風の強い夜だった。
空はほぼ曇天。だが、風の強さのためか雲が追い散らされるように流れ、僅かだけ月光が漏れる。
冬の、琴と冷たい音がするような空気の中、天窓を通した月光が回廊に一筋の光を差しかけ、一人の少女を照らし出した。

「……」

声が出なかった。
そこにいることはわかっていた。それどころか、ここにはその少女に会うために来たのだ。なのに……
ただ、ただ、それが余りに綺麗で、余りに清涼すぎて言葉を失ってしまったのだ。

「――――」

ふと、少女が僅か揺れ、こちらに振り向いた。
月明かりを照り返すどこまでも穏やかな聖緑の瞳。
刹那、時間が止まった。時間はこの瞬間のみ永遠となり、彼女を象徴するかのような青い衣が風に舞う。

僅かな銀光の差し込む中、金砂をそのまま糸に編んだような髪が月の雫に濡れていた。





おうさまのけん
「剣の王」 −King Aruthoria− 第八話 前編
Saber





「……ヴィルヘルミナ、如何したのですか?」

倫敦郊外、シュトラウス工房の一角に設けられた回廊で月を眺めていた私は、入口の辺りで立ち止まり、表情のない人形のような呆けた顔で、こちらに視線を漂わせていたヴィルヘルミナに声をかけた。

「……え? は、ははは。どうしたんでしょうね?」

途端、ヴィルヘルミナは生き返ったように、どこか照れた笑みを浮かべ私に歩み寄ってくる。それにつられるように、私も思わず微笑んでしまった。
それがどこか照れ臭くて、私もまた照れ隠しをするように月空を見上げる。その表情が何故か懐かしかったのだ。
あの日のシロウも、そして凛も同じように呆けた顔をしていた。
最初は、初めてまみえた英霊に驚愕していたのだろうと思っていたのだが、考えてみれば凛もシロウも、私に出会う前に英霊を実見していたはずだった。
こうやって、私とはかなり馴染みの深いヴィルヘルミナさえも、このような顔をするという事は、多分別の理由があるのだろう。

「ああ、そうそう。頼まれていた物なんですけど、何とかなりそうですよ」

お互いどこか気恥ずかしげであった沈黙を破ってくれたのは、ヴィルヘルミナの言葉だった。それを言いに来たんでしたと手を打つと、途端どこか幻想じみた空気は現実に戻り、納期や価格などの細かな仕様についての説明を始めた。

「それは有難い。感謝します、ヴィルヘルミナ」

その言葉に、私は間に合いそうだとほっと胸を撫で下ろした。
確かに私は巨大な魔力を操り、今の時代よりはるかに神秘が身近で、日常にさえ紛れ込んでいたような世界で生きて来た存在ではあるが、あくまで剣士であり魔術師ではない。だから、その手の品物をどうこうという話になれば、魔術師に頼るしかない。
無論、魔術師に召喚された私は、この時代であっても身近な魔術師が居ないわけではない。しかしながら、こんな事を頼めるような魔術師は、今、目の前に居るヴィルヘルミナか、あとはルヴィアゼリッタくらいであろう。
だが、ルヴィアゼリッタは些か拙い。私を始め、凛もシロウも彼女には借りが大きくなりすぎている。これ以上、借りを作るのはうまくない。
厳しく冷徹なほどの魔術師の癖に、どこか魔術師らしくなく面倒見の良いルヴィアゼリッタの事だ、頼めば二つ返事で引き受けてくれよう。とはいえ、否、だからこそ、甘えるわけにはいかないのだ。

「それじゃあ、これで前に頼んだ件は了承してもらったって事で良いんですね?」

「はい、対価として引き受けさせて頂きます」

その点、見た目はルヴィアゼリッタよりもずっと物柔らかで組みし易いように見えるが、ヴィルヘルミナはそういった貸借に関してはかなりシビアだ。
こうして、何かを求めれば、必ず何かの対価を要求してくる。それがこの場合、却って物を頼みやすく、有難くもある。
成程、凛がシロウに事ある毎に言っているのは、こういうことなのですね。

「それでは、ヴィルヘルミナ。よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ、助かりましたよ」

私はヴィルヘルミナと、簡単な打ち合わせを済ませ、シュトラウス工房を後にした。
これで懸案のうち一つは何とかなった。残るはあと一つ、日数も残り少ない、急がねばならない。




―― 琴!――

刃と刃の触れ合う音と共に、切っ先は俺の髪を霞め頭の上を通り過ぎる。
と、見る間に迫る台尻。だがこれは予測済み。俺は左手の莫耶で打撃を受け流すと、そのまま開いた脇腹に肘を叩き込む。

「――がはっ!」

命中。俺は勢いを殺さず、膝を抉り入れると、そのまま斜めに半身を入れ替え、間合いの内側から干将の柄で顎先をかち上げた。

―― 克!――

苦しい体勢をよじり、俺の打撃を何とか銃杷で受け止めはしたが、足が浮いた。こうなってはもう次を防げない。刃を返した莫耶を反対の胴に滑り込ませ、俺はそのまま思い切り横に薙ぐ。これで決まりだ!

「のわぁ!」

「一本! それまでです」

壁まで吹き飛んだジュリオの愉快な声と、セイバーの声が小気味良くこだまする。俺は双剣の構えを解き一礼すると、壁際で大きく息をついているジュリオに歩み寄った。

「ああ、くそ。シローは強くなったなぁ」

「ふん、何時までもやられちゃいないさ」

参った参ったと頭をかくジュリオを引き起こしながら、胸を張る俺。だが、それでも実のところ内心悔しさで一杯だった。
最後の一撃、本気で思い切りぶち込んだってのに、こいつ上手く身を浮かして、ここまで飛ぶ事で受身を取りやがった。やっぱり、三本に一本じゃまだまだだな。

「よし、じゃあセイバー、次頼む。今日は良いとこまでいけそうな感じなんだ」

だから、俺は敢えて増長してセイバーに挑んでみた。身体の切れが良いのは事実だし、ここで叩きのめされても元々、どっちにせよこれでもやもやは吹っ切れるだろう。

「ええと、そのシロウ。乗ってきてくれた事は大変嬉しいのですが……」

だが、いつもなら思う存分叩きのめしてあげますと、嬉々として相手をしてくれるはずのセイバーが、どこか歯切れの悪い返事を返してきた。

「どうしたのさ?」

「あ、はい。実はこの後些か用事がありますので、今日はこの辺りで終わりとしたいのです」

珍しく困ったように、申し訳なさそうに頭を下げるセイバー。まあ、残念だけど予定があるんじゃ仕方ないな。

「判った。じゃあ俺は、もう少しジュリオを叩きのめしてから学院に行く。帰りは遅くなるのかな?」

「いえ、さほど遅くはなりません。多分、シロウや凛よりは早く家に帰っていることでしょう」

わぁシローの奴増長してるよ、というジュリオの声に、私の代わりに鼻を圧し折ってやってくださいと笑顔で返しながら、セイバーはそれではと一礼して道場を後にした。

「よし、じゃあ圧し折られる前に圧し折ってやるから、立てよジュリオ」

「シローも言うようになったなぁ。それよりさ……」

この際ついでだと、ジュリオにも増長してやった俺に、ジュリオはやれやれと、どこか面白そうに俺の顔を見据えながら立ち上がると、意味ありげな視線を向けて話しかけてきた。

「なにさ?」

「麗下だけど、用事ってなんだと思うかい?」

そのどこか含みのある物言いに聞き返すと、ジュリオは軽く屈伸をして身体を解しながら質問で返してきた。

「最近ミーナさんとこでのバイトが忙しそうだから、それじゃないか?」

「そうかな? それにしちゃ今日の麗下は随分とお洒落してたね」

「む、言われてみれば……」

俺としてはミーナさんのところ位しか心当たりがなかったんだが、ジュリオに言わせると今日のセイバーはかなり気合が入って居たらしい。そういえば珍しくスカートだったし、ジャケットもコートも一番のよそ行きだったな。確かに、ミーナさんのところでの仕事としてはちょっと変か。

「男だね」

「成ほ……なんですとぉ――っ!!!」

人の表情を伺うように、微かに口の端で笑いながらのジュリオの科白。納得しかけた俺は、次の瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。セ、セイバーが……お、お、おと、おと……

「おっとぉぉぉぉぉっ!!」

「シロー落ち着けって、なにも旦那が出来たって言ったわけじゃないよ」

「違う! ってそれよりなにさ!? その男ってのは!?」

「あ、酷いなシローは。麗下だって恋の一つ位するさ」

「だって! セイバーは英霊だぞ? それにその……王様だし」

「でもさ、女の子でもあるんだぜ」

「うっ……」

それを言われると辛い。
確かに、ずっと男として過ごしてきたせいだろうか、昔はどちらかと言うと少年のようだったセイバーだが、倫敦に来てからは、服装や仕草がどんどん女らしくなってきている。
それも少女のような可憐さを見せたかと思えば、年齢相応の淑やかで艶やかな大人の女を感じさせたり……特に最近、俺でさえ時々ドキッとさせられる事が多くなっている事も確かだ。
でもだからって……

「男が出来たってのは短絡じゃないか?」

現界してからのセイバーは、男として振舞う必要はなくなっている。そしていろいろな人との出会いや経験、更に周りに居る遠坂やルヴィア嬢を始めとする綺麗どころの影響。そういったことから、セイバーが女性として振舞うようになって行ったって不思議ではない。それに、やっぱりその方が自然だと思う。

「シロー……」

と、そこまで言ったら。どこか疲れたような顔でジュリオが肩を叩いてきた。なにさ。

「シローはそこまで判ってて、そうなのかい?」

「そうなのって……なにがさ?」

いかにも呆れましたと言う顔のジュリオ。だが、俺にはさっぱり分からない。だから聞き返したのだが、ジュリオの奴は肩をがっくり落として天に向かって嘆息した。

「シローは凄いね、麗下の苦労が偲ばれるよ」

「……お前さっきから、なんか凄く失礼なこと言ってないか?」

どうもさっきから暗に鈍いって言われてる気がする。

「いやいや、シローが妃閣下バロネスを心から愛してるなって確認したんだよ」

「ば、馬鹿! なに言い出しやがる!」

いやいや妬けるねぇと、なにが嬉しいのか笑顔で尚も肩を叩いて来るジュリオに、どこか誤魔化されたような気持ちになりながらも、俺は話題が逸れて行くのにほっと安堵していた。
まあ、おかげで些か心の乱れた俺は、そのままジュリオに思い切り鼻っ柱を圧し折られる事になったんだが。ああ、くそっ腹が立つ。




「……はぁ……」

そんな事があったせいか、結局その日はセイバーの事が気になって、どこか上の空で一日を過ごしてしまった。おかげで実験ではとちるわ、ミスタエミヤ今日は帰りたまえと、教授に山ほど宿題をもたされるわ、碌な目にあわなかった。しかも、宿題にはなにをどう紛れ込んで居たのか、鉱物魔術の高等諮問まで入っている。こいつは遠坂にでも頼まなきゃ、俺にはどうしようもない。
結局これって“父兄へのお知らせ”ってやつか? とそんな事を考えながら、とぼとぼと家路についていた時の事だ。

「……え?」

セイバーを見つけた。
場所はボンド・ストリートの中ほど、一見さんお断りの、看板さえ出ていない高級装身具や服飾の店が立ち並ぶ中、蒼のジャケットを着た瀟洒な姿のセイバーが、どこか所在無げに立っていた。

「セ……っ!」

こんなところでなにを、と声をかけようとした瞬間。俺は息を飲んで立ちすくんでしまった。
何かに気付いたように振り返り、にっこりと嬉しそうに微笑むセイバーの視線の先に、

「お待たせした。レディセイバー」

カーティスが居たのだ。
どうやら、丁度セイバーが前に立って居た店から出てきたところらしい、小首を傾げ可愛らしく歩み寄るセイバーに向かって鷹揚に頷きながら、手に持ったセイバーのコートを嫌になるほど見事な慇懃さで着せ掛けると、カーティスはそのままセイバーの腕を取り、ごく自然にエスコートとしながら、俺の居る方とは反対の方向へ歩み去って行く。

「……嘘だろ……」

俺は言葉もなかった。俺に背を向け、何かセイバーに話し掛けるカーティス。なんとあの慇懃無礼で傲岸不遜なカーティスの横顔には笑みが浮かんでいたのだ。いつもの口の端を微かに上げる笑みでも、片眉だけほんの少し傾げる笑みでもなく、目も口も楽しげに綻ばす本当の微笑み。
それにセイバーも応えている。どこか恥ずかしげに、頬さえも染めながら何事か話しながら微笑み返している。
セイバー、そんな……カーティスと? そりゃあいつは見かけほど傲岸不遜でも慇懃無礼でもないし、大男でごっついけど悪い男じゃない。相手がセイバーで無きゃ、その二人の背中はなんとも微笑ましくて、嬉しくなってしまうようなものだったろう。しかし、でも、そんな……セイバー……
呆然とした俺は、そんな二人の背中をただ、ただ見送る事だけしかできなかった。


「……た、だいま……」

「お帰りなさい、……って士郎、どうしたの? 鳩が豆鉄砲食らったような顔して?」

気が付くと俺は家に帰っていた。
遠坂の驚いたような顔で漸く我に返ってはみたものの、セイバーとカーティスの姿を見てから、ここに帰ってくるまでの記憶がどうにも思い出せない。何処をどう通って来たものか……それでも手にはしっかり夕食の買い物がしてある辺り、己の主夫根性が恨めしい。

「あ、いや……その……な、なんでもないぞ」

「なんでもないじゃないわよ……ま、良いわ。丁度夕食の支度しようとしてたとこ、なに買って来たの?」

とにかく、そんなとこに突っ立ってないで入ってきなさいと、俺を中に引っ張りながら買い物袋を奪い取った遠坂だったが、袋の中身に目を落とした途端、今度は遠坂の方が呆然と固まってしまった。

「ん? どうしたんだ、遠坂」

「……どうしたんだじゃないわよ、どうするの? 卵ばっかりこんなに買ってきちゃって」

そのまま呆れたように買い物袋の口を開いて俺に見せる。
うわぁ……凄いな、各種卵がグロス単位か。本当に、俺何してたんだ?

「ええと、その……すまん、遠坂」

「もう……ま、良いわ。とにかくこれ片付けちゃいましょ。話はおいおい聞かせてもらうから」

遠坂はそう言うと、しっかりしなさいとばかりに背中を一つどやしつけてから、再び俺の手を取り引っ張って行く。いつもの事ながら強引なやり方だが、珍しく自分から動こうって気がさっぱりしていない今日の俺には却って有難かった。
とにかく、卵料理のレパートリーの総ざらえかな? 俺はぼんやりとそんな事を考えながら、遠坂の成すがままに厨房へと牽かれていった。


「実はな、遠坂……」

厨房で、延々卵を割っては中身を落す作業を繰り返し、俺は漸く気を取り直すことが出来た。卵が二ダースさてなにを作ろうと、呆れたように俺と卵を交互に眺めながら腕組みする遠坂に、俺は取り合えずプレーンオムレツの用意をしながら、先程の出来事を話してみる事にした。

「『真鍮ブラス』ぅう!?」

「お、おう。そうなんだ」

いきなり眉を顰めて、渋い顔になる遠坂。相変わらずカーティスを毛嫌いしてるなぁ、あいつは遠坂が思っているほどわ……いや、もしかしたら悪い奴なのかもしれない……
俺は先ほどの出来事を思い返して更に話を続けた。

「ふぅん、そういうこと……」

だが、話しているうちに遠坂の表情が変わってきた。悪戯っぽく目を細め、どこか見透かすような視線で口の端に笑みまで乗せて、俺の顔を覗き込んできたりする。

「な、なにさ?」

「衛宮くんにしちゃ珍しいじゃない? 人の悪口言うなんて」

「べ、別に悪口なんか言ってないぞ」

「そう? 聞いてるとさっきから『真鍮ブラス』のことけちょんけちょんよ。わたしだって流石にあいつの事をロリコンだなんて思わないわよ?」

あ、いや俺だってそこまでは言ってないはずだぞ。……多分。

「で? 衛宮くんとしてはどうしたいわけ?」

「どうしたいって……なにがさ?」

微妙に自分自身がつかめなくなってきた俺に、遠坂は意地の悪そうな笑みを更に広げながら問いかけて来た。別に俺は何をしたいってわけじゃ……ただ、こう、なんていうか、もやもやした気持ちがひっかかってだな……

「じゃ具体的に言うわね。まあ、万が一もありえないだろうけど、もしセイバーが『真鍮ブラス』と付き合ってたとするわね? その場合どう?」

「なっ!」

しょうがないわねはっきりなさいと、言いながらの遠坂の言葉に、俺は思わず言葉を失って立ち尽くしてしまった。何故かぐるぐると頭の中でもやもやが回り始める。この場合の付き合うはお友達としてでなく、当然男と女としての付き合いのことだろう。だが、しかし、それがセイバーとカーティスぅ!? 冗談じゃない!

「そんなわけあるか!」

まったく遠坂も遠坂だ、なんだって急にそんな事を。

「仮にの話よ。それにしても……そこまで取り乱す? セイバーだって女なのよ? 『真鍮ブラス』はともかく、誰か好きな男が出来たって不思議じゃないでしょ?」

「あ、いや、それはそうなんだが」

そうなんだが、そうではあるんだが、でも、その……ああ、もう! 思いっきり混乱してきた。自分でなにを考えているの判らないぞ。俺はどうしちゃったんだ?

「衛宮くん、セイバーが人に恋する事がそんなに不思議?」

思い切り動揺して混沌に飲まれかけた俺を、落ち着きなさいと座らさせて、遠坂がじっと見据えながら話しかけてきた。

「あっと……それ自体は不思議じゃない」

「うん、それはわたしも同じ。こっちに現界したばっかりの時ならともかく、今のセイバーは恋の一つや二つするくらいの余裕はあるものね」

何故か俺を睨むような目つきで見据えながらの遠坂の言葉は、俺にも頷けるものがあった。
あの聖杯戦争の時の、張り詰めた聖剣士としてのセイバー、そして王様としてその責務を果すべく必死で戦って居た頃のセイバーと違い、今のセイバーは本当に柔らかくなった。
この街で楽しげに買い物をするセイバー、バースの街ではしゃぎ回っていたセイバー、そして俺たちと一緒に泣き、笑い、怒るセイバー。英霊ってのは世界に固着した存在であるはずなのに、セイバーは間違いなく変わって行っている。
それは俺にとっても何故か嬉しいことだったし、決して間違った事ではいないはずだ。

「だけど、その……面白くないぞ」

そんなセイバーが誰かに恋をした。それはとても喜ばしいはずだ。なのに、俺は喜べなかった。悲しいような寂しいような、悪いことじゃないって判っているのに、それがどうしても許せない。自分でもどうして良いか分からない気持ちだ。

「ま、確かに腹が立つわね」

「な、遠坂もそう思うだろ?」

なんだ、結局こいつも俺と同じ気持ちじゃないか。何故か俺を睨みつけてはいるが、いかにも面白くないって顔をしている遠坂と顔をあわせながら、俺は少しばかり安心した。だとしたら、これはきっとおかしな事じゃないんだろう。

「ええ、セイバーの奴……ここまで士郎に焼餅妬かすなんて」

「そうだよな、セイバーのや……ちょ、ちょっと待て!!」

一転、まるでチェシ猫のような笑みを浮かべる遠坂に、俺はまたも絶句してしまった。なななな、なにをいきなり。俺がセイバーに焼餅? なにを根拠に!?

「根拠も何も、たった今ここで士郎がやってることって、誰がどう見ても焼餅じゃない。セイバーを取られるのが嫌なんでしょ? 違う?」

「そそそ、そういう遠坂はどうなんだよ。セイバー取られても良いのか?」

「別に男が出来たからって、マスターと使い魔サーヴァントの関係がどうこうなるわけじゃないもん。関係ないわ」

「あ、いや、でも……そのな?」

「ま、言いたい事はわかるわ」

わたしだって、使い魔とか関係なしでもセイバーのこと好きだし、と遠坂はその笑みからふっと含みを拭い去った。

「でも、今回の事は士郎の誤解じゃないかな? 何かちゃんとした理由があると思うわ。けど、士郎。あんたも自覚なさい。今のセイバーはちゃんとした女の子なのよ。それを心得て無いとすっごく失礼なんだから」

「お、おう……」

まったく腹が立つ、何でわたしがこんなこと言わなきゃいけないのよ、とぶつぶつ言いながらも、遠坂は俺に向かってびしっと言い聞かせてくる。
未だもやもやはとけていないが、なんだか嬉しくなってきた。俺たちは皆セイバーのことが好きなんだなぁ。

「取り合えず、それについてはセイバーが帰ってきたらそれとなく聞いてみましょう。今はまず、この卵の山を片付けるのが先。良いわね?」

「わかった、それじゃ俺はオムレツと茶碗蒸しを作ろう」

「うん、こっちはスープとトマ玉、それにポーチドエッグでサラダ作るから」

そんなわけで、俺たちはこの問題を一旦棚に上げ、気を取り直して料理に取り掛かった。卵ばっかりって言うのがちょっとバランスが悪いけど、その代わり腕によりをかけて美味いもんに仕上げてやるぞ。




「今日は何か特別な日なのでしょうか?」

ずらりと並んだ数々の卵料理を綺麗に平らげ、堪能しましたと言いながらも、セイバーはどこか不思議そうに聞いてきた。

「別に、そういうわけじゃないけど」

「そ、そうだぞ、たまたま卵が特売だったんだ」

その正面で、俺たちはどこかぎこちなく言訳を並べながら、セイバーの顔を伺っていた。
あの後、夕食にこそ間に合ったものの、セイバーが帰ってきたのはかなり遅い時間だった。些か予定より時間がかかってしまいましたと、俺たちに軽く頭を下げたセイバーは、それでもどこか上機嫌で、俺たちはついつい話を切り出せないで居た。

「それで、セイバー。今日は何処へ行って居たんだ?」

とはいえ、このままではらちが開かない。俺は思いきって切り出してみた。

「え? 言っていませんでしたか? 今日はヴィルヘルミナのところです。次の仕事の打ち合わせで」

「……ああ、そうなのか」

さらりと、何の躊躇もなくあっさりと返ってきた応え。だが、俺と遠坂はその応えにそっと目を配せあった。
ほんの一瞬だが、セイバーの視線が泳いだのだ。間違いない。セイバーは嘘を吐いている。
なんだか哀しくなった。セイバー、何で嘘を吐くんだ? カーティスとのことって……俺たちには言えないようなことなのか?

「あ、そうそう。明日わたし達一日出かけることになったんだけど、セイバーの予定は?」

と、俺が思いきり落ち込んだところで、遠坂がセイバーに負けないほどさらりと唐突に、こんな事を言い出した。

「え? ちょ……っ!」

俺はそんな事は聞いていない。だもんで突っ込もうとした途端、テーブルの下でカウンターの蹴りが飛んできた。
一瞬、物理的に言葉に詰まって、文句を言おうと顔を上げたところに、遠坂の冷たい一瞥。あ、そうか……

「っとだけ用事があったんだ。そうだったよな? 遠坂」

多分、これは鎌かけ。そうだろ? と口ではこう言いながら目線だけで話しかけると、

「やあね、衛宮くん。もしかして忘れてた?」

そうそうその調子、士郎は余計なこと言わなくて良いから、とにっこりと綺麗な笑みが返ってきた。

「いや、忘れてたわけじゃないぞ」

なにも聞いてなかっただけだ。
ともかく、これでうまく誤魔化せたようだ。そんな俺たちをどこか不思議そうに見て居たセイバーだったが、明日もやはりヴィルヘルミナの所で用事があるのでお気になさらずに、と苦笑混じりの応えが返ってきた。

「そ、そうなのか?」

「はい、もう暫らくは私も留守がちにしますので、もし何か用事がありましたら、早めに言って頂ければ助かります」

「取り敢えず、ここ暫らくは何も無いと思うわ。セイバーも好きにして良いから」

「わかりました、それではお言葉に甘えさせて頂きます」

セイバーはそう言って俺たちに一礼すると、今日は先にお風呂を使わせて頂きますと、どこかほっとしたような顔で席を立っていった。


「……セイバーが俺たちに嘘を吐くなんて……」

セイバーに続いて風呂に入り、明日は早いからと部屋に下がった俺は、少しばかり寂しい思いで呟いてしまった。

「男云々はともかく、何か隠しているのは確かね」

そんな呟きに、どこか慰めるように応えてくれた遠坂の声に、俺は甘えてしまった。俺はそのまま遠坂の隣にぺたんと腰を下ろすとちいさく溜息をついた。

「そうだろうな、でもセイバーが……」

「セイバーは王様だったんだし、嘘くらいつくわよ」

「そりゃそうだけど……」

それはわかる。騎士である事を第一義としながらも、セイバーは王様、つまり政治家だった。だとすれば、必要なら嘘もついたろうし、心にもない事を言わなきゃいけないこともあったろう。
今までだって、セイバーが俺たちに嘘を吐いてこなかったってわけじゃない。俺たちを庇う為、俺たちを危険に晒さない為にあえて嘘を吐いたこともあったし、最近ではちょっとした悪戯だってなかったわけじゃない。
だが、こういった嘘は……やっぱり寂しい。

「もう、そんなに落ち込まない。とにかく、明日確かめるわよ」

「おう……って、確かめる?」

と、肩を落としていると、遠坂がしっかりなさいとばかりに俺の額を指先で小突いて、ぐぐっとばかりに拳に力を込めだした。

「なに言ってんの、その為に明日二人とも居ないって言ったんじゃない。セイバーより先に家を出て、明日一日セイバーをつけるわよ」

「つけるわよって……で、出歯亀?」

もしもデートだとして……あ、いや、それはそれで大問題だし、俺としては、その、凄くなんかあれだし、もし万が一セイバーに何かあったら、黙っていられないっていう気持ちはあるけど……やっぱりそれは拙くないか?

「失礼ね……使い魔の動向をチェックするのは、マスターとして当然のことでしょ」

だが、遠坂さんはやる気満々だ。なにを隠してるにせよ、わたしに黙ってこそこそ何かやるってのが許せない! と不敵な面構えで、固めた拳を振り上げたかと思うと、そのまま俺に向かってびしっと指差しながら迫ってくる。

「遠坂……」

尤も不敵なわりに口は尖らせているし、目元に微かに恨みがましい光がある。つまり、なんのかの言って遠坂もセイバーに嘘を吐かれて寂しいんだな。

「なに笑ってんのよ、もう……さぁ、とっとと準備して今日は寝ましょう。明日は早いんだから」

そんな俺の苦笑に、遠坂はどこか恥ずかしげに口を尖らせると、布団の上に持ち込んだバックをひっくり返して、確認しながら詰めなおしだした。ああ、ああ、そんなやり方じゃ溢れるぞ。
俺はそんな遠坂を手伝いながら、心の中で独り言ちた。
セイバー、悪いけど明日は一日しっかりと監督させてもらうぞ。別にカーティスが云々ってわけじゃないけど、嘘を吐いたお前が悪いんだからな。
言訳にもならない理由ではあったが、この夜の俺と遠坂にとってそれは十分な理由であった。


なんと、セイバーさんが……なお話。
Britainでのセイバーは、色々な人と色々な繋がりを持って、間違いなく生きている。
けれどそれが、そっちの問題となると……
士郎くんはすっかり動揺しちまうし、凛ちゃんだって何処か方向に問題がある爆走を始めようとしちまっております。
それでは、後編。デート編をお楽しみください。

by dain

2005/3/9 初稿

index   next

inserted by FC2 system