「さてと」

俺は綺麗に片付けられた自分の部屋を見渡して、少しばかり誇らしい思いを抱いた。
作業台はぴかぴかに磨き上げられ、棚もきちんと整理されて道具も小物も所定の位置に収められている。
そして真新しい炉を中心に掃き清められた床には、正面にこれまた新しい鉄床。そして両側には整然と並べられ磨かれた鉄槌、やっとこ等の鍛冶道具。

「――――同調開始トレース・オン

俺は、今まで使っていた古い鉄床を砕いて作った鉄粉を使い、炉と道具を囲んで半円を描くように呪刻を刻んでいく。
今日は鍛冶の守護者、聖クレメントの聖日。
俺はその日に漸く手に入れた真炉を据えるべく、こうして徹夜で儀式魔術の準備を進めていた。
魔術の儀式に聖堂教会の聖日なんておかしいように思えるが、魔術の実践には、積み重ねられた人の思いで鍛えられた概念が大きな役割を果す。そういった人々の共通認識となった思いを真実に還元するのも、また一つの魔術なのだ。
真実から願いを、願いから概念を、概念から真実を、共感で繋がれぐるぐると回る“流転の蛇ウロボロス” これこそが魔術なのだ。

「――――全情報剣索アテンション……自己解析ポート・アーム……確認ロック・オン

そして俺は、俺の中の真実を、概念を、鍛ち重ねられた経験を、鉄の粉を通して炉に、道具に送り出す。
今行っているのはこの鍛冶場を、俺の工房全体を一つの魔術に編み直す儀式。
この一晩掛かりの儀式魔術で、俺は本物の魔術師の工房って奴を手に入れる事になる。
遠坂の弟子として、師匠の手助けで道具をそろえ、術を編みこんで設えてきたここは、今までは言わばただの作業場だった。
だが、この儀式が終れば、ここは誰の手も借りずに作り上げた、自分だけの小世界になる。これで俺は、漸く本物の魔術師の端くれに加わる事になるってわけだ。

「――――逐次透影クローリング……移送ムーヴェライズ……移転ムーヴェライズ……情報透化パレット・サルート

俺は一つ腹に力を入れ直し、自分の中から薄っすらと湧き上がる何かを炉に、鍛冶場に、工房全体に編みこんでいった。よし。それじゃあひとつ、気合い入れてやってやるか。





あかいあくま
「真紅の悪魔」  −Rin Tohsaka− 第九話 前編
Asthoreth





「……終った……」

障子を開き、すっかり昇った朝日を浴びながら、俺はなんともいえない達成感と開放感を味わっていた。
とはいえ、同時にどっしりとした疲労感と倦怠感も全身を覆っている。なにせ準備に二日と一晩、施術に一晩、都合二日二晩ぶっ続けの作業だったのだ。体力には少しばかり自信があったが、それでもこれは結構堪える。

「でもまあ、これで俺も一人前かな?」

とはいえ、これで一つの節目を終えることが出来た。俺はシャワーでも浴びようと、少しばかり浮き立った気持ちで部屋を見渡しながら扉を開いた。

「まだまだ半人前よ。おはよう士郎」

と、いきなり開いた扉から遠坂の声が飛び込んできた。慌てて視線を前に向けると、目の前の廊下には腕組みしてつんと顎を逸らした遠坂の顔。ちょ、ちょっと驚いたぞ。

「お、おはよう。遠坂。その、いつからそこに?」

「ついさっき。起きて様子を見に来たとこよ。それより、どうだった? 無事終った?」

「おう、ばっちりだ」

第一声こそ憎まれ口だったが、それに続いた声にはどこか心配そうな響きがあった。俺はそんな遠坂を安心させるように、両手を開いて“俺の工房”を指し示した。
朝日を浴びて鈍く輝く鋼の道具、影を落としながらも赤い炎を宿した真炉、綺麗に整頓されきっちりと整えられている材料や素材の棚。昨日と見た目は殆ど変わらないだろうが、魔術師なら見ればわかる。今のここには間違いなく俺の匂いがするはずだ。

「ふん、まあまあね」

遠坂は、そんな工房と俺を交互に見据えながら、鼻を鳴らして軽く口の端を持ち上げる。尤も目尻の柔らかさには安堵と優しさがある。まったく、素直に褒めてくれない辺り実に遠坂らしい。
とはいえ、ちょっと妙な事にも気が付いた。いつもの遠坂なら、直ぐに部屋に入って根掘り葉掘り粗探しを始めるところなんだが、今日は戸口に立ったまま、覗き込んでいるだけだ。

「何で入らないんだ?」

「あんたねぇ……工房はこれだけきちんと創れるってのに、その辺はちっとも変わってないのね」

なもんで聞いてみたのだが、今度は本当に呆れ顔になって俺の顔を見据えてきた。

「良い、士郎。昨日までならともかく、今日から此処は“士郎の工房”なのよ? 師匠だからって勝手に入れるもんじゃないわ」

ここまで言うと遠坂はこほんと一つ咳払いして、にっこりと微笑んできた。

「衛宮くん、良いかしら?」

そうだった。例え師弟とはいえ、此処は今日から俺の正式な工房。魔術師として相手の承認なしに入るわけには行かないってわけだ。どうも俺はこの辺りすっぽり抜ける傾向があるんだよな。

「おう、遠坂。遠慮なく入ってくれ」

「それじゃ、お言葉に甘えて」

俺の招きに、気取ったしぐさで入ってきた遠坂は、朝日に眩しげに目を細めながら俺の工房を見渡すと、満足げに微笑んでくれた。

「本当に士郎は、こういった作業の仕上げは見事よねぇ」

きらきらと朝日を浴び、どこかふわふわした足取りで工房を闊歩する遠坂は、一つ一つの道具や工房に刻まれた呪刻を眺めながら、珍しく褒めてくれる。

「ふん、どんなもんだ」

何かそのしぐさが、どこか遠坂らしくなく可憐だったんで、照れ隠しもあって俺は調子に乗ってみた。

「そうね、衛宮くんはどんどん上手になって行ってる。うん、これなら大丈夫かな」

なにいってんの、とでも切り替えされるかと思っていたのだが、案に相違して遠坂はふわふわとした足取りのまま俺の前まで進むと、少しばかり寂しそうに手を伸ばし、俺の頬をそして髪を確かめるようにそっと撫でて来た。

「と、遠坂。どうしたんだお前?」

これには却って俺のほうがどぎまぎしてしまった。な、なんだ? この儚げでたおやかな遠坂は?

「なによ、珍しく褒めたんだから素直に増長しなさい」

途端、遠坂はむぅ――っと睨みつけて来た。身体さえ二周りくらい膨らんだように見える。
とはいえ、俺としてはなんだか安心してしまった。安心ついでに欠伸が……

「ふわぁぁ……」

「士郎……あんたすッごく失礼よ。褒めるとびくついて、怒鳴ると緩むってどう言うことよ?」

おかげで遠坂さんは、益々ぷんぷんと膨れられてしまった。ご尤も、仰るとおりなんだが。

「すまん、遠坂が元気そうなんでほっとしちまったんだ」

「わたしはいつだって元気よ。まったく、士郎こそ二日徹夜でしょ? 大丈夫?」

「俺のほうこそ大丈夫だ、ちょっと眠いけどな」

「それなら良いけど。気をつけてよ、近頃は冷えるんだから」

まあ、確かにもう倫敦はすっかり冬。さっきまで気を張っていたから少しも感じなかったが、もう随分日が高いってのに、儀式の為に真炉の種火以外の火を全て落としていた工房はかなり寒い。

「わかった、シャワー浴びて直ぐ寝る」

「そうしなさい。じゃあ、わたしは時計塔がくいんに行ってくるから」

「ああ、そうか。今日は遠坂の講座がある日だったな」

「うん、午前中にルヴィアと実験して、午後から講義してくる。ちょっと遅くなるけど、帰ってきたら、今日はわたしがご馳走作って上げるから」

素直に頷いた俺に、士郎のお祝いだしねと遠坂は柔らかく微笑んでくれた。なんか今朝は遠坂の素が随分出るな。得した気分だ。

「それは楽しみだな。それじゃ頑張れよ、遠坂」

「うん、おやすみ。士郎」

そのまま遠坂を送り出した俺は、シャワーを浴びて床に付く事にした。俺のお祝いだって言うけど、遠坂にだけ任すってのもなんだな。そうだ、今日は久しぶりに二人で厨房に立つか。
うん、それが良い。二日ぶりの寝床に入った俺は、そんな事を考えながら瞬く間に眠りの世界へと落ちていった。めったに夢を見ない俺だが、今日は良い夢が見れそうだ……




「風邪……ですの?」

「はい、ただの風邪です」

大急ぎで部屋に戻ったわたくしの問いに、ベッドに横たわるリンの上に、覆いかぶさるように屈みこんでいたセイバーがほっとしたように顔を上げる。

「……間違いありませんの?」

とはいえ人の事は言えない。わたくしもどっと力が抜けて、ベッドサイドの椅子に腰を掛けてしまった。

「はい、凛は年に一度ほど風邪で熱を出して寝込むのですが、今回もその時と同じ感触を受けました。ですが……」

セイバーはここまで言うと、本当に不思議そうにわたくしに視線を向けてきた。

「気が付きませんでしたか? 確かに、意識を失うと言うのはかなり重い風邪ではありますが」

魔術師は専門の医師ではない。とはいえ自分自身を制御する事を旨とする魔術師は、それなりに人間の身体についての知識もあるはず、風邪くらいなら判定できるだろうというのだ。

「五大元素を扱った施術の最中でしたの、ちょうど火精を扱っている時に倒れたものですから……」

施術の山場を越え、さて仕上げと呪を合わせようとした途端、いきなり崩折れるように倒れたリンに、てっきり何かのバックファイヤだと思ってしまったのだ。

「成程、道理で水精ウンディーネを被せて運んできたのですね……」

こめかみに手を当て溜息をつくセイバーを前に、わたくしは肩を窄めるしかない。高い熱を出して意識を失っていたリンを、てっきり火精サラマンドラに侵されたと思い込み、水で包むと言う最悪の対処療法をしてしまったのだ。全く、わたくしはなにをしていたのだろう……

「随分慌てていたのですね」

「そんなことはありませんわ」

そんなわたくしを見て、どこか優しく微笑むセイバーにわたくしはきっと顔を上げた。あれは、ただの失敗。間違えただけだ。別に慌てたわけでも取り乱したわけでもない。そんなこと、あるわけが無い。

「そうですか? ですが驚きました。ルヴィアゼリッタまでずぶ濡れで駆け込んできたのですから」

「ちょっとした手違いに過ぎませんわ」

確かに濡れていたが、それも慌てていたわけではない。
水精ウンディーネで包み込んでも一向に下がらない熱、それどころか益々苦しそうなリンの息遣いに、わたくしは大急ぎでこの家に担ぎ込んだだけだ。その際少しばかり水精ウンディーネの影響を受けてしまって、濡れてしまっただけ。単なるちょっとした手順の食い違いに過ぎない。

「そうだったのですか?」

「そうですわ」

借り受けたバスローブに身を包みながら、わたくしは思わせぶりな口調のセイバーを睨みつけた。下着までぐしょ濡れで、たった今シャワーを借りたのも単なるついでに過ぎない。

「わかりました。服はこちらで乾かしておきます。シュフラン殿に連絡を入れておきましたから、おっつけ着替えを持って来られるでしょう」

どこか見透かすような優しい微笑を浮かべたまま、セイバーはそれでは暫らく凛を頼みます、と部屋を後にした。

「全く……セイバーは、なにを誤解していらっしゃるのかしら」

わたくしは椅子に腰掛けたまま、ベッドで横になるリンに視線を落とした。熱はまだあるようだが、それでも随分と落ち着いてきたのだろう。額の汗も引き、安らかな寝顔で静かな寝息を立てている。

「慌てたのは認めて差し上げましょう。まさか貴女がただの風邪で倒れるなんて想像もつきませんでしたもの」

それにしても、ただの風邪で意識を失うなどとは、一体どう言う健康管理をしていたのだろう。まったく、元気でも病気でも本当にはた迷惑な女だ。

「……ん?」

そんな事を考えながら、セイバーに入れてもらったお茶と軽食を取っていると、眠っていたリンが薄っすらと目を覚ました。

「お目覚めですの?」

「え?……あ、うん。ルヴィアか……」

いまだどこかふわふわした声で、リンはわたくしに些か覚束無げな視線を向けてくる。
まだ幾分熱っぽいようだが、もう大丈夫だろう。熱のせいか寝起きのせいか、多少ぼんやりしているようだが意識も戻った。そうと決まれば心配した分、存分に楽しませて頂こう。
わたくしはどこかほっとした気持ちを抑えつつ、腕組みして椅子に腰を掛けなおした。

「ルヴィアか、じゃありませんわ。今の状況分かって?」

「ええと……あ、そっか、術の途中で倒れちゃったんだ……」

「そうですのよ、良い迷惑でしたわ」

くどくどしいのは好みではないが、弱った犬は打てと言う。わたくしは大きな瞳でぼんやりと見上げてくるリンに視線を落とし、軽く口の端を吊り上げ、少しばかりこき下ろしてやる事にした。

「風邪ですって? 本当に人騒がせですわね。自分の身体くらいきちんと管理して頂きたいものですわ」

「ごめんね、迷惑掛けちゃって……」

どこか儚げなリンの呟きに、なおも嫌味を言ってやろうとしたわたくしは思わず息を呑んでしまった。今わたくしの耳に入った言葉はなんだ? まるで幼い少女のようにわたくしを見上げ、蚊の鳴くような可愛らしく素直な声でごめんね? 誰が? リンが、誰に? わたくしに?

「ルヴィアが助けてくれたんだ……ありがとう」

更にごそごそと布団を目元まで引き上げ、軽く頬を染めながら恥ずかしげな視線をわたくしに向けて微笑んでくる。

「リ、リン?」

「なぁに? ルヴィア……」

「だ、大丈夫ですの?」

わたくしは本気で心配になってきた。今のわたくしの言葉、いつものリンならば倍くらいの憎まれ口と屁理屈が帰ってくるはずだ。なのに……こんな素直で可愛らしいリンだなんて……わたくしの背筋に悪寒が走った。

「んん……。たぶん大丈夫。ちょっと熱が残ってるけど、インフルエンザとか病気のかんじじゃないから、一晩寝たらなおるんじゃないかな?」

だが、このリンはそれでも間違いなくリンのようだ。
わたくしの言葉に、暫しきょとんと視線を向けていたリンだったが、微かに眉を顰めると自分の中に意識を伸ばし、全身の状態を確認している。返ってきた言葉こそ、みょうにふわふわと覚束無いが、この冷静な判断力はリン本来のものだ。

「まったく……あら? そういえば、シェロは?」

そんなリンの反応に些か鼻白んだわたくしだったが、大丈夫と確認できてほっとしたせいもあってか、今まで慌てていて忘れていた事に思いが至った。リンがこの状態なのに、真っ先に駆けつけてくるはずのシェロが見当たらない。考えてみればこれも異常な事だ。

「うん、多分まだ自分の部屋で寝てると思う」

「寝ている? では起こしてきて差し上げましょうか?」

リンの返事に少しばかり驚いた。表情から見て病気などではないようだが、それなら尚更、リンの事を知らせねばならなかったのではないだろうか。わたくしでなくともセイバーが起こしていても不思議ではない。

「あ、良いの。あいつは二日徹夜してたし、ほら、わたしだって大した事なかったじゃない。変な心配かけずに寝かしておいてあげたいの」

訝しげに問いかけるわたくしに、リンはふわふわしながらもどこか毅然とした光を瞳に湛え応えてきた。先程までとは別の意味で溜息が出る。やはりリンはリンだ。
と同時に、とても羨ましくなった。こんな状態でもリンは自分より先にシェロの事を考えている。それは多分シェロも同じ事なのだろう。

「無理をしないでも宜しくてよ?」

だからだろうか、少しばかり意地の悪い響きで聞いてしまった。それに、今のリンならば素直な本心が聞けそうだ、後々の話の種にここは言質をとっておきたい。

「うん、でも大丈夫。だって同じ家に居るんだし、それに士郎って下手に動かれるより、大人しくしていてくれた方が安心じゃない」

だが、リンの返事はどこか気負いのある照れ隠しのような答えだった。なんだか笑ってしまう。ここまで素になっているくせに、リンはシェロに対してだけはまだ最後の意地を張っているようだ。
ふと、湧き上がってきた気持ちに、わたくしは暫し呆気にとられてしまった。わたくしはシェロを捉えているリンに妬いているのだろうか、それとも、最後までリンに意地を張らせるシェロを羨んでいるのだろうか?

「リ……」

「……ああっ!」

そんな心に浮かんだ不安を紛らわそうと、もう一度声をかけようとした時、いきなりリンが身体を起して来た。

「……ふえ……」

と、まだ熱が残っていたせいか、それともいきなり起き上がって貧血でも起こしかけたのか、リンはそのままへろへろと再びベッドに倒れこんでしまった。

「な、なにをしていらっしゃるの! 貴女はまだ熱があるんですのよ!」

思わず怒鳴りつける。まったく、病人がいきなりなにをしようと言うのだ。

「うう、ごめん……その……ほら今日、午後からわたしの講座があるじゃない……で、間に合うかなって……」

「……まさか、貴女この状態で講義をするおつもりでしたの?」

「い、意識戻ったし大丈夫かなって……えへ」

「えへ、じゃありませんわ! 馬鹿な事を考えるんじゃありませんのよ!」

間抜けなリンの言葉に、わたくしは再び叫んでしまった。この娘は、本当になにを考えているんだ。自分の状態を、今確かめたのではなかったのか。まったく、なんて人騒がせな娘だ。

「あなたの講義はわたくしが代講いたします。安心してお倒れになっておいでなさい!」

「え?」

わたくしの叱責を聞いて、一瞬息を飲んで大人しく布団に潜り込んだリンだったが、それでも布団の中から、不安げにきょときょととわたくしの方に視線を送ってくる。何か凄く不気味だ。わたくしはむっと睨みつけながらも聞いてやる事にした。

「なんですの?」

「あの……良いの? それに、出来る?」

「リン、貴女わたくしを馬鹿にしていらっしゃるの?」

わたくしはもう一度、布団に包まるリンを睨みつけてやった。肩を小さく竦めて不安げな視線を向けてくるリン。なかなか可愛らしい。これは……結構、面白いかもしれない。

「もしもですわ。わたくしが倒れて、貴女が代講に立たねばならないとして、貴女できないとでも仰るの?」

とはいえ楽しんでばかりも居られない。わたくしはリンに向かって言い放ってやった。

「あ、うう……そうね。うん、出来る。ルヴィアの講義は全部チェックしてあるし……」

「わたくしも同じですわ。貴女の講義は全てチェックしてあります。次になにを講義するか、何処まで進めるか、そのくらい心得てますわ。貴女もそうではなくて?」

わたくしは、布団の中から目だけを出して応えてきたリンに、重ねて尋ね返した。目を見開いたままこくりと頷くリンに、わたくしも頷き返す。ふわふわとどこか可愛らしく素直になっているがやはりリンだ、判断は曇っていない。

「つまりそういうことですわ」

「うん、ありがとうルヴィア」

ふんと見下したと言うのに、間髪居れず返ってくる柔らかな笑みと感謝の言葉。本当に調子が狂う、こんなことならば、いつものリンを相手にしている方がよほど楽だ。

「本当に……どうしてしまったの?」

流石にこうも素直に出られてしまっては、これ以上こちらだけ意地も張っていられない。わたくしも思わず心配げな声音で尋ねてしまった。

「うん……よくわかんないけど……」

そんなわたくしを、不思議そうに見上げていたリンだったが、にっこり笑うとどこか恥ずかしげに口を開いた。

「ありがとう。ルヴィアと知り合いになれて本当に良かった」

「な、なにを言い出すんですの!?」

「だって、ルヴィア心配してくれてるじゃない。魔術師なのに……」

この娘は……わたくしは頭を抱えたくなった。そういう自分はなんなのだ。魔術師がこんな無防備で良いのか。

「リン……貴女、自分がなにを言っているのか、わかっていらっしゃるの?」

大人気ないとは思ったが、わたくしはぐいと身を乗り出してリンに詰め寄ってしまった。

「ううん……ちょっと良くわからない。頭は結構はっきりしてるんだけど、なんかふわふわしてて……」

「それは大丈夫とは……っ! リン、なにをなさっているの!?」

言わない。そう思って更に顔を一つ近づけて叱り付けてやったというのに、リンはなにを思ったか、自分の顔に掛かってきたわたくしの髪に、愛でるような手つきでそっと掌を伸ばしてきたのだ。

「ルヴィアの金髪って綺麗なのよねぇ……」

「リン、話が飛んでますわよ……」

「ほら、セイバーも綺麗な金髪だけど、セイバーの髪はお月様ってイメージあるのよねぇ……はじめて会ったのが月夜だったからかな?」

わたくしの文句も聞かず、リンはどこか夢見心地に殺されかけたけど、などと物騒な事を言いながらぼんやりと微笑む。

「でも、ルヴィアの金髪は違うのよね。きらきらお日様みたいで……あったかい」

そのままわたくしの髪を口元にそっと引き寄せて目を瞑る。
確かに自慢の髪ではあるが、ここまで真正面から褒められると思わず赤面してしまう。

「リ、リンの髪だって素敵ですわ。その艶は羨ましいと思いますもの」

それと肌も。
熱のせいか微かに汗ばみ桜色に染まったリンの肌は、とてもきめ細かくどこか艶かしい。

「へへ、ありがとう、ルヴィア」

どこか憮然としてしまったわたくしに、リンはまたも照れくさげに笑いかけてくる。

「もう……負けましたわ」

わたくしは、小さく溜息をついてリンに微笑み返してしまった。これ以上むきになっても疲れるだけだ。このとんでもなく悪質な女性は、確かにわたくしの終生の宿敵ではあるが、同時に恐らく、生涯付き合っていく事になる相手でもあるのだろう。

「わたくしも、リンと知り合いになれて良かったと思っていますもの」

このような述懐、一年前には思いもしなかった言葉だ。リン相手だけでない、他の誰に対してもそんな言葉、例え思っても口にする事など決してなかっただろう。
わたくしはもう一度溜息をついた。この一年、わたくしはどんな道を辿ってきてしまったのだろうか。これは魔術師としては決して褒められた事ではない。

「へへ……一緒ね」

わたくしの言葉に照れたように笑うリンを見下ろしながら、わたくしは更にもう一度溜息をつきながらも笑ってしまった。
だが、決して気持ちの悪いものではなかった。むしろ、言ってしまってどこか晴々とした気持ちにさえなってきた。

「リン、食欲はありまして?」

「うん、ちょっとお腹すいてるかな?」

「それでは、わたくしが林檎を剥いて差し上げるわ」

だから、こんな気になってしまったのだろう。わたくしは、セイバーが用意した果物の中から林檎を手に取ってナイフを当てた。

「ルヴィア、この林檎実が少ない……」

「黙ってお食べなさい」

慣れていないせいか、すこしばかり不恰好になってしまった林檎。それでもリンは、その剥いた皮のほうが果肉の多そうな林檎を、嬉しそうに口に運ぶ。
たまにはこんなリンも悪くない。わたくしはそんな事を考えながらも、リンの事を睨みつけてやった。今日はこれで勘弁して差し上げますけど、こんな事は今日だけですのよ?




「ルヴィアゼリッタ?」

「……え? ……ああ、セイバー」

わたくしは、慌てて引き戻された意識を取りまとめ、しっかりと組み上げなおす。
軽く頭を振り周りを見渡すと、ベッドには寝息を立てるリン、そして椅子の傍らにはわたくしの肩にそっと手を置き、穏やかな表情で覗き込んでいるセイバー。どうやらわたくしはリンの寝顔を見ながら居眠りをしていたようだ。

「シュフラン殿から着替えが届きました。そろそろ着替えないと、リンの様に風邪を引いてしまいます」

「そうですわね」

わたくしは、バスローブの上から掛けられた暖かなガウンを引き合わせ立ち上がった。

「セイバーですの?」

「いいえ、私が来たときには既にルヴィアゼリッタの肩に」

わたくし達は揃って心地よげに寝息を立てるリンに視線を落とした。柔らかな笑みを浮かべるセイバーと、思わず唇を結んでしまったわたくし。本当に今日のリンはやりにくい。

「まあ、宜しいですわ。ですがセイバー、今日のリンは危うすぎますわ。魔術師として、余り褒められた事ではありませんわよ?」

とはいえ、これだけは言って置かなければならない。今のリンに言っても通じはしないだろうが、セイバーにだけでも伝えて置けば、落ち着いたときにリンにも通じることだろう。

「はい、気をつけておきます。ルヴィアゼリッタ、貴女も優しいのですね」

「なにを言い出すんですの?」

「今の忠告も、魔術師としては些か人の好すぎる言葉ではないかと思ったのですが?」

セイバーの応えに言葉に詰る。確かに、今のわたくしの言葉は余分な行為だ。魔術師なら弱った犬は打つ。直接のライバルは、どんな手を使ってでも蹴落とし神秘は独占する。それが魔術師として正しいやり方のはずだ。

「ですが凛の事はご心配なさらず。その為に私が、シロウが居るのですから」

絶句するわたくしに、セイバーはどこか誇らしげに言い切った。たとえリンがお人好しの危うさを持っていたとしても、それをセイバーたちが補うと言っているのだ。

「リンは、幸せですわね……」

言ってしまってから後悔した。寂しげな声音、これではまるでわたくしが羨ましがっているようではないか。わたくしまで、弱くなってしまったと言うのか……

「大丈夫です、ルヴィアゼリッタ」

そんなわたくしにセイバーは更に笑みを深くして応えてきた。

「ルヴィアゼリッタが倒れても、今の凛と同じように私が、シロウが、それに凛が護ります」

思わず天を仰ぎたくなった。わたくしはなんと言う連中と知り合ってしまったのだろう。本当に、魔術師としては堕落の極みではないか。
だが、それでも心は温かくなってしまう。これはもう、諦めざるを得ないことなのだろう。

「ですが、甘えはしませんわよ?」

「はい、凛もそう言うでしょう」

わたくし達は見るともなくリンを見下ろしながら、お互いに言葉を交わしあった。

「リンが起きたら、今回の事は貸しにしておいて差し上げると伝えておいていただける?」

「はい、ルヴィアゼリッタが心配をしていたと伝えておきます」

わたくしの挨拶に、貴女も一度風邪をお引きになったら? そう言いたくなるほどの頑固さでセイバーは微笑み返してきた。
ほとほと感心するが、それでも彼女達に任せておけばリンは安心だろう。

「わたくしはリンの講義の代講がありますから。後でサクラをよこしますわ。食事の支度とかありますでしょ?」

「はい、助かります」

わたくしは、セイバーとこれからの事を話し合いながら、服を着替え気持ちを一つ引き締めなおした。この心地よさはここにいる間だけ、時計塔きょうかいに戻ればわたくし達は冷徹な魔術師に戻る。それで良い。これは多分リンも同じ思いであろう。
わたくしはどこか温かい心地よさを胸に、リンの家を後にした。


ねこみみ、ならぬ寝こみ凛ちゃんです。
但し士郎抜き、熱を出して寝込んで本気の素ッピンを出してしまった凛。前半はルヴィアとふわふわ状態の取り組みとなりました。
さて、それでは後編。次の取り組みをお楽しみください。

By dain

2004/12/29 初稿
2005/11/23 改稿

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