英国の十一月初めは“大天使の小春日和”と称されるほど好天が続く時期だ。
倫敦北西部の高級住宅街、ハムステッドの南にあるここエーデルフェルト邸も、晩秋の清涼な日差しに包まれ、白鳥のように瀟洒な姿を輝かせている。
「秋もそろそろ終りですわね」
そのエーデルフェルト邸の居間で、この館の主ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト嬢が秋の空のように澄んだ声で呟いた。
大きな窓から差し込む一杯の日差しを浴び、この館同様に瀟洒な白鳥のような姿を輝かせ、ルヴィア嬢は優雅にも物憂げに午前のお茶を喫せられている。
「お嬢様、随分と寒くなってまいりました。そろそろ窓を閉めた方がよろしいのでは?」
レースのカーテンが微かに揺れる大きく開かれた窓を指し、俺は軽く腰を屈めて従者としての礼を守りつつ、そっとルヴィア嬢に囁いた。
金細工のように瀟洒なルヴィア嬢は、見かけほど華奢なわけではないが、それでももう秋も終わりだ。晩秋の風は身体の芯に響く。
「もうしばらく待ちましょう、シェロ。そろそろではなくて?」
だが、ルヴィア嬢は可愛らしく小首を傾げ、どこか楽しげに俺を見上げてくる。
その表情に促され、俺はふと居間の柱時計を見上げた。十時半、ああ確かに、そろそろだ。
「ほら、来ましたわ」
ふっと微笑みながら、ルヴィア嬢は視線を俺から庭先に移し、紅茶のカップをそっと胸元に引き寄せた。誘われるように庭先に目をやると、庭先で流れるように何かがきらきらと煌いた。そして、それに続くようにふっと日が陰る。
拙い、思いのほか早い。俺は慌ててテーブルの上のティーセットを持ち上げた。
―― 瞬!――
それは一瞬の出来事だった。
煌く黄金の閃光が、窓から飛び込んで来るやいなや、テーブルで跳ね飛びそのままの速度でドアから廊下に飛び去っていく。
―― 唸々……――
わずかに遅れて、秋の日を翳らせた黄色と黒からなる斑
「はぁ……はぁ……あ、おはようございます。ルヴィアさん、先輩」
最後に息の荒いメイド姿の桜が、片手に箒を掲げ、窓から顔をのぞかせて来た。
「その……」
「オーウェンでしたら、廊下を抜けて右に向かいましたわ」
「右……厨房ですね! 有難うございました」
ルヴィア嬢の返事に、桜は箒を担いだまま元気に勝手口へ走って行った。
「桜、元気になったな」
ティーセットをテーブルに戻し、俺はほっと呟いてしまった。
「ええ、本当に。二人ともすっかり仲良くなって」
俺の言葉に、ルヴィア嬢が花の顔
全く、もうすっかり日課だ。俺は思わず昔懐かしい歌のフレーズを口ずさんでいた。
……仲良く喧嘩しな、か。
きんのけもの | |
「金色の魔王」 | −Rubyaselitta− 第九話 前編 |
Lucifer |
「おはようございます、先輩」
「おはよう、桜」
桜がエーデルフェルト邸に来てから早半月、メイド姿も今ではすっかり板についてきている。この日も朝からバイトに入った俺に、こうして朗らかに挨拶してくれた。
「今日は?」
「はい、午後にルヴィアさんが帰ってきたら、工房に下がります」
といっても、桜は何もメイドをする為にここに居るわけではない。あくまで桜はルヴィア嬢の魔術の弟子なのだ。
本来ならば、メイドなどする必要はなかったのだが、桜自身が自分の食費くらいは何とか稼ぎますと言ったことから、どうせならうちで働きなさいと、ルヴィア嬢付きのメイドを勤めることになったのだ。桜は家事全般をそつなくこなす。おかげで俺も助かっているわけだ。
「おう、それじゃ頑張ってくれ」
「今日の賄いはわたしですからね、期待しちゃってください」
桜はそのまま軽い足取りで厨房に向かって行く。ルヴィア嬢が時計塔に行っている日は、コック長の賄いは夕食だけだ。今日の昼飯の当番は桜ってことらしい。俺はそんな桜を見送りながら、朝の仕事に取り掛かった。ちょっと楽しみだな。なにせ、桜の味は衛宮家の家庭
「書斎と客間の掃除、終わりました」
「ご苦労様、衛宮君。ちょうど良い一服したまえ」
そんな事もあって、少しばかり浮きたつ気持ちで一仕事を終え、俺はシュフランさんの執務室に顔を出した。
「あれ? 温室の手入れは良いんですか?」
「ああ、そちらは桜君にお願いすることになったんだ」
「桜に?」
書類仕事から顔を上げ、ひと伸びしてお茶の支度をしようとしたシュフランさんを抑え、俺は代わりにお茶の支度をしながら聞き返した。
「お嬢様の指示で、先日からやってもらっている。桜君はなかなか器用なのだね」
「なんでもこなすとは思ってましたけど、庭仕事まで出来るとは知りませんでした」
ちょっと意外だった。そういったことはどちらかと言えば苦手だと思っていたんだが。
「皆ともよく馴染んでくれている。ただ、些か大人しすぎるのが心配だね」
シュフランさんは俺の入れたお茶を飲みながら、衛宮君ほど頑固になれとは言わないが、と苦微笑を向けてくる。
「お、俺頑固ですか?」
人当たりが良いとは言わないけど、頑固ってほどじゃ……
「お嬢様に負けない位にね」
だからこそお嬢様は君を気に入っているのだと、シュフランさんは益々笑みを広げる。まあ確かに、ルヴィア嬢と付き合うのは生半可な事じゃない。けど、そういう意味なら、
「桜は大丈夫ですよ」
大人しそうで、桜はあれで結構意地っ張りだ。ルヴィア嬢や遠坂にだって負けないだろう。なにせ遠坂の妹だからなぁ。
少しばかり別の意味で心配にもなってきたが、俺はこの事をさほど気にする事はなかった。
まあ、心配はないとはいえ、桜の仕事振りには興味があった。俺はわずかの空き時間を利用して、温室をちょっと覗いて見ることにした。
「さく……」
温室の扉をそっと開け、覗きこんだ俺は声を掛けかけて、少しばかり言葉に詰った。
温室の中央、作業着に着替えることなくメイド服のまま、桜は祈りでも捧げているように俯き加減で両掌を組んで立っている。傍目では特に植物の手入れをしているようにも見えない。はて?
俺はそのまま、そっと温室に足を踏み入れて見た。
―― 蔵々……――
途端、足元で何かが蠢いた。土の中に、何かがいる。
いや、土の中だけでは無い。良く手入れされた畝の間、色とりどりの花を咲かせた草々の葉の上。そして木々の間の空中。そこいら中に何かがいる。
出鱈目のようで、それで居て統制された小さな粒が、土に養分を、大気に風を、葉に集る害虫には排除をと、ぞわぞわと蠢きながら的確に動いている。
「……虫か」
地に潜む蚯蚓が螻が、畝と葉を行きかう蟻が、宙に浮かび花をめぐりながら舞い踊る蜂達が、それぞれの役割を分担しながら草木を育てる農夫の役割を果たしているのだ。俺は思わず呟いていた。
「ちょっと趣向は違いますけど。これが桜の“緑の親指”ですわ」
と、俺の呟きに応えるように、後ろからどこか自慢げな声が掛かった。
「ル、ルヴィアさん」
慌てて振り返ると、そこには白のオーバーオールにスカーフと麦藁帽子という、実に珍しい格好のルヴィア嬢が、腕を組んでふふんと鼻を鳴らしながら立っていた。いつの間に、全然気配がしてなかったぞ。
「ただいま、シェロ、サクラ」
「あ、おかえりなさいルヴィアさん。先輩も来ていたんですか」
ここで漸く気がついたのか。桜が顔を上げ、驚いたように俺たちの方に視線を向ける。
「こちらの手入れの方は進んでいて?」
「はい、後は受粉を済ませて、蜜を採取するだけです」
「それでは終り次第巣箱へ向かいましょう。そろそろ蜜蝋を少し取っておきたかったところですからね」
「はい」
この事について、ルヴィア嬢と桜の間では既に手はずが整っているのだろう。なにやらすらすらと話が進んでいく。
「ええと、もしかして虫を使って温室の手入れをしてたのか?」
とはいえ、俺にはちょっと分からない。取り合えず想像がつく範囲で聞いてみる事にした。
「ええ、マキリの魔術は支配と吸収。その中で特にサクラは女王として虫の扱いに長けているでしょ?」
「修行なんです。感覚でなくて、きちんと理と術式を編んで出来るようにって」
正解だったらしい、二人揃って頷いてくれた。
冬木での出来事で、桜がどれほどの能力を持っているかは分かっていた。こちらへ来てからの遠坂や俺たちに見せた力からも、それがどのようなものかは理解できた。
ただ、ルヴィア嬢に言わせると、今の桜は感覚と資質だけでそれらを行っていると言う。
「誰かさんと同じですわね」
ルヴィア嬢は口の端を微かに歪め、思わせぶりに言ってくださいます。いや、俺だって一応はね。
「でも、このままでは勿体無いですもの。きちんと術式と理を踏まえて施せば、サクラはもっと上手く、もっと正確に呪を扱えるんですのよ」
桜には魔術師として、それだけの素質と能力があるという。
「誰かさんと違って」
先ほど同様、ルヴィア嬢は微かに口の端を歪め、今度は思いっきりボディブローを叩き込んでくださいます。
「俺ってそんなに酷いのか?」
「酷いというより、もうこれは仕方の無い事かもしれませんわね」
それにシェロは魔術師ではありませんもの、とどこか困ったような笑みを浮かべながら、なぜかとても優しい瞳で、ルヴィア嬢は改めて俺の顔を見詰めてきた。
「あの、そうなんですか?」
思いっきりぼろくそに言われる俺に、今度は桜の方から恐る恐る声をかけてきた。
「ええ、サクラ。貴女も覚えておくと宜しいですわ。シェロはね、わたくし達の天敵なんですのよ」
気をつけないとあなたも取り込まれてしまいますわよ、となんだか人を化物みたいに言ってくれる。
「先輩も“吸収”だったんですか?」
「それは違うぞ、桜」
きょとんとした顔の桜に、俺の魔術はそんな物騒なものじゃないと言いかけて傍と気がついた。桜の瞳によぎるどこか寂しげな影。し、しまった!
「そ、それも違うぞ桜!」
いや、別に吸収が悪いとかそういう事を言っているわけじゃなくてだな……
「ああ、もう。なんて言ったら良いか……」
「わかってます、先輩」
慌てて言い繕おうとする俺に、桜は一転、変わりませんねとにっこりと微笑みかけてきた。
これには、ぐっと詰ってしまう。桜お前いつこんな技覚えたんだ?
「お前も変わってないな、桜」
と、ここまで考えて気がついた。あの頃は気づかなかった事だが、桜は昔からこうやって俺をやり込めてきた。柔らかで穏やかなくせに、俺の矛先をするりと躱して結局自分の意地や思いを通してしまう。最近は正面衝突型の皆さんと一緒だったから、すっかり忘れてたぞ。
「……流石ですわ。シェロとの付き合いが長いというのはこういうことだったんですのね」
「はい、ルヴィアさんも覚えておくと良いですよ。先輩、本当にうっちゃりに弱いんですから」
桜、うっちゃりなんてルヴィアさんわからないぞ。ルヴィアさん、百科事典に載ってるかしらなんて、何も今から書斎に走る事ないでしょ?
桜が元気なのは良いが、なんか俺の昔の恥を暴かれていくみたいで、なんとも複雑な気持ちだった。
「それよりルヴィアさん。その格好は? 畑仕事でもするみたいだけど」
そんなわけで俺は戦術的転進を図る事にした。このままじゃ、それこそ裸に剥かれて放り出されそうだ。
「あら? さっき申しませんでした? 蜜蝋を取りに行くんですのよ?」
「でも、その格好じゃ危なくないか?」
たしか蜂蜜の採取って肌を晒さないもんだと思ってたが、それに道具もバケツだけ。あれって確か煙であぶって蜂を避けるんじゃなかったっけ?
今のルヴィア嬢の格好は、確かに作業服だが野良仕事をするって言うより、ファッションで作業着を着ている感じだ。蜂を相手にするには些か軽装過ぎる気がする。特に顔とか。
「わたしが居ますから」
そんな俺の疑問に、幾匹かの虫に何か言い聞かすように呪を紡いでいた桜が代わって応えてくれる。成程、そういうことか。
「へえ、やっぱりこれって桜だったんだ」
「はい、春には先輩や姉さんのところにもお裾分けできると思いますよ」
その後、俺たちは意気揚々と先頭を歩くルヴィア嬢の後ろにつき従って、蜂の巣箱のある庭の外れに向かった。
まるで衛兵のようなスズメバチに守られた三つの巣箱。先日俺が見かけた奴だ。
「それではサクラ。蜂達を脇に寄せてくださる?」
ふんとばかりに腕まくりしていたルヴィア嬢が、桜に指示する。それに応えて桜が微かに呪を紡ぐと、三つの巣箱から、ひときわ大きな腹を持った蜂が一匹ずつ、サクラの指先に親に甘える子供のようなしぐさで集まってきた。
―― 唸……――
続いて、巣箱から唸りを上げて蜜蜂たちが桜の周りに群がりだす。瞬く間に黒い霞に包まれる桜の姿。
「えっと、大丈夫か?」
「わたしですか? ええ、この子達は大人しいですから」
ぶんぶん唸りを上げる蜂に囲まれにっこり笑う桜。それが余りに普段どおりの笑顔だったので、俺は妙に納得してしまった。
桜は本当に魔術師だったんだな。
「ああ、やっぱり温室の花だけでは大した量にはなりませんわね」
「花の量も少なかったですし、時間も有りませんでしたから」
そんなことを考えながらぼんやりと桜を見ていた俺を余所に、ルヴィア嬢はせっせと巣箱から巣板を取り出し巣の状況を確かめている。
「あ、俺も手伝うぞ」
大きな巣箱をよいしょと開いて巣板を取り出すルヴィア嬢は、見ていてどこか楽しいところはあったが、だからと言って男手の俺が手伝わないわけにはいかない。
「ではシェロ、二つ目の巣箱をお願いしますわ。下から二枚だけ取り出してくださる?」
「おう」
俺はルヴィア嬢に言われたとおり、巣板を取り出した。
どこか蒼光りする蜜に包まれた巣板。濃いか薄いかまではわからないが六角の巣にびっしりと詰っているように見える。
「蜂蜜って蒼いんだ」
金色だとばかり思っていた。こいつはプラチナって感じかな。
「そちらの蜂はマンドラゴラの蜜を集めさせましたもの」
ルヴィア嬢はさらっと妙な事を仰る。
「マンドラゴラ?」
「ええ、温室の花の受粉と採蜜をさせましたもの。どうせならきちんと呪的に価値のある蜜の方が宜しいでしょ?」
「そりゃそうだけど」
そんな事出来るのか?
「出来ますよ。この子達にどの花から集めるか教えれば。この子達はとっても賢いですから」
桜もなんでもない事のようにさらっと言う。ちょっと感心した。桜の魔術って思いっきり実用性が高いんだな。
「取敢えずは試してみましたけれど、やはり本番は来年ですわね」
「はい。もう寒いですから、今年はこれで巣篭りをさせないと」
三種の蜜の乗った巣板を、それぞれ別のバケツに突っ込みながら、ルヴィア嬢はもう宜しくてよと、蜂達を巣箱に戻すように指示を出す。
なんでも、一つ目赤っぽい蜜はベラドンナ、もう一つの黄色っぽい蜜はニガヨモギだという。……なんか物凄く意味深な蜜だな。
「さて、後は絞って蜜蝋と蜜に分けるだけですわね。シェロ、運んでくださる?」
厨房でシュフランが搾蜜機の用意をしていますわ、とすっかりご主人様モードで当然のように仰る。ま、俺は従者だから当然なんだが。
「でも、これで明日からは自家製蜂蜜か」
紅茶に入れるにしろ、パンやスコーンにつけるにしろ、こう風情があるよな。
「あ、今回分は量が少ないんでお料理には使えないんですよね」
「へえ、じゃあ何に?」
「魔術の触媒です。蜜蝋は蝋燭、封蝋、それに型蝋にも使えますね」
「蜂蜜は?」
「蜂蜜酒にするんです。それに、花が花ですからいろんなお薬にも出来るんですよ、例えば媚……」
「サクラ! シェロ! 急いでいただける!?」
そんな話を桜としていたら、急に真っ赤になったルヴィア嬢が割り込んできた。くすくす笑う桜を睨みつけても居る。まあ、材料が材料だけに想像はつくが。あんまり良い思い出ないんだけどな、媚薬には。
ともかく、この秋からのエーデルフェルト邸の住人は、すっかりこの家に馴染んでいるようだった。冬木で色々とあった桜が、こうして倫敦で明るく笑っているという事は、俺としてもほっと一息つける事でもあった。
ただ俺は、この時もう一つの問題をすっかり忘れていた。
この秋、エーデルフェルト邸の新住人になったのは、なにも桜だけではなかったのだ。
「やあ、衛宮君。午後からは学校ではなかったかね?」
それから数日後、それは俺が午前中のエーデルフェルト邸でのバイトを終え、午後から時計塔
俺は廊下で、ティーセットと蜂蜜の小瓶が乗ったトレイを持ったシュフランさんとすれ違った。
「ええ、そうなんですが。どうしたんですか、それ?」
時間的に午後のお茶はまだ先。お客さんだとしても、トレイに乗っている茶器は内向きの道具類。蜂蜜にしても瓶のままってのは妙な話だ。
「セイバー?」
「ああ、お嬢様のお誘いでセイバー様が見えられてね、今、丁度オーウェンと遊んでもらっているところだ」
話を聞いてみると、そのセイバーに蜂蜜をと頼まれたらしい。で、お茶と御茶菓子はそのついで、セイバーへのささやかな志といったところだそうだ。しかし、蜂蜜なんかなんに使うんだ?
「それじゃあ、俺が持って行きますよ。大した手間じゃありませんし」
「そうかね? では済まないがお願いしよう」
なんとなく身内の事でシュフランさんに御足労願うのも悪い。俺はトレイを受け取り、教えてもらった中庭の一角に向かう事にした。
―― 尖!――
一直線に突き進む金色の輝きが、白銀に煌く曲線の弧に阻まれる。
―― 斜!――
弧はそのまま円を描き、直線の後塵を一気に両断する。
――Shauit!
「甘い!」
ギリギリで、円を躱した直線はうめき声を上げて地に立つ。
が、遅かった。即座に切り返されてきた剣の刀背で、呻き声を止める間も有らばこそ、思い切り宙に放り上げられた。
――muai……
そのまま再度空中で剣に叩かれ、小気味良く地に叩き伏せられる金の煌き。猫科の癖にまともな受身さえ取らしてもらえない。
「筋は良い。だが、まだまだ勢いだけ。精進しなさい」
上着を傍らの椅子にかけ、柄に獅子の飾りがついた竹刀を手に、白いブラウスにタータンのキュロットと言う軽やかないでたちで、セイバーは地に付して腹を見せるオーウェンを不敵に見下ろしている。
エーデルフェルト邸の一角、芝生の敷かれた小さな広場で、王様と金の獣はどうやら鍛錬をしていたらしい。
「うわぁ……」
蜂蜜の小瓶とティーセットを載せたトレイを手に、俺は思わず声を上げてしまった。
セイバー相手に思いっきり叩き伏せられているオーウェン、なんだか思いっきり身につまされて同情してしまう。
俺も随分セイバーには叩きのめされたもんだ。まあ、お前も頑張れ、セイバー相手の鍛錬ってのは並大抵じゃないからなぁ。あれはもう、実戦の方がまだましって言うか……
「おや、シロウではありませんか」
その声が聞こえたのだろう。私から一本取ろうなどとは十年早い、などとオーウェン相手に、腰に手を当てながらご高説賜っていたセイバーが、小首を傾げながら俺に向かって歩いてきた。
「え? ……ああセイバー、シュフランさんに蜂蜜頼んだろ? そいつを持ってきたんだ」
「それは有難い事です。そろそろ頃合だと思っていました」
一瞬、呆然として返事が遅れてしまった俺を余所に。セイバーは嬉しそうに歩み寄ってくる。その都度、腰でひょこひょこと飛び跳ねる白い尻尾。
それが俺の返事が遅れてしまった理由だ。揺れる尻尾に釣られるようにオーウェンもついてくるものだから、なんともおかしいというか、可愛らしいというか……
「……? ! ああ、こ、これですか? 標的です。オーウェンにこれを目掛けて掛からせているのです」
俺の馬鹿面に、暫く小首をかしげていたセイバーだが、オーウェンが追いついて飛び掛ってくると、漸く気がついたようで、慌てて腰のスカーフを外すと両手を振って説明をしだした。
「いや、わかった。でもそろそろ手は下ろした方が良いぞ、オーウェンが大忙しだ」
そんなわけで、益々振り回されるスカーフに必死で飛びつくオーウェンを指差し、俺は苦笑しながらセイバーに話しかけた。
「……オーウェン小休止します。跳び付くのはおやめなさい」
頬を赤く染めながら、なぜか俺をむぅ――と睨みつけてきたセイバーは、溜息混じりにオーウェンに言い聞かせた。俺はそんなセイバーを宥めながら、白木のガーデンセットの上にトレイを置くと、お茶の用意をする事にした。
「オーウェン。今日はよく頑張りました。さ、これを」
お茶と御茶菓子の用意が整い、嬉々としてかぶりつくかと思ったセイバーだが、さすが王様。まずはこちらからと、スコーンをちぎるとたっぷりと蜂蜜を乗せ、横に行儀良く座らせたオーウェンに向かって差し出した。
―― Meiu!
喜び勇んでかぶりつくオーウェン。それをセイバーがよしよしと眺めている。なんと言うかこれもまた一幅の絵のような光景だ。
「ご褒美ってわけか」
「はい、オーウェンは些か腕白なところがありますが、それ故になかなか性根の座ったところがあります。鍛錬を欠かさぬようにすれば良い騎士になるでしょう」
俺がお茶を差し出しながら聞いてみると、ふむふむと満足そうにオーウェンを眺めていたセイバーが、徐に御茶菓子に手を伸ばしながら応えてくれた。しかし魔獣が騎士? まあ元々のオーウェン卿は獅子を従者にしてたって聞いたけど。
「ですが、今はまだ子供。鞭で鍛えるならば飴も与えねばなりません」
まったく食い意地の張った事です、と言いつつご自分も矢継ぎ早に御茶菓子を堪能しておられる王様。人の事は言えないぞ、とは到底いえないのが悲しいところだ。
「ルヴィアさんに頼まれたんだって?」
「はい、オーウェンに戦いの基礎を教えて欲しいと。確かにオーウェンはまだまだ発展途上。何か昔のシロウを見ているようでなかなか興味深いものです」
何より他の師を求めないところが良い、とうんうん頷くセイバーさん。まったく、まだ根に持ってたのか。
「元気もありますし、今は疲れ知らずの暴れ振りですが。落ち着けばそれこそ龍と正対しても遅れを取らぬ猛者となるでしょう」
更にシロウも頑張ってください、とばかりに意味ありげな視線を送ってくる。そういや、最近忙しくて、鍛錬もちょっと怠りがちだ。セイバーは結構あれを楽しみにしてるし、俺もきちんと鍛錬しなきゃな。
オーウェンには負けられない。そう思ってオーウェンに視線を向けたのだが……
「あれ?」
居ない。
さっきまで蜂蜜スコーンを貪っていたオーウェンの姿が見当たらない。何処いったんだ……あ……
「どうしたのですか? シロウ」
口をあけ、脂汗まで流しだした俺を不思議そうに見ながらセイバーが聞いてきた。いや、そのなセイバー、怒るなよ。
「確かに元気一杯だ……」
「……シロウ?」
益々不思議そうな顔をして俺の視線を追って振り向くセイバー。
その動きが一瞬固まった。
俺とセイバーの視線の先、ガーデンセットの空いている白木の椅子。更にそこにかけられているセイバーの上着。
――Meiu!
そしてその上で、蜂蜜でべとべとな爪を立て、セイバーの上着に思いっきり絡み付いて遊んでいるオーウェンの姿。
カランと音を立て、セイバーの獅子竹刀が地に落ちた。
「……オーウェン……」
のんびりとした小春日和の空気が、一気に厳冬の凍てつく大気に取って代わられる。
しんと身を切るほどの冷たさ、触れれば琴と音がしそうな硬さ。それはもはや物質化した殺気だった。
――Maui?
余りの空気の激変についていけないのか、どこか不思議そうにセイバーのほうに振り向くオーウェン。
――Fuuuuuu!
が、視線が定まるや、オーウェンは一瞬のうちに全身の毛を逆立てて身構えた。
「貴方は何をしたかわかっていますか?」
いつの間にやらセイバーさんは完全武装、更にその手には見えない剣。……ちょっと待てセイバー。見えてきてるぞ! 風が巻いてるぞ!
「覚悟!」
――shait!
次の瞬間、エーデルフェルト邸の庭先で、黄金の閃光と白銀の嵐の追いかけっこが始まった。
セイバー、いくらお気に入りのジャケットを台無しにされたからって、仔猫相手にエクスカリバーってのは、やっぱり大人気ないと思うぞ。
渡英、お姉ちゃんと一緒に続いて桜ちゃんのエーデルフェルト邸滞在記です。
得意分野で、ルヴィア嬢の元せっせと修行を積む桜のお話。
ただし、この家にはもう一人問題児が住み着いているんですよね。
さて、この二人の関係や如何に。後編をお楽しみください。
By dain
2004/12/8 初稿
2005/11/20 改稿