そこは何時もとても暗いところだった。
そこは何時も異臭に包まれたところだった。
そこは何時も、何時までも、腐っていた。

けれど、そんな事は今のわたしにはどうでも良いことだった。
精気の無い、まるで操られる虫のような瞳でわたしの身体を弄る義父にも、好々爺の視線の奥で、嗜虐と愉悦の笑みを浮かべる祖父にも、今では何の感慨も湧かない。

彼らはただ、わたしと言う器に、マキリを盛っているだけの事。外側はだの汚れなど洗えば落ちる、内側にくに刻み付けられた穢れも、結局わたしの一部になる。それに何より、人の内側など所詮、血みどろの粘膜の固まりに過ぎない。

本当に大切な事は唯一つ、心を濁らさない事。
方法はともかく、彼らに出来る事はわたしに力を注ぎ込む事だけ、それをどう使うか、それをどう操るかは、結局わたしの心の問題なのだ。所詮、彼らの力はわたしの心にまでは届かない。だからこそ詐術と欺瞞で騙そうとした。わたしの心をわたしの心で堕とそうとした。

だから、嘗ては許しを請い、嘆願し泣き叫んで耐えたこの施術も、今のわたしなら笑みさえ浮かべて越えられる。憎悪さえ覚えた醜い蟲達も、今では可愛いわたしの子供達だ。
今のわたしには彼らの詐術は通じない。今のわたしは何が大切なのか、何を守れば良いか知っている。綺麗は汚い、汚いは綺麗、闇も輝ける事を知っている。ならば、何ゆえ汚泥を恐れよう。

「…………」

けれど闇の中、第三の視線を見つけた瞬間、わたしの笑みが凍りついた。
憎悪、嫉妬、羨望、侮蔑……そこには欺瞞も詐術もなかった。やりきれないほど生の感情しかなかった。

「……ごめ……くっ」

一瞬、謝罪の言葉を口に登らせかけたわたしだったが、必死でその言葉を飲み込んだ。これだけは、これだけは言ってはならない。
嘗て同様。今のわたしにとってもこの力は、義父と祖父がわたしに注ぎ込んでいる力は、その施術同様にどうでも良いことだった。
忌避する事は無いが感謝する事でもない。力はただの事象に過ぎない、ただ単にそれを操る術を持っているだけの事。恩恵でもなければ災厄でも無い。蚕が桑を食べるように、蜂が蜜を集めるように、それは当たり前の事を当たり前にしているだけの事。
だが、この人にとっては違っていた。文字通り全てだった。

全てを奪った者が、その価値を知らず謝罪してどうなる? そんな事は侮辱以外の何物でも無い。それは今、目の前で義父が祖父が行っている、外や内を穢す行為など比べ物にならぬ罪悪、心を穢す事に他ならない。

「……」

わたしは唇を噛み締め、ただ、ただその視線に耐えた。侮辱は出来ない、かと言ってこの人のように憎悪する事も妬む事も哀れむ事も出来ない。理由はどうあれ、わたしはこの人から奪ったのだ。そして……

――心を穢した。

そう、これは夢に過ぎない。あの時、現実ではわたしは兄に謝罪した。“ごめんなさい、兄さん”と、こんな物をもらって御免なさいと、こんな薄汚れた物を貰ってごめんなさいと、ただ、ただ自分のせいにして縮こまっていれば、許されると思い込んで謝罪してしまったのだ。
それこそが一番許されざる事だとも知らずに……
今でも覚えている。それを聞いた時のあの顔、憎悪が狂気に取って代わられる瞬間を。

だから今は言えない。謝罪も、憎悪も、憐憫も、嫌悪も、侮蔑も、わたしはこの人には出来ない。だから……

―― いいか、桜! お前がマキリを継げ! マキリはもうお前しかいないんだからな!

飲み込んだ。

――桜……助けて……

だから、わたしの一部にした。マキリになると決めた。でも……

「兄さん……」

生きていて欲しかった。

今はそう思う。





くろいひいろ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第七話 前編
Beelzebul





「……姉さん」

まだ明けやらぬ倫敦の空の下、姉さんの寝顔を見下ろしながら、わたしは兄さんを思った。
あの暗く淀んだ生活の中で、本当の自分をぶつけてきてくれたのは兄さんだけだった。欺瞞と詐術の中で本物は兄さんだけだった。
今思い返せば、兄さんはどうしようもない人だったかもしれない。けれど、だからと言って、あの暗く歪んだ生活の全てを兄さんのせいには出来ない。わたしだってどうしようもない女だった。
わたしが、わたしがもう少し強ければ……例え辛くとも、例え怖くても、あの時、あの生の感情にわたしが正面からぶつかっていれば、もしかしたら兄さんは狂わなかったかもしれない。
結果、嫌っていたかもしれない、嫌われていたかもしれない。憎んでいたかもしれない、憎まれていたかもしれない。でも、それでも兄さんは死ななかったろう、わたしを“妹”と認めていてくれたろう。

今こうやって姉さんと一つ床で夢を見れるのも、全てはその事を知ったから。
もしそれを知らなければ、わたしは姉さんも憎み、妬み、そして死なせていたかもしれない。
一歩、間違えていれば、ここで眠っているのが兄さんで、わたしが飲み込んだのが姉さんだったかもしれない。いや……もしかすると両方……更には先輩までも飲み込んでいたかもしれない……

「これがわたしの悪い癖なんですよね……」

わたしは姉さんの髪を梳きながら、溜息と一緒にそんな暗い思いを追いやった。
自分自身を認め、強く生きる。そう決めたとはいえ、今まで十数年生きてきた生き方は、そう簡単には変わらない。

「よし、じゃあ頑張りますね、姉さん」

けれど、だからと言って、悪いと思ったところを改め無くて良いというわけではない。わたしは漸く顔を出したお日様に向かって頷くと、今日こそは明るく生きようと誓いを新たにし、朝食の支度をする為そっとベッドから抜け出した。

「士郎……」

「……」

ああ、いけない。誓ったばかりだというのに。今の姉さんの寝言で、又何か黒い物が湧き出して来た……
姉さん、御免なさい。やっぱりわたし、姉さんの事ちょっとだけ妬ましく思ってます。




「さ、桜?」

「おはようございます、先輩」

仕掛けたご飯が炊き上がり、お味噌汁を作り終えた頃、先輩が起きだしてきた。

「……あ、ああ、そうか。桜は昨日うちに泊まったんだっけな。おはよう、桜」

どうやら先輩は昨晩は布団に入らず、工房で寝込んでしまったらしい。つなぎ姿のまま、参ったなと頭をかきながら挨拶を返してくれた。

「済みません、先輩。昨日は姉さんをお借りしちゃって」

「いや、べつにその……桜と遠坂は姉妹なんだし」

わたしのちょっとした揶揄に、少しばかり頬を染め、参ったなと益々苦笑を広げる先輩。
少しだけ心が波立つ。そうは言っても二人とも相手に自分の半ばを委ねているのは見ればわかる。それに第一、布団にも入らずに工房で夜を明かしたというのは、言葉に反してそういうことではないのだろうか?

「もうすぐ朝ご飯も出来ますから、先輩は姉さんを起こしてきてくれますか?」

だからわたしは、先輩に温かいミルクを渡しながらにっこりと微笑みかけた。

「なんだ、遠坂の奴まだ寝てるのか?」

まったく桜が来てるんだから朝が弱いからってしっかりしろよ、そんな言葉を呟きながら姉さんの寝室に向かう先輩。御免なさい、先輩。でもこれくらい良いですよね。

「おはようございます、桜。今日の朝食は桜でしたか」

これからが楽しみ、そう思いながら朝食の仕上げをしていると、今度はこれは楽しみと言った顔のセイバーさんが起きてきた。

「おはようございます、セイバーさん。大根と油揚げの煮物と焼き魚です。丁度、昨日日本から届いた所なんです」

「それは懐かしい、楽しみです」

心から幸せそうに顔を綻ばすセイバーさん。こういう顔を見ると、お料理を覚えてよかったと本当に思える。

「……あ、おはよ、士郎……」

と、そこに姉さんの間の抜けた声が響いてきた。

「と、と……遠坂ぁ!!」

続いてカップの割れる音と先輩の悲鳴にも似た叫び。ばたばたと慌しい物音も聞こえる。

「あ、や、何よ! 士郎!?」

「ば、ばか! 何じゃない服着ろ服!」

「服?…… きゃ! なによ士郎! 何時脱がせたのよ!」

「脱がせたじゃない! お前最初から着てなかった!」

「そんなわけ無いでしょ! ああ、もういや!」

「こら、へたり込むな。ああ、もう!」

姉さんの悲鳴と何かを担ぎ上げるような音、そして最後にドアの閉まる音で騒動は収まってしまった。

「一体何事だったのでしょう…… 桜?」

「え? あ、はい。なんだったんでしょうね」

わたしは、セイバーさんの訝しむような声で我に返った。もしかして、わたしは失敗してしまったのかもしれない……


「……もう、桜。なんだってパジャマ脱がせたのよ……」

「別に脱がせたわけじゃありませんよ、何か苦しそうに寝返りを打ったんで胸元を緩めたら、寝とぼけて全部脱いじゃったのは姉さんなんですから」

うぐっと詰まる姉さんに、わたしはしれっと言葉を返す。無論嘘だが、全部が全部嘘ではない。一体、どう言うわけでああも脱がせやすくなっちゃったんですか、姉さん。
誰のせいでしょうね? わたしはそんな思いを視線に載せて、前の席で赤くなっている先輩ににっこりと笑い掛けた。

「さ、桜の味噌汁はやっぱり美味いな」

「シロウと凛は仲が良いですから」

何とか誤魔化そうとした先輩だったが、セイバーさんの朗らかなまでの笑みが、話を元の話題に引き摺り戻す。姉さんまで先輩を睨みつけているが、これは完全な八つ当たりだ。
あの騒動の後、下手をすれば小一時間は出てこないかと思った二人だったけれど、顔こそ赤かったが、気の抜けるほどあっさりと着替え終えて朝食の席に着いた。
だからこうして、気を取り直してささやかな意趣返しの続きをしてみたのだけれど……

「……」

「……はぁ」

やっぱり失敗だったかもしれない。恨みがましい目には微かな甘えが、疲れたような溜息にはそれを甘受する優しさがあった。
姉さんに、甘えの種を一つ贈っただけのような気がする。何をやっているのだろう。結局、人を呪わば穴二つということなんだろうか……

「……ごちそうさま」

「ごちそうさま……」

「ご馳走さま。桜、大変美味しかった」

「お粗末さまでした」

そんなわけで朝食が終わり、セイバーさんが花の咲くように笑いかけてくれた時は、少しばかりほっとした。
なにしろ、姉さんと先輩は食事中赤くなりながらも、終始二人でぼそぼそと意味ありげな視線を交し合っていたのだ。わたしが居るから遠慮したつもりだろうが、こちらの方が余程いたたまれない。これならでれでれと大っぴらに惚気られた方がましなくらいだった。

「じゃあ、テレビでもつけるか」

別の意味で先輩もほっとしたようだ。とってつけたかのような言葉を残して、テレビのスイッチを入れに席を立つ。

「では桜は、陣中見舞いに?」

「はい、最近姉さん忙しそうだからって」

一方テーブルに残ったわたし達はお喋りを続けていた。やっぱり何のかの言っても、こうして姉さんとなんでもないお喋りを出来る事は嬉しい事だ。

「よく言うわよ。フランス魔術院カルディア・フランセーズがらみの仕事だからって、あいつ探りを入れてきたわね……」

話題はわたしがここに泊まりに来た理由から、姉さんの仕事についてに移っていく。なんでも、そのフランス魔術院から来た、外国のお客様の案内役兼監視を協会から命じられているのだと言う。

「監視って……大変なんですか?」

「あ〜、うん。そっちはそうでもないかな。ちょっとした探し物に来たんだけどね。これがなかなか見つからなくて……」

手掛かりを見つけるべく、倫敦中を駆け回っているのが現状らしい。

「桜、お前も気をつけろよ」

と、ここで先輩のどこか真剣な声が掛かってきた。何を? と聞こうと先輩の方に視線を向けて見ると、ちょうどテレビにBBCのニュースが映っていた。

「黒人強盗団?」

「ああ、しかも標的は日本人ばかりらしい」

「それは確かに危険ですね」

それはここ数日、倫敦の街で頻発している黒人の集団による、日本人のビジネスマンや観光客を狙った強盗事件のニュースだった。
幸い死人は出ていないようだが、それでも穏やかな話では無いだろう。

「大丈夫ですよ、わたしが出歩くのは高級住宅街で治安もいいんですから」

「いや、その高級住宅街で起こってるらしいんだ」

先輩はそう言いながら、眉を顰めてテレビの画面を指差した。確かに、現場は全てリージェントパーク北西から、ハムステッドにかけての高級住宅街に集中している。

「でも、これくらいなら……」

「なに言ってるの、君子危うきに近寄らずよ」

自分で何とかできます。そう言おうとしたところで、姉さんが難しい顔で声を割り込ませてきた。

「一般人に対して魔術を使うのはご法度。あんたは魔術なしじゃ、本当に普通の女の子なんだから。こういう事には巻き込まれないようにする。良いわね?」

「そうだぞ、桜。暫らくはあまり出歩かないほうが良い」

「あ、はい。そうします」

先輩も、そうだそうだと心配そうな顔で迫ってくる。二人とも心配性だとは思ったが、それでもそれがなんとなく嬉しくて、わたしは素直に頷いていた。




「先輩、済みません。送ってもらっちゃって」

「さっきのニュースでもあったろ? 最近、物騒だしな」

朝食後、姉さんは直ぐに時計塔きょうかいでのお仕事があると出掛け、わたしはこうして先輩に送ってもらっていた。
尤も、先輩はこう言ってくれているのだが、今はまだ午前中。幾らなんでも心配のしすぎだと思う。
とはいえ、わたしは断れなかった。実のところ姉さんの家にはコルベットで来ていた。だから、後でまた車を取りに戻ってこなければいけないとわかってはいたのだが、そんなものは先輩と二人きりで街を歩ける事に比べれば、大した事ではない。
そんなわけで、結局わたしはその事を先輩には内緒にして、こうして送って貰っているのだ。

「それで、桜も時計塔がくいんに?」

「はい、来期の基礎学科ファウンデーションには何とか潜り込めそうです」

「そっから本科ってことは遠坂の三つ下か」

「ルヴィアさんは直ぐ本科を受けろって言ってますけど。それほど甘くは無いですよね」

「まあ、そうなんだろうけど。桜は優秀なんだなぁ、俺なんか、多分十年経っても本科は無理だぞ」

先輩と歩く倫敦の街、なんでもない会話。それがわたしにはとても嬉しかった。
わたしがわたしである事を全て曝け出しながら、それでもこんな、なんでもない日常の日々が送れるなんて、わたしは思ってもいなかった。
明日を選んでよかった。わたしは本心からそう思った。

「……あ」

そんな温かな思いを胸に家路に向かう途中、丁度大英博物館を越えた辺りだろうか、わたしは知らずの内に身を引いて先輩の影に隠れてしまった。

「なんだ? どうしたんだ、桜?」

「いえ、なんでもないんです」

本当になんでもない事だった。ただ、ちょっと苦手だった。なんと言ったら良いのだろう。嫌いなわけでも、妬ましいわけでもないのだが、そう、ほんの少し眩しくて……

「あ、士郎さんじゃありませんか」

「士郎・衛宮か。良い日よりだな」

通りの向こうから、元気良く手を振りながらこちらに向かってくる可愛らしい少女と、これが会釈かと思うほど、ほんの僅かに頭を傾けながらその後を堂々と歩く大きな男の人。あれは、

「なんだ、カーティスとイライザちゃんか。これから大英博物館がくいんか?」

「いや、これの買い物だ」

「にいさま……まさかと思いますが、“これ”とは私のことですか?」

カーティス・ブランドールとイライザ・ブランドール。ブランドール兄妹の姿だった。




「ああ、ミスマキリもご一緒か。一瞥以来ですな」

「桜……さんでしたね。先日はおせわになりました」

「えっと、その、お久しぶりです」

こうなると、わたしも先輩の影に隠れ続けてはいられない。結局、こうしてぎこちなく挨拶を交わす事になってしまった。

「なんだ? 桜はカーティスの事を知ってたのか?」

「はい、先日時計塔がくいんで、ルヴィアさんの所へお使いに行った時に……」

イライザちゃんとは会ってたけどな、と首をかしげる先輩に、わたしは簡単に事情を説明した。
あれは半月ほど前だろうか、時計塔にあるルヴィアさんの工房に届け物をした時の事だ。

「きゃ!」

ずらりと扉の並んだ、工房棟の廊下を歩いていると、いきなり目の前で扉が吹き飛んだ。

「ふむ、失敗だったか……」

「失敗だったかではありません! にいさま、あなたはばかですか!?」

「馬鹿とは聞き捨てならんな。マンドラゴラを引き抜くには犬と決まっているではないか?」

「だからって……ヘルハウンドなんて呼びだしてどうするのですか!」

「いや違うぞ、イライザ。あれは“バスカヴィル家の犬”だ。彫像に架空の概念を付与したダミーに過ぎない」

「制御できなきゃおなじです!」

なにか、扉の向こうでは姦しい男女の会話が聞こえていたが、わたしは動けないで居た。

――Grrrrr……

目の前には先ほど扉を破って飛び出してきた、子牛ほどもある黒い犬。それが赤い瞳でわたしを睨みつけ、今にも襲い掛からんと身を伏せていた。

―― 蠢……――

けれど、その視線を受け止めているのは既にわたしではなかった。
危険に即座に反応し、わたしを守ろうと陰に身を移した刻印虫達。今、この犬が対峙しているのはこの子達だった。
驚いたわたしの一瞬の唖然、その隙をこの子達が埋めてくれたのだ。わたしは気を取り直し、虫達と共に犬と対峙する。大丈夫、これなら……

「ところでイライザ」

「まだなにかあるというのですか!」

「いや、あの犬だが、外に逃げ出したのではなかったかな?」

「……あ」

部屋の中での微かな喧騒。と、そこに可愛らしい少女が壊れた扉の向こうから飛び出してきた。犬の矛先がそちらに向かう。いけない!

「っ!――Hier sitz'此処に止まり sei, forme Menschen此処に座すべし.」

わたしは即座に重なった陰を通して、犬に束縛の呪を送る。けれど思いのほか重い、まるで鉄の塊のような犬は、ほんの僅か動きを緩めただけで束縛を断ち切り、少女に向かって覆いかぶさった。

「駄目!」

「――IN HOC印もて SIGNO VICNCES理を定めん.」

慌てて二の手を送る間もなく、犬が圧し掛かり今まさに牙を立てようとしたその瞬間。犬の下から小さな呪が紡ぎ出された。すると、犬はまるで糸が切れた人形のように動きを止めて崩折れる。

「っ!」

わたしは、ほっとする間も惜しんで急いで少女に駆け寄った。動かなくなったとはいえ、あんな重い物の下敷きになってしまったのだ。到底無事とは思えない。

「よいしょ」

「え?」

だが、わたしの危惧は杞憂だったようだ。まるで鉄の塊のような犬を、少女はぬいぐるみでも扱うような気軽さで脇に除け、おどろいてしまいましたと立ち上がった。

「申し訳ありません、おけがはありませんでしたか?」

「あ、はい。わたしは大丈夫でしたけど。その……貴女は?」

「私はへいきです。この子捕まえようとしてくださったんですね? おかげさまで呪を編むひまができました。ありがとうございます」

ちょっと驚いてしまったわたしに、少女は人形に戻ってしまった鉄の犬をよいしょと担ぎ上げながら、礼儀正しく一礼してきた。あれ、この娘……どこかで……

「……ああ、桜さんではありませんか!」

少女も同じ気持ちだったのだろう。はてと小首をかしげてわたしの顔を見ていたのだが、その視線が胸まで下がると、ああそうだったとばかりににっこりと微笑みかけてきた。
……わたしも思い出した。ちょっと失礼なこの娘は、確かイライザと言ったはず。

「イライザ、準備が整った。ヘルハウンドは流水が渡れぬからな、いま水精を呼び出して……」

と、今度はその扉から男の人が姿を現した。

「あ……」

思わず半歩下がってしまう。大きな人だ。随分と背の高くなった先輩よりももっと背が高くて、体つきもがっちりとしている。

「ふむ?」

そして微かに眉を顰めるその顔つきは、いかにも傲岸不遜で唯我独尊。典型的とも言える魔術師の視線で、僅かに怯えを見せたわたしを、冷徹に見下して来る。
倫敦に来てから、わたしも魔術師という人たちとは随分と会ってきたけれど、それは全て姉さんやルヴィアさんを介して。こうやって自分だけで直接会ってみると、やはりどこか気後れを感じてしまう。

「にいさま、既にとりおさえました。ぜったい何もしないでください」

そんな強面の魔術師に、イライザは背伸びをするように食って掛かっていく。

「では、折角呪を写しこんだ紅玉ルビーが無駄になってしまったか」

「火に水を写してどうするというのですか! にいさまはこれでももっていてください!」

そして大男が、どこか残念そうに取り出したルビーをひったくると、何か白い水晶の塊のような石を手渡した。

「火精の即効性をだな……まてイライザ、これはただの岩塩ではないか」

「中央に散呪を込めてあります。おきよめくらいにはつかえますわ」

そのまま眉をしかめた大男を、半眼で睨み付けて捲くし立てるイライザ。だが、その瞳の奥にはどこか優しげな光がある。
大男の方も同じだ。これほど倣岸そうな男が、こんな小さな女の子に成すがままにやり込められていると言うのに、困惑の表情は出しても憎悪や憤怒のような負の感情は全く見当たらない。それどころか、傲慢で居丈高にさえ見えるこの大男の態度の端々には、優しい労わる様な情感さえ見え隠れしている。
どんな関係か知らないけれど、この二人はきっととても仲が良いのだろう。それはそんな事を思わせる情景だった。

「まあいい、それよりもイライザ。お前は肝心な事を忘れているぞ?」

そんな様子を、何故かわからないけれど眩しいと感じて、ただ呆然と見ているだけだったわたしに、イライザから受け取った岩塩を軽く首を振りながら懐に仕舞った大男が視線を向けてきた。

「なんだというのですか、にいさま? ……あっ」

それでイライザも、わたしが呆気に取られて見詰めていたのに気が付いたらしい。顔を赤らめ、慌ててわたしに非礼を詫びると、大男に向かってわたしを紹介してくれた。

「桜さんです。以前、士郎さんと一緒にお世話になったことはおはなししていましたね?」

「ああ、成程」

それに一つ頷くと、大男は一歩わたしに歩み寄り、意外なほど丁寧な態度で自己紹介を始めた。

「ミスマキリですな。レディルヴィアゼリッタの弟子であるとか。妹が世話になったとも聞いている。私はカーティス・ブランドール。イライザの兄になる」

「御……兄妹でいらっしゃるんですか?」

僅かに引き気味になったわたしだったが、その意外な言葉に思わず問い返してしまった。確か、イライザは人形じゃあ……

「ああ、そういえばミスマキリはイライザの中を“視た”のであったな。確かにこの身体は自動人形オート・マタではあるが、中身は間違いなく私の妹だ」

そう言うと、カーティスさんは滔々と事情の説明を始めた。
なんでもイライザは、事故で本当の肉体が植物状態になってしまっているらしい。だが、そこは魔術師。本人と寸分違わない人形に共感と転移の魔術を駆使して精神を移し、こうして当たり前のように生活しているのだと言う。

「フィードバックも万全。本体もこちらからの刺激で順調に成長しておる」

ただ、ここまで聞いて少しばかり気になることに思い至った。それでは、この兄妹は……

「お二人とも魔術師なんですか?」

「ふむ、そうなるかな? まあ、イライザはこの身体故に些かハンディがある為、後継は私であるが」

「にいさまが、もうすこししっかりしてくだされば、私もあんしんなのですが……」

「別に私は心配されるような事は何も無いぞ。立派にやっておる」

「それが心配なのです! にいさまが客観的なしてんさえもってくれていれば、こんなくろうはしませんのよ!」

わたしの問いに、なんでもないことのように応える二人。
だが、魔術師としてこれはとんでもない事だ。本来魔術師の後継は一人のみ、その為には血で血を洗うような関係もあると言うのに……
わたしは自分と、そして兄さんと姉さんの事を思い出し心が波立った。
お互い、腫れ物にでも触るような関係でしかなかったわたし達に比べ、この二人は何の遠慮もなく正面から言い争いあっている。
魔術師なのに、仲の良い兄妹。それは、とても眩しい光景だった……




「そんな事があったんだ。なら紹介はいらないな」

「そのせつは、兄さまが大変なごめいわくをおかけしました……」

先輩の納得したような声に、溜息交じりに頭を下げる妹と、何処吹く風と轟然と頭を聳やかす兄。
そんな二人を見ていると、どうしても自分を鑑みて、なんとも言いようの無い感慨に捕われてしまう。それは余りに違いすぎる兄妹の姿だった。
ちくりと何かが刺さった。本当に、本当に見た通りなのだろうか? 本当に、この兄妹には何もわだかまりは無いのであろうか?

「あの、イライザさん?」

「なんでしょう?」

イライザで良いですよと、にこやかに応える妹。だからだろうか、わたしは本当につまらない事を聞いてしまった。

「あの……お兄さんの事どう思ってるんですか?」

そんなわたしの質問に、イライザの表情が一瞬の内に陰鬱なものに取って代わられた。やはり……何かあるのだろうか?

「……むのう……」

「え?」

だが、その口から零れ出てきたのは、一種異様な感情だった。好悪善悪を乗り越えた達観とでも言うのだろうか。ただ、わたしが聞きたかった感情とは、少しばかり方向性が違うような気がした。

「あ。でも、いいひとではあるんです。それがまた問題でもあるのですが……」

そんな様子に少しばかり呆気に取られてしまったわたしに、イライザは何かとってつけたように兄の弁護を始めた。尤も、全然弁護になっていないような気もするのだけれど……

「イライザ」

そこにカーティスさんの厳しい声が降りかかってくる。一瞬ドキッとしてしまう。わたし達はこの人の、本人の目の前で明らかに悪口を言っていたのだ、幾らなんでも失礼すぎる。
慌てて謝罪の言葉を口にしようとしたところで、更なる声が被さってきた。

「謙遜も良いが、行き過ぎは却って非礼だ。見た前、ミスマキリが困惑しておられる」

……ちっとも気にしていないようだった。と言うより、悪口が通じていない?

「呆れてものがいえないのですよ……」

「あ、わたしは別に、その……あの……」

それではミスマキリに聞いてみようと、視線が集まる中、わたしは慌てて手を振って誤魔化し笑いを浮かべてしまう。
真正面から向かい合うこの兄妹を前に、少しだけ自己嫌悪が浮かぶ。けれど、本人の目の前で無能なんて言えるわけが無い。かと言って今までの経緯からも、カーティスさんがさほど優秀な魔術師で無い事は察しが付く。ああ、どうすればいいんです!

「おいおい、そういう事は本人を前に言えることじゃ無いだろ?」

と、頭を抱えているわたしに迫る二人の後ろから、先輩の苦笑交じりの声が掛かった。

「ふむ、確かに些か不調法であったか」

「そうですね、面と向かってむのうなんて、いえるものではありませんもの」

自分はしっかり言っているのだけれど……イライザも、この辺りやはり魔術師だと言うことだろうか。

「でも、大英博物館がくいん以外に二人揃ってって言うのは珍しいな」

「昨今些か物騒であろう、イライザ一人で出すのは心配でな」

「にいさま一人だとしんぱいで……」

同じようだが、どこか微妙にニュアンスが違う言葉。だが、何故か先輩は両方に納得している。
そのまま、先輩がカーティスさんと軽く目配せすると、わたし達はそれではまたとブランドールの兄妹と別れることになった。

「はぁ……」

わたしは、仲の良い兄妹の背中を見送りながら思わず溜息をついてしまった。
何だか疲れてしまった。一瞬浮かんだ暗い情念が、何か明後日の方向なら襲いかかってきた津波に、あっという間に押し流されてしまったような。そんな不可思議な気持ちだった。
ただ、未だにどこか眩しい羨望は残っているものの、暗い気持ちは綺麗さっぱり消えてしまっている。

「どうしたんだ、桜?」

「え? ああ、なんでもないんです。仲の良い兄妹なんですね」

「ああ……」

だと言うのに、わたしの漏らしたなんでもない言葉が、先輩の顔に軽い影を落としてしまった。
仕挫ってしまった。今の二人との出会いは、わたしにとって結局は気の晴れる出来事であった。しかし、先輩はわたしと兄さんとの事を知っている。男女関係はともかく、こういった機微では先輩は結構鋭い。気を緩めてしまった事で、却って心配をかけてしまったかもしれない。

「先輩。カーティスさんってどういう方なんですか? イライザちゃんは、その……ああ言ってましたけど」

だからわたしは気にしていない事を伝える為、あえてあの兄妹の話を先輩に振ってみた。

「カーティス? ああ、ええと……どう言ったら良いかなぁ」

案の定、先輩は苦笑しながらも、どこかほっとしたように話を始める。

「一見するとほら、偉そうで取り付く島が無いように見えるだろうけど、良い奴だぞ。礼儀正しいし、見かけや評判で人を判断するような奴じゃない」

「ええ、それはなんとなく判ります。それでその……専門の方は?」

「あっちは……」

流石に街中で“魔術”とはいえない。だから少し婉曲に言ったのだが、先輩はちょっと困った顔になった。

「遠坂やルヴィアさんは、なんか嫌ってるって言うか、近寄りたがらないけど。それでも時々たまに、凄いことだってあるんだぞ」

つまり大抵の場合は、イライザのいう通りと言う事らしい。
でもちょっと意外だった。本当に駄目なら姉さん達は歯牙にもかけないだろう。それを毛嫌いとはいえ意識していると言う事は、何かあるということだろうか?

「ちょっとずれてるって言うか……まあ、とにかく悪い奴じゃない。桜も知り合いになったんなら、仲良くすると良い」

ジュリオと違ってあいつなら安心できるしな、と先輩はわたしを安心させるように肩を叩いてくれた。
まだ会った事は無いけれど、確かジュリオさんと言うのは先輩の友人で、姉さんからもルヴィアさんからも、決して近づくなと言われている人だ。なんでも筋金入りの女好きだとか……つまり、カーティスさんはそういう人では無いということだろう。

「わかりました、そうさせて貰います」

あの兄妹の眩しさはやはり少し苦手だとは思ったが、わたしは先輩に安心してもらう為に、笑顔で応える事にした。
それに、わたしは未だ時計塔の学生ですらない。さほど縁のある人でも無いだろう。
この時はそう思っていた。





夕暮れの倫敦の一角。
そこは石の街倫敦でありながら、竹と草と泥で形作られていた。
篝火に照らされたどこか原始な場所。その中央には、無造作に布やロープ、禍々しい絵や赤と黒の旗が貼り付けられた太い木の柱が設えられ、更にその根元には、一本の太い蝋燭が立てられた頭蓋骨が祭られるように置かれていた。

何かの祭礼の場所だろうか? 今そこは耳を聾せんばかりの音に満ちて居た。
勇壮な太鼓の音、リズムを刻むような鞭の音、不可思議な合唱に包まれたその祭場の中央で、一人の女性が踊っている。
緑と赤のマントを羽織り、木綿の薄物から、白い肌を惜しげもなく晒しながら、激しいリズムに合わせ踊り狂うその女性の表情からは、既に理性と言うものが失われていた。

その口から漏れるのは、唯一神の名と聖母の名でありながら、これは神降ろしの儀式。
聖霊と言う名の神々を、我が身に乗り移させる呪法だった。

「――!」

ひときわ大きな嬌声のような叫び。
呪はなった。がっくりと崩折れるように膝を付く女性。

「……くっ」

だが、フェードアウトする音楽の中、理性の戻ったその顔には苦渋の皺が刻まれていた。

「やっぱり届かなかった?」

そこにもう一つの女性の声が掛かる。オーディオセットのスイッチを切り、ゆっくり近づくその黒髪の女性は、崩折れている女性にペットボトルを渡すと、その頭にタオルを被せた。

「駄目……聖霊ロアが薄すぎます……」

ペットポトルの水を頭から被りながら、女性は疲れたような声で応えた。

「仕方ないわよ、ここは倫敦。聖堂教会でもなけりゃ、地霊も全然違うもの」

「それでも、ここまで絞れたと言うのに……」

慰めるにしては些か冷たい声に、濡れた髪を一本に縛りながら女性は口惜しそうに呟く。

「で? これから、どうする」

「……先日の提案ですが、まだ有効ですか?」

「ええ、勿論」

苦渋の決断。搾り出すような声に、黒髪の女性、凛は莞爾と笑って頷いた。
隠密が条件のこの仕事も、既に表の世界へ漏れつつある。こうなれば、時計塔きょうかいの直接介入は時間の問題。それにどの道、放っておいても、そろそろ士郎が痺れを切らす。ならばここは、恩を売っておいたほうが良い。
内心、間に合ったことにほっとしながらも、凛は施術の消耗で未だ足元の定かで無い女性を助け起こした。

「それじゃあ、まず腹ごしらえからね。美味しい和食をご馳走するわ」

そんな思いを胸に凛は軽やかな微笑を浮かべながら士郎が食事の用意をして待っている居間に案内する為、工房の扉を開けた。


くろいひいろに孵化してからの第二段。
桜の前に立ち塞がるのは、眩いばかりに能天気なあの二人でした。
兄妹でありながら、余りに違うその姿。桜はこの危機をどう潜り抜けるか。
それでは、後編をお楽しみください。


By dain

2005/3/16 初稿


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