英国、欧州の外れにある島国、かつて世界をも支配していたこの国は幽霊の国でもある。
何せ、表立った発見例だけでも、単位面積あたり世界最高の出現率を誇る国なのだ。
それが俺たちのように“そっち”の世界を覘ける者から見たら、その数は更に増える。それこそ、昼間だろうが夜だろうがお構いなしに視える。

特にここ倫敦は、かの名高き倫敦塔を始め、幽霊スポットのメッカだ。裁判所に聖堂、劇場に病院。そして勿論、大英博物館にも。石を投げれば幽霊に当たろうかってほど出る。尤も幽霊に石を投げても、素通りするだけだろうけど。

そんなわけで、俺たちはさほど幽霊を気にはしない。幽霊の方も、ただふらふらと生前と同じ事を、死んだ事にも気付かずに行っている残留思念に過ぎないものが殆どだから、こちらから声をかけても知らん振りだろう。無論、特定の場所に、特定の目的で現れる、もはや場と化してしまったような幽霊も居るが、そいつらはそいつらでまた別の問題だ。

「…………」

だから、最初そこで視かけたときも、さほど気にはしなかった。
ハイドパークの北。かつて処刑場があったと言う、マーブルアーチの少し奥まった辺り。通りの向こうに見えるテラスハウスの前に立って、じっとこちらを見ている男の子の姿。
真昼間なのに、透けるどころか色まで鮮明に視えているが、その男の子は紛れも無く幽体だった。

ただ、それだけなら驚きはしない。視線の隅に捕え、素通りするだけだろう。現にこれだけ鮮明に視えているのに、周りの通行人は素通りだ。男の子の身体を透いていく通行人さえいる。普通の人には見えない類の幽体なのだろう。

だが、俺は立ち止まった。
何故ならその男の子は、生霊だったからだ。





せいぎのみかた
「最強の魔術使い」  −Emiya Family− 第七話 前編
Heroic Phantasm





「士郎、どうしたの?」

いきなり立ち止まり、通りの向こうをほけっと見詰めていた俺に遠坂の声が掛かる。さっきまで並んで歩いていたのだが、いつの間にか遠坂は俺の正面に立ち、爪先立ちで心配そうに顔を覗き込んできていた。

「すまん。その、遠坂にはあの子見えるか?」

「あの子?」

視線を向けずに応えた俺を訝しげに眺め、遠坂は俺の指し示す方向に顔を向けた。

「ああ、幽霊ね。それがどうしたの、珍しくもないでしょ?」

「そうなんだが……あの子、生霊だろ? だから気になって」

「ああ……」

俺の言葉に、遠坂は納得したように頷いてくれた。
幽霊は助けられない。恨みや未練を残して逝った幽霊の思いを晴らす事は出来るが、もう死んだ人間を救う事は出来ない。勿論、不当な死や誰かの不正が原因なら、その罪を購わせなきゃならないと思う。しかし、それは生きている人間の問題だ。哀しい事だが幽霊と言うのは結局、残留思念に過ぎない。泡沫と消えていく記憶の欠片なのだ。
だが、生霊となれば話は違う。ここに具象している姿には、生きた本体が居るって事だ。生きている以上希望はある。助けられる。それが思念を飛ばしてまで何かを訴えているのならば、出来るだけ助けになってやりたい。お節介かも知れないけれど、それが俺の選んだ生き方なのだ。

「お、おい。遠坂、どうするんだ?」

そんな俺に向かって小さく溜息をついていた遠坂だったが、軽く肩を竦めると、とっとと通りを横断しだした。おいおい、危ないぞ。

「どうするもなにも、気になるんでしょ? 放っとけないんでしょ? わたしが止めとけって言っても行くんでしょ?」

「いや、その……」

その通りだ。放ってはいけない。ただ、遠坂はきっと止めるだろうと思っていた。
これは魔術師としてはまったくの無駄な行為だ。何の得もないし、下手をすれば厄介ごとに巻き込まれかねない。だから止められても行こうとは思ってたんだが。

「ほら、さっさとしないと信号変わるわよ」

まさか、先導されるとは思ってなかったなぁ。すっかり手の内を読まれているようで、えらく情けないが、それ以上になんだか凄く嬉しい気持ちになる事だった。




「消えちゃったわね」

だが、幽霊は俺たちが通りを渡り終えた辺りで、すうと地面に吸い込まれるように消えてしまった。残されたのは、いつもと変わらぬ昼下がりの雑踏と、白昼夢から覚めたようにその場に立つ俺たち二人。あれは、一体なんだったんだろう。

「でも、最後まで俺たちを見てたな」

「違うわ。あの子が見てたのは士郎だけよ」

俺の呟きに、やっぱり気付いてなかったのね、と言うように遠坂は苦笑しながら俺の顔を見る。

「そうだったのか?」

「そうよ、助けを求めるなら、魔女にじゃなくて、正義の味方にって事なんじゃない?」

わたしなんか眼中に無しって感じだった、と遠坂は少し拗ねたように苦笑を微笑みに変えた。

「そんな事は無いぞ」

「良いのよ、本当の事だし。それにしても、どうせ頼むなら最後まで居れば良いのにね」

何とか言い繕おうとしたのだが、それも軽くいなされてしまった。
常々、遠坂は自分が冷徹だと言っている。だが、俺はそれが仮面の一つに過ぎない事を知っている。魔術師である事という仮面。その仮面の下の遠坂が、どれほどお人好しで優しい女の子であるかを俺は知っている。まあ、同じくらい残酷で我侭なところがある女の子でもあるけど。

「あら?」

そんなお人好しで我侭、残酷で優しい女の子がちょっとした気まぐれを発揮した。

「どうしたんだ?」

「ほら、ここ。あの男の子の立ってたとこだけど」

遠坂はそう言って、男の子の立っていた場所に立ち、その前の建物を見上げた。

「……蝋人形館?」

「気付かなかったわね。看板もかなり地味だし」

俺たちは顔を見合わせ、暫く考え込んだ。この建物の前は今までもわりとよく通っていたが、こんなものがあるなんてちっとも気がつかなかった。

「士郎」

「おう」

俺たちはどちらとも無く頷くと、取敢えず入ってみる事にした。具体的に何かが見えたわけじゃなかったが、何か繋がりを掴めるんじゃないか。そんな気がしたのだ。




歩道から短い階段を上ったところにある玄関扉の前で、俺たちはもう一度建物を見渡した。小さな看板以外、何の標識もない建物だったが、どうやら営業はしているようだ。ごめんくださいと声をかけて押した扉は、どこか荘重なドアベルの響きと共にすんなりと開く事が出来た。
恐る恐る入ってはみたが、蝋人形館といっても中は多少古色蒼然としているものの、普通の住宅と変わりなかった。玄関ホールの一角に設えられたカウンターが、唯一それらしい部分だろう。
古ぼけたポスターやパンフレットに、埋もれるように腰掛けた初老の老人。この人が管理人さんかな?

「すみません。入場したいんですけど?」

その老人に歩み寄りながら、遠坂が少しばかり訝しげに声をかける。
が、返事がない。耳が遠いのか、それとも居眠りでもしているのか……

「すみません!」

更に一歩近づき、俺はひときわ大きな声で呼んでみた。

「はい、いらっしゃい」

「どわぁ!」
「きゃ!」

と、いきなり後から声が掛かってきた。慌てて振り返るとホールの脇の扉から、若い男が顔を出している。

「はは、驚きました? そいつも蝋人形です。皆さんまずこれで驚くんですよね」

事務室なのだろうか、そこだけ現代的の部屋から、男は気さくな笑みを浮かべこちらに向かって近づいてくる。

「ようこそ、シマック卿の蝋人形館へ。入場は無料です。コースはこのパンフレットの通りですから、ご自由に御回りください」

そのまま俺達に、カウンターからパンフレットを取って渡してくれた。

「ええと、その俺たちは……」

ちょっとばかり驚いて、暫くなすがままになっていた俺たちだったが、ここで漸く気を取り直した。見学云々はともかく、その前に少しばかり聞いておきたい事があった。

「ああ、分かります。あなた方も“ディック”に招かれたんですね」

そんな俺達の顔を見て、皆まで言う前に男は納得したように笑って頷く。

「ディック?」

「あなた方も視られたんでしょ? この家の前で」

訝しげに聞き返した遠坂に、男は肩を竦めて応えてくれた。なんでも訪れる客の半数は、その“ディック”に引き寄せられるようにこの蝋人形館へやってくるのだそうだ。

「ここは大きな看板を出しているわけでも、マダム・タッソーのように有名なわけでもありませんしね。本来は個人のコレクション置き場なんですよ」

ただ、そうやって尋ねてくる客が頻繁に訪れるようになった事から、コレクションを整理して入場者を受け付けるようになったのだと言う。なんと言うか、いかにも英国らしい話なのだが、少しばかり引っかかる事もある。

「それで、貴方はその“ディック”を見た事あるんですか?」

「いやあ、それが私は無いんです。でも顔は分かりますよ。まずそこから行ってみますか?」

だから、その事について聞こうとしたのだが、男は分かっていますとばかりに、俺たちを先導して歩き出した。

「どうする、士郎」

「取敢えず行ってみよう、ちょっと気になる事も言ってたし」

“顔は分かる”? “行ってみる”? なんだか不思議な物言いだ。あの子がここに居るってことだろうか?

「どうぞ、こちらです」

男は一階にある、歴史上の人物などの人形が置かれたごく当たり前のフロアを素通りし、俺たちを裏手の階段から二階へと導く。そして更にその奥、少しばかり変わった部屋の並ぶ一角に案内してくれた。

「ちょっとグロね」

遠坂が気味悪げに呟いた。緊張症、恐怖症、偏執病、精神分裂、多重人格。それぞれの表札プレートのかかった部屋は、それら精神病理学の症状を具現化した人形が展示された部屋だった。
どうやらご丁寧に、患者の主観を元に部屋ごと誂えられているらしく、家具や調度も牙が生えていたり、内臓のように滑っていたりと、異様なものばかり。確かにこれはちょっとばかりグロテスクだ。

「シマック卿の本職は心理学者なんですよ。ですからこの一角は卿の仕事上の経験を元にした作品群って事になりますね。ああ、着いた。“ディック”をご紹介しましょう」

そんなグロテスクな部屋もあっさりと素通りし、男が立ち止まったのは“超常心理学”と表札の掛かった部屋だった。

「ここはまともだなぁ」

恐る恐る覘いてみたが、この部屋には妙な幻覚は見当たらなかった。子供たちを象った人形が、三々五々二遊びまわっている部屋。家具も調度も少しばかり古臭いが普通のものだ。子供たちの人形も、いたって普通……

「でもないわよ、良く見て御覧なさい」

……でもなかった。
遠坂の言うとおり、この部屋もまた異様な光景が繰り広げられている部屋だった。
向こうの子供はスプーンを片端から曲げているし、こっちの女の子は、宙に浮かんだ積み木をじっと見詰めたまま、逆さに積んでいっている。部屋の両隅にいる子供は、どうやら背中を向け合ったまま会話をしているようだし、あっちの子供は火の玉でお手玉をしている。

「この部屋の人形は、卿が実見した超能力者の子供たちです」

「実見? 本物って事かな?」

「私に聞かないでください。私はただの管理人ですから。ただ、卿は実見したと言っています」

男は俺の質問を軽く躱し、部屋の中へと俺たちを導くと、その一角で立ち止まりどうぞとばかりに手を伸ばす。

「そして彼が“ディック” 卿が始めて実見し、心理学者になるきっかけになったと伝えられる少年。リチャード・シマック君です」

その手の先に、あの子供が居た。
椅子に腰掛け、通りを挟んで俺たちを見ていたのと同じ視線で、じっと戸口を見詰めている人形。それは紛れも無くあの子供だった。

「シマックって言うと、ここのオーナーの関係者か何か?」

「ええ、お嬢さん。当館のオーナーにして人形制作者。アルフレッド・シマック卿のご兄弟だったそうです」

「ちょっと待ってくれ。じゃあ、あの子は」

男の説明に、俺は遠坂と顔を見合わせてしまった。ここの主の兄弟なら成人は過ぎているだろう。だが、俺はあの“子供”の“生霊”を見たのだ。

「ええ、ちょっとこちらに、プレートに説明が書いてありますから」

促されるままに腰をかがめると、丁度の人形の足元に、一枚の文字が掘り込まれた墓石のようなプレートが嵌っていた。

「士郎」

「ああ……」

俺と遠坂は、再び顔を合わせて絶句してしまった。

――リチャード・シマック。催眠能力者ヒュプノス。一九六二〜一九七二――

俺たちの覗き込んだプレートには、はっきりとそう記されていたのだ。

「どうかなさったんですか?」

「あ、いや。なんでもありません。あんまり似すぎてたから」

「そうでしょう。皆さんそう仰います」

俺たちは案内役の男の声で我に返った。だが、自慢そうな男の声はもう聞いていなかった。この子が三十年以上前に死んでたって? じゃあ、俺が見たあれはなんだったんだ?

「それじゃあ、御世話になりました。士郎、帰りましょう」

「お、おう」

呆然とした俺は、そのまま遠坂に引き摺られるように蝋人形館を後にした。
外に出て漸く気を取り直し俺は、もう一度蝋人形館を振り返ってみた。だが、やはりもう館の玄関先にあの霊の姿は見えない。
なんとも不可思議な経験だった。本当に、あれは一体なんだったんっだろう。




「シロウ、食欲が無いのですか?」

今日の夕食は、遠坂が腕によりをかけて作った中華の逸品だ。何故かあの後、散々引っ張り回らされて買いあさった食材をふんだんに使っており、中でも、豆板醤だけ無く山椒をたっぷりと仕込んだ、舌が痛くなるほどの麻婆豆腐は絶品だ。
が、俺の箸は進んでいない。セイバーさんの三分の一も食べてないだろうか? いつもは同じくらいは食うんだけどな。

「……やっぱりあれ?」

「すまん、遠坂。どうも気になるんだ」

そんな俺を見て遠坂が小さく溜息をついた。そうか、今気がついた。この料理も全部その為だったんだな。

「あれとは、一体何の事なのでしょうか?」

「ちょっと珍しいとこで妙な事があったんだ」

そんな俺たちを、不思議そうに見ていたセイバーの問いに、俺は昼間の出来事を説明した。ああ成程と納得してくれたセイバーだが、何故かその後、ご苦労様ですと遠坂に声をかけている。

「士郎が、ああいった事を右から左に流せるとは思ってなかったけど」

遠坂の方も、本当に苦労してるのよ、と苦笑している。なんでさ。

時計塔きょうかいで調べてみるわ。それで良いでしょ?」

「悪い、遠坂。でも良いのか?」

それでも遠坂は、膨れる俺に、どこか釘を刺すような口調で言ってくれた。

「わたしが手を出さなきゃ。士郎、自分でそこいら中走り回るでしょ? 結局一緒よ」

普通の魔術師が気にかける事じゃないけど、と言いながらも遠坂は、調査を請け負ってくれると言う。いや、こうなると確かに苦労かけてるな。俺はもう一度頭を下げた。

「でも、ちょっと時間かかるわよ。超能力って特殊なのよね」

その頭に、遠坂はちょこんと指を立ててもう一本釘を刺してくる。
遠坂の言う通り超能力は魔術師にとっても特殊な分野だ。
まず、超能力は一種の神秘とも言える力ではあるが魔術ではない。ことわりを解きほぐし、資質に加え訓練と知識、そして技術により神秘を具現する魔術と違い、超能力は単に資質によってのみ発現し、その具現になんらことわりを持たない。それゆえ不安定で制限された力ではあるが、同時に魔術師にとって盲点をつかれる事になる力でもある。
だからこそ、時計塔でも把握しようとしてはいるものの、理に属さぬ為、現代科学が超能力を解析できないのと同様に掴みきれてはいないのだ。ただ、現代科学と違って魔術師はその実在を疑ってはいない。それゆえ、情報の収集と真贋の判別においては時計塔に一日の長がある。

「わかってる。何かわかったら教えてくれ。それで十分だ」

だから俺は頷いた。この事は、遠坂に任せておけば大丈夫。よし、これで少し食欲もわいてきたぞ。折角、遠坂が作ってくれた選りすぐりの中華だ、もうちょっと味あわせてもらおう。俺は食事を再開した。
だからセイバー、悪いけどその皿返してもらうぞ。




あの生霊の件は、遠坂に任せた。とはいえ、俺としても気にかかっている事には違いない。その為だけにあの蝋人形館へ行くという事は無かったものの、俺はその方向へ行く用事があれば多少寄り道をしても、その前を通るようにしていた。
そんなわけで、あの後も数回、俺はあの少年を視る事があったのだが、この日は少し様子が違っていた。

「え?」

遠坂へ弁当を届けに向かう途中で立ち寄ったあの蝋人形館前の道路。そこには今日もあの少年がいた。ただ、同時にその少年に重なるように、もう一人の別の少年が居るのだ。思わず立ち止まって見詰め続ける俺の目の前で、二人は重なったまま蝋人形館へと消えていった。

「……今の普通の人間だったよな」

そのまま透いて消えたわけではない。確かに扉を開けて中に入っていく姿を見た。という事は、もう一人の少年は生身だったという事なのだが、なんとも異様な光景であった。どうにも気になる。俺は暫く蝋人形館の前で様子を伺う事にした。

「……出てこないな」

小一時間ほど、そこで見張っていて流石にじれてきた。あの館を一回りするのに一時間も掛からない。じゃ、あの子供は? 俺は思いきって、もう一度あの蝋人形館へ入ってみる事にした。

「いらっしゃいませ」

ごめんくださいと扉を開けたところで、俺はいきなり硬直してしまった。
目の前のカウンター。老人の蝋人形がいきなり顔を上げ俺に挨拶してきたのだ。

「どうかなさいましたか?」

更に立ち上がって、訝しげに俺に近づいてくる。

「あ、あの……ろ、蝋人形……」

「はい、こちらはシマック卿の蝋人形館ですが? ……ああ」

絞り出すような俺の声に、不思議そうな顔をした老人は、ふと何かを思いついたかのように破顔した。

「私の蝋人形を見た事があるのですか」

「その、すみません。あんまりそのままなんで驚いちゃって。今日は若い人のほうは?」

「彼は休みです。彼の休みの時だけ私が代わりに。今日は彼の人形が事務所に置いてあります」

ご覧になりますか、という老人の勧めを丁重に断り、俺は胸を撫で下ろした。いや、本当に驚いた、あの人形が動き出したかと思うほどそっくりだ。

「それで、ご見学ですかな?」

「いえ、ちょっと聞きたいことがありまして」

人好きのする笑顔を浮かべた老人に、俺は小一時間ほど前にここに入ったはずの少年の事を尋ねてみた。

「子供ですか? いいえ、今日は貴方が始めてのお客様ですが?」

「え? でも」

俺はこの館の玄関先での出来事を老人に説明した。“ディック”と重なるように少年がこの館の扉を開け中に入った事、そして未だに出てこない事。

「ふむ、しかし私は扉が開く音を聞いていませんし……そちらも幽霊だったのでは? この辺りは“ディック”以外にもかなり出るという話ですし」

「でも、あれは確かに……」

生身の人間だった。

「少年という事でしたね? もしかしたらあの部屋にその少年の蝋人形があるのかもしれません。“ディック”が友人を呼んだのかもしれませんしね」

なんとも釈然としない。だが、ここで言い争っても始まらない。俺は後でこの屋敷の中を捜して回る事の許可を貰い、老人の後について、まずは超能力の間に向かう事にした。

「やっぱりこの中には居ません」

些か気になる事がないでもなかったが、結局この部屋の人形に、俺が外で見かけた少年の人形は無かった。

「そうですか、それでは心行くまで館を回ってください。私は玄関のカウンターに降りますから」

「申し訳ありません。あ、一つ良いですか?」

ただ気になる事がある、俺はここで聞いてみる事にした。

「なんでしょう?」

「ここの人形なんですが……前に来たときと変わってませんか?」

「ああ、この部屋の人形はレプリカでしてね、数体ずつ違った姿勢のものがあって時折入れ替えてあるんですよ」

「レプリカ?」

「はい、オリジナルは卿の自宅に」

成程、そういうことか、ちょっと奇妙ではあったが疑問は解消された。俺はとにかくあの少年を捜して館を回る事にした。

「如何でしたか?」

「……居ませんでした」

やはり幽霊だったんでしょう、と苦笑する老人に、俺は今ひとつ釈然としない気持ちで頷くしかなかった。どうにも、ここは何か引っかかる。

「しかし、珍しいですな。“ディック”を視てやってくるお客様は、大抵一度で納得されるか、気味悪がられて二度はいらっしゃらないのですが」

「そんなものですか」

だからだろうか、人の良い老人の世間話にもこんな曖昧な返事しか出来なかった。

「ふむ、“ディック”が気になりますか?」

「あ……はい」

それについては、間違いなく気にかかっている。遠坂に調査を任せてあるとはいえ、あの不可思議な生霊の少年は、今も俺の脳裏を離れていない。

「では、シマック卿にお会いしては如何ですか?」

「会えるんですか?」

「いや、実は失礼とは思ったんですが、お客さんのような例は大変珍しい事でしてね、卿に連絡を取ったところぜひ会いたいと。勿論、お嫌でしたらお断りしますが?」

「いえ、会えるなら会いたいです。あの“ディック”のご兄弟なんですよね?」

「ええ、そしてあの人形の作者でもあります」

遠坂には悪いが、こんな機会を逃すわけにはいかない。俺は二つ返事でこの申し出を受けることにした。




シマック卿の屋敷は思いのほか近いようだ。教えられた住所は倫敦の北西、ハムステッドという高級住宅街の一角を指し示している。
ハムステッドは良く知っている。ルヴィア嬢の御屋敷があるのはここのロンドンよりの一角だ。メトロで数駅、車で十キロほどだろうか。
時刻はまだ昼前、夕食までには帰ってこれるだろう。俺は遠坂に届ける弁当をランスに託し、ミニを引っ張り出してシマック卿の屋敷へ向かった。

「この辺なんだが……」

だが、少しばかり迷ってしまった。ハムステッドはハムステッドなのだが、シマック卿の屋敷は住宅街で無く、ハムステッド・ヒースという広い自然公園の中にあったのだ。
名前は公園だが、これがまた馬鹿でかい。山一つ、野原一つをそのまま緑地として囲い込んだ物で。殆ど原野といって良い。その中の御屋敷だ。探すだけで一苦労なのだ。

「……あった」

漸く見つけた。深々とした霧の立ち込める森の奥深くにある御屋敷。緑地にこれだけの森があるってのは想像も出来なかったな。
少しばかり迷ったので三十分ほど遅刻してしまっている。俺は慌ててミニを車止めに寄せると、大急ぎで玄関へ向かった。

「御免ください」

俺はノッカーでドアを叩き声を上げた。
ルヴィア嬢のおかげで、こういった御屋敷の訪問には慣れている。ただ、この屋敷はちょっと毛色が違う。
人の気配がしないのだ。これだけの屋敷なら、最低でも十人前後の使用人が居るはずなんだが……

「ミスター衛宮だね? 入りたまえ。鍵は開いている」

が、中から響いてきた声は明らかに主のものだ。多分、シマック卿だろうが、主がじかに声をかけるって事は執事も居ないのか?

「それでは、お邪魔します」

些か不審ではあったが、俺は大きな玄関扉を潜り、屋敷の中に入っていった。
正面に階段。その正面と左右の三面にテラスを設えた、吹き抜けの大きな玄関ホール。壁に幾枚かの大きな鏡がかかり、十分な照明があるのだがどこか陰の多い正面階段の上に、スーツ姿の中年の男性が笑みを浮かべて立っていた。この人がシマック卿なのだろう。

「ようこそ、我が館へ」

玄関の扉を閉じ、数歩前に進むといきなり背中の方から声が掛かった。

「シマック卿ですね。はじめまして衛宮士郎です」

閉まった扉の音に一瞬びくついたものの、俺は躊躇無く振り向くと右手を差し出した。

「ふむ……驚かないのかね?」

「蝋人形館で管理人のご老人に驚かされてましたから」

俺の返事に、若干残念そうにしていたシマック卿は、二番煎じになってしまったか、と苦笑しながら俺が差し出した手を握ってくれた。

「しかし、良く出来ていますね。声が聞こえるまでは本人だとばかり思ってました」

「という事は、最後まで黙っていた方が驚いてくれたか。まあ、立ち話もなんだ。奥へ行こう」

シマック卿に促され。俺は主自らの案内で屋敷の奥へと通された。
やはり使用人を置いていないようだ。道々の部屋も硬く閉ざされ、調度の半分は白い布で覆われている。そのせいだろうか、俺にはこの屋敷全体が、どこか閉ざされているような気がした。




「ああ、自己紹介がまだだったね。私はアルフレッド・シマック。この屋敷の主で、君が訪れた蝋人形館のオーナーだ」

「衛宮士郎です。倫敦には留学の為に来ています」

客間に通され、俺は改めてシマック卿とお互いに挨拶を交わした。
シマック卿は俺をソファに座らせると、大した持成しも出来ないが、とグラスにスコッチを注いで勧めてくれた。俺は少しばかり躊躇したが有難く頂いて、話を聞く事にした。昼間から酒というのもなんだが、男同士で紅茶というのも何か物足りないというわけだ。

「さて、私としても君に聞きたい事は沢山あるのだが、まずは君の用件の方から始めようか。“ディック”の事だね?」

「はい、何度か視かけたものですから」

俺は蝋人形館の周りでの経緯をシマック卿に話した。何度も頷くように聞いていたシマック卿は、深くソファに腰掛けなおしながら、天井を見据えるように顔を上げ話し始めた。

「ディックは私の双子の弟だったのだよ」

「ご兄弟とは伺っていましたが……」

「だからある意味、彼は今でも生きていると言えるのではないかな? 私の中で」

どう応えて良いものか暫く言葉が出なかった。
俺の無言を促しと取ったか。シマック卿は“ディック”についての話を続けた。幼い頃から何度も色々な白昼夢を見せてくれた事、大人を眠らせたり催眠術にかけたりと、二人で悪戯をした事、それが原因で父親から地下室に閉じ込められた事。
懐かしそうに、楽しそうに話してくれた。
そして、その能力ゆえか十歳に満たずして亡くなった事、彼の能力ゆえに心理学の道に歩んだ事。

「さて……」

ここまで話してシマック卿は言葉を切った。ソファから身を起こし、俺の顔をじっと意味ありげに覗き込むように見据えてくる。

「ここから先は、私の質問に応えてもらってからの方が良いだろう。ミスター衛宮、君は魔術師だね?」

「――っ!」

俺は思わずソファから飛び上がった。

「慌てる事は無い……」

一瞬のうちに室内の空気が変わった。ここは……そうか、使用人が居ないわけ。どこか引っかかる感触、そうか……そういうことか……

「私もまた魔術師なのだよ。ミスター衛宮」




「さて、話の続きをしようか」

椅子から飛び上がったままの姿勢で立ち尽くす俺を前に、シマック卿は何事も無かったかのように話を続けようとする。

「俺はまだ……」

「その態度で十分だ。かけたまえ。第一幽霊と生霊をひと目で見分けるなど、唯人の手に余る。そう思わないかな?」

しくじったか。俺はそう思いながらもゆっくりと腰をかけ直した。だが、油断はしない。何せ俺は魔術師の工房のど真ん中に誘い出されてしまったのだ。警戒するなというほうが無理だ。

「安心したまえ、倫敦へ留学に来た魔術師という事は学院とけいとうだろう? 私も協会員だ、学院とけいとうにも席を置いた事はある。君の先輩といったところかな?」

実際のところ、問い合わせをしたから俺の素性が分かっていたのだという。驚かせて済まないと言いながらシマック卿は話を続けた。

「先ほど私が言った内容は、ほぼ真実だ。無論、シマック家が魔術師の家系である以上、私の方が後継だったという事になる。ディックは魔術回路を持ってはいなかった。代わりに超能力を持っていたわけだがね」

魔術と超能力は結果は同じであっても、因や過程はまったく違う。同じ血を、同じ遺伝子で持ちながら一方は魔術師、一方は超能力者。その事に対する疑問がシマック卿の魔術師としての根だったと言う。

「おかげで時計塔では早々に異端扱いでね、今ではこんなところに引っ込んで人形つくりで無聊を慰めているというわけだ」

超能力は力としては不安定で、信頼性に欠ける。能力者自身も大抵は大人になるとその能力を失い、能力を保ったまま大人になっても殆どがその能力ゆえに社会不適合者になってしまうと言う。

「言わば存在の基礎が我々と違っているのだよ。脳の一部が我々のあずかり知らない何処かに繋がってしまい。それゆえ我々とは別の働きをしてしまう」

鏡の中の世界の住人なんだよ、とシマック卿は言う。右手を動かそうと思えば左手が動いてしまう。文字を読もうとしても逆さま。彼らが我々の世界で生きていくには、わざわざ左手を上げようとして右手を上げ、一旦文字を逆さまに翻訳しながら読まなければならない。その苦行故に、人間と言う集団に入り込めず疎外されてしまうのだと言う。

「私はディックの不幸を見てきたからね、それを制御する道を魔術で何とかできないかと考えたわけだ」

シマック卿はそこまで言うと、何か思いついたように立ちあがり破願した。

「すまない、自分の事ばかり話してしまった。君が気にしているのは“ディック”と、その、もう一人の少年についてだったね」

「ええ、俺にはどちらも幽霊には思えなかった」

「成程、確かに幽霊と言うものは殆どの場合、世界に記録された生前の再現に過ぎないからね。思念という“心”が浮き上がっていても未だ“肉体”と“魂”とのリンクが残っている生霊との区別も我々ならばつく」

しかし珍しい、魔術師はそんな事を気にもかけない人種のはずだが、とシマック卿は微笑んだ。

「俺は、異端なんでしょうね」

まだ良く知らない人間に、正義の味方だとか、魔術使いだとは言うわけにはいかない。俺は誤魔化す意味も込めてそういった。

「そうか、では私と君は異端仲間と言うわけか。成程、興味を持つわけだ」

だがシマック卿は、俺の返事にどこか思うところがあったようだ。何度も頷くように頭を振ると。俺にも席を立つように促した。

「君が見た二人目の少年と言うのに心当たりがある。実はあの屋敷に置いてある人形以外にも、今製作中の人形があってね。そちらを見て確認してもらいたいのだが?」

否は無い。俺は促されるままに立ち上がり、更に屋敷の奥へと案内された。




「魔術は肉体に属する魔術回路と、それを制御する精神に依存する。私が超能力について最初に考えたのは、その力が三要素の何処に属するものか、だったのだよ」

屋敷の奥。書斎に設えられた隠し扉を抜け、地下に向う道すがらシマック卿は魔術と超能力についての講釈を始めた。

「まず私が眼をつけたのは“肉体”だった。超能力者の殆どはせいしん肉体からだの遊離に悩んでいる。超能力を持つという事は、この二つの要素に齟齬が生じているということではないか? そう思ったわけだ。確かに超能力者の脳には私達の魔術回路とは違った意味での回路が、言わば特殊な短絡経路バイパスが生じてはいたようだ」

燭台を手に、暗く湿った石造りの階段を下りながらシマック卿の言葉は続く。

「だが、これは早々に挫折した。何人かの超能力者の死体を器に設えてせいしんを移転したのだが、回路そのものが起動しない。せいしんは直接それを制御できなかった。まあおかげで、心と肉体の遊離の理由はそこだったかと、別の成果は得られたのだがね」

なんとも生臭い話になってきた。だが、雰囲気のせいだろうか、俺は不思議と嫌悪感を抱かなかった。

「考えてみれば、私とディックは同じ肉体を持っていた。結局は心を除いた肉体と魂の結合に秘密がある、というところまではわかったのだがね、そうなると魂を解きほぐさねば原因は突き止められない。しかし、魂の解析と固着化など魔術では手に余る。私は結局魔術師の本道、根源への道を、魔法を目指すしかないかと思ったものだよ」

振り返り、振り返り、シマック卿は楽しげに話を続けた。

「ああ、着いた。ここが私の工房だ。入りたまえ」

荘重な鍵を開け、どうぞと扉を開くシマック卿。俺は促されるまま工房に入った。
が、入った途端、背筋に悪寒が走った。ずらりと蝋人形が並んだ部屋。あの蝋人形館にあった人形達が、どこか無表情で直立した姿で壁一面に並べられた部屋。
そこには確かに人の気配がした。人形の一つ一つ。いや一人一人に間違いなく人の気配がしたのだ。

「そのまま魔法を目指す道に進んでいれば、私は異端とは言われなかっただろうね。だが、私は君と同じように、どこか魔術使いだったようだ。根本を突き詰めることより、何とかして超能力を使えないか? そちらの方に興味が向かってしまってね」

愕然とする俺の後ろで、シマック卿の講義は尚も続く。

「そして手に入れたわけだ。超能力を制御する術。なんのことはない。肉体と魂が問題ならば、それだけを抽出して外部から制御すれば良い。そうすれば魔法にまで手を伸ばさなくても使える。尤も、抽出するのは精神の方だったがね」

「だから……心を蝋人形に閉じ込めたのか!」

「正解だ。超能力に必要なのはいのち肉体からだ、つまり生きた脳なのだ。制御するには心は不要。いやそれどころか障害になる。せいしんを隔離するのに蝋人形は最適だった。形も似せられるし、感染もさせやすい。最高の共感素材だからね」

つまりこいつは、あの子供たちの心を封じて道具にしているって事か!
恐怖と嫌悪で凍っていた腸が、いきなり煮えくり返った。俺はシマックに振り返り、対峙……

「ところで不思議に思わなかったかね? 私は君にとって一見の魔術師に過ぎなかったはずなのに、こんなところまでどうしてのこのこ付いて来てしまったか?」

出来なかった。身体が……動かない。慌てて意識を身体に伸ばしても魔力の欠片も見当たらない。じゃあ、どうやって……

「これが超能力だよ」

シマックはそんな俺の顔を楽しげに覗き込みながら、先ほどの講釈と同じ口調で言う。

感応力テレパスで君の疑念を回避し、催眠能力ヒュプノで運動神経を麻痺させているのだ。本来の能力者にこんな器用な真似は出来ない。大抵の場合、彼らはかなり限定された力を一つしか使えないからね。しかし見ての通り、私にはたくさんの道具がある。自由自在というわけだ。まあ、力そのものはさほど大きくないし、備えられれば効果は薄いのだが、魔術師はこれを感知できないのだな」

「……どうする……つもり……だ」

「君に興味がある」

漸く絞り出した声に、シマックはまじまじと俺の顔を見詰めながら真剣な表情を作った。

「まず君がディックに注意をひきつけられた事。彼は私の最初の作品でね。言わば超能力者を友釣りするための餌なのだよ。それに魔術師が掛かった。稀有の事だ」

シマックは固まった俺の周りを回りながら、好奇心を隠し切れない口調で話し始めた。

「そして君自身。驚いた事に魔術使いだ。いやいや、君は言っていないよ、読んだのだよ。ふむ、何故か表層意識だけしか読めないな。これも調べてみる必要があるか……」

ぞっとした。じゃあ俺の秘密が……俺は必死で心の奥に意識を潜り込ませた。

「だんまりかね? もう遅いよ。君の魔術も読ませてもらった、実に興味深い。完全な複製を作る投影魔術とはね。しかも君はそれを資質で行っている。その意味で君の魔術は超能力に近いのではないか? 私はそう考えてみたわけだよ」

シマックの言葉は、怒りと困惑でぐるぐる回る俺の頭の中でも、どこか納得するところがあった。つまり、あれだな。いつか遠坂が言っていた脳のホルマリン漬けって奴にされそうだって事か。

「さて、いくら自由自在といっても、これだけの能力を維持し続けるにはかなり集中が必要でね。これはこれで辛い。暫く眠ってもらおう。その間に君の心を入れる人形も作らないといけないからね」

シマックの瞬きと同時に、いきなり頭を内側から・・・・・・殴られた。意識が真っ暗な閃光に包まれていく。
こいつも超能力なのか? そんな漠然とした思いを最後に、俺は闇の世界に埋没して行った。


士郎くん、ホルマリン漬けの危機。
なにせ士郎くん。見過ごす、とか放っておく事が出来ない人ですから。
ふとした街中の違和感に吸い込まれるように捕われ、ついに囚われてしまった士郎くん。
凛もセイバーもルヴィアもミーナも居ません。今回は士郎くん唯一人。
魔術使い vs 超能力使い、勝負の行方はどちらに。
それでは、後編をお楽しみください。

By dain

2004/10/27 初稿

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