「遅い……」

倫敦はパディントン駅の待合室で、仁王立ちした遠坂が微かに苛立たしげに呟いた。
最近、遠坂さんはちょっと気合が入りすぎていて空回り気味だ。俺はセイバーとそっと顔を見合わせる。

実は、今日これから俺たちは、時計塔きょうかいの仕事でオックスフォードに向かう事になっていた。
無論、協会から要請された仕事の為だ。最初は遠坂一人への依頼だったのだが、何やかやでそれにルヴィア嬢も協力する事になり、ここで待ち合わせて居るのだ。ところが、そのルヴィア嬢が一向に現れる様子がない。
今期から一緒に臨時講師になったりと、最近とみにライバル心が盛り上がっている遠坂が、これで益々尖がるのも無理はない。
ただ、遠坂が最近妙に気合が入っている理由はこれではない。こいつも火に油を注いではいるが、本来の理由は他にある。
まあ、気持ちは分かるし、俺たちとしても協力を惜しむつもりは無いのだが、こればかりは外野がどうこう言っても始まらない。結局、最後は本人たちの問題だ。

「凛、落ち着いて。お茶はいかがですか?」

ついに動物園の熊状態になった遠坂に、セイバーが思い切って声をかけた。

「わたしは別に! ……ごめん、貰うわ」

一瞬、セイバーに殺気さえ篭った視線を送りかけた遠坂だったが、一つ息をつくと、苦笑しながら済まなそうにセイバーからお茶を受け取った。
遠坂も理性では分かっているのだ。だが、張り切りと不安、意地と思い。それらが今は、ない交ぜになっているのだろう。これは感情の問題だ。例え理性と知性を旨とする魔術師だからといって、理屈だけで割り切れるものじゃない。だからこそ、俺たちも苦慮しているわけだ。

「それにしても本当に遅いな、ルヴィアさん。後十分で汽車が出ちまうぞ」

とはいえ流石に遅い。ルヴィア嬢はこういった事はかなりきっちりしていたはずだ。遅れるなら遅れるで連絡の一本もあって良い筈だ。なんかあったのかな? 俺もちょっと心配になってきた。

「済みません。遅くなりました!」

ああ、やっと来たか。俺たちの後から、走ってくる靴音と共に元気な声が響いてきた。

「遅い、ルヴィア! あんたなにを……へ?」

が、それに応えて振り向いた遠坂は、唖然として声をなくしてしまった。
俺とセイバーも再び顔を見合す。息を弾ませ、大きな鞄を引き摺って現れたのは、この秋から、ルヴィア嬢の弟子として倫敦に来た遠坂の妹。
そして今現在、遠坂の心に渦巻く複雑な感情の原因。マキリ桜、その人であったのだ。





あかいあくま
「真紅の悪魔」  −Rin Tohsaka− 第八話 前編
Asthoreth





話が妙な方向に向かってしまった責任は、多分俺にもあるのだろう。

「士郎、どうしたの?」

「いや、なんでもない……」

エーデルフェルト邸での桜との再会。既にもう桜が倫敦に居る事を、俺は直ぐには遠坂へ伝えられないでいた。
なにせ遠坂はあの後、家中の大掃除したり可愛らしい家具や調度を物色したりと、口には出さないもののいずれ桜が来たら迎え入れる気十分で準備に勤しんでいるのだ。
この辺り、今までずっと何も出来なかったことの反動だろうと察しが付くだけに、俺は既に桜がルヴィア嬢のところに居るって事を告げるタイミングを逸してしまっていた。

「最近、士郎変よ? ただいま」

「そ、そうか? ただいま、セイバーすまん。直ぐ昼飯にするからな」

「ああ、シロウ、凛。お帰りなさい」

この日もそうだ。時計塔からの帰り道、ふらりと入ったアンティークショップで“客用”の食器や小物を幾つか物色し、漸く昼過ぎに家に帰ったところだった。

「あれ?」

おかげで昼食が遅れてしまった。俺は大急ぎで台所へ向かおうとして、にこにこと上機嫌なセイバーにふと違和感を覚えた。
昼食が遅くなったのに機嫌が良いセイバーに違和感があったわけではない。いや、それが無いとは言わないが……それより、俺が違和感を覚えたのは、セイバーの後からそこはかとなく香ってくる醤油の香りに対してだ。

「なに? セイバーが作ったの?」

遠坂も同じ思いだったのだろう、小首を傾げてセイバーに聞いている。確かに最近セイバーはちょっとした料理を作るようになったが、これは煮物の匂いだ。焼くとか揚げるとかの簡単な調理法ならともかく、流石にこういった和風の煮物にはまだ手を出していなかったと思ったんだが。

「凛、シロウ。聞いていないのですか?」

「聞いてるってなにをだ?」

そんな俺たちの困惑顔に、セイバーは少しばかり不安そうな顔になる。ともかく中へと促され、俺たちが向かった食堂に待っていたのは、筑前煮にから揚げ、玉子焼きにお浸しといった、和洋混在な日本の家庭料理だった。

「わっと!」

と、いきなり、遠坂の手から荷物が落ちた。俺は咄嗟に遠坂の手から落ちた紙袋に飛びつき、なんとか床に激突する寸前で取り押さえる。
壊れ物が入ってるって言うのに、一体どうしたんだ? 俺は荷物を取り押さえた中腰の不安定な姿勢のまま、何事かと遠坂の視線を追ってみた。するとそこには……

「お帰りなさい。先輩、姉さん」

「……桜?」

一瞬、俺も荷物を取り落として頭を抱えたくなった。
髪形こそ変わっているが、臙脂のリボンで髪を結った懐かしいピンクのエプロン姿。
桜。お前、来ちゃったんだな……




「桜、お前また腕上げたな……」

「有難うございます、先輩。姉さん、どうですか?」

「ええ、美味しいわ。そう、ミスエーデルフェルトの家にご厄介になったのね」

愕然とする俺たちに、はてと小首をかしげていた桜だったが、ともかくお昼をと言う事でこうして皆で食卓を囲むことになった。
ただ、雰囲気が恐ろしく微妙だ。
なんでも桜は、既に俺から話は通っているものと思って、引越し蕎麦代わりと昼飯を作りに来たらしい。セイバーも自分は聞いていなかったが、まさか遠坂まで知らないとは思わなかったと言う。桜については知っているし、何より桜のご飯は美味しい。そんなわけで些か不審ではあったものの、桜に上がってもらって俺たちを待っていたらしい。

で、問題は遠坂さんだ。
暫く呆気に取られていた遠坂だったが、俺が慌てて説明をすると、するりと綺麗な笑顔をお被りになられて、それじゃあお昼にしましょうと仰られたのだ。
別に睨みつけるでも、膨れるでもない。ましてや怒ったり文句を言ってくるわけでもなかった。料理一つ一つを美味しいと味わい、笑顔さえ振り向けてくれる。
だが、俺とセイバーはそっと顔を見合わせてしまった。他人では気付かないだろうが、俺達には分かる。多分桜も気付いているだろう。
丁寧で物柔らかな癖に、どこか取り付く島の無いこの笑顔、この立ち振る舞い。この遠坂には見覚えがあった。それは昔、日本で学園に居た頃の、あの優等生の遠坂さんそのままの姿だった。

「ご馳走様。美味しかったわ、桜」

「その……有難うございます」

「そんな気を使わなくたって良いのよ」

食事を終え、にっこりと桜に笑みを送る遠坂。だが、そこには間違いなく“壁”があった。

「それじゃあ、わたしはちょっと実験があるから工房に入ってるわ。桜、ゆっくりしてってね」

「おい、遠坂」

「ごめんなさい、衛宮くん。後は任せたから」

止める間もなく遠坂は、すたすたと優雅なほどの物腰で工房へ入っていってしまった。衛宮くんか。遠坂、かなりきてるなぁ……

「すまん桜。全部俺が悪い」

静かに、それでいて決然と閉る工房の扉に小さな溜息を送り、俺は桜に頭を下げた。折角、仲直りしたと思ったのに、今度は俺の優柔不断が話をこじらせてしまったようだ。

「いえ、そんな事ありません、先輩。わたしがちょっと甘えすぎちゃったんです」

きちんとお話しておけばよかったですね、と桜は少しばかり寂しそうに笑いながら応えてくれる。

「しかし、どうしてルヴィアゼリッタの家に? 私もてっきり凛の所うちに来るものだとばかり思っていました」

「わたし、マキリを選びましたから」

食後のお茶を配りながら不思議そうに聞くセイバーに、桜はどこか誇らしげに応えた。だから遠坂には頼らなかった。妹であるからこそ、遠坂にはきちんと一人前になって向かい合いたかったと、あの優しく穏やかな桜が、きっぱりと力強く言い切った。

「シロウも頑張らないといけませんね」

そんな桜を横目に、セイバーが苦微笑を浮かべながら意味ありげな視線を送ってくる。しっかりしないと、桜にまで置いていかれそうだとセイバーは言っているのだ。
そう言われると言葉も無い。今、俺の隣で胸を張って微笑んでいる桜は、相変わらず穏やかで柔らかく見えるが、それでもどこか遠坂に似た凛とした気品があった。昔の桜が持っていた、どこか後ろを向いた抑えたような大人しさは影を潜め、誇りを持った落ち着きさえも感じられる。いや、まずいな、本当に桜に置いていかれそうだ。

「でも、それで姉さんに嫌われちゃったら仕方ありませんね」

「いや、それは無いぞ」

失敗しちゃいましたと肩を竦める桜に、これだけは言って置かなきゃならない。

「そのカップだって桜のなんだからな」

俺は、桜の手の中にあるカップを指し示しながら告げた。
瀟洒で、柄こそ違うが何気に遠坂のカップと同じ型のカップ。本人はただの“客用”だと言い張っているが、随分と歩き回って漸く見つけたそのカップが、桜の為の物だって事は明らかだ。

「姉さんが……」

「ああ、だから遠坂は桜を嫌ってなんかいない。ただ、ちょっと心の準備が出来てなかっただけだ」

これは俺も一緒だ、どこか嬉しげにカップを見詰める桜を横目に、俺も一度きちんと桜に対する気持ちを整理しなきゃならないと心に決めた。
だからこそ、桜は倫敦での自分の居場所をルヴィア嬢のところに決めたのだろう。冬木でも、ルヴィア嬢だけは終始、桜と同じ目線で居た。
今まで桜がどんな生活をしてきたのか。それを理解できるとは言わないが、あの冬木の一件で俺たちはそれがどんな事であるかは知っている。
今穏やかに笑っている桜は、それを乗り越えてきたんだ。だとすれば、俺たちはきちんと桜に向かい合わなきゃならない。

「わたし、頑張ってみます」

それはこっちの科白だな。俺も頑張らなきゃいけないな。

「先輩、わたし絶対姉さんを振り向かせて見せますから」

そんな俺ににっこりと決意を込めた笑みを向ける桜。なんか、ちょっと微妙に方向が違うような気がするんだが。まあ、桜が遠坂と仲良くなろうとしてくれるんなら、俺だって手間を惜しむつもりは無い。桜、お互い頑張ろうな。




「あ、桜帰ったんだ」

遠坂が天の岩戸こうぼうから顔を出したのは、また来ますと桜が帰ってから暫く経ってからだった。

「遠坂」

「凛」

「あう……分かってる。ご免、大人気なかったわ」

俺とセイバーが向けた困ったような顔に、それ以上困った顔で遠坂は頭を下げた。俺とセイバーはそのまま苦笑する。こう素直に頭を下げられると言葉は要らない。どうやら自分でも分かっていたようだ。

「まあ、気持ちは俺にも分かるけどな」

結局、未だ俺も遠坂も桜との距離感を掴めないでいるのは一緒だ。冬木で魔術師としての桜を見て、この倫敦でも桜の術を経験した。だが、それでも俺はあの穏やかでひっそりと暮らしていた桜を忘れきれないでいた。あの桜と魔術師の桜を心の中ですり合わせ切れないでいた。

「ちょっとむきになったわ。でも」

「桜を大切にしたいと?」

セイバーの声に、暫く視線を泳がせていた遠坂だが、最後には溜息をつくようにこくんと頷いた。ずっと抑えてきた、姉としての気持ちがここへ来て吹き出してしまったのだろう。傍で見ていて、自分でもどうして良いか分からないのが見て取れる。こういった所は物凄く判りにくいが、遠坂の可愛らしさでもある。

「でも、桜が一人前に魔術師になろうって気持ちも分かるの」

悔しいが、そのために桜がルヴィア嬢の許へ行った事も十分理解できると言う。
桜を最初に認めたのはルヴィア嬢だし、桜が魔術師である自分と向き合う事を、身体を張って教えたのもルヴィア嬢だ。
それがどんなに嬉しく有難い事か、魔術師として必死に生きてきた遠坂には、痛いほど分かるのだと言う。

「士郎だって、そうだったでしょ?」

そこまで言うと、遠坂は伺うような視線を俺に向けてきた。

「……そうだな」

確かに、まっさらな状態の俺をはじめて認めてくれたのはルヴィア嬢だった。魔術師らしからぬ熱心さで、俺の進路を真っ向から受け止めようとしてくれた。魔術師というものを知れば知るほど、それがどれほど稀有な事なのかが分かってきた。
だが同時に俺は、ここまで分かっている遠坂が何であそこまで、桜に対して心許ない態度を見せたのかも理解した。
俺に向けられた瞳の奥で、僅かに揺れる光。
そうか、遠坂は不安なんだ。自分が桜に向かい合うに相応しいのか。姉なのに、いや姉であるがゆえにルヴィア嬢に敵わないのではないか。
遠坂はずっと、優等生だったから、先頭を走り続けてきたから、届かないんじゃないかと言う不安なんか感じた事が無かったのだろう。
ふと、笑みがこぼれてしまった。遠坂は本当に初体験に弱いんだな。

「な、なによ……」

思い切り顔に出てしまったのだろう、遠坂は真面目な話なんだから、と言った顔つきでむぅ――と睨みつけてきた。

「いや、でもな、遠坂。ルヴィアさんに負けるつもりは無いんだろ?」

「あ、当りまえでしょ!」

俺の言葉に、遠坂は真っ赤になって怒鳴り返してきた。ただ遠坂も自分が無意識にルヴィア嬢に負けていると認めた事に気がついたのだろう、視線が一瞬だけ泳いだようだった。だが、それも一瞬。即座に瞳の奥にめらめら炎を燃やし、負けてなるかとぐっと拳を握りなおしている。うん、そうだよな、やっぱり遠坂はこうでなくちゃいけない。

「……また笑ってる」

「え? そうか?」

立ち上がって迫ってくる遠坂に、俺は一瞬気圧されながらもやっぱり笑ってしまった。

「まったく……わかった。これからはきっちり桜と向かい合うわよ。一人前の魔術師になるまでは妹とは思わないんだから!」

「ちょっと待て、それはちょっと極端じゃないか?」

第一桜の実力と資質は認めてたんじゃないのか? この間だって俺達は振り回されっぱなしだったし。

「うん、魔術を使う事に関してはいっちょ前ね。でも魔術師って言うのはそれだけじゃないわ。わかってるでしょ?」

遠坂は、それを踏まえた上でよ、と表情を一つ厳しくした。

「魔術師って言うのは、技術者や芸術家であると同時に学者でもあるもの。桜はまだ偏ってるわ。そりゃ資質や才能は士郎なんかとは比べ物にならないほどの魔術師だけど」

ぶつぶつとなんかもの凄く酷い事を言われたような気がする。気のせいじゃないかも知れないけど、事実だから何も言わないが。

「わたしが甘かったわ。ルヴィアがきちんと桜を教育するならそれで良い。でもそうでなかったら分捕ってやるんだから」

めらめらと背中に炎を背負いながら、断固として宣言する遠坂さん。なんか、どうも道筋が変わって来ている様な気がする。
俺はセイバーと顔を見合わせて小さく肩を竦めた。まあ、ともかく、これで妙に拗ねたような、らしくない遠坂ではなくなるだろう。細かい軌道修正は必要だろうが、それは俺とセイバーがフォローすれば良い。
しかし、なんと言うか……お前ら本当によく似た姉妹だったんだな。




「つまり、ルヴィアの協力っていうのが桜なわけね」

「はい、しっかり御手伝いしてきなさいって言われてきました」

どこか胡散臭げな姉と、目一杯力が入っている妹。
オックスフォードに向かう列車のコンパートメントで、向かい合う姉妹を俺とセイバーはどこかほっとした目で見ていた。
最初はどうなる事かと思ったが、思いのほか噛みあっている。案外何とかなるもんなんだな。

「まったく……足手纏いにならないでよね」

「頑張ります」

腕を組んで仏頂面ながら、前の時と違ってどこか嬉しげな遠坂と、同様に前と違いどこか力の入った桜。二人とも自分達では気がついていないようだが、御互いが前回とは違った心持でこの場にいる事は、傍から見れば良くわかる。
この二人が魔術師である事を考えれば、えらく場違いな事のはずなのに、俺にはどうしても微笑ましく見えてしまう。

「それじゃまず今日の仕事だけど、わかってる?」

「はい、ちゃんと予習してきました」

本当にきちんと予習してきたのだろう。桜はバックから手帳を取り出して、俺たちに説明を始めた。
今回請け負った仕事は神秘の認定と言う奴だ。
魔術協会の主務は神秘の隠匿を通じて魔術の拡散を防ぎ、魔術本来の力を保持し続ける事だ。だが、神秘は何も協会所属の魔術師の独占物ではない。同じように神秘を管理しようとしている組織だけでも、聖堂教会を初め多種多様な団体がある。それに加え、まったく魔術に関わりの無い者の手にも神秘の欠片は保持されている。
新たに人の思いが集約されて作り上げられて魔具や呪物となって行った物、個人のコレクションとして秘蔵されている古代の遺物。意図せざるところで出来上がり、所持されている神秘。こういった事例は決して少ない数ではない。
博物館や美術館と言う形で世界各地に張り巡らされた協会の支部ブランチ学院リーグは、これらを回収し隠匿する事も仕事の一つだ。

「今回の品は、大学博物館オックスフォードに寄贈された、アメリカの富豪マナハン氏の遺産ですね」

「そ、その中でも問題の品はフォーブス・コレクションの逸品よ」

宝飾界の至宝、フォーブスコレクション。インペリヤルイースターエッグに代表される、ロシア帝室御用達の宝石美術商ファベルジュ作品を集めた世界的なコレクションだ。
数年前、その中のインペリアルイースターエッグ九個が放出された。結局、ロシアの富豪がそれを一括で手に入れたのだが、この時同時に“裏”コレクションとして今まで表に出ていなかったファベルジュの作品がこっそりと放出されていたらしいのだ。
ロシア皇帝家族が最後まで手元においていたと伝えられる、ファベルジュのエナメル象嵌で飾られた日用品。それが巡り巡って、マナハン氏のコレクションとなったのだと言う。
今回、俺たちが神秘の有無を確かめる品物はこいつだ。

「でも、これだけならただの工芸品。わたし達が出る幕はないわ」

「マナハン氏は失踪でしたね」

「そ、しかもこの二年程で、これを手に取った三人の持ち主の全てが失踪。遺族が怖がって寄贈するわけよ」

つまりはそういう事だ、フォーブスから放出されてから僅か二年で持ち主は転々と変わり、その持ち主が尽く謎の失踪をとげたと言う。
金持ちと言うのは傍で見ているほど良いものではない。精神的に参って失踪する例も少なくないとはいえ三人連続で、しかもこの短期間でと言うのは異常だ。だから、これらの中に何らかの神秘呪いの品があるのでは無いかという事で、時計塔きょうかいが乗り出してきたというわけだ。

「でも、それっておかしくないか?」

俺はここまでの話で少しばかり気になる事に思い当たり、姉妹の会話に割り込んでみた。
確かに、持ち主の謎の連続失踪は、呪いと言われても仕方がないかもしれない。だが、それ以前の一世紀近く、これらの品物はフォーブス家に所蔵され続けてきたのだ。その間については特に事件も事故も記録にない。
それに表に出ていないとはいえ、フォーブスコレクションくらいになると時計塔でも眼は通していたんじゃないだろうか? それが何故今になって? 

「ま、当然の疑問よね」

ふんふんと頷きながら俺の話しを聞いていた遠坂の瞳に、ふと意地の悪い光が宿った。
ああ、これか。俺には随分と馴染みな光だ。その光が桜に向かった事で、ほっとするやら心配やらで、なにやらどうにも居心地が悪い。

「で、桜はどう思う? 何で今更わたし達が?」

「ええと……」

案の定、遠坂は先生モードに突入していた。慌てて資料を繰りなおす桜を、眼を細め口の端を微かに吊り上げて眺めている。俺もこれには随分と苦労させられたなぁ……頑張れ、桜。

「……フォーブス家にあったときに、一度時計塔で調査してるんですよね」

「そ、その時は神秘の認定はされていないわ。ただのよく出来た工芸品ってだけだった」

漸くして目当ての資料を見つけ出したか、桜は何冊かのファイルに眼を通しながら呟くように口に手を当てて考え込んだ。

「……フォーブスの手を離れてから、ずっと個人所有家に秘蔵されてたんですよね。この間はずっと表に出てませんから……この間に何かあったんじゃないでしょうか」

「そういうことね」

遠坂は、古い記録の目録と、オックスフォードから送られてきた目録を並べながら桜に差し出した。

「つまりこの二つの間の差異に、何らかの神秘が隠されている可能性があるって事。向こうに着くまでにリストアップして。それを元に調査を執り行うから。いいわね?」

「はい!」

遠坂先生が宿題を手渡して満足そうに頷くと、桜も元気よく返事をする。なんかこう、俺のときよりずっと親切で優しくないか? ちょっと不満だぞ。

「はい、士郎はこっち」

「こっちって……なんだよこれ?」

そんな俺の顔を目ざとく見つけたわけでもないだろうが、遠坂はいぢめっこの目になって俺に分厚いファイルを投げてよこした。

「今回のコレクションの持ち主だった三人の遺品目録よ。何か見落としがないかチェックしといて」

「チェックって、遠坂。これまるで百科事典だぞ」

五センチはある。これを一時間でつき合わせろって言うのか?

「わたしが大まかに分類して印付けといたから、それの付けあわせだけよ。桜の倍もないはずだから、頑張りなさい」

それでも二倍かよ……とはいえ、文句を言っても始まらない。桜も遠坂も頑張っている事だし、俺も覚悟を決めて目録に取り組む事にした。




「まさかこのようにお若い方が見えられるとは、思っておりませんでした」

「予備調査ですので、紹介状に何か不備でも?」

「いえいえ、クーレンゼ師のご紹介ですから。何の問題もありません」

大学博物館で待っていたのは、初老の学芸員だった。
勿論、ただの学芸員ではない。この人は時計塔から、各地の博物館へ密かに派遣された調査委員。つまり、魔術師だ。
如何に時計塔といえども、全ての博物館を直轄や、学院で網羅するわけにはいかない。殆どの場合は、この人のようにキュレイターとしてそれなりの地位につきながら、密かに時計塔と連絡を取り合い、神秘に眼を光らせる要員を派遣して置く事が精々なのだ。この博物館でも、派遣されているのはこの人ただ一人だと言う。

「それで、問題の品は?」

「地下の所蔵庫に、三重結界で括ってある」

当たり障りの無い会話に紛れて、遠坂が営業スマイルのまま一つ声を低くして聞くと、同様に表情を変えずに小声の答が返ってきた。
俺達の表向きの顔は大英博物館の学芸員。新たにここに寄贈された品の、鑑定協力の為に派遣されてきた事になっている。
今回の件はこの人の報告により、俺達が派遣される事になったのだ。

「それで、どのようにお考えですか?」

「五分五分だな」

地下の厳重な所蔵庫に入ると、遠坂も学芸員の人も互いに仮面を脱ぎ捨てて魔術師の顔になった。

「具体的な確証がないのだ。魔力の篭った品は特に感知されていない。あるとすれば休眠状態で、何かのきっかけで活性化するような呪物なのだろう」

ともかく、こちらにある簡単な機材では測定し切れなかったと、些か悔しそうだ。

「わかりました、それでは調査を始めたいと思います」

「よろしく頼む、取敢えず今日一日は確保してある。必要なら三日までは延長できる」

学芸員氏は、それではよろしく頼むと二重の扉を潜って所蔵庫を後にした。ここから先は俺たちだけ、学芸員氏は万が一の事が起こった場合に、俺たちごとこの部屋を封印する為、外に残るのだ。

「さて、それじゃ現物とご対面しましょう」

その背を見送り、くるりと振り返った遠坂に俺たちも頷く。ロマノフ家の遺品はこの貯蔵庫の一番奥にある。俺たちは更に奥へと歩みを進めた。

「で、桜。どうだった?」

奥のファベルジュの部屋に向かう道すがら、遠坂は桜に宿題の提出を求めてきた。

「何点か、細目の違うものがありました」

まずは桜。赤ペンでマークされた目録を手に、いくつかの品物を遠坂に指し示す。遠坂の顔つきからするとまずは合格らしい、ふんふんと頷きながらどこか嬉しげだ。

「で、士郎は?」

「おう、趣味が一緒だったな。幾つかファベルジュと一緒に流れて行った品物がある。カメラだ」

カメラといっても、最新の機器ではない。ライカにエクサクタ、コンタックス等の工芸品として、骨董として価値の高いある種の美術品としてのアンティークカメラの数々が、ファベルジュの品物と共に何点か引き継がれていた。

「写真機ね……一応調べておきましょ」

とはいえ、工業製品には違いがない。ちょっとした霊が憑いているかもしれないが、連続行方不明なんて事を起こせるような神秘が付加されるとはちょっと考えにくい。あくまで参考資料といったところだろう。
そうこうしているうちに、俺たちは所蔵庫の中の更に奥、問題の品物が並べられた金庫のような小部屋に到着した。

「わぁ……」

明かりをつけた途端、俺たちは揃って息を飲んだ。
そこにフォーブスコレクションの品々が並べられているのだが、写真立て、手鏡、裁縫箱、ごくごく普通の品々の筈なのに、その細工が洒落になっていない。まるで丸ごと宝石か何かのような輝きだ。

「ファベルジュのエナメル細工ね。高い宝石こそ使ってないけど、ここまで来ると工芸品じゃなくて芸術品よね」

天然真珠のような光沢で、色とりどりの輝きに包まれた品々に、流石の遠坂も眼を輝かせている。

「しかし、これ凄いな」

ただ、俺としては美術品云々より驚く事があった。

「ピルケースだよな、これ」

「こちらは、胡椒入れでしょうか?」

「聖書……ですよね、これ」

それこそ、ありとあらゆる物がエナメル象嵌で飾られている。本当の生活用品。実用品が美術品なのだ。そりゃこっちへ来て貴族の生活が凄いってのは実感してたが、ロシア帝国の帝室ともなると桁が違う。

「外だけじゃなく中身も一級品だな……」

俺は卵形の懐中時計を手にとって、惚れ惚れと見詰めてしまった。凄い、これだけの機械、今だってなかなか見当たらない。

「ちょっと。皆、落ち着きなさい」

感嘆に包まれる俺たちの中で、一番目の色が変わっていた遠坂がはたと気がついたように一同を見渡した。

「わたし達は鑑賞じゃなく鑑定に来たの、それも美術品じゃなく魔具の、良い?」

観光客じゃないんだから、と自分に言い聞かせるようにびしっと言い切る。

「おう、そうだった。じゃあまず」

「はい、前回の調査との差分ですね。何点か以前に無かった物や、形が変わったものがあります」

俺たち同様に気を飲まれていた桜だが、遠坂の声で気を取り直すと慌てて鞄からファイルを取り出して、何点かの作品をそっと取分け出した。

新たにソルトケースが見つかった塩胡椒入れ、修理された置時計、別個所蔵されていた中身とめぐり合った裁縫箱。中央のテーブルに集められた品はどれも見事な品ばかりだった。

「ええと、でも何も感じないな」

「それが問題よね。魔力の欠片も無いただの工芸品なのよね。桜、貴女はどう?」

「わたしにも、全然です」

ただ、こうして取り出してみても、魔術の魔の字も感じられない。俺は確かに魔力感知は鈍いが、遠坂も桜も感じないとなると……

「セイバーはどうだ?」

そんなわけで俺はセイバーに聞いてみた。具体的な魔術については専門で無いだけに疎いが、こと魔力の感知に関して、セイバーは遠坂以上に敏感なところがある。

「どれとは言えないのですが」

そんな俺たちにセイバーも些か訝しげに応えてくれた。特定は出来ないがここにある品物の集まりから、確かに何らかの引っ掛かりを感じると言う。勘に過ぎないとは言うが、セイバーの勘は特別だ。ある意味未来予知じみたところがある、無視するわけにはいかない。

「じゃ、一つ一つじっくり行くわよ。桜、手伝って」

「あ、はい」

遠坂の声を合図に、仲良く並んだ姉妹はおもむろに鞄を広げ、数々の道具類をテーブルの上に並べだした。

「やはり姉妹ですね」

こうなると、セイバーの出番は無い。ひと段落ついた時のためにお茶の支度をしながら、そっと俺の耳元で囁いてきた。
実を言うと俺の出番も少ない。実際、はっきりと魔具だったり剣とかならともかく、今の俺が解析してもここに並べられた工芸品は、ただの道具として把握する事しか出来ない。

「そうだなぁ」

そんなわけで、俺はセイバーに頷き返しながら二人の作業を眺めていた。
魔法陣の中央に品物を置き、何枚もの宝石で出来たレンズを装着した弁当箱のような接眼鏡を駆使する遠坂や、幾つもの液体の入ったフラスコ越しに品物を確認する桜のような解析作業は、俺にとっては最も苦手とする分野だ。
勿論、今の桜は知識的には俺と大して差は無い。だが、遠坂とコンビを組んでの作業は、優秀な外科医と看護婦のように息が合っていて。見ているだけでなんだか嬉しくなってくる。

「駄目ね、魔力線は確認できないわ。桜、そっちはどう?」

「こっちも同じです、ほんの少し残留思念は残ってるんですけど、呪いって程じゃないです」

とはいえ、結果は余り芳しくないようだ。流れるような作業のわりに二人の表情は段々と難しくなっていく。

「ああ、もう駄目。何にも掴めないわ」

ついに遠坂も音を上げた。開始から三時間、そろそろ休息しないと煮詰まる頃でもある。

「それではお昼にしますか? 用意は整えてあります」

ともかく、今の状態ではこれ以上やっても進まないだろう。何が出るにしろ出ないにしろ、腹が減っては戦は出来ない。

俺たちは休憩もかねて弁当を広げながら、これからの事を相談をする事にした。


前回と違い、今回はBritain本流のお話に桜が加わったお話です。
いろんな意味で意識しあってしまう姉妹。
その姉妹が一つの命題を前に、どんな振る舞いを見せるのか。
それでは、後編をお楽しみください。

By dain

2004/11/17 初稿

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