「……おはよう」

寝室から起き出し、ふらふらと食堂に向かうわたしの顔は、我ながら凄まじいものだと思う。
わたしが朝に弱いのはいつもの事。普段ならば顔を洗えばしゃきりとするのだが、ここのところ忙しくて碌に睡眠を取っていない。今日だって家に帰ってきたのは一週間ぶり、しかも午前四時を回っていた。

「おはようございます、凛」

そんなわたしをセイバーが迎えてくれた。食堂には既に朝食の準備が整い、その中から微かに湯気を立てる暖かいミルクが、わたしに向かって差し出される。

「あ、有難う、セイバー」

「凛が起きたならまずこれを、とシロウから言い付かっていましたから」

些か心許ないわたしの両手にマグカップを握らせると、セイバーは僅かに首をかしげて微笑を浮かべ、目が覚めましたかと聞いて来る。

「うん、なんとか。で、その……士郎は?」

「出掛けました。今朝は早い時間から時計塔がくいん開講準備オリエンテーションがあるとか。凛も知っていたはずでは?」

「あ、うん、そうだったわね。ごめん、まだちょっと寝とぼけてたみたい」

そうだった。昨日だってわたしが帰るのを待ってるって言ってたのを、セイバーに指示して無理やりベッドに押し込ませたのだ。帰ってきたとき、既に寝ている姿を見るのは少しばかり寂しかったが、士郎だって新年度の準備で大忙しだ、わたしの都合に付き合せるわけにはいかない。とはいえ……

「やはり、寂しいですね」

「まあね……」

だから、セイバーの言葉にわたしはあっさり頷いてしまった。
情けないとは思うがこの一週間、士郎とまともに顔を合わせていない。自業自得ではあるんだけど……





あかいあくま
「真紅の悪魔」  −Rin Tohsaka− 第七話 前編
Asthoreth





「臨時講師ですか?」

「ああ臨時講師だ」

時計塔の隠秘学科教授棟。一切の虚飾を排した一室で、わたしはこの部屋同様に一切の表情を消したクーレンゼ教授ウォーロックと正対していた。
臨時講師チューター。それは時計塔がくいんにおいて、特に選抜された優秀な学生を臨時の教官に仕立て上げ、教務の一環を担わせる制度だ。
学院といっても時計塔の本質は“学校”ではなく“研究施設”だ。教授陣も神秘を探求する研究者が第一義であり、純然たる教師ではない。
そんなわけで、彼らは自分の専門以外に時間を割く事に余り積極的ではない。まず自分の研究。ま、魔術師としては当たり前だけど。

普通、時計塔に入学するような魔術師は、各家門で基礎を完了している事になっている。
とはいえこれは建前、誰もが全てにおいて必要な知識を身につけているとは限らない。魔術の分野は広大だ、属性の問題もあるし、各家門にも得手不得手がある。時計塔そのものでもルーン魔術が先端に届いたのは此処十年ほどの事だ、その為本科でも、専攻分野はともかく、それ以外の分野には若干問題がある学生が居ないわけではない。
特に、昨今の専科ではこの傾向が著しい。士郎のように基礎がまったく出来ていない一代魔術師や、いまだ歴史を持たず各家門で基礎を身につけきれない魔術師でも、一芸にさえ秀でていれば学ぶことが出来るようになったからだ。
魔術師という意味においては些か脇道ではあるが、組織としての時計塔にとっては、彼らに基礎を教え一応の魔術師に仕立て上げる事も、今では欠かせない仕事になっている。

結果、時計塔では近年、基礎講座の教官が慢性的に不足する事になってしまった。
そこで、学生の中から優秀な者を臨時に講師として講座を任せる事で充当する、臨時講師と言う制度が発足した。先任の弟子が後発の入門者に基礎を教える。ある意味、魔術師の工房ではよくある光景でもある。

「でも、わたしはまだ二年度生なんですけど」

とはいえ、普通こういった講師に任じられるのは、本科でも三年程の本課程バチェラー・コースを修了した研究課程エキスパート・コースの学生のはずだ。

「時計塔では首席は一年度上級として扱われる」

が、教授は顔色一つ変えずに淡々と話を進める。尤も、この人が顔色を変えたとこなんて想像もつかないんだけど。

「更に教授会は君達の場合は次席ではあったがその研究内容成績共に研究課程エキスパート・コースに匹敵すると評価している」

「は、はあ……」

微妙に納得できない。だったら首席くれたって良かったじゃない。
ま、買われているって言うのは悪い気持ちじゃない。だが、これはそう易々とは受けられるものでもない。
まず給与は殆ど経費分だけ、しかも受け持った講座によってはえらく時間を食われる。給与の方は教官資格で、各種の施設や機材を使えるようになることでチャラに出来るかもしれないが、余り多くの時間をとられては敵わない。教授陣がこういった講座を嫌がる理由は何より時間を取られるからなのだ。

「どの程度の講座をお考えなのでしょうか?」

専科の教養学年ファウンデーションでの基礎講座を週一単元教えてもらいたい」

一単元か……
わたしは頭の中で計算する。週一単元、その程度なら準備や学生相手の時間を含めても、そう時間はとられないだろう。専科の教養学年は去年士郎が受けてた奴だし、レベルもそう高くない。まだ研究課程に進んでいないわたしにでも、十分教えられる。そう考えると、教官資格で得られる権限の上昇は実に美味しい。

「教授会としては君達は既にこちら側に立ってもやっていけると判断している」

教授は更に言葉を続ける。成程、聞こえは良いがこれは言うなれば猫の鈴だ。
自分でもわたしは優秀な学生かもしれないが、厄介な学生でもあると承知している。野放しにしておくよりも、近くにおいて紐を付けておこうと言う算段だろう。
臨時講師は、教官資格はあっても教員の参事会には参加できない。更に学生の模範たるべく締め付けもきついし、それが当然と思われている。問題を起こせば処罰も容易いと言うわけだ。
わたしは暫く得失を考えて、結局受けることにした。要は仕挫しくじらなければ良い。前に進む分には大きく道は開けるのだ、ここは突撃あるのみ。第一こういう挑戦を受けて後ろを見せるのはわたしの趣味じゃない。

「お受けしたいと思います。具体的にはどのような?」

「この中から好きな講座を選んでもらって良い。細かな開講準備については教務課に聞くように」

教授は、そこで言葉を切るとデスクに五枚のカードを置いていった。ルーン、カバラ、占星術、錬金術、自然魔術。好きなのを選べと言うことだろう。

「そうですね……」

ルーンやカバラは余り得意じゃない、占星術や錬金術は教える方でも道具や機材にお金が掛かる。となるとやっぱり専門の自然魔術か……
自然魔術にはわたしの専門の鉱石魔術が含まれている。これなら機材にしろ教材にしろ、今あるものを流用できるし、教えるのも手間は掛からないだろう。
わたしはするりと自然魔術の象徴、金色の小枝の描かれたカードを手に取った。

「自然魔術か。やはり同じだったな」

へ? 同じ? 誰と?

「本年度の教養学年で自然魔術は君とレディルヴィアゼリッタの二講座だ頑張りたまえ」

教授は表情一つ変えずにそう言い放つと、わたしの退席を促した。そういえば君“達”って言ってたっけ。あいつもわたしと専攻は同じ、自然魔術を選ぶのは当然か。

――もしかしたら、嵌められたかもしれない……

微かにそんな気がしないでもなかったが、受けてしまった以上仕方がない。わたしは黙って一礼し、教授室を後にした。




「遠坂、このチェストは何処に置くんだ?」

「奥の実験室に運び込んで、中身は前の通りに棚に入れといて」

「凛、本の整理が出来ました」

「有難う、セイバー。デスク運び込むから手伝って」

そんなわけで今日はお引越し。と言っても家ではない。時計塔でわたしに宛がわれていた工房から、教官用であるワンランク上の工房への引越しだ。
広さも場所も一等地で、ミーナのようにコネを駆使するか、ルヴィアのように金にあかせでもしない限り、二年目のわたしなんかにはとてもじゃないが手に入らない場所だ。『真鍮』ブラスの奴までこの区画だってのが、前々から気に入らないところだったのだが、これでわたしもようやく山の手に進出したと言うわけだ。

「へえ、書斎まであるんだ」

時計塔の用具倉庫から持ち出した、年代物のどでかいデスクを備え付けているところで、奥の整理を終えた士郎がやってきた。
このデスクも教官権限の一つだ。すっかり埃を被って放置されていた大量の古い家具や調度品。教官用の不用品倉庫には、こう言ったアンティークや古い機材が員数外の備品として腐るほど転がっていたのだ。

「そりゃ一単元って言っても、一応先生なんだから、学生の相手もしなきゃいけないでしょ?」

去年は士郎だって顔出したんじゃないの? と聞いてみたのだが、士郎は微妙な表情で言葉を濁す。はて?

「お邪魔しますわ。ミストオサカはこちらに?」

ひと段落も着いたし、お茶でもと思っていたところに、玄関先でルヴィアの声が響いた。タイミングの良い奴だ。

「いらっしゃい、ルヴィアさん。丁度お茶にしようと思ってたところだ」

「有難う、シェロ。それよりもリンは奥に?」

「おう、書斎だ」

なんだろう、ルヴィアの声はどこか不機嫌だ。出迎えに立ったシロウへの挨拶もそこそこに、足音高くわたしの居る書斎にやってきた。

「いらっしゃい、ルヴィア。鼻が良いわね。今日の御茶菓子は士郎が焼いたケーキよ」

「暢気なものですわね……」

妙に表情の険しいルヴィアは、何故か呆れかえった様な顔をしながらも、これまた年代物のソファーにどっかと腰を下ろした。

「なに? 今日はえらく突っかかるじゃない」

「リン……貴女、この時期にこんな大きなお引越しをするなんて……まだ、気づいていらっしゃらないのね?」

「気付くって何を?」

わたしがはて、と首をかしげると。一体なんだって言うのか、ルヴィアはこめかみを押さえ、デスクの上に十枚ほどのペラ紙の束を放り投げてよこした。

「なに、これ?」

「取敢えず目を通していただける?」

わたしは頭に疑問符を浮かべたまま、促されるままにそのペラ紙に目を通した。どうやら何かのテキストらしいのだが、

「……なにこれ?」

思わず先ほどと同じ科白が口をつく。だが意味は違う。
多分、これでも魔術の教本かなにかだろう。プリニウスの「博物誌」、アルベルトゥスの「植物および宝石の効果」、デラ・ポルタの「自然魔術」。そういった有名どころから丸々引き写した文章が、脈絡なく並べられているだけのテキストが本だと言うのなら、これも一応魔術に関する教科書には違いがない。

「なに、これ?」

わたしは三度同じ科白を口にしてしまった。相手は仏頂面のルヴィア。まさかとは思うけど、これって……

「昨年度の自然魔術概論の教本ですわ」

「冗談でしょ?」

冗談ではない。こんなもんでなにが学べるって言うのよ。それこそ、その辺の本屋でオカルト本を買ってきて読んだ方がましなくらいだ。いくら専科の基礎講座だからといって、とてもじゃないがこれは最高学府の教科書と呼べるような物じゃない。

「わたくしもそう思いましたわ。これは何かの冗談だと」

だが、冗談ではなかったらしい。ルヴィアも調べて初めて気がついたらしいのだが、他の魔術の基礎講座はそれなりのものだったのだが、事に昨年の自然魔術に関しては最低であったのだと言う。
なんでも本科の講師が助手に任せ、その助手も手の空いている臨時講師をその都度派遣し、更には教官資格もない研究課程の学生を代理に立てたりと、レベルも内容もまるっきりばらばらの講義が、なんの関連性も無くだらだらと繰り返されてしまっていたらしいのだ。
結果、教本も統一されたものではなく、こういったコピー本が毎回適当に配られる結果になってしまっていたのだと言う。

「士郎、ちょっと!」

わたしは現場の証人から証言を取ることにした。確か士郎は去年この講座を取っていたはずだ。

「おう、お茶ならもう入っ……た……ぞ?」

暢気な顔でお茶を抱えて入って来た士郎だったが、わたし達の顔を見て一瞬引きつった笑みを浮かべた。

「えっと、身に覚えはないんだが?」

「シェロのことではありませんわ」

「ごめん、聞きたいことがあったの」

何事かと御互いの顔を確かめ、わたしとルヴィアは出来る限り優しい笑顔を取り繕って士郎に相対した。ちょっと、なによ、こっちの方が怖いなって、失礼ね。

「ああ、その事か」

ぐっと堪えなおして去年のことについて聞いてみると、士郎は苦微笑しながら応えてくれた。

「正直、遠坂との勉強の方がよっぽど為になったぞ」

講座も一応魔術の実演なども見せてはくれたと言うが、何せ統一性がまったくない。本当に一応で御座なり、試験もノート丸写しのレポートでAがもらえると言うとんでもないものだったらしい。こういうところが妙に真面目な士郎は、わたしとの勉強や資料を元に講義とは別個のきちんとしたレポートを提出し、却ってBしか貰えなかったと言う。

「成程、それも原因の一つですわね」

「なに? その原因って」

「わたくしたちの臨時講師就任を強硬に推したのは、クーレンゼ教授だったという話ですわ」

なんでも、試験結果のレポートを教授会にぽんと出し、きちんと修学したと思われるレポートがBでこちらノート丸写しがAな講義とは一体何事であろうか、といった調子で、基礎講座の抜本見直しを推し進めたと言う。
その際、このレポートを提出した学生の師匠筋としてわたし達を推薦したらしい。捨て目に怠りない、あの教授らしいやり方だ。

「やっぱり、食えない親父ね……」

正道だが、こういうやり方はえらく角が立って恨みを買いやすい。特に去年までの基礎講座を管理していた教官達は赤っ恥だったろう。わたし達を持ち上げたのは、その恨みがこっちに向くように仕向ける為の策だ。
更に言えば、これでわたし達は手が抜けなくなった。ここで下手を打てば、わたし達は結局使えない魔術師の烙印を押されかねない。恨んだ連中はこぞってわたし達を攻撃するだろうし、教授は教授でわたし達を切り捨てることで、さっさと事を収めるだろう。本当に喰えない。

「教本だけではありませんわ。カリキュラムの作成から、教材、教室の手配。全て一から組み上げ直さなければならなくてよ」

「……うっ」

甘かった。週一単元の基礎講座。軽いもんだと思っていたが、こういう事情ならまったく話が違う。去年までの蓄積がまったく使えない上に、新たに組み上げようにも、わたし達は教官の中では一番下っ端、貸しもなければ権威もない。となれば当然、組織に頼っては全てにおいて後回しにされてしまうだろう。全部自力でやるしかない。
わたしはカレンダーを見上げて低く唸り声を上げた。あと半月もないじゃないの……

「ルヴィアはどうなのよ?」

「わたくしは用意を整えておりましたわよ? 当然カリキュラムや教本も用意いたしましたわ。教室や教材の手配も、今済ませてきたところですの」

わたしの問いに、ルヴィアは見下すような意地の悪い目でふんと鼻を鳴らしやがってくれます。くっ、悔しい。でも、これは言い返せない。

「さ、参考までに聞かせてくれる?」

「宜しいですけれど、今からだと余り参考になりませんわよ?」

恥をしのんで聞いてはみたが、成程、これは今からじゃきつい。教本はさっきのテキストの原本、デラ・ポルタスにアルベルトゥス、さらにパラケルススにアグリッパ、アグリコアの鉱物魔術本まである。

「ちょっと、これ全部学生にあつらえさせるつもり?」

「こちらで用意いたしましたわ。どの道必要ですもの」

場合によってはこれくらい皆さんに差し上げても宜しいですし、とお金持ちは気楽に言って下さる。教材費を徴収するにしても、どの道一旦こちらで用意してやらなくちゃならないだろう、今からじゃ種類はともかく量が集まらない。

「使えるのはカリキュラムくらいですわね。同じ講座ですし、摺り合わせるというのなら、それくらいは協力してあげても宜しくてよ?」

思いっきり恩着せがましく言ってくださいます。貸しだなんて思わなくてよ、なんて言われたら、何としてでも返そうって気になってしまう。
とはいえ、この話は乗らざるを得ない。時間が足りないのだ、カリキュラムが決まらなければ、教本さえも決まらない。わたしは腹を括って下手に出た。

「その……お願いできる?」

「ええ、構いませんわ。元々はその為に伺ったのですもの」

にっこりと花開くように笑いやがった。ああ、悔しい。凄く悔しい。こいつに頭を下げるのは今更仕方がない。でも、良い様にあしらわれたってのが……ああ、もう、悔しい!

「それじゃ、遠坂。工房の後片付けは俺達に任せろ、今から掛からなきゃ拙いだろ?」

「ごめん、士郎」

「良いって、これくらい」

士郎の奴は、それに片付けは遠坂がいない方が、などと呟いてやがるが今日は文句も言えない。うう、一寸情けない感じ。

「ルヴィアさん。大変だろうけど、遠坂のことよろしく頼む」

「シェロの頼みですものね、断れませんわ」

更に深々と頭を下げる士郎に、ルヴィアの奴が蕩けるような笑顔を振りまきやがる。でも文句は言えない。うう……

「さ、リン。始めましょう。今日中には仕上げないと間に合いませんわよ」

「う、分かった」

結局、新講座のカリキュラムが纏まったのは翌日の午前五時。新しい工房での最初の一日は、ルヴィアと一緒に朝を迎えることになってしまった。




「凛、起きてください」

「ん……んん……なに?」

ぼんやりとした視界の先には、朝日を金糸に編んだような髪と深い翠の瞳。一瞬息を呑む。いまだ動き出さない頭でも、これがセイバーだとは判断できるのだが、この驚きだけは何時まで経っても無くならない。

「えっと……あれ?」

「はい、温かい紅茶です。それと朝食と昼食用の御弁当も持ってきました」

「ありがとう、セイバー……」

セイバーの手から紅茶のカップを受け取り、一口、二口飲んで漸く意識がはっきりしてくる。そうだ、今朝は明け方までルヴィアと講義のカリキュラムの打ち合わせを終らせてたんだっけ。

「それでは、朝食にします。シロウがサンドウィッチを作ってくれました」

そそくさと、朝食のお弁当を広げるセイバー。と、そこで気がついた士郎は?

「シロウでしたら、今朝はルヴィアゼリッタのところでバイトです。午後からは来期のことで学院の方へ来るといっていましたが」

残念ですが、と苦微笑しながらセイバーは卵のサンドウィッチを手渡してくれた。
そうか、士郎も来期の準備で大童か。こっちも頑張らないと。わたしは、卵サンド片手に指折り数えながらこれからの手順を確認する。カリキュラムは出来たから、後はこれにあわせて教本や機材の手配。まずは教本ね。ええと、昨日何か決めたはずなんだけど……

「! セイバー、今何時!?」

「九時を回ったところですが?」

ってことは三時間一寸寝てたわけか。わたしは自分の中に手を伸ばす。うん、大丈夫。魔力には余力がある、身体だってこれだけ寝れば十分だ。

「ごめん、すぐ帰ってくるから。朝ご飯はそれから食べる」

「何処へ?」

「ミーナのとこ」

わたしは、大急ぎで身支度を整え、ミーナの工房へ向かった。朝一番で手配しとかなきゃ、後のことが押してしまう。

「あら、凛さんいらっしゃい」

案の定、丁度看板を出していたミーナに出くわすことが出来た。っていうか、九時開店は知ってたけど、毎日わざわざ看板出し入れしてたのね……

「お願い、一寸頼みたいことがあるの」

「なんですか? まあ、外でお話しするのもなんですから。中へどうぞ」

中へ通してくれたミーナは、朝だというので、クリームたっぷりのウィンナーコーヒーを出だしてくれた。朝の糖分は頭のカンフル、すっきりしたところで、わたしは用件を切り出した。

「教本の印刷ですか」

「うん、ミーナのところでお願いできない?」

わかりました、とミーナは仕様書を取り出して座りなおした。良かった、今からじゃ学院印刷所の御役所仕事では到底間に合わない。ここが頼みの綱だったのだ。
わたしにはルヴィアのように、各種原本を揃えて渡すなんてまねは出来ない。かと言ってカリキュラムはほぼ一緒だから、既成の教本は使えない。
結局、ネタ本を元にわたし自身で用意するしかない。幸い士郎へ教えてきた草稿が残っている、それとネタ本とを合わせてカリキュラムとすり合わせれば、かなりいい教本に仕上がるだろう。なにせ士郎に教え込めたほどの教本なのだ。

「装丁はどうします?」

「流石にペラ紙ってわけには行かないわよね。ハードカバーの紙装丁でどう?」

「紙だとカバーつけなきゃなりませんから、いっそ布でどうです? 耐久性上がりますし、値段もそう変わりませんよ?」

凛さんの処女作ですから勉強しますよ、と営業スマイルのミーナ。そうか、そういえばそういうことになるのよね……うわぁ本気で掛からないと。

「それで何時までに仕上げればいいんですか?」

「今月中なの、間に合う?」

「ああ、それなら十分ですよ。うちは仕事早いですからね」

壁のカレンダーを見据えながら、ミーナは力瘤を作って快く返事をしてくれた。良かった、ここへ来た甲斐があったってもんだ。

「それで、原稿は何処ですか?」

細かな仕様の打ち合わせも済まし、それじゃあお願いと立ち上がりかけたところでミーナが待ってくださいと声をかけてきた。

「へ?」

「原稿です。お持ちじゃないようですけど、工房ですか?」

「えっと……」

困った。どうやらミーナは、原稿が全部仕上がった上で、わたしがここへ来たと思っていたようだ。こうなると穏やかな笑顔が怖い。さて、どう言ったものか……

「それが……」

「ああ、分かりました。まだ完成してないんですね。いつ頃仕上がりますか?」

こっちの顔色で察したのだろう、ミーナは苦笑いしながら聞きなおしてきた。でも、その……なんて言ったら良いか。

「良くある話なんですよ、まだ書き終わらないうちにって。それでどうなんです?」

「どうって、なに?」

「進み具合ですよ。もしかして、半分しか出来ていないとか?」

ミーナの笑顔の質が変わってきた。こめかみに青い筋がピシッと走ったような気がする。とはいえこれにも応えられない。だって、

「ええっとね……」

「まさか……三分の一しか出来ていないなんて」

わたしが尚も言い淀んでいると、今度は困惑したような顔になった。そうか、三分の一しか出来てないと困るんだ……

「……凛さん」

「……あ、はい?」

ミーナの表情がまた一つ変わった。最初の花咲くような微笑だ。ただし背景が違う。ははは……

「さっさと吐いてくださいませんか?」

「その……これから……書く……」

凄く丁寧なのに、これが一番迫力がある。もう、清水の舞台から飛び降りるつもりで、わたしは本当の事を伝えた。

「つまり、全然?」

「うっ……そう」

「そうですか……」

ミーナは綺麗な微笑のまま、仕様書をテーブルの上に放り投げた。同じ笑顔のまま、腕を組んでどっかとソファーに座り直したりもしてる。

「二倍で手を打ってあげますよ」

「そ、そんな殺生な!」

「二倍でも安いんですよ、原稿は五日以内に」

「うう、無理。十日」

「三倍になりますよ?」

「……い、一週間にならない?」

藁にも縋る思いで笑顔のミーナに泣きついた。もう靴でも何でも嘗めます。

「……仕方ありませんね、今からきっちり百六十八時間後、これが本当の締め切りですからね」

「本当の締め切りって?」

「良く居るんですよ、第二の締め切りとか、最後の締め切りとか、これが本当の締め切りとか言って延々遅らせる人が」

凛さんは絶対そういう人じゃないから安心ですね、とミーナは目だけ笑ってない笑顔で応えてくれた。ミーナのところのブラックリストに載るわけにはいかない。これは本気で頑張らないとなあ。




「分かりました、この草稿を打ち込めばよいのですね?」

「うん、原本からのコピーはそのまま画像で取り込んで。そっちは挿絵扱いだから」

ミーナとの打ち合わせを終わり、わたしは工房に蜻蛉帰りしてセイバーに泣き付いた。
本来、魔術関係の書物は単に知識を記載しただけでは意味が無い、書き手がその意思を、概念を込めることで始めて魔術書として成り立つ。為に最高は著者の手書き、続いて人の手による写本となる。
流石に昨今、時計塔で出版されるものには、写本などは殆どない。だが、それでも専用の活字を著者自ら組んだり、手書草稿をそのまま印刷したりして概念の劣化を抑えようとしている。
今回の教本も、本当なら手をかけたいところだが、時間と予算の関係で、全頁挿絵扱いの手書き文や専用活字は使えず、半分はテキスト変換の電子印刷にならざるを得ない。魔術書として見た場合かなり品下がるが、実際それを元に講義を行うことで補完する事を考えれば十分だろう。

とはいえ、そうなると今度は別の問題も生じる。自慢じゃないが、わたしは電子機器に不自由な人なのだ。
わたし自身がタイプを打つより、わたしが手書した原稿をセイバーにタイプしてもらった方がはるかに早かったりする。
そんなわけで、こうしてセイバーに草稿のテキスト打ちと、複写した原本のレイアウト構成を頼んでいるのだ。

「今日中に手持ちの草稿の再構成は終らせるから」

わたしは徐に壁のカレンダーにスケジュールを書き込む。後はもう馬車馬だ。静かな書庫に延々と、紙の上にペンを走らせる音とキーボードの音の和音だけが響き渡る。何せ一週間しかない。寝る間も惜しんでの作業が始まった。


カッコいい凛様を望んだ皆様ごめんなさい。
ちょっと間抜け気味の凛ちゃんでした。
実は問題山積みな先生の御仕事を引き受けた凛ちゃん。無事、優等生の面目を保ったまま開講にこぎつけますか。
それでは、後編をお楽しみください。

By dain

2004/10/20 初稿
2005/11/17 改稿

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