――Fuuuuu……

化物が笑った。咥えた山猫の血をすすり、満足したように地面に落とす。

「とんでもない化物ですわね……」
「血による再生……こいつ吸血種じゃあるまいし」

ルヴィア嬢と遠坂の唸り声。恐怖や怒りよりも解析と好奇心が先に立つ。まったく、お前ら根っからの魔術師だな。
だが、俺は違った。頭が真っ白になる。何のためにあいつに挑んだのか。俺はあの健気な山猫を助けたいと思ったからじゃないのか? あの化物の残忍な傲慢さが許せなかったからじゃないのか? 俺は失敗してしまった。

「シロウ!」

化物がそんな隙を見逃すはずもない。一番弱い要、俺に向かって一気に突進してくる。しまった! 間に合わない!




…………

「士郎?」

ぼんやりとした視界。あ、くそ、雨が目に染みる、ええと……遠坂? それにルヴィアさんとセイバーの顔。
雨に濡れる事を気にもせず、びしょぬれの三人が俺を見下ろしていた。

「! 奴は!?――つぅ!」

思い出した。俺はあの化物に圧し掛かられて……くそっ! 右手の感覚が無いぞ。

「申し訳ない、シロウ。逃げられました」

「それはいい。怪我は?」

悔しい事だが、逃げられたのは仕方がない。これは俺の失策だ。ただ、それで誰かが怪我をしたのでは溜まらない。

「あんた人の心配する前に自分の心配しなさい!」

そんな思いで慌てて皆を見渡していると、いきなりぐっしょりと濡れた遠坂に怒鳴られた。俺の胸に、頭突きせんばかりの勢いで頭を叩き付け胸倉を絞り上げてくる。いや、その……すまん。

「わたくし達は大丈夫。それよりシェロは? 血止めと手当てはしたのですけれど……」

その横でルヴィア嬢も心配そうに覗き込んでくる。俺は遠坂に絞り上げられながら感覚の無い右腕を左手でつまんで確認する。

「ちょっと右手が痺れてるけど問題ない」

やっぱり感覚が無いが、痛みもないし動かないわけじゃない。これなら大丈夫だろう。血も止まってるみたいだし。

「心配掛けるんじゃないわよ……」

漸く遠坂が俺の首を絞めるのを止めてくれた。ほっとしたように顔をあげて、今度はむぅ――とばかりに睨みつけてくる。

「えっと、済まなかった、そういえばランスは?」

「あの獣を追いかけています、ただこの暗さですから、何処まで追えるかは……」

ひと当たり見渡して、どうも姿が見えないランスについて俺が聞くと、セイバーが厳しい顔で応えてくれた。なるほど、どの道ランスが帰ってくるまで余裕がありそうだな。
俺は慎重に立ち上がった。よし、立眩みもしないし、右腕の感覚は無いがバランスを崩すことも無い。

「セイバー、車の方を頼めるか?」

まずは、ひっくり返った車を戻さないと。三トン近くはある車だがセイバーなら何とかなるだろう。

「それは構いませんが、シロウは?」

「墓作りをする。それともう一つやっておきたいことがある」

俺は雨にぬれ横たわる大山猫の死骸を指し示して応えた。

「お墓は分かるけど、もう一つって?」

そんな俺に遠坂が訝しげに聞いてきた。

「普通、こういう動物って死ぬまで戦ったりはしないだろ?」

「あ、そっか……」

「子供ですわね?」

遠坂もルヴィアさんも気が付いたようだ。動物が、あんな化物相手に必死で立ち向かうような理由は他には考えられない、きっと近くに子供がいるはずだ。
俺はこいつを助けられなかった。だから、せめてこいつが守ろうとしていたものだけは助け出してやりたかった。

「くそっ……」

あの山猫の子供たちはすぐ見つかった。あの化物と山猫の戦った跡を追って、百メートルほど進んだ藪の中、首をへし折られた三匹の仔猫。
食われてさえ居ない。ただ、首を一薙ぎでへし折られているだけ。ただ、殺す為にだけ殺されていたのだ。

「士郎、連れてくんでしょ? わたしも手伝うから」

暫く心配そうに俺を見ていた遠坂はそう言うと、仔猫たちをそっと拾い上げていく。こんな感傷は魔術師としてはそれこそ無駄の極致だ。それでも遠坂は、俺に付き合ってそれをやってくれている。有難かった。

「ちょっと、ルヴィア。あんた何してんの?」

仔猫の死体を手に車まで戻る途中、俺たちはじっと藪の中を見据えて突っ立っているルヴィア嬢に出くわした。
そういえば途中までは一緒だったんだが。どうしたんだ?

「しっ……」

が、ルヴィア嬢はそんな俺たちを軽く手を振って制すると、そのまま前と同じようにじっと一点を見据え続けている。はて?

「――へ?」

そのルヴィア嬢の視線を追っていた遠坂が素っ頓狂な声を上げた。藪の中、金色に輝く二つの点?
僅かに揺れる藪の奥に微かな息遣い。そこで何かがぴったりと身を伏せて低い唸りを上げている。
こちらに挑むように輝く琥珀色の瞳。そいつとじっと睨みあっていたルヴィア嬢は、俺達に構わず其方に向かってそっと手を伸ばしていく。

「お出でなさい」

思いっきりルヴィアさんらしい高飛車な物言いだが、ただの言葉じゃない。呪を織り込んだ言霊だ。

――わたしはあなたをきずつけません。あなたはわたしがまもりましょう――

明確な意思が俺にまで流れ込んでくる。そこには言葉とは裏腹に、えらく優しい思意が紡ぎ出されていた。

――Grrrr……

その声に促されるようにそいつが姿を現した。

「……子供?」

黄色よりもっと鮮やかな金色の毛皮に包まれた仔猫だ。死んだ兄弟よりは一回りは大きいだろうか、恐る恐るというよりも、獲物に挑みかかる気概でルヴィア嬢と睨みあっている。

「良い瞳です」

睨みあいながら、ルヴィア嬢が微かな微笑を浮かべ一歩前に出る。更に一歩、もう一歩。
後一歩、それで届くといった距離で、仔猫の方が先に動いた。

「ルヴィア!」

「大丈夫、かすり傷ですわ」

ぽたぽたと、真っ赤な血がルヴィア嬢の白い肌を伝い、地に落ちる。
仔猫がいきなり身を伸ばし、ルヴィア嬢に掌に爪を立てて後に跳び退ったのだ。

「怯えで人に爪を立てるのは、余り感心しませんわ」

ルヴィア嬢は冷ややかに呟きながら、傷ついた手を再び仔猫に指し伸ばした。

――くらくてこわいときは、わたしがあなたのともだち――

まったく、ルヴィア嬢も素直じゃない。
厳しい視線を向けながらも、こんな優しい意思を流し込んでいる。
更に微妙に混乱している仔猫に、血みどろの手を差し出しながらも、微笑さえ浮かべて睨みつけている。
俺だったら怖くて近寄れないぞ。ルヴィアさんに。

――meuu……

が、仔猫は俺より度胸があるようだ。恐る恐るながらもルヴィア嬢に近づき、そっとその手の血を嘗めとった。

「宜しい、いらっしゃい」

そのままルヴィア嬢は、身を屈め仔猫を抱き寄せた。暫く抱きしめてから立ち上がると、漸く俺達の方を向いて、にっこりと微笑みかけてくる。

「呆れた、そんな仔猫相手に血呪?」

「そこまではしていませんわ。ただ思いを乗せて心を開かせただけですのよ」

遠坂の呆れたような呟きに、仔猫を胸に抱いたままルヴィア嬢が応える。どうやら自分の血を触媒に共感の術を施したらしい。
その為だろうか、仔猫も先ほどまでの張り詰めていた緊張を解き、ルヴィア嬢の傷を嘗めながら大人しく腕の中に納まっている。

「怪我をしてるな」

「ええ、前足を傷めているようですわね」

そんな仔猫の前足にそっと手をあて、ルヴィア嬢は軽く眉を顰める。生き残ったとはいえ無傷ではいられなかったという事だろう。

「戻ろう、セイバーが待ってる」

ここでやることはもう残っていない、そいつの手当ても必要だろう。俺たちはセイバーが待つ車へと戻ることにした。

「シロウ、凛、おかえり……?」

――Crow……

「おう、ただいま。ランスも帰ってたか」

俺達が車のところへ戻ると、既に車は起こし直され、ランスも帰っていた。ただ、ランスはいかにも口惜しそうにしている。どうやら逃げられてしまったようなんだが、ともかく俺は事情を聞く事にした。

「空飛んで逃げたぁ?」

――うむ、この先の岩場でいきなり背より翼を生やせてな、流石に驚いた。
――暫くは追ったのだが、あ奴は夜目も利く様で、恥ずかしながら巻かれてしまった。

遠坂の素っ頓狂な声にランスが口惜しそうに応える。これには俺達もあっけに取られた。あの化物が空まで飛ぶなんて……

「本当に……何者かしらあの化物……」

そんなわけで、ランスの追跡は失敗したらしい、ただ見失った場所とそれまでの方角から、潜んでいるらしい山の見当はつけてきたという。

「そっちは夜が明けてからね。取敢えず一旦山荘に腰を落ち着けましょう。遺留品の解析とかもあるから」

「ですわね。シェロやこの子の怪我の手当てもありますし」

俺がランスの報告を通訳すると、遠坂とルヴィア嬢は頷き合ってこれからの方針を確認した。一つを残してここに残っている理由はもう無い。

「分かった、車に乗って待っててくれ。俺はその子達を親と一緒の墓に埋めてくるから」

となれば、ここでの仕事を片付けて先を急ぐべきだ。
俺はセイバーに手伝って貰おうと声を掛けようとしたんだが……

「……セイバー?」

「……あ、はい」

セイバーは固まっていた。ルヴィア嬢の腕の中の仔猫と視線を合わせ、じっと見詰め合っている。

「如何したんだ?」

「いえ、その……獅子の仔かと思ってしまいまして」

セイバーは漸く視線を外して、少しばかり恥ずかしそうに応えた。

「そりゃ大山猫の子なんだから、普通の猫の子とは違うけど、ライオンの子供ほどじゃないわよ?」

「そうですね、何を見間違えて仕舞ったのでしょう」

なるほど、そういえばセイバーは何故かライオンに拘りがあったからな、なにせ、セイバーの部屋で唯一女の子らしい装飾品は、でっかいライオンのぬいぐるみなのだ。
この猫は見事な金髪だし、気概もありそうだ。そんなところで見間違えたのだろう。

「じゃ、セイバー。ちょっと手伝ってくれ」

「はい、シロウ」

山猫親子の埋葬を終え、俺たちは一匹の新顔を引き連れて、ジェヴォーダンの山荘へ向かった。


今回はフランス中南部、映画にもなったジェヴォーダン地方が舞台です。
第三クール一回目がちょっと変則でしたので、今回は主役陣フルメンバーで送るアクション作品と相成ります。
雷雨の中、姿を現した“獣”
全身刃物のような棘に覆われた恐るべき獣。
だが、この獣の真の恐ろしさは、獣の力を持ちながら人間の土俵で勝負してくるところにあった。
それでは、後編をお楽しみください。

By dain

2004/10/13 初稿
2005/11/17 改稿 


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