「……つぅ……」
後頭部の鈍い痛みと共に俺は眼を覚ました。とはいえ、意識は未だぼんやりと霞が掛かったような状態だ。俺は取敢えず周囲を見渡した。
どうやら、今の俺は薄暗い部屋に閉じ込められているようだった。一切窓のないむき出しの石壁に囲まれた部屋、えらく湿っぽい。その上扉はご丁寧に鉄格子だ。文字通りの地下牢。こんな部屋、映画か観光用のアトラクションでしか見たことないぞ。
そんな事を考えながらふと視線を落すと、地下牢の中央に俺ががっくりと項垂れたまま、縛り付けられて椅子に座らされている。
どうやら気を失っているようだ。後頭部を見たところ瘤はない。やはりさっきの衝撃は内側から来たものか……
「あれ?」
そこで気がついた。何で俺は俺を見下ろしてるんだ? しかも、俺はどう見ても気を失っている。
「やっぱり来てくれたんだね。お兄さん」
呆然とした俺に後から声が掛かる。慌てて振り返ったが誰も居ない。
「……おかしいな……」
首を捻りながら再び前を向いた俺の目の前に、いきなりその姿が現れた。
リチャード・シマック。蝋人形の少年。
哀しそうな微笑を浮かべ、“ディック”はふわりと浮いたまま静かに俺を見詰めていた。
せいぎのみかた | |
「最強の魔術使い」 | −Emiya Family− 第七話 後編 |
Heroic Phantasm |
「ごめんね。ここまで来てもらったけど、アルが起きているうちは、僕は何も出来ないんだ」
「いや、そんな事は良い。それより、どうなってるんだ?」
本当に済まなそうな顔をするディックに、俺は首を振りながら聞いてみた。何をするにせよ、まず現状の確認だ。
「うん、お兄さんはまだ寝てる。アルは眠っていても僕を縛っていてね、こうして夢に潜り込むことくらいしか出来ないんだ」
成程、つまり今の状況は幽体離脱とかじゃなくて、俺の夢の中って事か。
「そうか、これが催眠能力者の力ってわけか」
納得はいった。友釣りとかも言っていたから、こういった能力を使って、シマックはあの蝋人形館の前にディックの幽体を見せていたのだろう。
「アルに聞いたんだね」
「……ああ、君をその……」
「超能力の道具にした」
一層哀しそうな顔をしたディックだが、俺が少しばかり言葉を詰らせながら尋ねてみると、しっかりとした声で応えてくれた。
凄く哀しかった。そしてえらく腹立たしかった。あいつは兄弟だってのになんて事を……
「こんな事に巻き込んじゃって、本当にごめんなさい。でも、誰かに助けてもらいたかったんだ」
「それは構わない」
そう、それはちっとも構わない。俺は最初からディックを何とか助けたいと思っていたのだ。
「だが、正直どうして良いか分からないんだ。大体の事情は掴んだんだが、具体的には何をどうして良いものか、それに、第一今の俺はこれだろ?」
俺は首を振って、眼下で見事に伸びている俺を指し示した。助けるといっても、今の俺自身がリアルで大ピンチ。文字通り手も足も出ない。
「それを伝えに来たんだ。付いてきてくれる?」
「おう、構わないぞ」
どの道、今は夢の中。とにかく俺はふわふわと漂いながら、ディックに付いて行く事にした。
さすが夢の世界。しかも今の俺はディック同様に幽体になっているらしい。ドアも鉄格子も素通りだ。どうやら夢の中でも俺の解析能力は有効らしく、俺は館の構造を把握しながら、ディックに続いてふわふわと壁を透きながら進んだ。
道すがら、ディックはシマックとの事を話してくれた。魔術師と超能力者の双子、その生い立ちまではシマックの話とさほど変わらなかった。
双子ゆえの繋がりからだろう。シマックはその頃からディックを通じて超能力を使う事が出来たという。
「僕はそういう悪戯は余り好きでなかったけど。アルはどんどん夢中になっていった」
だから、ディックは極力シマックとのラインを閉ざすようにしていたらしい。だが、シマックが魔術師として転移の魔術を習得した時、ディックはシマックに封じられてしまったという。
「あの頃はまだ小さな人形で、アルはそれほどの力を僕から引き出せたわけじゃなかった。けど、アルはどんどん大人になっていって」
ついに、蝋人形という素材にたどり着いた。完璧な外見のコピー、完璧な共感魔術の素材。ディックは結局それに封じられ、シマックのなすがままになってしまったという。
「それからなんだ。アルは僕を使って超能力を持った子供たちを集めだした」
超能力者は子供の方が強い。大人になると力が失われたり、大人の能力者でも子供の頃の方が強かったりする。
しかも、超能力者はある意味厄介者だ、中には精神障害と断定される者もいる。居なくなっても、突然死んだといわれても。誰もさほど気にはしない。
「それでも両親とか肉親は……」
「アルはね、凄く狡賢いんだ。アルが選んだのは、親さえも心の底では怖がっているような子供たちばかりだったんだ……」
そういう波長にディックを調整して、超能力者を集めたという。孤独で、誰からも忌避される子供たち。友釣りとはよく言ったものだ。腸が熱くなる。ぐつぐつと湧き上がる何かを吐き捨てたくなる。
「……ここが僕達の“家”」
ディックに案内された部屋。そこは丁度、あのディックたちの蝋人形が置かれて部屋の裏側に当たる場所だった。
壁の両側に並んだ、赤い液体の詰ったガラス管。そこに子供たちが居た。眠るように目を瞑り、全身に何か管のようなものを突き立てられた子供たち。これが……シマックの言う“道具”という奴か……
ギリッ
思わず奥歯を噛み締める。これは……許される事じゃない。人が人を贄にする。それは到底座視できるような事じゃない。
「アルは僕たちの力をここから引き出しているんだ」
ディックは先に立って歩きながら、一人一人の力を説明してくれた。
念動力
「アルは千里眼
そして一番新しい管を指さした。そこに入っていたのは……あの子は!
「俺が見た子供だ……」
「うん、まだ人形が完成していないから、アルはこの子の力は使えないんだ」
だからアルに見られない様にね。ディックはそう言うと更に奥へと俺を導いた。
「なんとか……出来ないのか?」
一番奥、ひときわ大きなガラス管の中で眠るディックを前に。おれは隣で同じように自分を見上げるディックに声をかけた。こんな事は、なんとしてでも止めさせなきゃいけない。
「ここの僕達には“心”がないんだ。だから、この管から出してもらってもずっとこのままなんだ」
“心”を解き放って欲しい。ディックはそう言った。
「……蝋人形か」
「うん、あの入れ物を壊してくれれば、“心”はこっちに戻ってこれる。そうすれば……」
「助けられるんだな?」
「……うん。そうしてもらえれば僕達は救われる」
どこか寂しげに自分を見上げながら、ディックは応えてくれた。
ならば、ならば後は俺の仕事だ。眼を覚まし、あの牢屋から抜け出し、人形を壊し、ここの子供たちを助け出す。
どうすれば良いかは、そのとき考えれば良い。道筋さえ決まれば、後は止まらず進んでいけば良い。そうすれば、必ずゴールにたどり着ける。この子供たちを助け出せる。
「アルの事だけど……」
「ああ、邪魔さえしなければ手を出すつもりはない」
「……お兄さんは優しいね」
アルが邪魔をしないわけがないじゃない、とディックは哀しそうに微笑みかけてくる。だからこそ、だからこそ言えなかった。結局はシマックを排除しなければならないかもしれない。だが、今ここでディックにそれは言えなかった。だから言ってしまった。後で、必ず後悔すると知っていて、それでも俺は言ってしまった。
「大丈夫だ。俺はね“正義の味方”なんだから」
それを聞いてディックは、大きく目を見開いて俺の顔を見詰めた。そして、初めて心からの笑みを浮かべてくれた。
「有難う。お兄さんが来てくれて本当に良かった」
それは俺が心から守りたいと、そう思わせるほどの笑顔だった。
「とはいえ……どうしたもんかな」
次に俺が眼を覚ましたのは、あのじめじめした地下牢の中だった。勿論縛られたまま。それどころか、身体全体が麻痺した状態だ。念のいった話だ。
「まずは、確認か……」
俺はまず自分の心を身体の中に染み渡らせた。案の定、全身の神経と言う神経の全てに魔力を流され、麻痺させられている。が、
「……よし、いける」
魔術回路だけは健在だった。シマックは超能力使いとしては一流かもしれないが、魔術師としては今一なのだろう。鍛えぬかれ堅牢な俺の魔術回路に気付かず、ただ魔力を流し込んだだけで満足していたようだ。
「――同調開始
となれば手はある。魔術回路で練った魔力を、全身の神経に流し込み、シマックの魔力を洗い流す。かなり強引ではっきり言って身体に悪いやり方だが、俺の特異な神経ならば、こんな力技にも耐えられるはずだ……
「――ぐっ!」
ああ、くそ。やっぱり血管が何本か切れたようだ。口いっぱいの喀血と引き換えに。俺は全身の自由を取り戻した。まずは第一段階成功。
「ああ、くそ。やっぱりきっちり結界で包まれてるな」
もしやと思い、まずランスへとラインを伸ばしてみたものの、やはり見事に館の壁に阻まれてしまった。
俺がここに入るまではきっちり隠してあった結界だが、今はかなりの強度で張り巡らされているようだ。とはいえ、これは予想済み。さて、次はロープか……
俺はまず自分を縛っているロープをじっくりと見据えた。特に魔具というわけじゃないようだ、これなら……そのままロープの位置を把握する。そして天井を見上げる。ロープの位置を再構成し座標を決め――
「――投影開始
――天井間際に短剣を投影する。
「どわぁ!」
あ、危なかった。天井から真っ直ぐ落ちてきた短剣に、小指を持っていかれかけた。ただロープも切れた。ちょっと血は出たが、我慢できない痛みじゃない。俺はシャツをちぎって血止めをすると、第三関門。鉄格子に向かった。
「ただの鍵だな……元々あった奴かな?」
これは得意だ。そのまま錠を解析すると。短剣の切っ先で抉じ開ける。いつの間にか本当に鍵明けが上手くなっちまったな……
「さて、問題はここからか……」
俺は頭の中で、この館の構造を再確認した。まだ空白部分はかなりあるが、この牢からシマックの工房へ、そして玄関まで、必要な道順と構造は十分把握できている。シマックが何処に居るのかがわからないのが今ひとつ不安ではあるが、出来る。俺はそう確信する事で、これから止まらずに進み続ける意思を手に入れた。
地上に上がり、俺は慎重に廊下を抜け、部屋を渡って工房へと続く隠し扉のある書斎へと向かった。ここまでは上手く進めた。しかし、工房にたどり着いてしまえば必ずシマックに気付かれる。あとはどれだけ早く蝋人形を壊せるか、それに掛かっているだろう。
「――っ!」
慎重に書斎の扉を開け、そっと覗き込んだ俺は一瞬息を飲んだ。デスクの脇に立つ人影、見つかったか!
「…………」
慌てて身を潜めて出方を伺う。が、動きはない。もう一度そっと覗き込んでも人影は微動だにしない。俺は思い切って書斎に足を踏み入れた。
「……なんだ、蝋人形か」
いつの間にか、外は夜になっていたようだ。窓から差し込む月明かりを浴び、デスクの傍らに立っていたのは蝋人形だった。どこか見覚えがある。
ああそうか、あの蝋人形館の老人の人形か。俺はほっと息をついて、書斎の隠し扉へと向かう事にした。
「……よかった。機械錠だ」
これなら俺にも開けられる。呪式錠だと複雑なものなら俺には無理だ。それこそ扉を叩き壊して行くしかない。そう思って俺は錠の解析をしようとした、その時だ。
「……あんな人形。無かったぞ……」
思い出した。シマック卿に連れられて工房へと降りていった時。幾らかはシマックの催眠能力で判断が鈍らされていたとはいえ、その事は覚えている。間違いなく、あんな人形はなかった……
―― 交!――
ぞくりと背筋に走った悪寒、俺はとっさに振り返り、俺の頭に向かって振り下ろされた人形の腕を、手に持った短剣で受け止める。
「――がっ!」
ギリギリ受け止めた蝋人形の腕。短剣を食い込ませたまま、更に力を加え押し込んでくる。重い……なんて力だ、とてもただの人形のものとは思えない。これは……くそ、機像だ。しかも、この手応えは……中に鉄骨でも入ってるんじゃないだろうか。
「くっ」
俺は人形の胸を蹴り上げ、横に転がって機像の重圧から逃れる。
だが機像は思いのほか早い、次から次へと振り下ろされる拳を、俺は転がり、飛び退き、必死で逃れる。その都度、本棚が、ソファがけたたましい破砕音を上げて打ち壊されていくが、もうそんな事に構っている暇は無い。俺は必死で機像の攻撃を避け続けた。
「ちっ!――――投影連続層写
ここまで来て俺は覚悟を決めた。こいつはちょっとやそっとでは止まらない。
一気に十本。
それだけの魔剣を頭上に投影するやいなや、俺はそのまま機像に向かって一斉に叩きつけた。
―― 機機機……――
「なんて奴だ……」
これだけの剣を身に受け、床に貼り付けにされて、機像は尚も蠢いている。
俺は荒い息の中で右手に干将を投影すると、機像の首を、両手を、両足を残らず胴から切り離した。
「がっ……」
そこまで終えると、思い出したように胸から何かがこみ上げてきた。俺は血と胃液の混合物を吐き捨てると、思わず床にへたり込んでしまった。一気の投影で、さっき無理やり身体に魔力を流した時の傷口が開いてしまったようだ。拙い、これだけの大騒動をしたんだ。とうにシマックは気が付いている。早く仕事を片付けなきゃ……
「やれやれ、随分と汚してくれたものだ」
……遅かった。
いきなり、工房へ続く隠し扉が開くと、どこか楽しげな笑みを浮かべつつ、シマックが姿を現した。拙い!
―― 奢!――
間一髪。俺が身を躍らせると、今まで俺が居た場所に天井からシャンデリアが降り注いだ。
――だからアルに見られない様にね。
ディックの警句が脳裏に響く。俺はとっさにデスクの影に身を潜めた。
「ほう……ディックか。あの子に教わったんだな?」
困った子だ御仕置きをしなくてはな、と呟きながらシマックは徐に指を鳴らした。
「ちっ!」
明かりだ。月明かりしかなかった部屋が真昼のような明るさに包まれる。しかも光源は奴の方向。これでは影で場所を特定されてしまう。
俺は更に身を縮こまらせて、考えをめぐらす。結局視線が通らなければ術を行えないのは俺も一緒だ。足音を頼りに投影したところで、そんなものは簡単に避けられてしまう。
「さて、いつまで隠れているつもりかね? ディックを救うなら、私をどうにかしないと拙いんじゃないかな?」
揶揄するような口調でシマックは俺の出方を伺っている。拙い、このままじゃ、俺は必死で周囲を見渡した。なにか……なにか……
と、視線の隅に光源が光った。おかしいここからは直接見えないはず……
――あった。
窓を覆うカーテンの陰、僅かに光る窓。先ほどまで月光を透かしていた硝子は、今は鏡のように光源を反射していた。そして、そこにシマックの姿も。
まだ、あいつはまだ気が付いていない。これなら、これならば外さない。勝負は一瞬、さっきのように一気に畳み掛ける。ゆっくりとデスクを見据えて近づいてくるシマックの鏡像を頼りに、俺はありったけの設計図を頭の中に構築し、息を一つだけ呑んでから小さく呪を紡いだ。
「――全投影連続層写
「ぐっ!」
決まった。
シマックの頭上斜め上、円を描くように投影した十本の剣。投影する傍から一気に叩き落とした剣の群は、半ばは避けられたものの、残る半分は見事にシマックの身体を貫いた。
「済まない、ディック」
君の兄さんを倒してしまった。三度こみ上げる吐血に耐え、俺はもう一度息をつくと、改めて窓に写ったシマックに視線を移した。
「な!」
「見事なものだ……」
言葉が出ない、身体も動かない。そこには未だシマックの立ち姿が映っていた。五本の剣に胸を貫かれ、それでもまだ奴は感心するように首を振り、己を貫いた剣を引き抜いている。
「全て本物の魔剣ではないか。これほど完璧な投影とは……素晴らしい」
蘇生? いや違う。奴からは血の一滴も零れていない、まるで傷さえついていないかのようだ。それに……あの剣の曇り……蝋?
口も利けず、ただ唖然と見据える俺の視線に、鏡像のシマックの視線が重なる。
しまった!
「そこか」
「ぐっ!」
右手の干将を窓に向かって叩きつけるのと、デスクの引き出しが飛び出し、俺の左腕を叩き折ったのは、ほぼ同時。
投影の反動、腕の折れた痛み。どちらも今の俺には構っている暇は無い。硝子の割れた一瞬、その一瞬、視線が途絶えた隙だけが今の俺の意識の全て。
俺はその一瞬を逃さず、デスクから身を躍らし、廊下への扉に身体ごと叩き付けた。
「やれやれ、慌しい客だね、君は」
廊下に転がり出る俺の背に、シマックの軽妙な声が重なる。くそっ!
俺は悪態をつきながらも全力で廊下を走った。考えておくべきだった。本体を離れ寄り代に精神を移す魔術師。俺はそんな魔術師を知っていた。
シマックの魔術は超能力に加え、それを道具に設える為の精神の転移。ならばそれを自分に行っている可能性は十分に考えておくべき事だったはずだ。
「何処に行くんだね? 逃げるのかね? だが、私が追いつく前に結界を破れるかな?」
嘲うかのようなシマックの声も、今の俺にはただ距離を測るための音源に過ぎない。俺は必死で答えを探った。奴自身は蝋人形じゃない。なのに剣に蝋がついていたって事は……
やつの魔術は転移、ならば傷そのものを何処かに移したか。それは多分、蝋人形……それも己にそっくりな……
「あれか……」
一つの可能性。俺はそれに賭けてみる事にした。俺はアルフレッド・シマックを二体見ていた。一体は今、俺を追いかけている奴だ。そしてもう一体は……
「やはり逃げるか。興ざめだな」
俺は玄関に向かって必死で走った。逃げると思われたのなら好都合。それなら、俺の目論見は気付かれない。俺は生汚いほどの必死さで玄関に向かって走り続けた。
「あった!」
シマックに弄ばれながら、俺はついに玄関ホールに辿りついた。
そこのはまだそいつがあった。正面階段の上、玄関ホールの三面設えられたテラスの真ん中に、まるで生きているかのようなシマックの人形。
間違いない。じっと見上げたまま素早く解析して、俺は自分の推測が間違い出ない事を確認した。これはただの人形じゃない。この人形には息吹を、命を感じる。ここに奴の本体が居る。
あとは階段を上がるだけ。廊下にはまだシマックの姿は見えない。間に合う。俺は階に足を掛けた。
「いや、危なかった。危うく間に合わないところだったかな?」
その時、いきなり二階の扉が開いた。右手のテラスの半ば、まるで隠れんぼの鬼が相手を見つけたときのような笑みを浮かべ、シマックが姿を現した。
だが、まだ間に合う。俺は一気に階段を駆け上がるべくダッシュした。
「――なっ!」
が、それを待っていたかのように階段を覆っていた絨毯がいきなり引き上げられる。拙い、俺はそのまま真後ろに階段から叩き落された。
「――ぐぅ!」
強かに後頭部を打った俺の耳にシマックの哄笑が響く。くそっ、なんとか……そう思って開いた目の前に天井からシャンデリアが迫ってきた。
「でぃ!」
のんびり寝ている暇も無い。俺は横に転がり間一髪でシャンデリヤを避けると、そのままの勢いでシマックと反対側の階段の陰に身を躍らせた。
「いやいや、なんとも危機一髪の連続ではないか。まるで映画でも見ているようだよ」
ふざけやがって、そういう形に仕向けながら甚振っているんだろうが!
悔しさに思わず怒鳴り返しそうだ。だがこれ以上、真正面から挑むのは無意味だ。あいつの力はワンアクションどころかノーアクション。瞬時に発動されては相打ちさえも難しい。
何か無いか……俺は玄関ホールのそこかしこに設えられている鏡に眼を走らせた。駄目だ、どれにもどちらのシマックも映ってはいない。尤もこれはあいつからも見られていないって事だが。
「くそ、弓が使えりゃ……」
俺は右手に再度干将を投影しつつ、折れた左手を見下ろして歯噛みした。弓が使えればもう少し選択肢が増える。だがこの腕では使えない。視界に納めても投影では奴の念動力に一拍遅れる、人形の傍らまで行かない事には決定打は打てない。
「ふむ、顔を見せてくれないのでは仕方がない。こちらから探るとしよう」
その声と共に、数枚の鏡が壁から引き剥がされた。ふらふらと、何かを探るように浮かび上がりくるくると回転を始める。拙い!
俺は必死で鏡の視線から逃れながら考えた。手が……手があるはずだ……
くそ、このままじゃいずれ捕まえられる……
「! 鏡か」
一か八か、俺は勝負に出る事にした。
「――連続投影開始
「ぬ!」
一瞬だけ、奴の表情に困惑が走る。奴が操る数枚の鏡、その周囲にいきなり十枚以上の鏡が現れたのだ。この隙に、俺は階段の陰から飛び出した。
「ええい! ちょこまかと!」
無数の鏡に俺の鏡像が次々に浮かび上がっては横切っていく。よし、混乱している。次々と俺に襲い掛かってくる燭台や花瓶、額縁や帽子掛けも今ひとつ狙いが甘い。これなら……俺は一気に階段の正面に躍り出た。
真正面にテラスの右手に立つ奴の姿が映る。俺は躊躇無く干将を投擲した。
「馬鹿め」
シマックの嘲笑。奴は避けようともしない。当然だろう。奴の身体に干将が突き刺さっても傷にさえならない。鏡の割れる音の一瞬前。俺は奴の念動力
「――がっ!」
叩き付けられた玄関扉に背を持たれかけ、ずるずると崩折れながら、俺は朦朧とする意識の中で首を右に回し、シマックを見た。胸の中央、ぱっくり開いた傷口から真っ赤な血が流れ出している。
「……ば、馬鹿な……」
シマックは驚愕に目を見開き、階段の正面に立つ蝋人形を見据えている。俺もまた口の端を僅かに歪め、真正面に視線を移す。階段下には割れた鏡、そして階段上の正面には、胸に干将が深々と突き刺さったシマックの蝋人形。
「か、鏡か……」
がっくりと膝をついたシマックは搾り出すように呟くと、そのままテラスに崩折れた。
そう、俺は階段の正面に、斜めに姿見を投影したのだ。その真っ直ぐ先はシマックの蝋人形。だが、視線は鏡に曲げられシマック本人を映す。そしてシマックから見れば、真正面から干将を投げようとする俺が映っていたはずだ。
周りの無数の鏡に幻惑され、真正面から干将を投擲する俺を見て、シマックは自分に投げられたのだと勘違いしたのだ。
「……早く……しないと」
俺は消え入りそうになる意識を励まし、立ち上がった。シマックは魔術師だ。この程度では死にはすまい。だから、奴が意識を取り戻す前に、仕事を済ませておかなきゃならない。あの子供たちの蝋人形を叩き壊して、あの醜悪な管から救い出す。
俺は覚束無い足取りで、もう一度シマックの工房へと取って返した。
シマックの工房で、俺は次々と蝋人形を壊して行った。
人形といっても、あの子供たちにそっくりの姿をした蝋人形だ。余り気持ちの良いもんじゃない。まるで人間を壊しているような、そんな錯覚に捕われてしまいそうになる。
ただ、壊すごとに何かが解放されていく気配は感じた。だから、俺はそれを励みに、必死でこの呪われた蝋人形を壊して回った。
「これが終わりだ」
多分、俺があの蝋人形館の前で見かけた少年のものだろう。作りかけの蝋人形を壊し、俺は最後にディックの人形の前に立つ。
「直ぐに行くからな」
俺は一つ息をつくと、最後の蝋人形を真っ二つに叩き切った。さあ、あと子供たちを助け出すだけだ。
――ありがとう……――
――ありがとう、お兄ちゃん……――
「…………」
硝子が砕ける。砕けるごとに血のような液体が工房に飛び散り、床を、壁を、真っ赤に染める。
――ありがとう……――
――本当にありがとう……――
――お兄さんありがとう……――
俺はくるぶしまで真っ赤な液体に浸かった工房の床を踏みしめ、ふらふらと前に進む。その都度、硝子が砕ける、真っ赤な液体が飛び散る。俺はそれをまるで浴びるかのように身に受け、尚も前に進んだ。
「なんなんだよ……」
俺は、そのまま、ディックの前で進み、搾り出すように呟いた。
「なんなんだよ! これって! 一体なんなんだよ!」
俺は叫んだ。既に砕かれたガラス管の前、床に零れ落ちた醜悪な灰色と、微かに脈打つ血色の肉魁の前で俺は叫び声を上げた。
――ありがとう……――
――本当にありがとう……――
――お兄さんありがとう……――
頭には未だ子供たちの声がこだましている。止めてくれ……感謝なんかしないでくれ! 俺は、俺は……
――嘘をついてごめんなさい。お兄さん。
新たな声が脳裏に響いた。ぴくぴくと蠢く肉魁、俺はその前に跪いた。
「……ディック」
――本当にごめんなさい。でも、お兄さん優しいから。本当の姿を見せたら。きっと僕達を殺してくれなかったでしょ?
「ふざけるな!」
部屋中に、砕けたガラス管の合間と言う合間に、残らずぶちまけられた脳髄と脊椎と心臓を前に、俺は叫んだ。ふざけるな。だからって……
気付いてしかるべきだった。シマックは“脳”と言っていた。魔術の道具に超能力者を使うなら、手足も身体もいらない。命と精神の基幹、脳と心臓さえあれば良い。そんな事、気がついて良かったはずだ。
「俺は……助けたかったんだ」
――僕たちは助かったよ、お兄さん。心が戻ったから僕たちはこの硝子を砕けた。こんな姿のまま生きる事から逃げられたんだ。ありがとう。
違う、死は救いなんかじゃない。終わりなんだ……
だが、同時に俺は分かっても居た。こんな姿で生き続ける事に意味は無い。だから、きっとこの子達は死ねて幸せなんだって……
「違う! 違うだろ? ディック」
だが、そんな事は欺瞞だ。本当は生きたかった筈だ。生きて幸せになりたかったはずだ。
――……そうだね。嘘だね。
俺の叫びにディックの声が、僅かに変わった。どこか大人びた、俺よりもずっと年嵩の声音。
――僕ももっと生きたかった、自分の足で立って、自分の手で持って、自分の目で見て、自分の口で喋りたかった。でも、感謝は本当だよ。皆で決めたんだ。このまま生きるよりはましだって。
「なにか……何かやり方が……」
俺は足掻いた。まるで駄々っ子だと心の片隅で思ってはいたが、足掻いた。こんな結末以外、何かがあったはずだ。なにかが……
――ごめんね、お兄さん、お兄さんがそういう人だと最初から分かっていれば、こんな事は頼まなかったのに。これだけは本当に謝らなくちゃいけないね。
ふるふると震える脳が、徐々に小さくなりながらも、しっかりとした意識を送ってくる。
――でも、これだけは忘れないで。僕たちはお兄さんに感謝している。不可能だと分かっても、それでも最後まで僕たちを救おうとしてくれた事を本当に感謝している。 ありが……と……う……
それを最後に、子供たちの声もディックの声も消えた。
真っ赤に染まった部屋で。俺はディックの前で跪いたまま、呆然とするだけだ。
わかっている。わかってはいるんだ。
だが納得は出来ない。こんな、こんな結末は間違っている。俺は、こんな結末を迎えない為に戦ってきたんじゃないのか。
「……切嗣」
あんたはいつもこんな事を経験しながら戦ってきたのか? 何かを切り捨て、何かを救ったと思い込んで突き進んでいたのか?
「……アーチャー」
これなんだな……救い上げようとしても零れ落ちていく欠片、何度も何度も掬い上げて、それでも零れ落ちていく命。お前もこれを見てきたんだな。
「…………」
ならば、ならば立たなけりゃいけない。切嗣やアーチャーの進んでいった道を、俺も進むと決めたのだから。
わかっていたはずだ、それがこんな道だって、俺は重々承知していたはずだ。その上で、俺はこの道を進むと決めたんじゃないのか?
この道は辛すぎる。心を殺して、感情を凍らせ無ければ耐えられないかもしれない。現に、今、俺の心は悲鳴を上げている。
「……忘れないからな」
これから、俺は何度もこんな事を経験し続けるだろう。その度に心は悲鳴をあげ、胸は張り裂けそうになるだろう。
だが、殺すわけにはいかない、凍らせるわけにはいかない。
凍らせてしまえば、殺してしまえば、俺はディックたちの事を仕方がないと認めてしまう事になる。たとえ、実際にはその道を辿らなければならないとしても。それが全て、遠く届かぬ理想だとしても。俺は、最後まで全てを救う為に足掻く事を止めはしない。
俺は、その上であの二人の後を追いかけるって決めたんじゃないか。
俺はふらふらと立ち上がった。無様に何度も転びながら、それでも崩れようとする膝を励まし立ち上がった。
だが、俺には未だ次の一歩を踏み出す力までは戻っていなかった。多分、この時の俺は、まだほんの少しだけ休息が、救い欲しかったのだろう。次からこの事に耐えられるように、耐えながら前へ進めるように。
だから俺は、この事を、生涯感謝し続ける事になるだろう。
「士郎!」
「シロウ! 何処ですか!」
ランスがわたしにお弁当を届けに来た時。わたしはちょうどこの男の情報にたどり着いたところだった。
その時はまだ、士郎がそいつの屋敷に行ったと聞いてもさほど危惧はしていなかった。だが、シマックの情報を調べるうちに、雲行きが怪しくなってきた。
巧妙に立ち回った為に時計塔は黙認していたが、こいつは研究の為に超能力者を拉致し、分解することも平気でしていた。
その結果、こいつはついに各種超能力の魔術化に成功したらしい。曰く念動力。曰く、発火能力。曰く精神感応。まずい、こいつは士郎の秘密を探り出してしまう。
だとすれば、こういう奴が士郎のような素材を放っておくわけがない。
ランスのラインを断たれた事でわたしの疑念は確信に代わった。
それからわたしはセイバーを引きつれ、蝋人形館に乗り込んで、暴れる蝋人形を叩き壊し、その術式からシマックの屋敷の位置を割り出した。
そして今、真夜中近くなって漸く、セイバーと共にこの屋敷に乗り込んだのだが……
「凛、これは……」
「間違いないわ。士郎ね」
既に事は終った後のようだった。
戦場跡のような玄関ホールに倒れていたシマックの治療と拘束を済まし、わたし達は屋敷の奥へと突き進んだ。
玄関ホールの様子から、士郎が投影を使いまくって戦ったのは明らか。何処に居るかはわからないけど、外へ出た様子も無い事から、この屋敷の何処かに居るはずだ。
「……凛!」
戦いの跡を追い、わたし達が書斎に辿り着いた時だ。
地の底から、何か獣のうめきのような声が響いてきた。悲哀と歓喜、苦悩と感動、絶叫と号泣の入り混じった雄叫び。
「! 士郎!」
こんな声は聞いた事も無かった。だがわたしにはわかった。これは間違いなく士郎の声だ。
開いたままの隠し扉を潜り、わたし達は地下へと急いだ。地下には砕かれた蝋人形の部屋と、血のように真っ赤な池に覆われた部屋。
「……士郎」
「……シロウ」
その真っ赤な部屋の真ん中に、真っ赤になった士郎が居た。
跪き、折れた腕に子供を抱え、天を仰いで慟哭する士郎が居た。
悲しみと喜び、絶望と希望を込めた咆哮を上げている士郎が居た。
その叫びは胸が張り裂けそうなほど哀しいくせに、泣き出したいほどの感謝の気持ちが込められていた。
「残念だけど、シマックはお咎めなし。あいつは魔術師の則を犯してたわけじゃない。ただ士郎は正当防衛を認められたわ」
「そうか」
わたしの言葉に士郎は何の感慨も抱かずに応えを返してくる。
「でも無事って分けじゃないわ。あいつもう魔術師じゃないし」
そう、もうシマックは魔術師ではない。臨死体験のせいか、それともディックが引っ張っていったのか、シマックの魔術回路は焼き切れもはや用を成さなくなっていた。かと言って唯の人に戻れるわけでもない。魔術の神秘を知ってしまったシマックは死ぬまで時計塔に隠匿され続けることだろう。魔術師として、これは死よりもおぞましい結末だ。
「そうか」
だが、やはり士郎に反応はない。目を瞑り掌を組み、どこか硬い姿勢でソファに座っているだけだ。
わたしは溜息を押し殺しながら話題を換えてみる事にした。
「あの子は両親が引き取っていったわ」
「そうか」
同じ科白ではあったが、漸く士郎の声に感情が戻った。安堵するように小さく息をつく声音。
「うん、お母さんが泣きながら抱きしめてた」
「良かった」
今度は心から安堵するような溜息をついて、士郎はソファに身を沈めた。
士郎があの屋敷で抱きしめていた子供。記憶を操作し、ハムステッドヒースで迷子になっていたところを保護された事になっているあの子供は、シマックの犠牲者唯一の生き残りだったと言う。
超能力者から脳髄と脊椎、それと心臓を生かしたまま摘出し、精神を分離、超能力を発動する魔具とする。
これがシマックの魔術だった。あの子は幸い、その施術の前に士郎が助け出せたらしい。
「……士郎?」
だが、それは逆に言えば助けられ無かった多くの子供がいたということ。あの後ポツリポツリと士郎が教えてくれた話。ディックの事、士郎に感謝して死んでいった子供たちの事。
士郎がそれをどんな気持ちで見送ったのか、それはあの慟哭を聞いたならばわかる。
仕方がない事。普通そう思って切り捨てる事を士郎は出来ない。理解はしている、でも決して納得はしない。納得しないで、例え不可能であっても最後まで足掻き続ける。それが衛宮士郎という存在なのだ。
わたしはソファで安堵したように目を瞑っている士郎の顔を、そっと伺う。
無意識のうちに探していたのだ。あの、赤い騎士の面影を。あいつはそんな人生の涯、更にただその苦い果実だけを味わい続けた結果、あの姿になってしまった。
わたしは、士郎をあいつにしない為にここに居る。だってのに……
「俺は、今度同じ事があっても同じ事をする」
まるでそんなわたしに応えるように、士郎は眼を開いた。
「つらく……ないの?」
「辛い、胸が張り裂けそうに辛い。でも、これを辛いと思い続けなきゃいけないんだ。その上で前に進まなきゃ」
しっかりと力強い瞳で、士郎は真っ直ぐわたしの目を見返しながら応えてくれる。
でも大丈夫だろうか、こんな事を繰り返して、何も得られなくて、結局擦り切れてしまわないだろうか。わたしは怖かった。
そんなわたしの不安が顔に出たのだろうか、士郎がにっこりと微笑みかけてくれた。
「大丈夫だよ、遠坂。俺はこれからも頑張っていくから」
言葉が出なかった。
この状況で、この顔で、この笑みで、この言葉を言われちゃうとは……
支えなきゃならないところで、こんな風に支えられちゃうとは、遠坂凛一生の不覚って奴だ。
「うん、わかってる。わたしも、頑張るから」
わかった、あんたが磨り減ったら、その分わたしが盛ってやる。わたしは士郎の手を取って微笑み返してやった。
良いでしょう、士郎。わたしが一生あんたに付き合ってあげるから。
その代わり、今度からはわたしも連れて行きなさいね。一人でなんて、絶対に行かさないんだから。
END
せいぎのみかた のお話でした。
頑張って、立ち向かって勝ち残って、それでも掌から零れ落ちていくものはある。どうしても届かない、手遅れになってしまう事もある。
今回は、士郎くんが正義の味方を張り続ける以上、決して避けて通れない道筋を描いてみました。
敗北を知り、それでもなお立ち上がってこそ前に進める。
せいぎにみかた達が通り過ぎていった道に、今漸くたどり着き、踏み越えていった士郎くん。
士郎くんはこれからも、例え無駄でも、無意味でも、足掻き続けてくれる事でしょう。
By dain
2004/10/27 初稿