「さて、本日は鉱物魔術の講義になりますけど、五大貴石は除外します。有名だし、魔術師でなくても概念を理解できます。なにより……」

手元のサンプルに肘を置き、遠坂が落ち着いた物腰で滔々と講義する。

高価だたかいし」

ホールが沸く、特に聴講席。初回ほどではないらしいが、今日も結構聴講生が居る。そうか、有名なんだな。

「まず、水晶クリスタル、各種柱石ペリル。明度と色合いのバラエティに飛んだこれらの石についての概念の変遷と、現状における術式の構成余地についての解説に移ります」

落ち着いたものだ。今回の講義が始まる前に泳いでいた瞳には、今はしっかりと力が篭り、物腰も自信に満ち溢れている。
これなら大丈夫だろう。俺はそんな遠坂に安堵の思いを抱き、聴講席からホールを見渡した。
桜、お前一体何処にいるんだ?





くろいひいろ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第六話 後編
Beelzebul





結局あの後、桜の陰はなりを潜めてしまった。
とは言っても、全く見掛けなかったと言うわけじゃない。それどころか、この一週間俺たちは桜の陰に振り回されっぱなしだった。
頻繁ではないがそれでも一日に一度ほど、出向き先で例の和食の弁当に出会ったり。街のショーウィンドウ越しに、横切るリボンの影を見たりと。本当にわずかばかり、こちらがふと気を抜いた隙に、追いかけるのも手遅れな程さり気無くこちらの視界の隅を過ぎっていくのだ。

「本当にここに現れるのでしょうか?」

「五分五分だろうな」

間違いない。桜は居る。
そして桜は俺たちに捕まらないよう、それで居て確実に俺達の目に留まるように姿を現している。
何でこんな事をするのか理由は分からないが、ここまでくれば、桜がただ単に隠れて倫敦にいるだけでないのは明らかだ。なんていうか、俺には何かを試しているように思えた。
だから、今日この講義で網を張った。遠坂が講義をしている間、内では俺とセイバーがホールの出入り口を見張り、外ではランスが周回している。
遠坂じゃないが、これは一つの挑戦だ。もし試しているのなら、桜はここで何かを仕掛けてくるはずだ。

「以上で本日の講義を終ります。今日の講義についてのレポートは明後日までに提出する事。次回の講義は第二章。虫の概念構成について。しっかり予習しとかないと置いてくわよ」

だが、結局講義の終わりまで桜の陰は現れなかった。
最後にはホールから出て行く人影まで一人一人じっくり観察したが、それらしい人影は見つけられなかった。

「空振りですか……」

「参ったわね、ここに姿を現すと思ってたんだけど」

学生の姿が無くなってから、俺たちは遠坂の待つ教壇に集まった。セイバーも遠坂も、腕組みしながら難しい表情で顔を見合わせている。
それはそうだろう、桜は巧妙だ。今まで手がかり一つ掴ませていない。ここでの仕掛けが空振りに終ったとすれば、それこそ最初に遠坂が言ったように、倫敦中の草の根を分けなきゃならない。

「桜どころか、今日はリボンをつけた女の子さえ居なかったぞ」

とはいえ、こうなるとそれしかないか……そんな事を考えながら、俺も同じように腕組みして二人に加わった。
って言うのに。何ですか、お二人さん。そのまたかって顔は?

「それよ、士郎」

更に揃ってむぅ――と睨みつけてくる。いや、でもしっかり見張れって言ったのは遠坂だろ?

「だからって、何もあんな熱心に女の子ばかり見詰めることないでしょ?」

「シロウは気付きませんでしたか? 幾人か熱いまなざしを返していた御婦人も居りましたが」

え? ちっとも気付かなかった。なんか出口で、妙に女の子達が寄って来るなとは思ってたけど。

「わざとじゃないって分かってても腹が立つのよね、これって……」

「私もそう思います……」

「待て待て、それより桜だろ? 桜?」

俺は、つんと顎をあげて睨みつけてくる遠坂とセイバーから後退りした。

「ほら、まだランスに聞いてない。あいつが何か見つけたかもしれないぞ」

ともかくこの場を切り抜けようと、俺は最後の味方に頼る事にした。

――あ〜、大変残念だが主よ。

だが、俺の使い魔はとっても男には冷たい。ホールの天窓に止まって、どこか楽しげに俺に向かって肩を竦めて見せた。

――桜嬢と思しき人影はこちらでも見かけては居ない。

それ見た事かと迫ってくる遠坂とセイバー。あ、お前らこれ鬱憤晴らしだろう? 桜が見つからないからって俺に当たるのはよくないぞ! 
くそ! ランス笑うな。
なんかもう、窓の外をひらひら舞う蝶々まで、俺の事を笑ってるように見えるぞ。

「え?」

蝶々? しかもあれは黒揚羽だ、十月の倫敦に?

「と、遠坂! あれ!」

「なによ、誤魔化されないわよ」

「そうですシロウ。蝶がどうしたというのですか?」

俺の指し示す先を、訝しげに見ながら詰め寄ってくるお二人だが、ここで漸くはっと気付かれた。

「英国には黒い揚羽などはいません……」

「抜かった……桜は虫使いでもあったんだ」

そうだった。桜の魔術。マキリの魔術はまず虫を操る事。ここ数日各所で見かけた蜂や赤トンボの姿が脳裏をよぎる、そうか、あれも兆候だったのか。

「ランス! 追え!」

――心得た。

「殺しちゃ駄目よ、虫のリンクは細いわ。生きたままじゃなきゃ追えないから」

俺の声に応えて飛び立つランスに、遠坂の声が後を追う。羽ばたきながら小さく頷くランスを見送るのもそこそこに、俺たちは慌ててホールから飛び出した。少しばかり成り行きは違うが、漸く尻尾を捕まえたぞ。




「引っ張りまわしてくれるわね」

俺たちは、そのまま蝶を追ってリージェントパークを駆けずり回った。
蝶は実に良く考えて飛んでいる。あるときは散歩をしている老人の頭の上、あるときは子供連れの母親、そして乳母車の上。つまり人目につくように舞っている。これでは魔術と言う手は使えない。

――主よ、いつまで追う?

ランスの困りきった声が俺の頭に響いてくる。ただ捕えるだけならともかく、この状況で蝶を生け捕りにするというデリケートさは鴉には些か荷が重い。だからずっと追跡と誘導を任せているのだが、このままでは埒が明かないのは一緒だ。

「セイバーの捕虫網待ちだ、もう少し粘ってくれ」

結局俺たちが取れる手段はこれ、夏休みの子供よろしく網を持って追っかける。魔術師と英霊が揃ってやるにはどうよって手ではあるが、昼間の街中、しかもわざと人目につくように飛び回っている相手に、俺達が出来る手は限られている。

「凛、シロウ。お待たせしました」

そこへ漸くセイバーが追いついてきた。柳眉をきりりと引き締め、厳しい表情で凛と叫ぶセイバーなのだが、でかい補虫網を担ぎ、虫かごを襷がけにして下げた姿は、なにか姿かたち以上に幼く見えて、なんとも微笑ましい。

「シロウ、なにか?」

「いやなんでもない」

俺は慌てて、セイバーに向かって手を振る。かと言ってそんなこと言ったらセイバー怒るからなぁ。ほら、今もむぅーと俺を睨みつけてる。

「まあ、良いでしょう。それでは、ランス。案内しなさい」

――王よ、こちらだ。

「しっかり捕まえてよ」

「お任せを、狩猟は王事です」

遠坂の声にセイバーは自信溢れる声音で答える。ちょっと違うような気がしたが、俺たちはセイバーを先頭に、ランスの案内で蝶に向かってそっと近づく……

「ぬ!」

――王よ、それは蜻蛉なのだが……

「分かっています。おのれちょこまかと……」

剣が得意なセイバーさんも、捕虫網は些か勝手が違うようだ。ひらひらと戯れるように舞う蝶を相手に、思いのほか悪戦苦闘している。

「お姉ちゃんこっちこっち」

「ねえ、その蜻蛉、頂戴?」

「セイバー! それわたしの頭! 蝶じゃない!」

必死になってあっちこっちと忙しく、可愛らしい王様は網を振り回す。が、そんなセイバーを歯牙にもかけず、蝶はひらひらと悠然と避け続ける。
それが益々セイバーの網の動きを加速するのだが、周りの子供たちが面白がって囃し立てるものだから、なんか意地になってるようにも見える。なんだかなぁ。ああ、遠坂、そう怒るな。

――王よ急がれよ。そこの枝だ、今度こそ。

とはいえ、ランスはかなり優秀な勢子だ。セイバーさんが駄目駄目でもちゃんと追い詰めてくれている。

「そこですか! 良いですね、動いてはなりませんよ!」

そこにじりじりと網を構えたセイバーが近づく。でもな、セイバー。蝶にそれを言っても仕方がないぞ。

―― 閃!――

それはまさに英霊の速度だった。
電雷とも称すべき翠の閃光は、目にも止まらぬ速度で蝶をしっかりと捕え……

「ああ……」

セイバーの捕虫網は虚しく空を切った。
網を振り下ろし、呆然とするセイバーの傍らの枝。翠の捕食者は満足したように蝶を貪っている。秋の野の王様、蟷螂だ。

――先を越されたか……

「……先を越されたかじゃないわよ!」

ランスの哀しげな一声に、遠坂の怒声が重なる。遠坂、ランスの言った事が良く分かったな。

「此処まで……かな?」

俺たちは、蟷螂の食事が終るのをただ眺めたまま、呆然と立ち尽くしてしまった。満腹したのか、蟷螂は秋の空を滑空するように飛んでいく。
未だ気を取り直せず、ただ、ただ蟷螂を見送る俺たち。はあ、これで今までの苦労は、たかが虫一匹のせいで終わりってわけか……へ? 虫?

「――虫!」

「虫です!」

「ランス追え!」

俺達全員が同時に叫んだ。何で気がつかなかったんだ、蟷螂だって虫じゃないか。

「お、追うわよ!」

「おう!」
「はい!」

こうして俺たちは秋の昆虫採集を再開した。




「蟷螂って野原の虫じゃなかったの?」

「言うな遠坂」

蟷螂はどう飛んだものか、リージェントパークの南、パーク・スクエア・ガーデンを抜け、街の中に飛び飛びにある緑地伝いに、ラッセルズ・スクエアに潜り込んでいった。
蟷螂は蝶と違って、胸に堅い殻がある。上手く立ち回れば、ランスの嘴や足でも捕える事が出来るだろう。だが、人の頭位の高さを車道沿いに飛び回られては、そうそうランスを飛び掛らすわけにも行かない。セイバーの網もここでは恐ろしく場違いだ。なんとかラッセルズ・スクエアで捕まえないと……

「ランス、どっちだ!」

――こちらだ、主! 急がれよ。

「どうした!? 今度は蜘蛛にでもつかまったかの?」

先程と同じようなランスの声音。それならそれでそいつを追っかけるまでだ。

――違う! くっ、抜かれた!

抜かれた? 何に?
ランスの叫びに俺は思わず上空を見上げた。必死で飛ぶランスの前方、ランス同様黒い影、うわぁ早いって……

「ツ、ツバメ?」

ここで糸を切られたら敵わない。素っ頓狂な遠坂の声に背中を押されるように、俺たちは走った。

「凛」

「なに、セイバー?」

「ツバメは虫ではありませんね?」

「残念だけど……」

手遅れだった。どうやら駐車していた車のミラーに止まっていたところを、ツバメの餌食になったらしい。車のドアの下に散らばった、千切れた羽と、鎌のような前足二本だけが草原の王者の名残だった。

「これだけでも何とかできないか?」

「無駄とは言わないけど、かなり難しい。でもやるっきゃないわね」

俺は拾い集めた蟷螂の残骸を包んだハンカチを、遠坂に手渡しながら聞いてみた。それに応えるようにぐっと握り締めながる遠坂。それは良いが余り力込めすぎるとばらばらになるぞ。

「では一旦」

「うん、時計塔の工房に帰るわ。幸い近いし」

それじゃ行こうかと、顔を見合わせた時だ。俺の視界の隅にちらりと特徴ある臙脂のリボンで結ばれた黒髪がふわりとよぎった。

「え?」

慌てて振り向いても、もうその人影は見当たらない。気のせい? いや、でも確かにあれは……

「どうしたのですか? シロウ」

そんな俺の挙動不審を、セイバーが訝しげに聞いてくる。時間が経つとラインが切れちゃうと膨れる遠坂を余所に、俺は少しばかり考えた末、言ってみる事にした。

「いや、いまちょっと例のリボンを見かけた気がしたんだ」

「どっち!?」

それを聞くやいなや、膨れっ面だった遠坂が血相変えて迫ってきた。

「ええと、向こうだ。ラッセルズホテル前の交差点、今は見えないけど」

俺はラッセルズ・スクエアの南端を東西に走る通りの、西端の交差点を指差した。

「行くわよ、ランスにも伝えて!」

「お、おう」

遠坂もセイバーも既に駆け出している。俺は上空のランスに指示を飛ばし、慌てて二人の後を追った。

「士郎、どっち?」

「向かって左手に消えてくのを見たから……南だ、テームズ河の方向」

「了解しました」

大急ぎで交差点まで出てそちらを見渡しても、臙脂のリボンを付けた日本人は見当たらなかった。だが、見たのはついさっき。そう遠くまでは行けない筈だ。俺たちは手分けして、道沿いにテームズ河へ向かって桜を探しながら走った。

「ああ、もう。本当に見たの?」

三十分ほど走り回ったが、やはり桜は見つけられなかった。セイバーは別格としても俺と遠坂は息が切れてきた。仕方がないと一休みしながら、遠坂が口を尖らせる。

「いや、そう言われると……」

ポニーテールみたいに後で髪を縛ってたけど、あれは確かに桜だと思うんだけどなぁ……

「シロウ、一つ聞いても宜しいですか?」

そんな俺に、何かじっと考え込んでいたセイバーが確認するように聞いてきた。

「なんだ、セイバー?」

「シロウは先ほど、向かって左手がテームズ河だと言いましたが。あの位置からだとテームズ河は右手になるのではないでしょうか?」

ああ、そうか。普通はそうだよな。けど、

「ミラーの中で見たんだ。ほら、鏡越しなら向かって左手が南になるだろ?」

と言うわけだ。ああ成程とセイバーは納得してくれた。

「ちょっと、士郎。直接見たわけじゃないの?」

だがそれを聞いて、今度は遠坂が勢い込んで尋ねてきた。そういや最初に鏡の中だって言わなかったっけ?

「すまん、言い忘れてた。ほら、蟷螂が止まってた車のミラーあっただろ? あれに映ってるのを見たんだ」

俺の説明を目を見開いて聞いていた遠坂だが、暫く考え込んだあと、がっくりと肩を落とすと、天を仰いで嘆息した。

「やられた……逃げられちゃった……」

「どう言う事だ?」

「虚像よ、蟷螂から虚像に写したのよあの娘」

「ええと、どう言う事だ?」

遠坂は何か応えを得たようだったが、俺にはちっとも分からなかった。だから聞いたのだが返ってきた答は益々わけの分からないものだった。

「多分、士郎が見たのは鏡に映った桜の影じゃなくて、鏡の中に移された桜の呪式よ」

改めて遠坂が説明してくれた事によると、桜はミラーに止まった蟷螂が殺される直前、蟷螂の虚像を通して鏡の中に呪を写し込んだのだろうというのだ。鏡に映る虚像も影の一種だ。桜の魔術はマキリの虫だけではない。“虚” つまり影も桜の魔術。俺たちはまんまと騙されたと言うわけだ。

「では、この蟷螂の足は」

「多分抜け殻。それに鏡に移した呪式だって、これだけ時間があれば消すなり移すなりして痕跡は消せるわ」

セイバーの声にも、さっき気がついてりゃ方法もあったんだけど、と遠坂は悔しそうに応える。これで本当に全ての繋がりが絶たれてしまった。
つまり、俺達の桜探索は、完全な失敗に終ってしまったと言う事だ。




「……はぁ」
「……ふう」

重い足取りで時計塔の工房に戻ってきた俺たちは、そのままどっかとソファーに崩れこんだ。お茶を入れる気力もありゃしない。本当に完敗してしまったのだ。

「遠坂と桜は姉妹なんだろ? それでラインとか辿れないのか?」

「それが出来れば苦労しないわよ」

一般人の兄弟ならともかく、魔術師の兄弟は、まず互いの血脈による共感魔術の弊害を防ぐ為、ラインの遮断を行うと言う。なにしろ魔術師は基本的に一子相伝。裏口じみた弱点は残しておくわけには行かない。特に桜は他家の養子に出された為、その施術は入念にされたと言う。その上、育ちも教育も刻印もまったく別々、これでは暫く桜と一緒に暮らしていた俺との間で、感染のラインを辿った方がまだましな位だと言う。

「どだい手がかりが少なすぎるのよね……」

「そうだな、料理と季節外れの虫以外は俺達、桜の顔さえ見てないんだもんな」

普通はどっちかが建設的な事を思いつくんだが、今日は俺も遠坂も珍しく愚痴しか出ない。

「そういえば、凛とシロウは桜のリボンしか見ていないのでしたね?」

ソファーで屍になっている俺達に代わってお茶を入れてくれていたセイバーが、厨房から声をかけてくる。ごめんな、今日はちょっと甘えさせてくれ。

「そうなのよねえ……」

「俺なんか写真と鏡の中だけだぞ」

俺はデスクの上の写真立てを手に取って、こつこつとリボンを指先でつついた。まったく、せめて直接会いたかったぞ。

「あれ?」

溜息混じりに写真を見ているうちに、ふと、妙な事に気が付いた。確か桜は……

「……なあ、遠坂。桜にあげたリボンなんだけど、それって一本だったのか?」

「そうだけど?」

「じゃあ、もう一本は?」

俺は写真を示しながら遠坂に聞いた。古い写真の中の幼い遠坂。この頃からリボンでツインテールに結っている。つまりリボンは二本あったって事じゃないのか?

「……桜とのラインがあったわ」

暫く、目を見開きながら写真を見詰めていた遠坂だが、いきなり生気が戻ったかと思うと、がばと起き上がり、俺の手から写真立てを引っ手繰った。

「元々は一本だったの、それに呪刻して魔具にしてから二本に分けた。一本は桜に、そしてもう一本は……」

そのまま写真立ての裏を開ける。

「ここ」

厳かなほどの手つきでするすると引き出されたのは、十年以上仕舞っていたと言うのに、未だ真新しいリボン。桜の髪を飾っていたのと同じ、あの臙脂のリボンだ。

「これを触媒にすれば探査術式を編めるわ。そりゃよほどの遠くにいたんじゃ無理だけど」

「……倫敦に居るなら」

「ええ、桜を見つけ出せるわ」

そっと包み込むようにリボンを握り、遠坂が口の端を微かに吊り上げる。瞳にも力が戻り、自信に溢れちょっとばかり意地の悪い、実に遠坂らしい笑みを形作る。
遠坂が元気になると俺もなんだか元気が沸いてくる。つられるように、俺もよしと立ち上がった。桜、それじゃこれから会いに行くからな。




「――――Vorwarts, Vorwarts前へ   前へ――kennt keine Gefahren懼れ   無く.―――Wir zwingt es doch必ずや   届かせん.――――」

工房の設えられた魔法陣に向かい。遠坂が呪を紡ぐ。
魔法陣の中央には臙脂のリボン。まずはラインの確認。閉ざされた部屋の中で風が舞い、じりじりと何かが一本により合わさっていく。

「間違いないわ。倫敦に居る。しかも此処ら十キロと離れてないって感じね」

ひときわ大きな旋風が舞い、暫くして漸く落ち着くと。遠坂はふうと息をつき、俺に顔を向けた。

「それじゃあ」

「うん、後はこれで手繰るだけ」

遠坂はそのまま魔法陣の中央に進み、リボンを手にとる。更に二つに折り、そこに小さな石を結びつけた。
探査水晶だ、リボンから流れ出すラインを拾い上げこいつで焦点を絞るのだ。

「それじゃ、行くわよ」

遠坂の言葉に俺とセイバーも頷く。そのままリボンを持つ遠坂を先頭に、俺たちはそろそろ日も暮れようという倫敦の街に繰り出した。

「ええと、どっち?」

「こっちだ」

冬木でもやった事だが、探査術式は道なりに方向を示してくれるわけじゃない。あくまで一直線。だから、今度も上空のランスの助けを借りる。それを俺がリボンを持った遠坂に伝えて道を選んでいるわけだ。
ただ、ちょっと気になる事がある。
俺の場合、構造把握能力の影響だろうか、実際に歩き回った街の地図などは、頭の中で再構成出来たりする。まるでミニチュアのように俯瞰で思い浮かべたりも出来る。それで見ると、今、俺達の向かってる先って、もしかして……

「へ?」

……やっぱり。俺は唖然としている遠坂と顔を見合わせた。
最後の角を回り。リボンが真っ直ぐ示す先にあるのは、古くはあるがどっしりとしたアパートメント。ここ倫敦での我が遠坂家の住処だった。
しかも、明かりまで点いてるし。

「行くぞ」

だが何時までも、我が家の前で呆然と見上げているわけにはいかない。俺は二人に声をかけ。我が家の玄関に向かった。




ドアを開けた途端。とても懐かしい香りが漂ってきた。

「桜!」

途端、一声叫ぶと真っ先駈けて飛び込む遠坂さん。慌てて俺とセイバーがその後を追った。

「おかえりなさい。姉さん、先輩。それにセイバーさん」

ダイニングには、テーブル一杯に並べられた手料理。そしてその向こうで、あの臙脂のリボンで後ろ髪を結った桜がにっこりと微笑んでいた。

「桜! あんた!」

そんな桜に、いきり立った遠坂がぐいと詰め寄って行く。遠坂、落ち着け。暴力はいけないぞ。

「あ、やっぱり姉さん持っていてくれたんですね」

が、遠坂が桜にかじりつく一歩前で、桜はとても嬉しそうに微笑んだ。その視線の先は遠坂の手に握り締められている臙脂のリボン。

「うっ……」

こうなると遠坂も最後の一歩を踏み出せない。暫く桜を睨みつけていたが、ついにふうと息をつくと、呆れたようにこめかみを抑えた。

「まあ、良いわ。ちゃんと話してくれるんでしょ?」

「はい、姉さん。夕食の用意もしたんです。食べてくれますよね?」

「勿論だ。そうだろ、遠坂?」

「そうね、今日一日誰かさんのお蔭で倫敦中駆けずり回されて、お腹ぺこぺこだし」

こうして俺たちは取敢えず夕食の食卓に着いた。
久しぶりの桜の手料理、やはり弁当より出来立てのほうが美味い。遠坂はまあまあねなんて言っているが。俺は素直に舌鼓を打った。桜、お前また腕を上げたな。セイバーなんか夢心地だぞ。

「で? どう言うわけ?」

食事も一段落付き。もう良いでしょ、と遠坂が腕組みして桜に顔を向けた。

「……確かめたかったんです。わたしがここに居ても良いかどうか」

「そんなの当然じゃないか」

「先輩はそう言ってくれると思ってました。でも自分が納得できていないんです」

間髪居れず突っ込んだ俺ににっこりと応えながら、桜は淡々と語ってくれた。
マキリを継ぎ、諦めずに自分の力で歩んでいこう。そう決意した桜だが、不安がないわけではなかったと言う。
慎二を失った事も、自分が間違った方向へ進もうとしてしまったからだ。だとすれば、自分の間違いでこれ以上俺達に迷惑は掛けられない。自分は一人で進むべきではないのだろうか。そう思ったのだと言う。

「またあんたそういうこと考える……」

ここまで聞いて遠坂がついと渋い顔をする。俺だってそうだ。
俺たちだって皆いつも正しく進んでいるわけじゃない。俺が間違えれば遠坂とセイバーが、セイバーが間違えれば俺や遠坂が。そして遠坂がどじればセイバーや俺がそれを支える。そうやってよろよろと散々脇道に逸れながらも一歩一歩前に進んできたんだ。それはこれからも変わらないだろう。
桜だってそれに加われないわけじゃない。それに、今の桜なら俺達を支えてくれる事も出来るだろう。俺たちは同じじゃない。だからこそ対等なんだ。

「はい、だから悩んだんですけど。甘えさせてもらっちゃいました」

なんでも、ルヴィア嬢に相談したところ「一度思いっきり甘えて御覧なさい」と言われたそうだ。今回の事でも宿や、時計塔がくいんの聴講表なんかは全部ルヴィア嬢の手配だと言う。まったく、ルヴィア嬢もこういうことには手間隙惜しまないんだから……

「ふん、甘えるばっかりじゃ駄目なんだから」

ルヴィア嬢に相談された事が少しばかり――いや、かなり――気に食わなかったのだろう。遠坂がちょっと拗ねた口調で桜を半眼で睨めつける。

「はい、わたしだって頑張れるって分かりましたから」

そんな遠坂に、桜は凄く嬉しそうに微笑み返した。桜にこんな顔で微笑まれて、いつまでも睨みつけていられる遠坂じゃない。ぷいっと顔を逸らせて頬を染めている。ああ、確かに。今日は翻弄されてるなぁ。

「それに、姉さんがそのリボンを覚えていてくれて凄く嬉しかった。一人じゃなかったって分かったから。だから、わたしもっともっと頑張っちゃいます」

真正面から、本当に嬉しそうに微笑む桜。遠坂もこれにはもう仏頂面を続ける事さえ諦めたようだ。しかたないわねと苦笑すると、照れ隠しのように容赦しないからねと桜の鼻先に指を突きつける。

「じゃあ、姉さん」

「ええ、今回は許したげる。でも次はないから」

「有難う、姉さん」

ピシッと決めたつもりだろうが。優しい眼差しが期待を裏切っている。そっと伺うように伸ばしてきた桜の手を、遠坂は本当に優しい顔になってぎゅっと握り返した。
まったく。俺はセイバーと顔を見合わせて苦笑した。お前ら本当に良い姉妹だよ。二人とも思いっきり人騒がせだけどな。






「それじゃあ、姉さん、先輩。さようならAuf Wiedersehen

結局一晩、大騒ぎした末。桜はこの一言を残し翌朝の飛行機で日本へ帰っていった。いずれ倫敦に来る事になるかもしれませんと言っていたが。あくまで今回は、自分の気持ちを確かめるために来たのだという。頑張りますとぐっと力込めて握り拳を作っている桜は、昔、衛宮邸うちの蔵で俺を起こしてくれたあの明るい桜に戻っていた。ちょっと心配だったが、これなら大丈夫だろう。

「おはようございます、シュフランさん」

こうして俺たちは、またいつもの日常に戻った。今日はエーデルフェルト邸で朝からバイトだ。残念ながら、メイド長が抜けた人手不足はまだ解消されていない。

「ああ、衛宮くん。来週からはいつものスケジュールに戻ってもらって良いよ」

「はい、あ。じゃあ新しいメイド長が決まったんですか?」

シュフランさんの嬉しい知らせに、俺は幾分ほっとして応える。今は俺の空き時間の全てをこっちに回しているのだが、仕方ないと事は言え、この所遠坂さんが少しばかり拗ね気味なのだ。

「結局メイド長は一番年長の娘に任す事になったんだよ。新しいメイドが決まってね」

その娘が慣れるまでの時間もあるから、今週は頑張ってもらわないといけないけどね、とシュフランさんもちょっとほっとした様子だ。何せ、ここはギリギリで動いてるからなぁ。

「丁度良い、紹介しておこう」

シュフランさんは、そこへ書類の束を抱えて入って来たメイドさんを手招きした。メイドの御仕着せを着た、黒髪のちょっと小柄な女の子だ。……え?

「お嬢様の紹介でね。今日からここで働く事になった桜君だ」

呆然とする俺に、臙脂のリボンで髪を後に束ねた桜がにっこり微笑んで頭を下げる。

「マキリ桜です。よろしくお願いしますね。先輩」

ははは、確かに“Auf Wiedersehenまた今度”だな。本当に人騒がせな姉妹だ。これからも苦労しそうだな……

END


やって来ました 桜さんです。
散々大騒ぎして帰って、やっぱりやって来ちゃいました(笑)
孵らぬ筈のくろいまゆから孵った黒い蝶くろいひいろ
昔のように後ろ向きではなく、HF後のように今を抱きしめるだけではなく、躓きながらも明日をしっかり見詰めて前を向いた桜。
実はもっとはっちゃけさせようとも思ったのですが、まだまだお姉ちゃんやルヴィア嬢には届かないだろうと、少しばかり昔の色を残しておきました。彼女はこの街で、きっと明日を見つけることでしょう。


By dain

2004/11/10初稿


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