「はぁ、遅くなっちゃいました」
すっかり夜になってしまった倫敦の街を、わたしは姉さんの家に急いだ。
と言っても姉さんや先輩に会いに行くわけでは無い。先輩に送ってもらったお蔭で、乗り捨てになってしまった車を回収する為だ。
「ルヴィアさんに黙って来ちゃいましたけど、大丈夫ですよね」
実はもう少し早く来る予定だったのだが、夕方、車を取りに行って来ますとルヴィアさんに挨拶をした時、明日にしなさいと止められてしまったのだ。
理由は先輩達と同じ、“今倫敦の街は危険だから”
とはいえ、車が無いと明日以降少しばかり困ってしまう。悩んだ末、結局わたしはこうしてルヴィアさんに黙ってこっそり抜け出す事に決めた。
大事にしてもらっているのは、とても嬉しいことなのだが、やっぱり少しばかり過保護ではないかと思う。
「わたしだって、魔術師なんですからね」
マキリの後継者として、一人前の魔術師になる。それ以外の理由が無いわけでは無いが、倫敦に来た第一の目的はその為なのだ。普通の強盗くらいを恐れてはいられない。
「あれ? 先輩と姉さん……」
姉さんの家まであと少しと言ったところだろうか、珍しく夜霧のかかった倫敦の街で、わたしは何処か見覚えのある男女一組のカップルに気が付いた。
「……じゃない?」
こんな夜に出歩いているとこを見られたら、また心配をかけてしまう。それに何より、先輩に送ってもらう為に、車を置き捨てにして居たなんて知られるのは恥ずかしい。
そんな思いのせいか、慌てて物陰に隠れたわたしだったが、先輩と一緒に歩いている女性が姉さんで無いと気が付いて、思わず後をつけることにしてしまった。
くろいひいろ | |
「妖術師の裔」 | −MAKIRI− 第七話 後編 |
Beelzebul |
「……こんな時間に、先輩が女の人と一緒?……」
しかもかなりの美人。わたし達と同じ日本人だろうか、黒髪をポニーテールに結っているが、プロポーションから見て姉さんではない。
「……先輩……にやけてますね……」
夜は音が響くせいか、かなり離れていても、とても懐かしいとハスキーで艶っぽい声が響いてくる。それに先輩も、それは良かったと嬉しそうに応えている。
まったく……どんな事情があるかは知らないけれど、姉さんが可哀想では無いか、わたしだって可哀想だ。
何か嫌な気持ちがふつふつと湧き上がって来る。わたしは陰を押さえ込みながら、じっと二人の後をつけていった。
「よ、夜の公園に女の人を連れ込むなんて……先輩……」
そのまま二人は、仲睦ましげに夜霧のリージェントパークに消えていった。
これじゃ、本当に夜のデートみたいじゃないですか……
先輩浮気はいけませんと思いつつも、実際は多分女の人を家にでも送りに行くものだとばかり思っていたわたしは、そんな二人を唖然として見送ってしまった。
「あ……お、追いかけないと!」
はっと気が付くと、既に二人の影は何処にも見えない。暫らく呆然としている間に見失ってしまったようだ。何か周りの草木が枯れているような気がするが、これはきっと冬だから。わたしは慌てて夜のリージェントパークに足を踏み入れた。
「……はぁ……先輩……」
けれど、リージェントパークは広い。しかも灯りも乏しい夜の上に霧まで掛かっている。そんな中、一旦見失った一組のカップルを探し出すのは、簡単なことではなかった。
「……仕方ないか……っ!」
こうなったら魔術を使ってでも、そう思ったわたしは、周囲の人気を確認しようとして息を呑んでしまった。
つけられている、いいえ、囲まれてしまっている。
闇に溶け込むような肌の黒い男の人の集団。それがいつの間にか霧の中から湧き上がり、わたしの周りをこっそりと取り囲んで居たのだ。
「……」
黒人強盗団。ここ数日、倫敦の街で日本人ばかりを狙う事件の頻発。そんなニュースの事が脳裏を過ぎる。お腹がすぅっと冷えてくる、どうやらわたしは標的にされてしまったようだ。人気の無い公園で一人歩く日本人の女性。考えてみれば恰好の的ではないか。
「仕方……無いですよね」
けれど恐怖と同時に、冷たいほど落ち着いた気持ちも湧いて来た。先ほど、先輩と女の人が歩いているのを見た時から湧き上がって来ていた妙ないらつきも収まり、何故か笑みさえも浮かんで来る。夜の、闇の中でこの程度の連中はわたしの敵ではない。だとしたら……仕方がないじゃないか。
わたしは怯えたふりを装い、更に人気の無い、逃げ場の無いような場所へと歩みを進めた。
「……」
公園を出て狭い路地の奥、袋小路の突き当たりでわたしは振り返った。
視線の先には、じりじりと下卑た笑みさえ浮かべて、わたしに近づいてくる男達。獲物は追い詰めた。そうとでも思っているのだろう。もう姿を隠そうともしない。
“獲物は追い詰めた”
確かにそうだ。ここなら人目にはつかないだろう……
わたしはどこか高揚する気持ちに心躍らせつつ、陰に力を流そうとした。
「こんな夜遅く、女性の一人歩きは感心せんな」
と、その時。男達の背後から、落ち着いたそれでいて人を人とも思わぬ、いかにも倣岸そうな声が響いて来た。
呆気に取られるわたしと男達の中。その声はステッキの音を響かせ、男達など居ないかのような足取りでわたしの前まで進んで来る。
「ふむ……」
そしてわたしと並んで振り返ると、不機嫌そうに男達を見渡した。
「気配を辿ってきたのだが……ただの便乗犯か」
「……カーティスさん?」
その言葉でわたしは漸く我に返った。どうして? なんでこの人がここに?
「ちっ!」
「カーティスさん!」
まずい、我に返ったのはわたしだけは無かった。男達も一緒、いきなり一番近くの数人がカーティスさんに殴りかかる。
この人は凄く堂々とした大男だけれど、こういった荒事が得意とは到底……
「がっ!」
「げへっ!」
「え?」
だが、倒れたのは男達の方だった。
フェンシングか何かだろうか、カーティスさんは大きな体に似合わぬ身のこなしで、手に持つステッキで的確に男達の顎を、鳩尾を突いて昏倒させていく。
「野郎!」
だが、男達は数が多い、後の幾人かが鈍く光るナイフを引き抜いた。
―― 弾!――
「きゃ!」
そこに銃声が響いた。
一人の男の手からナイフが落ちる。
「事前に言っておくが。私の銃はこれ一丁では無い」
男達の顔に浮かぶ表情が、邪魔をされた怒りから、驚愕に恐怖に取って代わられる。
何時の間に抜いたのだろう。カーティスさんの左手には、硝煙を上げる小ぶりの拳銃が握られていたのだ。
「面倒は好かん。逃げるなら見逃す。去ね」
傲岸不遜で唯我独尊、人を人とも思わぬ非情で自信に満ち溢れたその声に、男達はまろぶように路地から逃げ出していく。
「ふむ、危ないところであったな」
カーティスさんは、そんな男達を何の感慨も無く見送ると、どこか憮然とわたしに視線を降ろしてきた。
「別に……助けは要りませんでした……」
意外なことに驚かされたせいか、それともこれからと言う高揚した気持ちに水を差されたせいか。わたしは思いの外ぶっきら棒な言葉を口にしてしまった。
わたし一人だって、あんな連中くらい。
「いや、私が危ないと言ったのはあの連中だ。ミスマキリ、一般人に対して魔術を使うのは感心せんな」
だが、カーティスさんの返事は、そんなわたしの気持ちに、冷や水を浴びせかける物だった。
一瞬の内に先ほどまでの高揚も、カーティスさんに邪魔をされた苛立ちも綺麗に消えてしまった。
残ったのは、恥ずかしさと恐れ。わたしは……さっきまで一体何を考えていたんだろう……
「魔術に頼りたい気持ちも分かるが、これは魔術師の則と言う奴だ。だからこそ、ミストオサカも、君の師匠のレディルヴィアゼリッタも、自分の身を守るには、魔術でなく身につけた技量を使う。かく言うわたしも……ん? どうしたのだね、ミスマキリ」
そんなわたしの思いに露とも気付かず、全然関係の無い事を滔々と語っていたカーティスさんが、漸くわたしの様子に気がついたように、軽く眉を顰めて声をかけてきた。
「あ、なんでもないんです。そうなんですか、わたしも何か習おうかな」
「ああ、それが良い。魔術師とは命を秤にかけるものだが、今の世は世知辛い。魔術以外で身を守る術も必要だろう。誰か良い師が居れば良いが……ああ、ミスタエルヴィーノは論外だぞ、あの男は別の意味で危険だ」
わたしの取り繕うような返事を、不機嫌そうな表情は崩さぬものの真剣に受け止め語り出すカーティスさん。
こちらの沈んだ気持ちなど、全く意に介さぬ明後日振りではあるけれど、ここまで的外れだと返って気持ちが良い。沈んでいるのが馬鹿らしくなってくる。
姉さん達が嫌うわけや、先輩が気に入っているわけはこの辺りなんですね。わたしは我知らず微笑んで居た。
「それはそうと、助けて頂いて有難うございます」
こうなると、これ以上先輩を探そうと言う気持ちも無くなってくる。その事については、明日にでも姉さんと一緒に問い詰めれば良い。わたしはカーティスさんにお礼を言って家に帰る事にした。
「なに、ついでだ。それに先ほども言ったように、こんな夜更けに若い女性の一人歩きは感心せん。送っていこう。レディルヴィアゼリッタの家で良かったかな?」
「あ、大丈夫です、車ですから」
「ではその車まで送っていこう。何処に止めてあるのだ?」
「あ……ええと……その……」
だが、カーティスさんは、さも当然と言った顔でわたしを送ろうと言う。断ろうとしたのだが、その言葉が却ってわたしを追い詰めてしまった。わたしは渋々車を止めてある場所について応えた。
「それは随分と歩いたものだ。では尚更だ、送っていこう」
「はい……申し訳ありません」
理由を聞かれないことにほっとしながら、わたしは真っ赤になって頭を下げた。先輩が女の人と一緒だったから、つけてこんな所まで来てしまったなんて、恥ずかしくて言えるものではない。
わたしは大人しく、カーティスさんに車まで送ってもらうことになった。
「それじゃあ、イライザちゃんの体は」
「左様、ブランドールの最高傑作だ。有機素材を用いた人形ではあれより優れたものもあるが、純粋に機械仕掛けではあれ以上の物は無いだろう。尤も、あそこまで完璧に使いこなせるのは、イライザくらいであろうがな」
男の人と二人で歩くことなどは、先輩以外とは初めてだったけれど、意外なことにカーティスさんとの道行きは、そんな事を全く気にせず過ごせるものだった。
だからだろうか、話題がブランドールの、魔術の家系の話になっていっても、少しも気にならなかった。
「イライザちゃん、凄いんですね」
「当然だ。イライザこそがブランドールの正統な後継者だからな」
「え?」
だが、これには驚いた。
なんでもないことのように、それどころか自慢にさえ聞こえる声音で紡ぎ出された言葉は、一子相伝の魔術師の、しかも当主から出る言葉とは思えなかった。
「今は、カーティスさんが当主なんですよね?」
「今はそうだな。残念だがイライザの本体はいまだ眠ったまま、今の身体も普通に生活する分には支障は無いが、魔術師の当主を勤めるには些かハンディがありすぎる」
ああ、それで。
わたしは何故ブランドールで兄妹二人とも魔術師なのか理由が分かった。魔術師は生まれたときから魔術師として育てられる。イライザは、こんな体になる前に既に魔術師だったのだ。そしてカーティスさんも。二人の年齢差から、イライザが生まれた時点で後継者が代わったとしても、それなりの魔術師になっていたはず。
そして、イライザちゃんがあんな身体になってしまって……
これで仲の良い理由も納得がいった、兄妹揃って魔術師であっても、この二人は互いを脅かす存在ではないのだろう。
「じゃあ、これからはブランドールのお家は、カーティスさんの筋になるんですね」
「いや、その気は無い」
そう思って掛けた言葉の返事は、これもまた意外なものだった。
「でも、魔術師は血を繋げる為に……」
「それは前提が違っている。魔術師は過去の蓄積を、より優れた未来に繋げる存在だ。確かにイライザ本人は後継に耐えられぬが血は別だ。私よりイライザの筋の方が優秀。そちらに向かうことこそ当然だ」
「でも、イライザちゃんは」
機械の身体だ。それでどうやって……
「問題ない、既に今の身体は子を育める。卵子を本体から移せば子供を産むことも出来る」
その為にわたしはあれの身体を作り続けるのだ。カーティスさんはそう言い切った。
ああ、又だ。わたしの心の奥で、ちりちりした思いが浮かび上がってきた。
言い方ややり方こそ生臭いが、この兄妹は魔術師と言う枠に縛られ、そこから一歩も出ていないにもかかわらず、間違いなく優しい愛情がある。
同じ枠の中にありながら、わたし達はどうしてそうなれなかったのだろう……駄目だ……泥が……
「だからさっさと子を作れと言っておるのだが、これがなかなかままならぬ、相手も必要なことであるしな」
だが、カーティスさんの間の抜けた言葉が、そんな泥に肩透かしを食わせてしまった。
「そ、それはそうでしょうね。イライザちゃんは何方か好きな方はいないんですか?」
「それが先日水を向けてみたら、頬を赤らめて“セ、セイバーさんが……”などと抜かしおってなぁ」
本気で困ったものだ、誰か良い相手はいないものかと眉根を寄せるその表情は、倣岸な癖にどこか間が抜けていて、真剣に悩んでいる自分が馬鹿らしくさえ思えてくる。
「これが士郎・衛宮だと言うならまだやりようが……」
「駄目です」
と思ったところで、又カーティスさんが可笑しな事を言い出した。
「駄目かな?」
「はい、絶対駄目です」
「ふむぅ……」
再び困ったように眉根を寄せるカーティスさん。全く……姉さん達がこの人を嫌う理由はこれなんですね。さっきとは別の何かがふつふつと湧いて来る。
「さっき言っていた、ジュリオさんはどうなんですか?」
「……」
そんな思いもあって、ちょっと意地悪な事を言ってみたら、仏頂面のまま思いっきり嫌な顔をされた。よっぽどなんですね、ジュリオさんって。
「……困ったものだ」
「本当に困ったものですね」
その顔がおかしくて、思わず笑ってしまったら、益々渋面が濃くなっていく。それが又可笑しくてと、奇妙な悪循環に陥ってしまったが、お蔭で随分と気持ちが軽くなった。
真剣な癖にどこかずれていて、取っ付きが悪いくせに人が良い。成程、先輩がこの人と友達である理由がわかったような気がする。
「有難うございます、カーティスさん」
「ん? 車まではまだかなりあるが?」
「いえ、ちょっと言いたい気持ちだったんです」
だから、感謝を言葉にしてみた。カーティスさんは益々困惑しているが、それが益々わたしの気持ちを軽くする。
倫敦に来て良かった。わたしは本心から思った。明日を信じられるような気がする。
「ん?」
そんな穏やかな気持ちで、わたし達は夜の倫敦を歩いていたのだが、車まであと少しといったところで、不意にカーティスさんの足が止まった。
「どうしたんですか?」
「いや、先ほどの連中のようだ」
カーティスさんの視線を辿ると、確かに視線の先では夜霧の中から、黒人の集団がふらふらと歩いてきている。でも……
「懲りん輩だ……ミスマキリはここで待って居たまえ」
止める間もなく、すたすたと前に進むカーティスさん。でも……この違和感は……
「待って! カーティスさん」
拙い、違う。この連中はさっきと同じだけれど違う!
「なに、直ぐ済む」
だと言うのに、何も気付かず態々振り返って手を振るカーティスさん。
そのカーティスさんの後ろで、いきなり黒人達が動いた。早い!
「カーティスさん!」
「だから、なにも……ぐがっ!」
「くっ! ―― O allumklammernde」
瞬く間にカーティスさんを殴り倒し、そのままわらわらと覆いかぶさり、爪を歯を立てようとする黒人達。わたしは自分でも信じられないくらい、素早く陰を伸ばした。
―― 呑……――
そのままカーティスさんだけを飲み込み、自分の後ろに引き寄せる。よかった。頭を殴られて気絶しているだけ、瘤はあるが怪我は無い。
――Grrrr……
「……」
わたしはカーティスさんを背に庇い、虚しく空振りした態勢を立て直した黒人達に対峙した。とても人間とは思えないような鋭い爪、牙と見まごう程の歯。よくカーティスさんは無傷だったものだ。
「人……じゃない……」
人と言うには何かが欠けていた。どこか朦朧とした意識の所在は感じるものの、瞳に光なく、力に溢れ素早いくせに無気力な動き。人である為の肝心な何かを失っている。
目の前の黒人達はそんな存在だった。
「……だったら遠慮は要りませんね。――Das Lebend'ge will ich prisen
―― 蠢……――
わたしは陰に力を移し、蟲達を無数の触手に変え、陰を伝って差し伸ばした。
――gsyaaa!
――HEeeeee!
そのまま手近な黒人に一気に群がり喰らい付く蟲の群。
何人かは逃げられたが、それでも三人ほどは飲み込めた。やはり、魂の肝心な部分が無い。これは死人だ。誰かが操っているのだろう、ぽっかり空いた空白はどこか遠くに繋がっているようだ。
「……姉さんなら辿れるんでしょうけど……」
わたしにはまだそんな器用な真似は出来ない。ただひたすら、群がり貪り喰らうだけ。
―― 蠢……――
「知性はなくても知能はあるんですね……」
更に数体。生きる死人を飲み込んだところで、動きが変わった。距離を置き、遠巻きにじりじりと隙を伺いだした。
わたしは、ちらりと気を失ったカーティスさんに目を走らせる。時間をかけている暇は無い。頭を殴られているのだ、早くお医者様に見せないと。
「そっちがこないなら、こっちから行きます」
わたしは死人たちに数歩近づいた。
「魔術は凄まじいが素人か……」
と、その瞬間、わたしの右手で呟くような声が聞こえた。
「なっ!」
続いて耳の後ろでちくりと小さな痛み。慌てて痛みに手を伸ばすのと、膝が崩折れるのは同時だった。
「あ……が……ぐっ……」
声が出ない、いや息が出来ない。力が入らない、動けない。痺れるような感覚が徐々に全身を覆う。拙い、毒?
陰に移した蟲達が、女王の危機を知り一斉にわたしの体に戻ってくる。
わたしの蟲は魔術刻印でもある。魔術刻印はまず第一に術者を生かすために全力を尽くす。それは良い、それは……でも……拙い。
拙い、とても拙い。拙い、拙い、拙い!
毒の恐ろしさよりも、別の恐怖で心が真っ黒になる。これでは毒は何とか出来ても、その間にわたしは……カーティスさんはあの死人に引き裂かれてしまう!
「男女で居ると聞いたが……人違いか。まあ魔術師であるのが幸いだな。一般人でなければ協会も文句は言うまい。女の方が厄介だ、そちらから始末しろ」
先ほどの声も、今のわたしの耳にはただ虚ろに響くだけ。けれど、わたしが先ならカーティスさんが逃げる暇が出来る。
何とか気がついたのだろうか、微かに身じろぎをするカーティスさんを視線の隅に捕え、わたしは少しだけ安堵した。
「む、拙いな」
だというのに……
「ミスマキリ、無事か?」
カーティスさんはいつもの不機嫌そうな表情のまま、わたしに向かって駆け寄ってくる。
「ちっ、男が先だ」
そこにあの声が被さる。駄目、逃げて!
「ぬっ! ――LIBERA TE PRIMUM METU MOEITS
倒れたわたしに、襲い掛かる生きる死人と駆け寄るカーティスさんとが重なった。
―― 浄!――
その瞬間、白い閃光が炸裂した。
「やはりブードゥーであったか。ミスマキリ、怪我は無いか?」
「え? あ、はい……」
閃光が途絶えた時。周りに生きた死人の姿はなかった。ただ、カーティスさんの大きな背中が見えるだけ。わたしはほっとした。この人も無事だった。
「一体……」
「イライザから貰い受けた塩弾を使ったのだ。やはりイライザは天才だな予想以上の威力だ」
けれど、そこまで言うと、カーティスさんは黙り込んでしまった。
その沈黙が何故かとても重くて、声を掛けかねていたところで、カーティスさんがわたしに振り返った。
「さて、それで動けるかな?」
「はい……何とか痺れは取れました。でも術はまだ……」
身体の中で必死で働く刻印虫の働きで、痺れだけは無くなっていたが、まだ毒そのものは中和されていない。あくまで効果をキャンセルしただけ、中和にはまだ暫らく時間がかかるだろう。
「それは良かった。申し訳ないが送って行けない事情が出来た。一人で帰ってもらえるか?」
いつもと同じ倣岸なまでに落ち着いた口調で、カーティスさんはおかしな事を言い出した。わたしは、漸く動けるようになった身体を起こし、カーティスさんの背中越しに視線をその前方へと向けてみた。
「……っ!」
そこには前に倍する数の生きた死人
先ほどの声の主は見当たらない。ただ、生きる死人は前からしかやってきていない。後ろになら逃げられる。
「カーティスさん! 早く、立って!」
「申し訳ないが、それは無理だ」
慌てて声を掛けたわたしに、カーティスさんはなんでもない事のように肩を竦めると、腕を伸ばしてわたしを後に追いやった。
「先ほど事情があると言っただろう。どうも足が折れたようだ。やはり無理はいかんな」
「……っ!」
それで、漸くカーティスさんが背中しか見えない理由に気がついた。どっかりと腰を下ろしたカーティスさんの左足には、半ば溶け崩れた生きる死人がしがみ付き、あらぬ方向にへし曲げられていたのだ。
「なに、君が逃げ切る時間稼ぎくらいはできる。行き給え」
それなのに……それなのに、余りに泰然自若なその態度に、とうとうわたしのほうが切れた。
「そういう問題じゃありません! カーティスさんが死んじゃうじゃないですか!」
わたしは汚れるのも構わず、しがみ付いている生きる死人を引き剥がし、カーティスさんの肩に手をかけ引き起こそうとした。
「いや、いかん。ミスマキリ、わたしは良いのだ、心配はいらん」
それを今度はカーティスさんが慌てて止める。困ったように落ちつきなさいと、わたしを宥めながら懇々と説き始めた。
「先ほども言った様に、ブランドールはイライザが継ぐ。魔術師にとって幹が枯れぬ限り枝葉はどうでも良い事なのだ」
「――なっ!」
息を飲むわたしに向かって、更に君もまた幹だ枝葉にこだわる必要は無いと、まるで当たり前の事のようにカーティスさんの言葉は続いた。
それに、記憶の奥から別の言葉が被さる。
―― いいか、桜! お前がマキリを継げ! マ、マキリはもうお前しかいないんだからな!
腹が立った。わたしは生まれて初めてと言うくらい本気で怒りに震えた。
勝手な事を……、そんな勝手な事……残された人間の気持ちはどうなるの!
「イライザちゃんの気持ちはどうなるんです! お兄さんが死んじゃって……妹がどんな気持ちになるか……貴方にはわかるというんですか!」
「いや、しかしだな……私は余り良い兄ではなし」
「関係ありません! お兄さんはお兄さんです! 足くらいなんです! 引き摺ってだって逃げ出して見せます!」
そう、そんな事は関係ない。憎み嫌っていても、ただ生きていてさえくれれば良い。
全てが終わって、取り返しがつかなくなって、初めてそう思えることだってある。
終ってしまえば後悔しか出来ない、でも、終らなければやり直すことだって出来る。
「わ、わかった。ふむ、ミスマキリの言うとおり、諦めるにはまだ早いか……」
わたしの余りの剣幕に、暫らく呆然としていたカーティスさんだったが、ここで漸く立ち上がる努力をしてくれた。
折れた足は一本、幾らカーティスさんが大男だからって、わたしが肩を貸せば歩くくらいの事は出来る。
「くっ……」
「む……」
こうして逃げ出したわたし達だったが、現実は甘くは無い。たちまちの内に生きる死人に追いつかれ、逃げ道をふさがれてしまった。
「努力は買うが無駄だったな」
その死人達の後ろから、闇のように黒い影が勝ち誇ったように姿を現した。
「近づかないで! もうわたしは魔術を使えるんですから!」
「良い啖呵だ。だがやはり素人だな、声が震えているぞ」
「っ……」
極彩色の装身具を身に付けた背の高い黒人。それがあの声の正体だった。面白そうにわたし達を見据えて居たが、即座に視線が鋭く細められ、軽く口の端を歪めると、くるりと背を向けて生きる死人たちに命令を下した。
「とはいえ、なかなか見所はある。時間稼ぎか。あと五分遅ければ確かに魔術が使えてしまうな。始末しろ」
気付かれた……これまでなんですか……
「いや、間にあったようだ」
がっくりと項垂れたわたしの耳に、カーティスさんのいつもと変わらぬ不機嫌そうな声が響いた。
「え?」
―― 弾! 弾! 弾!
と、その瞬間。空から降り注ぐ銀光がわたし達の周りの生きる死人たちを粉砕する。
「すまん、桜。遅くなった!」
―― 尖!――
空から降り注ぐ懐かしい声。続いて蒼い閃光がわたし達の直前を一閃する。
「桜、カーティス殿。ご無事でしたか」
瞬きする間もなく、重くも軽い金属音と共に、蒼金の聖霊がわたし達の前に屹立していた。
「先輩……セイバーさん……」
思わず膝が崩れそうになる。涙が零れそうになる。わたしは肩を貸していたカーティスさんに、いつの間にか逆に支えられていた。
「くっ! 足止めしろ!」
余りに急な形勢の逆転。一瞬、呆然とした黒人だったが、即座に身を翻すと、死人達を残し脱兎のように駆けていく。
「レディセイバー、士郎・衛宮。まずは感謝するが、追わなくて良いのか?」
まだ周りに死人はいる。けれど、そんなものに一切頓着せず、カーティスさんは訝しげに先輩達に声をかける。
それはそうだろう、こんな死人何百人いても、セイバーさんに掛かれば一瞬で片が付いてしまう。
「些か不本意ですが……」
「あいつの相手は俺たちじゃないんだ」
剣を構えたセイバーさん、弓を手にした先輩。二人ともその思いは同じのようだ。死人の群に対峙しながらも、苦笑さえ浮かべて視線を逃げる黒人に、いえ、その先に向けた。
―― 鼓!――
逃げる黒人のその先に、街灯に照らされて銀幕のように白く沈む夜霧の中から、一つの人影が浮かび上がってきた。
女の人だ、倫敦だというのにどこか南国を思わせる衣装を身につけたポニーテールの女性。
その女性が、身を震わせ、激しく踊るような身振りで呪を唱え出した。
激しく打つ太鼓の音が聞こえる。
空を切る鞭の音がリズムを刻む。
どこか忘我を思わせる、狂おしいまでの詠唱。
黒人の足が止まった。
必死で堪えながらも、手が、足が、女性の踊りに合わせて真似るように飛び跳ねだす。
口から泡を吐き、別の詠唱を綴ろうとする声を、太鼓の音が、鞭の響きが覆いかぶさり邪魔をする。
「――!」
女性の口から放たれた、ひときわ大きな詠唱。いや叫びで。突然始まった舞踏劇は終止符を打たれた。がっくりと跪く女性と、まるで糸が切れた人形のように崩折れる黒人。
同時に、わたし達の周りの生き残りの生きる死人の動きも止まった。
「ふむ、生きたままのゾンビ化は始めて見たな。成程、ブードゥーの制裁儀式であったか」
「そういう事。ま、一応感謝しとくわ。妹を助けてくれて有難う」
カーティスさんの感心したような声に、もう一人聞き覚えのある声が返事をした。
「それと、桜。あんたからは言訳を聞きたいわね。こんなとこでこんな時間に何やってたの?」
先輩とセイバーさんが肩を竦める中、暗がりから意地の悪い笑顔が浮かび上がってきた。
「ええと……何処から説明したら良いんでしょうか……」
「最初から全部」
にっこりと、今朝の復讐といわんばかりに綺麗に微笑む姉さんの笑顔。
別に疚しい事をしていたつもりはなかったのだが、それは自分がまるで罪人であるかのような気持ちにさせる、そんな類の笑みだった。
「酷いなあ、俺ってそんなに軽く見えるのか?」
「……自覚が無い奴は放っておいて。それにしても桜、それってかなり軽率よ?」
「はい、反省してます」
ルヴィアさんに黙って車を取りに来た事から、先輩の浮気発見とその尾行に至る過程を洗いざらい吐かされて。わたしは姉さんの前で小さくなっていた。
「まあ、わたしやルヴィアが、あんたに仕事のこと教えてなかったのも悪いんだけど」
「そ、そうですよね」
「だからって、夜の夜中に女の子が一人で街を飛びまわる言訳にはならないわよ! 全く……心配かけさせないでよ」
「ご、御免なさい……」
また怒られてしまった。けれど、それでもどこか心地よかった。これは心配してもらったから、愛されているということでもある。
倫敦の街で起こっていた黒人の集団強盗事件。実はこれには、魔術師の世界における裏があったということなのだ。
ハイチの結社から、罪を犯して逃亡してきた黒人の呪術師
フランス魔術院経由で説明を受けた時計塔
けれど、時計塔自体はこの呪術師
尤も、呪術師
「このままじゃ両方とも時計塔に消されかねなかったしね、だからわたしが申し出たわけ、わたしの捜索魔術や、士郎やセイバーの助けを借りれば何とかなりそうだったし」
「それ抜きでも、あんな奴を何時までも放っておけないからな」
溜息交じりの姉さんと、憮然とした先輩の声。成程、姉さん、苦労してるんですね。
「わたしが、陣を敷いて捜索してる間の女神官
「なのに、桜たちのほうが捕まっちまったってわけだ。焦ったぞ本当に」
そんなわたしの思いが表情に出たのか、姉さんと先輩は揃ってわたしを睨みつけてきた。思わず小さくなる。ご迷惑をおかけしました……
「成程、事情はわかった。いや近頃どうもおかしな輩が徘徊しているからと、巡回していた甲斐があったというものだ」
と、ここでカーティスさんの落ち着いた声が割り込んできた。
「それよそれ、巡回って何よ! あんた魔術師でしょう! 余計なことするんじゃないわよ」
「ええと、まあ気持ちは分かるがな」
「あんたも! 気持ちわかってどうするの!」
姉さんは、がぁーっと怒鳴りつけたかと思うと、ああもう、こいつらどうしようもないと、先輩とカーティスさんを揃って睨みつけている。
「そうです、にいさまはへっぽこなんですから。無茶をしてはだめですのよ」
そこに林檎を剥いていたイライザの、つんと冷たい声が掛かる。
尤も、カーティスさんが怪我をしたと聞いた時は、今にも泣きそうな顔をしていたのだが。
実はわたしが吊るし上げられているこの場所は、カーティスさんが入院した病院の病室だった。あの事件で足を折った事へのお見舞いを兼ねての事情の説明。
姉さんは露骨に嫌な顔をしたのだが、わたしはやっぱりきちんとお礼を言いたかったのだ。
「その、助けてもらって有難うございました」
「いや、礼を言うのはこちらだ、危うく妹を泣かせてしまうところだった」
「私はにいさまの事でないたりしませんわよ」
カーティスさんの返事に、むぅーっと膨れるイライザ。でも目尻に安堵の色が伺える。
やっぱり良かった。あんな思いをするのはわたし一人でたくさん。
過去は変えられないけれど、未来になら夢を繋げることが出来る。明日を信じるという事はこういう事を言うのだろう。
わたしは仲の良い兄妹を眺めながら、我れ知らず微笑んでいた。
「桜」
「なんですか、先輩」
そんなわたしに、先輩がちょっと複雑な表情で話しかけてきた。
「その……苦手じゃなかったのか?」
「そうですね、やっぱり眩しいですけど……」
今はその眩しさが心地よかった。
これもまた、この人に感謝すべきことなのだろう。眩しさも、中に入れば暖かい。
もう一度、わたしは心の中で感謝した。
ありがとう、カーティスさん。
END
ふつふつと湧き上がる暗い心も、あの兄妹の前に敢え無く流されてしまったと言うお話。
それはともかく、桜は書いていて楽しい娘でした。仕方なくでは無く、誰かに助け起こされるでもなく、自分の足で立ち自分で動く桜。
黒くてもいいんです。それが自身の選択なら。こう言う桜が書きたいが為に、くろいまゆを書いたと言ってもいいでしょう。
By dain
2005/3/16 初稿