「へえ、そんな事があったんですか」
「ああ、あの後セイバーを宥めるの大変だったんだぞ」
結局、ジャケットはルヴィア嬢が弁償してくれたが、それの見立てに俺まで動員されてしまった。女物のジャケットなんか俺が見立てるより、遠坂かルヴィア嬢に見てもらったほうが良いと言ったのだが、なぜか連帯責任ですとセイバーは頑と譲らなかったのだ。
「セイバーさんも大変ですね」
「そうだよなぁ、オーウェンは腕白だから」
「わたしは別の意味で大変だって言ったんですよ」
「別の意味ってなにさ?」
そんな俺に、本当に先輩は変わりませんねと笑いながら洗濯物を干していく桜。
なんだか良くわからないが、そんな桜は、青く澄んだ冬の空によく似合っていた。
きんのけもの | |
「金色の魔王」 | −Rubyaselitta− 第九話 後編 |
Lucifer |
真っ白なシーツが桜の手で次々に干されていく。
無論、俺も手伝っているのだが、桜の奴はこれはメイドの仕事ですと、頑に俺の手から洗濯物をひったくっていく。まったく、桜は大人しく見えて、こういうところは昔から意地っ張りで頑固だ。奪い返すのも大人気ない、俺は出来るだけ桜から隠れて手伝いながらこうして話をしているのだ。
「あれ?」
さて、これで洗濯物干しも大方片付いたかな、と思った時だ。俺はふと何か妙な違和感を覚え、手を休めて周りを見渡した。
今日は秋冬物の入れ替えも兼ね、シーツやカーテンの総ざらえの洗濯。大物が山のようにある。
だから、中庭の一角にロープを張り巡らせて一斉に干しているのだが。
「どうしたんですか、先輩?」
「なあ、桜。洗濯物減ってないか?」
「はい?」
はてと首をかしげて、俺同様に周りを見渡していた桜だが、みるみる表情が曇っていった。
「洗濯物が……」
いきなり、ばさりと一列まとめて見えなくなる。
ロープが切れたのかな? と見る間に、今度は別の列のシーツが、風もないのに次々と翻っては引き落とされていく。
「なんだこりゃ?」
ともかく洗濯物が邪魔で様子がわからない。俺はどこか沈んだ顔の桜を後に、シーツを掻い潜りながらそちらに向かってみる事にした。
―― spit!
そこで見たのは、ひらひらと舞うシーツの裾めがけて飛び掛り、引っ掛け、引き下ろしては素早く身を翻すオーウェンの姿。どこか真剣で、遊びと言うよりセイバーとの鍛錬の自主トレでもしているつもりなんだろうが……
「こら! お前何やってるんだ!」
洗濯物の半ばを地に落し、しかも爪で引っ掛けて何枚かはずたずたにしてしまっているのは頂けない。これじゃただの質の悪い悪戯と一緒だ。
―― mew?
「みゃあじゃない! 洗濯物がぼろぼろじゃないか! こいつは鍛錬の道具じゃないんだぞ!」
だが、怒鳴りつけられてもどこか不思議そうな顔で見返してくるオーウェン。まったく、何考えてるんだお前は、ちゃんと時と場所をわきまえなきゃいけないんだぞ。
「あ……」
そこへ遅れて桜もやって来た。息を呑むように小さく呟くと、地に落ちた洗濯物とオーウェンを見比べて、哀しそうに視線を地面に落とした。
―― caterwaul!
と、そこで俺から桜に視線を移したオーウェンは、いきなり一声叫んだかと思うと、脱兎の如く走り去る。ちょっと待て! まだ話は終ってないんだぞ!
「ああ、畜生! こら! 逃げるな!」
あっという間に見えなくなるオーウェン。俺はその後を追いかけようとしたのだが、
「洗濯、し直さなきゃいけませんね」
小さく溜息をついてシーツを集めている桜を、置いていくわけにもいかない。俺も一緒に拾い集める作業を手伝った。
「まったくオーウェンの奴、悪戯が過ぎるな。桜も一発ガツンと言ってやればよかったんだ」
汚れたシーツを集め、洗濯籠に詰め直しながら俺は桜にも注意した。オーウェンもオーウェンだが、桜もあそこはきっちりと怒鳴りつけなきゃならないところだったはずだ。
「でも、オーウェン君まだ子供ですし」
だってのに、桜はオーウェンの弁護さえする。そりゃ桜は優しいし、そういう事が苦手なのは知っているが。
「だからこそだぞ、動物は子供のうちにきちんと序列意識を植え付けないと。セイバーも言ってたぞ」
「セイバーさんの場合はちょっと極端じゃないかと思うんですけど」
俺の言葉に、桜は何か思い出すように苦笑しながら言葉を返してきた。そうか、桜も見たんだな。
「あ、いや、そりゃあれはなぁ……」
仔猫相手に思いっきり本気で、庭や部屋だけでなく、屋根にまで上がって暴れまわったセイバー。あれは確かにちょっと大人気なかったなぁ。
まあ、その日はそれで済んだのだが、その事は徐々にちょっとした問題になって行った。
それから更に数日後、これもやはりエーデルフェルト邸でのバイトの時の事だ。
「桜、お前どうしたんだ?」
「あ、なんでもないんですよ。先輩」
慌てて手を後に隠した桜だが、俺ははっきり見た。長めの袖口に隠してあったが、手の甲のところに包帯。あの感じだと手首辺りから巻いている様に思える。
「ちょっと、お料理で失敗しちゃって」
「馬鹿、桜は料理で手の甲切るようなドジじゃないだろ? ほら、見せてみろ」
「あ……」
俺は背中に回して隠そうとする桜の手を、引っ手繰るように俺の目の前に引き寄せた。
まったく、何が料理だ、両手ともあるじゃないか。しかも指とかなら話はわかるが、どちらも手の甲や掌だ、うっすらと血が滲んでる。っておい……
「桜、この傷……」
右手は掌、左手は手の甲。滲んだ血はどちらの手首の辺りから三本縦に真っ直ぐ切り裂かれている。これは、
「オーウェンだな」
まったくあいつは、腕白にも程がある。女の子を傷つけるなんて!
「良いんです、先輩。わたしが機嫌を損ねちゃったみたいで……それに、ライオンの子供なんですからそれくらい元気はありますよ!」
いや、ライオンじゃなくてね……
怪我をしながらもぐっと拳を前に出して力説する桜に、ほんのちょっと引きながらも、俺は少しばかり不審に思った。
そりゃあいつは大山猫の子供だが、ただの野獣の子ではない。あれでもルヴィア嬢の使い魔だ。ランス同様、言葉こそ話せないがこちらの言う事は分かるというし、知能だって人並みの高さはある。
そりゃ確かに随分とやんちゃではあるが、むやみやたらに人に爪を立てる奴じゃないと思うんだが……
「なにかあったのか?」
「ルヴィアさんに言われて、あの子の世話をする事になったんですけど……」
なんだか嫌われちゃいました、と桜は寂しそうに応える。
あ、くそ。なんか腹が立ってきたぞ。あいつめ、桜になんて顔させるんだ。
「やっぱり俺が一発怒ってやる。世話をしてくれる相手に爪を立てるなんて子供じゃあるまいし」
「本当に良いんです、先輩。わたしが悪いんですから。それにオーウェン君は、その子供なんですよ?」
いきりたつ俺に、桜は仕方ないですねといわんばかりに微笑んでくる。
確かに、オーウェンは人間で言えば七・八歳くらいの生意気盛り、暴れ盛りの子供だろう。だが、あいつは魔獣でしかも魔術師の使い魔なのだ。きちんと自分の力と相手の見分けを付けられなきゃならないはずだ。
主人でなくても桜は世話をしてくれる相手だ。じゃれ付くならともかく、爪を立てたり牙を剥いたりして良い相手じゃない。その辺きちんと心得てなきゃいけない。
「それに、これはわたしがルヴィアさんから言いつかったお仕事なんです。自分できちんとやらなきゃいけないことですから。先輩は気にしなくても大丈夫ですよ」
でもなあ、桜……
「お願いします。先輩」
俺としてはどうも心配でならない。しかし、桜はぐっと表情に力を込めなおして俺をじっと見詰めてくる。
そんな顔を見てふと気がついた。ルヴィア嬢が、さっき俺が考えたような事を考えないわけがない。ルヴィア嬢は、その上で桜をオーウェンの世話係に選んだのだろう。つまり、自分の未完成な使い魔の躾を、仕上げを桜に委ねたという事だ。それは、オーウェンの教育の為だけじゃない。桜の、弟子の教育の為でもあるのだろう。
ルヴィア嬢は桜を被保護者としてではなく、鍛えるべき弟子として、見所のある後進としてみている。そして、今、桜はそれに応えようと頑張っている。俺は心の中で小さく溜息をついた。
桜を守ってオーウェンを怒鳴りつけるのは容易い。俺ならあいつに言う事を聞かすことも出来るだろう。
だが、それでは意味は無い。オーウェンは獣の勘で、桜を誰かの被保護者だと断定するだろう。そうなったらオーウェンはずっと桜を侮り続ける事になる。
師匠の使い魔に侮られる弟子と、弟子を侮る使い魔。魔術師という命を張った仕事を続けるのならば、これは後々致命傷にもなりかねない。
「桜、もし本当に危なくなったら俺かルヴィアさんに言うんだぞ? オーウェンは子供だけど獣でもあるんだからな」
「はい、でも大丈夫です。オーウェン君は賢いですからちゃんと話せばわかってくれます」
頑張りますと両手を胸に引き寄せ、安心してくださいと微笑む桜。一抹の不安はあるものの、俺はこの問題にあえて首を突っ込む事を断念した。
桜にきちんと正対するって事は、桜を信じて任せるって事でもある。ルヴィア嬢は桜にこれが出来ると信じて任せたのだ。俺だって出来ないことじゃない。
でもなあ、あいつ餓鬼でもあるんだぞ? 心配だなぁ。
そんなわけで、それから俺はこまめに桜とオーウェンを気にかけるようにしていた。
あれ以来、オーウェンが桜に爪を立てるような事はなかったのだが、それでも桜自身がちょっと遠慮がちなところもあってか、態度の節々に、オーウェンはどこか桜を見下ろしているような所が感じられた。
動物相手にこれはちょっと拙い、俺としてはやはり少しばかり心配だった。
「おや?」
だから、この日オーウェンを見つけられたのも、恐らくそんなわけで無意識に注意していたからなのだろう。
庭先の木立の脇で、じっと前を見詰めているオーウェン。えらく真剣だ。
――Croooo……
いや、オーウェンだけじゃない。天高い冬空を悠々と舞っているのはランス。あいつ何をやってるんだ? よく見ると。オーウェンはちらちらとあいつの方にも視線を走らせている。
―― 襲!――
と、いきなりランスは、木の葉のように身を翻したかと思ったら、そのまま翼をたたみ真っ直ぐ急降下する。その先は……
―― sha!
野兎だ。落ち葉の影にこっそりと隠れていた兎が、急降下するランスから逃れるように飛び出してきた。
―― 閃!――
そこに待っていましたとばかりに金色の電光が走る。一気に飛びつき首に牙を立てると、速度を利用してねじり倒しながら兎の息の根を止める。
―― Miaow!
いや、なんとも見事な連係プレイだ。兎を倒した事を確認すると、オーウェンは誇らしげに空に向かって一声鳴いた。
―― Caw
それに応えるように、ランスも一声鳴いて地に舞い降りた。そのまま、良くやったとばかりにオーウェンの傍らまで進むと、徐に兎に嘴を立てる。
――おお、主よ。見ておられたのか。
己が嘴をつけた兎に今日のおやつはご馳走だとばかりに食らい付くオーウェンを、満足そうに見下ろしていたランスが、ふと俺のほうに顔を向けた。
「二人で狩りをしてたのか?」
遠望しながら話をするって言うのもなんだ。俺はランスたちに歩み寄り、獲物から顔を上げ軽く会釈するオーウェンに挨拶を返しながら聞いてみた。
――ふむ、ルヴィア殿からオーウェンに獣の作法を伝授して欲しいと頼まれてな。
そんなわけでまずは狩りと、こうして実践で教え込んでいる所だと言う。
獲物への近づき方、隙の伺い方、飛び掛り方。最初は小さな虫、次は野鼠。まずはランスが自分で行い、続いてオーウェンに指導しつつやらせているのだそうだ。
―― 兎は今日が始めてであったが。ふむ、なかなか上達が早い。オーウェンは良い狩人になろう。
「そういや、セイバーも良い騎士になるだろうとは言ってたな」
俺は美味そうに兎の腹に顔を突っ込むオーウェンを眺めながら、少しばかり複雑な気持ちになる。かなり生臭い光景のはずなのだが、なぜか妙に愛嬌があって可愛らしい。
セイバーやランスと一緒の時は、やんちゃではあるが、真面目に頑張っているオーウェンなのに、なんで桜が相手だとああも乱暴で無遠慮になるのだろう。
――主よ、何かあったのかな?
そんな思いが顔に出てしまったのだろう、ランスが訝しげに聞いてきた。
「ああ、実はだな……」
俺としてもどう対処して良いか、少しばかり悩んでいたところなので、桜とオーウェンの事についてランスに相談してみる事にした。なにせ御婦人がらみ、ランスなら何か良い考えが思いつくかもしれない。
―― ふむ、成程。主よ、それは些か厄介だ。
俺の話しを聞いて、ランスも眉根を寄せて表情を曇らせた。
――なにせオーウェンはまだまだ子供。御婦人も何も一緒くたに、強い弱いだけを基準に決めてしまうところがあるのでな。
思春期前では女性の素晴らしさを教えるわけにもいかぬしな、となにやらかなりきわどい事を呟いている。
――我から言い聞かせておこうか?
「いや、それが出来るなら俺がやっている。それじゃ意味無いだろ?」
――ふむ、確かに。
オーウェンがそんな状態なら、俺たちが何を言っても却って桜が侮られるだけだろう。
「何とか手助けしたいんだがなぁ」
――桜嬢が御婦人であられる事を望まれるなら簡単なのだが。
そう、それなら簡単だ。ただ単に俺やランスが守れば良い。だが、
「桜は違う道を選んだからな」
――だとすれば、後は桜嬢の心一つだ。
俺たちは一心に獲物の肉を貪るオーウェンを見下ろしながら嘆息した。結局、これは桜とオーウェンの問題だってわけだ。
どんな形にせよ、これは二人で決着をつけなきゃならない。俺としては、それが出来るだけ穏やかな形で付く事を願うだけだった。
だが、俺の願いとは裏腹に、ついにその時がやってきてしまった。それは俺がランスと話をした日の晩の事だった。
ちょうどその日、エーデルフェルト邸の夕食は桜がフルコースのディナーを用意する事になっていた。
「サクラはシェロの弟子でしたわね」
「もうすっかり越えられてるけどな」
格好は従者だがこの日の夕食は、俺もルヴィア嬢の正面の席について御相手を勤めていた。
ずっと一人で夕食をとってきたルヴィア嬢だが、最近ではこうして俺を、桜が来てからは桜を相伴させる事が多い。
時々はこのようにコックを使わず、俺の料理なども食べていたのだが、今日は桜が初挑戦をしているというわけだ。
「確かに、見事ですわね。こういった趣向も面白いですわ」
「まったくだ。俺なんかじゃ考え付きもしなかったな」
桜の料理はあくまで家庭料理、本格的なフルコースなんてと思っていたが、オードブルから、スープ、サラダに至るまで、ここエーデルフェルト邸で栽培されている食材で、きっちり見事な和風フレンチに仕上げてくれていた。ああ、もう。遠坂だけでなく、桜にまで抜かれちまったなぁ。
「メインは何だったかしら?」
「兎のローストのはずだけど」
さて、後はメインとなったところで、食堂の脇の廊下を何か軽い足音が過ぎ去っていた。
「――?」
続いて何かがひっくり返るような音と女性の悲鳴。最後に再び廊下を走る足音、さっきより微かに重い。
「……シェロ?」
「ちょっと見てくる!」
なんだか非常に悪い予感がして、俺はルヴィア嬢に断って席を立った。
「あ……桜?」
「……先輩」
悪い予感は当たった。厨房から食堂への廊下の途中。そこには、メイド姿の桜がワゴンをひっくり返して呆然とへたり込んで居た。
「オーウェンだな」
ひっくり返ったワゴンから放り出された皿は空。廊下には何か引きずったような跡もある。メインディッシュを持っていかれたのだろう。
「その……お料理している時からこっそり伺ってたみたいで、気をつけてはいたんですけど」
“狩り”だな。
あいつは……洗濯物の時もそうだった。教わった事を即座に実践で練習してるってわけだ。それ自体は悪い事じゃない。だが、その相手に桜を選ぶってのは……
「あっちだな?」
くそっ、とっちめてやる。
「あ、先輩待ってください」
追いかけようと振り向いた俺を、桜が慌てて立ち上がって押し止めた。
「オーウェンはわたしがなんとかしますから。先輩はルヴィアさんに。その……メインが駄目になっちゃいましたから」
「ああ……」
お願いしますと頭を下げて、桜はそのままオーウェンの逃げ去った方向へ走っていく。真剣な面持ちの桜に、俺は一先ずは桜に任すことにして、大急ぎでワゴンと散らばった皿を片付け、ルヴィア嬢の待つ食堂に向かった。
「それじゃ、ルヴィアさん。そういう事だから」
とはいえ、どうにも心配だ。俺はルヴィア嬢にそれだけ告げると、桜の後を追おうとした。
「お待ちなさい、シェロ」
と、今度はルヴィア嬢に引き止められた。ああもう、急いでるって言うのに。
「なにさ? ルヴィアさん」
「夕食がまだ終っていませんわ。何か作ってくださらない?」
ルヴィア嬢は落ち着いた物腰で席に着いたまま、僅かに視線だけを俺に向けて、何事もなかったように命じてくる。
「ちょっと待ってくれ、ルヴィアさん。その、今はオーウェンを……」
「シェロ。オーウェンについてはサクラが何とかすると言ったのでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど」
俺がそんな場合じゃないと勢い込んでるっていうのに、ルヴィア嬢は些かも表情を崩さない。
「でしたらシェロ。貴方は餓えた主の為に食事を用意してくださいな」
首を回し、ルヴィア嬢はじっと真正面から俺を見据えてくる。
「わたくしが、サクラに、任せたのですわ」
そのまま俺を諭すように、はっきりと一語ずつ区切るように言い切った。
「ルヴィアさん……」
「わたくし、サクラを信じていますもの」
にっこりと微笑むルヴィア嬢。俺ははたと気がついた。ルヴィア嬢は端っからわかっていたのだ。
桜にオーウェンを任せれば、桜がどう対処するか、オーウェンがどう反応するか。それが今のような結果になる事も、多分予想していたんだろう。
予想した上で、二人がこれを乗り越える事を望み、信じている。
それは確かに俺も信じたい。とはいえ、これはそう簡単な事じゃない。なにしろ、
「オーウェンは魔獣なんだぞ」
それも加減を知らない子供だ。それに桜はか弱い女の子、もし万が一何かがあったら……
「ああ、そのことですの。それなら大丈夫ですわ、シェロ」
だってのにルヴィア嬢は、そんな俺の心配を、花が開くような笑顔で呑み込んでしまった。
「だって、サクラのほうが強いんですもの」
きらきらと輝きながら、金色の魔王は見事なほどに確信に満ちた物腰で言い切った。
それは予測でも希望でもなく、ただ単に事実を告げるだけの声音だった。
「それじゃあ、俺は行くぞ」
「シェロ……」
「食事の用意も済ませたからな」
「それはそうですけど……」
視線で示すテーブルの上には、ずらりと並べられたサンドウィッチの山。俺が大急ぎで作ったものだ。
「様子を見に行くだけだ。手出しはしない」
むぅ――と睨みつけてくるルヴィア嬢に手を振り、俺は桜たちを探しに食堂を後にした。
ルヴィア嬢の気持ちも信頼も分かる。俺だって桜を信じていないわけじゃない。だが、だからと言って黙って放ってなんかは置けない。何か俺にだって出来る事はあるはずだ。ただ見守っているだけでも良い。自己満足に過ぎないかもしれないが、じっとしている事だけは俺には出来そうも無かった。
「わかりましたわ、シェロ。ですけれど、気をつけて行ってくるのですよ」
そんな俺をルヴィア嬢は仕方がないとばかりに苦笑しながら見送ってくれた。更に、あの二人ですものわたくしこの屋敷の半壊くらいは覚悟してますのよ、などと俺に向かってもう一度気をつけてと真剣な顔で声をかけてれた。
前言撤回。流石に俺もここまで腹を据えて信じてたわけじゃない。相変わらず凄まじいなぁ、ルヴィアさんは。
「ああもう。どこ行った?」
俺はそんなルヴィア嬢の忠告を胸に、屋敷中を駆け回った。
居間、客室、厨房、どこにも居ない。途中何人かメイドさんを捕まえて聞いてみたところ、どうやら外へ向かったらしいと言う。それならと、俺は庭に出て探してみる事にした。
「……桜」
エーデルフェルト邸の庭は、前庭、中庭、奥の院とかなり広い。暫く庭を駆け回った俺が、漸く桜を見つけたのは奥の庭の更に外れ、蜜蜂の巣箱を設置した一角だった。
かすかな月明かりと、遠く屋敷の明かりをうっすらと浴び、ひっくり返された巣箱の真ん中で、何かを胸に抱いて呆然と立ちすくむ桜。
そしてそんな桜を一向に気にする様子も無く、壊れた巣箱からお気楽な顔で巣板を引っ張り出し蜜を嘗めているオーウェンの姿。
周りには夜にいきなり放り出された働き蜂が、困惑したように飛び交いながら、桜の周りに心細げに集っている。
「女王が……」
俺の声で漸く顔をあげた桜だが、一瞬だけ泣きそうな顔を俺に向けて再び俯いてしまった。胸元に寄せられた手の上には、ひくひくと弱々しく震える三匹の大振りの蜂。
女王だ、無茶なやり方で巣箱をひっくり返された時に放り出され、傷ついてしまったのだろう。
「オーウェン!」
流石に怒鳴りつけた。
季節外れのこんな時期に、桜が一生懸命育てた蜂達なのだ。悪戯心でこんな事をして良い物ではない。
「良いんです……先輩。悪いのはわたしなんですから……」
だが、桜は今度も蚊の鳴くような声で俺を押し止める。ほらやっぱりと言ったすまし顔で俺を睨み返してきたオーウェンを、もう一度睨み据え、俺は桜に振り返った。
「桜! お前まだそんな……」
だが、そこから先の言葉が出なかった。
俯き、何かに耐えるように肩を震わす桜。少し前までの桜と少しも変わらない姿のはずなのに、それはどこか異質な気配に包まれていた。
「……わたしが……しっかりしないから……また家族が傷ついてしまった……ちゃんとオーウェンと向いあっていれば。変に遠慮なんかしないで、ちゃんと躾けていればこんな事にはならなかった……これは……わたしの、せいです」
―― spit……
俺だけじゃない。さっきまで見下したようにのほほんとしていたオーウェンも、今は毛を逆立てて桜に対して身構えている。
「こんな事にはもうしないって決めたのに。わたし、またやってしまったんですね。でも……」
桜が顔をあげた。途端、俺とオーウェンの全身の毛という毛が総毛立った。
「オーウェン……もう、遠慮は、しませんからね」
月明かりに長く伸びた陰の中で、輝くばかりの闇が微笑んだ。その瞬間、オーウェンの奴が脱兎の如く駆け出した。あ、待て、俺も……
「あれ? 逃げられると思ってるんですか?」
途端、木々の間から大粒の黒と黄色があふれ出してきた。スズメバチだ、無理やり叩き起こされ、凄まじいばかりの不機嫌をどこにぶつけてやろうかとばかりに、唸りを上げてオーウェンを追いかける。
呆然と立ち竦む俺の脇をすり抜けて、ゆるゆると後を追う桜。だってのに、全力で駆けるオーウェンに一歩も遅れていない。
―― 臓々……
思わず桜の足元に視線を移し、俺は息を飲んだ。
桜に纏いつくようなざわめく何か揺らめく気配。
陰だ。桜の足元の陰が動いているのだ。蠢きながら無数の足を、翅をひらめかしながら、オーウェンに負けぬ速度で桜を運んでいるのだ。
「ちょ、ちょっと待て!」
ここで俺も漸く身体が動くようになった。あの二人を見失ってはならない。とにかく俺も二人の後を追って駆け出した。
――Maow!
その間もオーウェンは一心に駆けていた。右に左に身体を躱しながら、攻め寄せるスズメバチから必死で逃げている。ちょっと待て、あれって普通の蜂だろ? なんで地面がえぐれるんだ?
「逃がさないと……言いましたよね?」
桜の声に応えるように、蜂たちが一気に散開する。そして、そのまま四方八方からオーウェンを包み込むように襲い掛かる。
―― Caterwaul!
だが流石は魔獣、オーウェンはその雲霞の如く群がる蜂の包囲網を突き破って脱出した。
尤も無傷ではない、既に数箇所は刺されているのだろう。毛皮の上からでもわかる腫れが、その秀麗なシルエットを歪めている。だが、それでも地に転がるように蜂を振り切り、一気に猛スピードでダッシュするとそのまま庭先の池に飛び込んだ。
「水の中なら大丈夫だと思ったんですか? 甘いですねオーウェン」
―― Caown!
ぶくぶくと泡を立て、必死で潜るオーウェンだったが、水面に桜の陰が掛かると同時に、逃げるように水面から飛び出してきた。
――Mimwwwww!
尻尾を、足を、髭を、掌大の漆黒のタガメにガッチリと咥え込まれ。オーウェンは再び転がりまろびながら地を這いまわる。
「今までごめんなさい、オーウェン。わたしきちんと貴方に向かい合ってませんでしたね」
息も絶え絶えになりながら、漸く虫を振り払ったオーウェンに再び桜の陰が掛かる。
―― 臓々……
月明かりの下。ぽっかりとオーウェンの周りの僅かな部分にだけ光が当たっている。周囲は全て陰。漆黒で、うぞうぞとわきわきと何かが蠢き続ける陰。
それが、さらに月明かりを狭めていく。
―― ELLI−WEOOOOO!!
進退窮まったオーウェンは、ついに月に向かって雄叫びを上げた。
エーテルが、マナが風を伴って巻き上げる。一瞬だけ、オーウェンを包囲する影が僅かに下がった。
―― Gruuuuu……
「有難う、オーウェン。漸くわたしをまともに相手してくれる気になったんですね」
風が収まった時、そこに身構えるのは月明かりに金色の光を弾く黄金の獣
ついに二匹の魔獣がエーデルフェルト邸を舞台に全力で戦うべく対峙した。
俺は思わず息を呑んだ。これは確かに屋敷の半壊を覚悟しなきゃいけない類の騒動だ。
――Graw!
いきなり、金の閃光が走った。視界にさえ捉えられない速度でオーウェンが陰の群を押し開き、桜に向かって突進したのだ。
「――――Du liebenKind,Komm,geh mit mir.……
が、待っていたように桜の呪が解きほぐされる。沸き立つ黒い虫の群が即座にオーウェンに群がり、目にも留まらぬ金色の突進は、目に留まる速度に、走る速度に、歩む速度にと徐々に勢いを失っていく。
―― Gaouwwwn!
「くっ……――Auf zu hoherer Kerze leudhet
全身を虫に集られ、腫れあがらせながらも、オーウェンは尚も力を入れ押し進む。桜の呪も更に重みを増しているが、これは……拙い。
このままじゃどっちも危ない。オーウェンは無茶を承知の突進だ、身体がそろそろ持たない。桜もここでオーウェンを抑え切れなかったら獣と人のぶつかり合い、肉体的にはごく普通の女の子だ、唯じゃ済まない。
俺は大急ぎで割って入るべく、二人の間に剣を投影……
「――――De soleil luyant,vler et beau
……する前に、庭全体が真昼のような光に包まれた。
「そこまでですわ」
視界が真っ白に染まるほどの光の奔流の中から、その光よりも更に輝く黄金の光が進み出てきた。
ルヴィア嬢だ。影さえ差さぬほどの光の滝を二人の間に立ち上らせ、堂々と静々と立ち木の向こうから傲然と歩んでくる。
「ルヴィアさん……」
「ルヴィアさん?」
―― Meiw……
呆気に取られる三人三様の呟きに、軽い微笑で応えながら、ルヴィア嬢はまずオーウェンの傍らに立ち、情けなさそうに見上げるオーウェンの頭をぽんと叩いた。
「オーウェン。この姿は反則ではなくて?」
そのまま再びエーテルの風が巻き、オーウェンは瞬く間にもとの仔猫に姿を変える。
「さて、納得できましたわね?」
更に、ぺたんとへたり込むように腰を落としているオーウェンに、畳み掛けるように笑顔を向ける。
―― Maow.
ルヴィア嬢と桜を交互に見上げていたオーウェンだが、慌てたようにこくこくと頷くと肩を竦めて小さく鳴き声を上げた。
「桜、これでオーウェンを許していただける?」
「それは……オーウェン君次第ですね」
何か感じるものがあったのだろう。オーウェンだけでなく、ルヴィア嬢をも少しばかり恨めしげに見ていた桜だったが、ほんの少し唇を尖らして視線をオーウェンに移した。
つまり、きっちりけじめを取るなら許してやっても良いって事だ。
―― purr……
黒と金、二つの綺麗な笑みに挟まれていたオーウェンだが、参りましたとばかりに小さく喉を鳴らすと、桜の前にごろんと腹を向けて転がった。
無条件降伏、御免なさいの姿勢だ。
「もう……そうこられちゃ、許さないわけにはいきませんね」
漸く桜の笑みが和らいだものに変わった。そのまま、屈みこんでオーウェンの腹からのどを優しく撫でる。
「でも、もうあんな事しちゃ駄目ですよ。今度は本気になりますからね」
……桜、今のは本気じゃなかったのか?
俺同様、脂汗を浮かべたオーウェンも三度こくこくと頭を縦に振る。それににっこりと笑みを深めて優しく微笑む桜。ちょっと怖い。
でもまあ、どうやらこれで決着は付いたようだ。
かなり危険な大騒動の末であったが、こうして秋からエーデルフェルト邸の住人になった一人と一匹は、御互いの居場所をきちんと定めて、馴染む事が出来たようだ。
「あの子達は冬篭りなんですからね、もう巣箱には手を出さない。蜂蜜が欲しければ、言ってくれればちゃんと取り置きから上げます。良いですね?」
―― Maow!
スズメバチに刺された鼻先に、薬を塗ってもらいながらオーウェンが一声鳴く。そうは言っても、こいつはまたちょっかい出すんだろうな。
「騒動が絶えないなぁ」
「それでもオーウェンは、きちんとサクラを認めていますわ」
居間の窓を閉めながらの俺の呟きに、ルヴィア嬢が胸元に引き寄せていたカップをテーブルに戻しつつ微笑んだ。
それは確かに、今のオーウェンはあの頃のような桜を見下したような傍若無人ぶりはすっかり影を潜めた。とはいってもやっぱりまだ子供だ、同じ目線で遊んではいるようだ。
「ところで、ルヴィアさん」
「なんですの?」
すっかり仲良くなった二人を眺めながら、俺はあの時からちょっと疑問に思っていた事を聞いてみた。
「放っておいたってわりには、あの時、随分とタイミングが良かったな」
「そ、そうかしら?」
「ああ、どんぴしゃ。傍で見ていた俺だって一拍遅れたって言うのに」
「そりゃ、オーウェンはわたくしの使い魔……っ!」
成程、やっぱりそうか。
慌てて口を押さえるルヴィア嬢を見やりながら、俺は自分の推測があたった事を知った。
やっぱりルヴィアさん、最初から最後までちゃんと見てたんだな。
“オーウェンはわたくしの使い魔”
つまり、オーウェンの五感はルヴィア嬢の五感に繋げるって事だ。それはオーウェンを通して、ずっと桜の事を見ていたって事でもある。
更にあの時の光の呪。あれだけの呪、そう易々と発動できるもんじゃない。あらかじめきちんと準備を整えた上で、即座に使えるようにしていたはずだ。
桜の躊躇、オーウェンの腕白、そのぶつかり合いで、万が一危なくなればいつでも割って入れるように、ルヴィア嬢は息を殺して見守っていたってわけだ。
「素直じゃないんだから」
「わ、悪かったですわね、けれど、表立つわけにもいかないんですのよ?」
僅かに顔を赤くしながらも、ルヴィア嬢は開き直ったように俺を睨みつけてくる。
俺は思わず微笑んでしまった。なんのかの言っても、ルヴィア嬢もたっぷりと心の贅肉をつけていらっしゃる。
「なにがおかしいんですの?」
「いや、ルヴィアさんは優しいなってね」
益々膨れて赤くなるルヴィア嬢に、俺は益々笑みを深めてしまう。
外では桜とオーウェンがまた追っかけっこを始めた。二人とも実に楽しそうだ。
……仲良く喧嘩しな、か。
もう直ぐ厳しい本当の冬がやってくるって言うのに、このエーデルフェルト邸は明るい金色の光に包まれて春のように暖かい。
ルヴィア嬢がルヴィア嬢である限り、きっとこの屋敷はいつまでもこの暖かさを保っている事だろう。俺は、それだけは間違いない事だろうと思っている。
END
エーデルフェルト邸の新住人、きんのけもの と くろいひいろ。
二大怪獣大激突の巻でした。
とはいえ、締めたのはこの家の主、もう一匹の金色の魔王。まだまだ、このお方には敵いません。
桜とオーウェン。いまだ引っ込み思案が抜けない女の子と、やんちゃ盛りの男の子、二人が一緒に居ればこんな騒動が起こるだろうと、書き上げてみました。まあ、桜の方が強いんですけど(笑)
ともかく、これで桜の倫敦での居場所はほぼ定まりました。これからも、皆と一緒に頑張ってくれるでしょう。
By dain
2004/12/8 初稿
2005/11/20 改稿