「…………」
暗い闇。何一つ確かな物のない混沌の如き闇の中で、金色と真紅の言霊が、色彩の和音を奏でていた。
二つの色彩は、紡ぎだされる旋律に合わせる様に二つの三角に別れ、四方を囲み地に五芒、天に六芒の星を描き出す。
「――!」
瞬間、二つの旋律が弾けた。
弾けた旋律は二つから三つに、三つから四つに、次々と色彩を加え、ついには闇の中に七色の虹を屹ち上げた。
「本当に宜しいんですの?」
僅かな沈黙の後、虹色に照らされた金色がほっとしたような息使いで呟いた。
「熟慮の結果よ。わたしとあんた、二人が一年かけての解析で目が出なかったんだし、こうなったら実践で形にするしか使い道ないもの」
それに、紅がどこか憮然と応えを返す。
「確かに……目の前に結論が見えている様に思えても、そこに踏み込む度に更に向こうに遠のいていく……まるで逃げ水ですわ。理屈はわかるんですけれど……」
「理屈で魔法に届くなら世話ないわよね」
僅かに弛緩した空気の中、照らし出された金色――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの口惜しそうな言葉に、真紅――遠坂凛は自嘲混じりに肩をすくめて応えた。
「それじゃ、とっとと片付けちゃいましょう。それに、いざとなったら……」
「またシェロに創ってもらうとでも? それこそ、そんなことが出来たら世話がないですわ」
そう、確かにこれは士郎が創ったもの。だが決して士郎“独り”で創った物ではない。これは士郎が創らされるべく授けられた物でもあるのだ。現にあれ以来、士郎はこれの再投影には成功していない。だが……
「あいつ出鱈目だから、もしかしたらってのはあるのよねぇ」
「シェロですものねぇ」
二人は同時に自分たちの施術を忘れ、一人の青年の顔を思い浮かべ苦笑した。理と知を至上とする魔術師として些か不本意ではあるが、何の根拠もない筈なのに、彼なら何とかしてしまう。そんな気がしてしまったからだ。
彼は決して諦めない。諦めない限り、挫けない限り前に進む事は出来る。それになにより、士郎は馬鹿だからなぁ……
「ま、そんなわけで覚悟は出来てるわ。始めましょう」
「なにが、そんなわけか今一つわかりませんけど、それならわたくしにも否はありませんわ」
一瞬の弛緩、本番前のちょっとした息抜きを終え、二人の間に再び緊張がみなぎる。
「――――Anfang」
「――――En Garand
二人の呪に合わせ、七色の虹に見えない力が収束する。
万華鏡の如く移ろい浮かぶ七色の刃。模造
おうさまのけん | |
「剣の王」 | −King Aruthoria− 第九話 前編 |
Saber |
「――同調、開始
薄暗い闇の中で、俺はただ一点に意識を集中しつつ言い慣れた呪を紡いだ。
途端、一心に見つめていたフラスコの底で小さな魔法陣が浮かび上がり、淀んでいた乳白色の液体が波打った。
俺は背骨を貫く、焼けた火箸を突き刺されるような感覚を意識下に押しやりながら、更に呪を重ねる。
「――重力、剥離
呪を待っていたかのように魔法陣に灯が宿り、乳白色の波はその灯りに照らされて更に大きく立ち上がった。そしてそのまま、まるで映写機を逆回しするように、フラスコの中央で球となって浮かび上がっていく。
「――精錬、開始
俺はそこにもう一つの呪を重ねた。すると魔法陣に照らされた乳白色の液球は一つまた一つと色を加え、ついに万華鏡のように移ろいながら虹色に輝く球へとその姿を変えていった。
「……」
フラスコの中でゆらゆら揺れる虹色の液球を見据え、一呼吸だけ置く。背筋を貫く痛みも感じ慣れた疼きへと変り、俺の回路は意識せずとも順調に魔法陣へと魔力を流し続けていく。よし、大丈夫だ。
「――編制、開始
俺は魔法陣に十分魔力が行渡ったのを確認して、最後の呪を送る。魔法陣からの灯りが徐々に色合いを変え、うねうねと蠢く虹色の液球は魔法陣の変化に合わせるようにその色合いを薄れさせていく。
ここまで来れば、後は魔法陣が勝手に仕事を進めてくれる。それを確認し、俺は一つ頷いた。
「……ふう」
「お疲れ様です。シロウ」
と、漸く一息ついて背筋を伸ばしたところで、俺は目の前で優しく微笑む聖翠の瞳と鉢合わせてしまった。
「あ、セイバー。その……何時からそこに?」
「シロウがそのフラスコを見詰めだした辺りからです。何か施術だったようなので、邪魔をしては悪いと思い終わるまで待っていました」
暫し見とれてしまった俺のいかにもとってつけたような言葉に、セイバーは手に持ったトレイを作業台の隅に置きながら、苦笑交じりに応えてくれた。
フラスコをって事は施術の最初の頃からじゃないか、三十分近く待たせちまったのか。
「ついでと言ってはなんですが、お茶を淹れてきました、どうやら施術も終わったようですし、一休みする頃合では?」
俺がしまったと臍を噛んでいる間にも、セイバーは手際よくお茶の用意を進める。
「あ、すまない。お茶くらい自分で淹れたのに」
「今日はシロウも凛も工房にお篭りでしたから、こんな時くらい私に淹れさせて欲しい」
そりゃ悪い事をしたと、慌てて俺も手伝おうとしたのだが、セイバーはするりと俺の手を遮り、どこか楽しそうにお茶を淹れてくれた。
「わかった。それじゃ有難く頂く。でも俺だけってのは嫌だな。セイバーも付き合ってくれ」
「はい、では私も御一緒させていただきます」
こうして俺は、自分の工房で徐々に色合いを変える液球を挟んで、セイバーとお茶を飲む事になった。
「旨いなこれ、セイバーが作ったのか?」
「いえ、私にはまだこれほどの物は作れません、シュフラン殿から頂いた品です」
温かいミルクティーと手作りのクッキー。長時間の施術で些か疲れた体と頭に、そのほんのりとした甘さがなんとも心地良い。俺はセイバーと、料理やらお菓子やらといったとりとめのない話をしながらその心地よさを楽しんだ。
英霊と魔術師の話としてはどうよって内容かもしれないが、殺伐とした世界の中でそんな何でもない日常がある事が、何故か妙に嬉しく感じていた。
と、ここまで浸っていて、俺はもう一人の魔術師の事に思い至った。拙い拙い、あいつの事をすっかり忘れてたなんて言ったら、後で何を言われるか……
「そういや遠坂は? あいつの様子はどうなんだ?」
「小一時間ほど前に工房を覗いた時には、まだ施術の真っ最中のようでした」
なんでもかなり大掛かりな施術の佳境に入っていたらしく、流石のセイバーも声をかけるきっかけを掴めなかったと言う。
「頑張ってるなぁ。一昨日の晩ルヴィアさんの家から帰ってきてから、篭りっぱなしだったっけ?」
そろそろ年度末。今期の研究の仕上げって事らしく、この一週間ほど遠坂はルヴィア嬢とお互いの工房を往復する毎日を送っていた。どうやらそれが佳境に入ったらしい、頑張るのは良いけど無理しなきゃ良いんだが……
「それはシロウも同じでは? 二人とも、食事もそこそこで作業に没頭していたように見受けられましたが?」
などと感想を漏らしたら、セイバーは俺に向かって何処か恨めしげな視線を向けてきた。あ、こっちも拙い……
「あ、いや、すまん。俺も今ちょっと忙しかったから…… そうだ、今日はなにかセイバーの好きなものを……」
即座にその視線の意味がなんであるかを悟った俺は、慌ててセイバーに弁解をした。
遠坂同様、俺もこの一週間はえらく忙しかった。
理由も遠坂と同じ、年度末の試験やらレポートのた為だ。それは遠坂ほど専門的でも深くもないが、それでも結構きついものがあった。せめてもの救いは、去年のように遠坂やルヴィア嬢に付きっ切りで補習を受けなきゃならない程は、酷くなかった事くらいだ。。
まあ、そんなわけでセイバーの言う通り、俺も遠坂も手早く食事を済ます時くらいしか顔を合わせていない。で当然、食事も手早く作れて手早く済ませられる物が続いていた。ようするに……些か雑だったわけだ。
「シロウ、前々から思っていたのですが、私について食事にだけ注意を払っていれば良いと考えていませんか?」
が、この弁解は何故かセイバーさんの癇に障ってしまったらしい。目を半眼にしてずいと身を乗り出して迫っていらっしゃいます。
「い、いや、そんな事はないぞ。ただこのところ食事がちょっといい加減だったかなと……」
「食事などどうでも……いえ、それよりです! 凛の心配も良いですが、自分も余り無理をしないようにして欲しいと言いたいのです!
食事は関しては、きちんと作って頂ければ文句はありません!」
ああ、そういうことか。心配してくれてたんだな。確かにちょっと根を詰めすぎていたかもしれない。
「すまない、心配かけた。今日の夕食はしっかり作る」
俺はその事に感謝して、素直に頭を下げた。
心配してくれて有難う。でもな、セイバー。どうでも良いと言い切れなかったり、“きちんと”にアクセント入れてたりするとこ見ると、やっぱりそっちにも文句あったんじゃないか?
「そうではないと何度言えば……お願いします……」
尚もなにか言いたそうなセイバーだったが、俺がしっかり正面向いて頭を下げたら、ぼそぼそ呟きながらも納得してくれたようだ。わかったわかった、昼飯から頑張るから。
「ところでシロウ。それは何なのでしょう? いつものガラクタいじりとは趣が違うようですが」
今日の食事をきちんと作ることを約束して何とか宥めすかし、ほっと一息ついていると、セイバーは今度は作業台の上のフラスコを視線で示しながら尋ねてきた。
「ガラクタは酷いぞ。いつもやってる事だって、魔術の修行もあるんだからな」
「つまり、ガラクタ弄りもあるわけですね?」
だが、いつもなら素直にそうですかと頷いてくれるセイバーなのに、今日は何故か微妙に絡んでくる。やっぱりまだ根に持ってるんだね……
「いや、まぁ……そうだけど」
俺はそんなどこか見透かすようにつんと視線を向けてくるセイバーに、僅かたじろぎながら工房を見渡した。
そこかしこに置かれた品々。如何にもな魔術の道具や、殆ど化学の道具と変らないような錬金術の機材や素材もある事はあるが、大半は一体何時のもんだろうってな時計や発動機
ううむ、確かにこれじゃ冬木の衛宮邸
「でも、ほら、こんなのは中々日本じゃ見つけられないんだぞ?」
だがそれでも尚、俺は反論せざるを得なかった。
英国ってとこは、流石にこういった古道具に関しては日本よりはるかに充実している。なにせ、ごくごく普通に百年二百年物の道具や機械が今でも現役で残っているくらいだ。だから、たとえ壊れていたり部品が足りないガラクタのような品物であっても、修理する道具や部品は探せばいくらでも見つけることが出来る。つまり一旦作られた道具は例え壊れても直して、手を加えて最後まで使い切ることが出来るのだ。俺にとってこれほど素晴らしい事はない。
「わかりました。シロウは本当にガラクタが好きなのですね」
だから、そんな事を切々と訴えていたのだが、セイバーさんは何故かどんどん、どんどん呆れたような顔になっていく。なんか釈然としないなぁ。
「いや、そうじゃなくてだな……」
俺はまた何か間違ってしまったようだ。だが、だがしかし、これは間違っているかもしれないが正しいんだ。俺は更に、そこかしこの品々を実際に手に取り、呆れるを通り越して引き始めたセイバーに向かって実例を示しながら、必死で抵抗を続ける事にした。
それになにより……ああ、くそ! そうだよ! 俺はガラクタ弄りが好きだよ!
「ほら、見てくれセイバー。これ百年近く前の内燃機関
結局、ガラクタフェチについてはカミングアウトさせられた俺だったが、それでもこの道具類の素晴らしさだけはセイバーに判って貰いたくて、必死で解説を繰り広げた。なあセイバー、百年物の機械類とか三百年物の道具とか、長年にわたって人の手で使われ続けた物ってのは本当に凄いものなんだぞ?
「はいはい、凄いです凄いです」
だが、セイバーさんは聞いちゃくれません。なにか遠坂のような胡散臭そうな目で俺の手の品物を一瞥するだけで、俺の言う事なんか綺麗さっぱり右から左に流してくれる。くそお、俺だってセイバーの食欲には理解を示してるんだから、俺のほうにも少しは理解を示して欲しいぞ。
「よし、じゃこっちはどうだ? 二百年前の洗濯機で……」
「それよりシロウ、結局これは何だったのですか?」
ここまで来たら後には引けない。諦めない限り挫けない限り前に進めると、俺は説明を続けようと意気込んだ。しかし、セイバーは、やっぱりそんな俺を全くと言っていいほど取り合わずに、目の前のフラスコを興味深げに突つきながら説明を遮ってくる。
何か釈然としない。俺の手に取った道具たちはスルーで、そっちには興味深げで……別に俺は魔術師になりたいわけじゃないんだぞ。そりゃガラクタ使いになりたいわけでもないけど……
「シロウ、何をぶつぶつ言っているのですか?」
そんな事を考えていたら、凛の内省癖
はて? 確かに俺のガラクタ好きは趣味かもしれないけど、遠坂になんか趣味ってあったっけ? そう思って聞き返したら、セイバーはどこか暗い表情で視線を逸らすと、何事か小さく呟いた。うっ、こ、これは……
「こ、これなんだがなセイバー、万物融化剤
その呟きが耳に入った途端、俺は本能的に話題を逸らしていた。
「シロウ、話を逸らそうとしていませんか?」
「そ、そんな事はないぞ! 第一こいつについて聞きたがってたのはセイバーだろ?」
「それはそうですが……」
ともかく、俺はセイバーのどこか釈然としないと言った表情を敢えて無視して、万物融化剤
何せセイバーの言う遠坂の趣味は、「……無駄使い……」だったのだから。
「ほほう、全てを溶かす液体ですか」
「ああ、パラケルススって人が見つけたらしい。こいつの作成が祖材科
俺は、漸く興味を目の前のフラスコに戻してくれたセイバーに、頭の中で授業のおさらいをしながら説明を続けた。
“全ては一にして、一は全て”
魔術の総ての源はこれだ。一は総てであると同時に総てに一は存在する。この“一”こそは根源。そして魔術師は自分の中にある“一”つまり魔術回路を通してそこに向かう。そして一般的な錬金術師とは、自らを含めて総ての中に存在する“一”を抽出し、それを用いて根源への道を開こうとする魔術師の事なのだ。俗に言う“賢者の石”って奴は、この抽出された“一”の結晶というわけだ。
そしてこの万物融化剤
尤も、総てに一が含まれているといったって、科学のように元素として中に入っているわけじゃない。あくまで“概念”としてその痕跡があるってだけだ。だからもし“一”を取り出したければ、科学的でなく概念的に存在を分解し“一”を抽出しなければならない。だから、こいつも総ての物を溶かすって言っても、化学的な分解でなく概念を溶解する魔術的な物質ってわけだ。
「しかしシロウ、総てを溶かせる液体というのは、些かおかしくありませんか? 総てを溶かせる以上、それを収める容器すら溶かしてしまうように思えますし、そんなものを扱う事も不可能なのでは?」
とはいえセイバーの言うとおり、“何でも溶かす物をどうやって治めるか?”という問題から、こいつは“表”の世界じゃ製造不可能、つまり存在しない物だって言われてきた。そう、普通ならそんなものあるはずがない。
「だからこうやって扱うんだ」
だが俺たちは魔術師。俺はセイバーに、フラスコの底に描かれた魔法陣を指し示しながら話を続けた。
「成程、宙に浮かして作り上げるわけですか」
「そうなんだ。こうやって宙に浮かして仕上げて、更にそいつを加工して、溶かしたい物以外は溶けない様にするってわけさ」
重力呪で固定し最後の工程を成し、概念を付与して特定概念のみを溶かす溶液に仕上げる。こいつが今期の俺に課された課題だった。
「つまり、これは金属用なのですね」
そして目の前で、虹色から金色に変りながらフラスコの底に落ちていく液球は、さまざまな概念を添付して“金”の概念を溶解出来るように加工されたものだ。
「おう。一辺溶かして、今度はそいつを蒸留して別の物に組み替えるって事も出来るんだぞ」
俺は更に、こいつの使い道についてもセイバーに説明した。
物質を概念に融解し、それを蒸留添加し別の物質の概念に組み上げ固める。つまりこれが物質変成、狭義の錬金術って奴だ。
「おお!」
と、そこまで話したところでセイバーの目の色が変った。
「つ、つまり。これで金が作れるのですね!?」
そこに食いついたか……
気持ちはわかる。セイバーにはいつも金で苦労かけてきたからなぁ。主に遠坂が。
「一応これだけあれば、一キロの鉛を金に作り変えることくらいなら出来るな」
俺は、それがまるで財宝の山であるかのように、きらきらとフラスコに目を輝かせているセイバーに苦笑しながら“事実”を話した。
「ただしこいつを作るのには、それと同じ重さの金以上の金
「くっ…… つまり」
金を作るのに、金の価値の二倍以上の金
「考えてみれば、これをシロウが作れるという事は凛も作れるという事。もし安価に金が作れるのならば、とうに凛が作っていましたね……」
そう、実は俺も最初にこの事を聞いた時に、遠坂に同じような事を尋ねてみたのだ。だが応えは当然、今の俺の答えと一緒。
あの時の遠坂の実に口惜しそうな顔は、いま目の前に居るセイバーの悔しそうな顔と甲乙付けがたいものだったなぁ。
「ああ、二人とも。ここにいたんだぁ」
などと、二人揃って遠坂の顔を思い出しつつ溜息をついたところに、工房の入り口からとうの遠坂さんが顔を覗かせてきた。
「凛、施術は終わったのですか?」
「おわったぁ……」
入って来いと促すと、遠坂はセイバーににへらと嬉しそうに笑いながら手を振り、そのまま俺の方に何処か覚束無げな足取りでやって来る。
「おいおい、大丈夫か?」
俺は慌てて立ち上がり、そんな遠坂に歩み寄った。
何をやっていたかは知らないが、よっぽど大変な施術だったのだろう。ふらふらとかなり危なっかしい。
「だいじょうぶぅ」
全然大丈夫くない。表情だって思いっきり無防備。寝起きでもないのに、こういう遠坂は非常に珍しい。俺は、流石に心配になって遠坂の腑抜けた顔を覗き込んだ。
「とお……っ!」
「……!」
「んっ……へへへ」
だが、これが拙かった。遠坂と目が合った途端、遠坂の瞳が悪戯っぽく光り、俺の唇はずっと柔らかくて温かい唇に塞がれてしまったのだ。
「ぷはっ! こ、こら、遠坂! いきなりなんだってんだ!」
「士郎分のほきゅう」
「な、なんだよ、その士郎分ってのは!?」
「士郎分は士郎分よ。士郎に含まれてて、わたしには必須の成分なんだから」
セイバーの視線が痛いほど感じられる中ほぼ一分、遠坂は俺の唇を離してくれなかった。しかも漸く離してくれたと思ったら、今度は逃がす物かとばかりにがっちりと抱きついて俺の胸に顔を埋ながら、意味不明な事をほざきやがる。
「ふう、補給完了。やっぱり士郎分は効くわねぇ」
そんなこんなで、結局俺が解放されたのは、最初に不意打ちを食らわされてから五分近く経った後だった。
士郎分ってのが一体どんな物かは知らないが、遠坂の奴はさっきとは打って変わってきりっとした表情で、足取りもしっかりした物に変っていた。心なしか血色もよくなったように思える。それに引き換えこっちは不意打ちの混乱と、セイバーの冷ややかな視線で一気に消耗してしまった。本当に何か吸い取られたのかもしれない。
いやまあ、その……別に嫌だったってわけでもないんだが……
「凛、シロウ。二人が仲が良いのは大変良い事だと思いますが、お互いまだ学生の身。衝動的な家族計画だけはしないようお願いします」
と、そこに追い討ちをかけるように、セイバーがとっても綺麗な笑顔でとんでもない事を言ってきやがった。
「セ、セイバー! 家族計画って……」
「あ、それなら大丈夫。ちゃんと考えてるから」
余りの事に思わず声を上げかけた俺だったが、その声に遠坂の更にとんでもない科白が被さってきた。
「こっちで子作りの予定はないわよ? そういう事は、やっぱり時計塔での修学が終わった後ね」
「と、遠坂さん?」
「おお、それでは!?」
「うん、日本に帰ってから。二人は欲しいわね」
「それは楽しみです。是非、私にも二人の子を抱かせて頂きたい」
「お〜い……」
「勿論よ。セイバーにも子供の教育とか、手伝ってもらいたいし」
「ああ、それは良い。凛とシロウの子供ですから、男の子でも女の子でもさぞや可愛い事でしょう」
「……」
なんだか思いっきり顔に血が上って、言葉も無い俺を他所に楽しげに未来設計を語る遠坂とセイバー。
そうか、子供は二人か。やっぱり男と女が良いなぁ、衛宮邸
「ちょ、ちょっと待て!」
危うく現実逃避するとこだった。俺はそんな話一度も聴いたことが無いぞ。そ、そんな、遠坂と俺の子供なんて……
俺は話が手遅れになる前に、大慌てて二人の話に割って入った。
「遠坂! そ、そういう事をだな、勝手に決めるな!」
だが、勢い込んで割り込んだ途端、俺はそれまで和気藹々とお喋りしていた女の子二人に、凄まじい視線で睨みつけられてしまった。
「なに? 士郎子供嫌い? わたしじゃ駄目?」
「いや、子供は嫌いじゃないし、遠坂がそう言ってくれるのは嬉しいけど……」
「シロウ、まさかやる事をやっておいて責任逃れをしようなどと……」
「ば、馬鹿! そんなわけないだろ! そ、その……遠坂との間に子供が出来たら、俺はきちんと責任を取る!」
と、ここまで言ってしまって端と気が付いた。
いつの間にか遠坂が、口の端を吊り上げる実に人の悪い笑みを浮かべ、俺のことを楽しげに見据えて居るのだ。一方セイバーはセイバーで、何か臍をかむような恨みがましい視線を俺に向けてたりする。
「よかった。有難う士郎。それじゃ、士郎分の補給も終わったことだし、後はよろしくね。わたしは夕方まで寝るから」
そのまま実に満足げに工房を後にする遠坂さん。後に残った俺とセイバーは呆然とするだけだ。
「……シロウは凛に甘い……」
セイバーさん、散々引っ掻き回されて、結局誤魔化されたのはあなたも一緒なんですけど?
「シロウ、こちらは終わりました」
前庭から窓越しにセイバーの声が響いてくる。顔を上げると、倫敦には珍しい青空の下ずらりと並んだ洗濯物の列を背にやれやれといった顔でセイバーが苦笑しながらこちらに向かってくる所だった。
「おう、掃除の方もあらかた片付いたぞ、そろそろ昼飯にしよう」
「ああ、その言葉を待っていました」
そろそろ頃合も良い、そう思って応えを返したら、途端にセイバーの苦笑が零れんばかりに輝く笑みに取って代わった。実に見事な変りっぷりだ。
セイバー、君もカミングアウトしたんだね……
俺はそんなことを考えながら、掃除機を止め腰を伸ばした。
あの後、暫し呆然としていた俺たちだったが、結局どちらともなく苦笑しながら顔を合わせ、この一週間ばかりで溜まった家事を片付ける事になった。
セイバーが頑張ってくれていたとはいえ、今のセイバーは前と違って家事以外にも、バイトやら何やらと色々とやらねばならない事が結構ある。最低限の手入れはしてくれていたが、それでも片付けなければならない物や洗濯物はかなり溜まっていたのだ。
「全く、一番散らかすのは凛だというのに」
「そういうな、あいつの後始末は俺たちの仕事だろ?」
俺は約束に反して簡単になってしまった昼食を作りながら、セイバーの愚痴に応えた。
誰かが突っ走った時、後ろを支えるのは残った二人の仕事。俺たち三人には、何時とは無しにそんな約束じみたものが出来上がっていたのだ。
「それは判っていますが、甘えるなら甘えるでもう少し上手く甘えて欲しい」
だが、俺の何処か諦観交じりの応えが気に入らなかったのか、セイバーは軽く口を尖らせて恨みがましい視線を向けてきた。
尤も文句の言い様にある通り、セイバーだってその事は判っている。片付けを始める前にそっと覗いた寝室で、着替えもせず泥のように眠っていた遠坂の姿。俺たちを散々引っ掻き回し、余裕綽々で立ち去った遠坂だったが、実際はこの一週間の施術の繰り返しで本当に精根尽き果てていたのだろう。全く、意地っ張りな奴だ。
「まあ、遠坂が甘え下手だってのは確かだがな」
「素直に甘えてくれば良いのです。凛が甘えてくれる事自体は良い事と思っています」
そう、確かに遠坂は出来る奴で、なんでもそつなく熟せる優等生だ。だが同時にどうしようもなく危なっかしいところも持っている。
ずっと一人で頑張ってきた弊害だろう、なんでも独りでやろうとしすぎるのだ。まぁ、それについては目の前に居るセイバーも一緒だけど。
「シロウ、それはシロウも一緒です」
と、そんな事を話したら、セイバーは溜息混じりに切り返してきた。そ、そうなのか? 自覚は無いんだが……
「なんにせよ、苦労はあるけど遠坂が甘えてくれるのは嬉しいぞ。あいつは頑張りすぎだからな、セイバーもだけど」
「はいはい、それでは私も精々甘えさせていただきます」
甘える事はともかく、これからは少しだけ一人で突っ走る事は慎もうと心に留め、俺は出来上がった昼食をセイバーに差し出した。
セイバーも多分同じ気持ちなのだろう。自分から甘えるなんて、昔のセイバーなら例え冗談でも口にしない言葉だ。それが出たって事は、それだけ俺たちはセイバーから信用されている、好ましく思われているという事だ。それは、とても嬉しい事だった。
「……シロウは凛に甘い……」
尤も、それはセイバーが手渡した昼食に気づくまでだった。
やっぱりチーズとハムだけのサンドウィッチは拙かったかなぁ……
――ただ今帰参した。おお、相変わらず主と王は仲睦まじいな。
そんな少しばかり剣呑な空気の中で昼食を取っていると、庭に面した窓から嫌味なぐらい堂々とした物腰の鴉
「ランス……貴方の目にはこの様子が“仲睦まじい”と映るのですか?」
――いやいや、多少ぎすぎすするくらいは、男女の仲では親愛の証と思いましてな。それより、魔女殿は?
だが、流石は最強の騎士。この程度の嫌味ではびくともしないらしい。
「遠坂なら自分の部屋で寝てるが、なんか用事か?」
セイバーがランスの言葉がわかることや、ランスの泰然自若たる態度がちょっと羨ましかったりする事は取り合えず置いておいて、俺は珍しく遠坂を探すランスに問いかけた。
こいつと遠坂は些か相性が悪い。寄ると触ると口喧嘩をしているような気がする。まぁルヴィア嬢と遠坂の例を見るまでもなく、別に嫌い合ってるってわけじゃないようだけど。
――ふむ、実はルヴィアゼリッタ嬢からの届け物があるのだ。
ああ、思い出した。先週だったか、遠坂の奴にランスを借りるからって言われたな。って、もしかして今までずっと借りられっぱなしだったのか?
――如何にも、いや魔女殿は人使いが荒い。
そのことを尋ねると、ランスはいかにもやれやれと言った口調で経緯を話してくれた。俺も忙しさにかまけてすっかり忘れてたけど、道理でこの所ランスの姿を見かけなかったわけだ。
なんでもこの一週間、二人が一緒で居るときを除いて、殆ど四六時中ルヴィア嬢と遠坂の間の連絡使
「それでシロウ。どうしますか?」
「どうしますって、これは一発がつんとだな……」
「いえ、ルヴィアゼリッタからの届け物です。凛を起こしてきましょうか?」
「あ、ええと……」
ああ、そうだった。遠坂は寝てたんだ。そのことに気が付くと同時に、俺の脳裏にさっき覗いた寝室の様子が思い浮かんだ。あの完璧主義者の遠坂が、着替えもせずに泥のようにベッドに倒れこんでいた。
あいつの事だ、もし一人なら無理してでもきちんと着替えて、それから眠りに付いただろう。それが、あんなに無防備に……
「いや、それはまだ良いだろう。取敢えずルヴィアさんからの届け物は工房に置いておいて、遠坂が起きて来たら一発がつんと言ってやるぞ」
うん、これで良い。随分と頑張ってたみたいだし、今起こしちゃ可哀相だしな。文句は文句、これはこれだ。
「……なにさ?」
そうと決まればと早速と、俺はランスからルヴィア嬢からの届け物を受け取ろうと手を伸ばしたのだが、ランスは頭を伏せて全身を震わせているし、セイバーはセイバーでこめかみを抑えて溜息をついている。
―― ……いやいや……主よ、流石に主だ。
「……やっぱり、シロウは凛に甘い」
そ、そうかなぁ……
――主よ、ここはやはり一発がつんと言ったほうが良いぞ。
散々二人に笑われたり拗ねられたりした挙句、漸くランスから届け物を受け取った俺は、そいつを遠坂の工房に納めようと扉を開けた。
で、扉を開けた直後のランスの科白がこれだ。実際俺も一瞬、今すぐ遠坂を叩き起こして一発どやしつける誘惑に駆られた。
―― これは魔女のばあさんの呪いか何かかな?
「一時間ほどでどうしてここまで……」
「遠坂ぁぁぁっ!」
いっそ見事だと頭を振るランスに、がっくりと膝を付くセイバー。そして部屋の惨状に思わず声を上げていた俺。そこは正に地獄の釜の底といった状態だった。
いつもだってお世辞にも整理されているとは言いがたい遠坂の工房だったが、今日は事の外酷い。扉から中央にある作業台に続く細い通路を除いて、床一面に一体今まで何処に仕舞ってあったんだってほどの量の魔具や素材が、思いっきり引っくり返されているのだ。どう考えても工房にあった棚や櫃に収まりそうに無い量だ。まぁ勿論、ここにある棚や櫃は見かけ通りの容量じゃないから、きちんと片付ければ収まるのだろうが……
――して主。如何する?
「……片付ける。お前も手伝え」
俺はセイバーの抗議覚悟で、腹に力を入れなおしランスに応えた。無論、後で遠坂にはしっかりと話をつけるつもりだが、遠坂の後片付けが俺たちの仕事だって思いは変っていない。それに何より、今遠坂を起こしても、この惨状の片付けには何の意味も無い。むしろ邪魔だったりする。
「凛は片付けに不自由な人ですから……」
が、案に相違してセイバーは、がっくりと肩を落としポツリと一言だけ呟いただけで、苦笑しながらも俺同様よしとばかりに立ち上がってきた。
「その、良いのかセイバー」
俺としては、また“シロウは凛に甘い”と睨みつけられる事くらい覚悟していたので、こいつにはちょっと拍子抜けする思いだ。
「仕方ありません。凛とて好きで散らかしたわけではないと思います。それだけぎりぎりの施術であったのでしょう」
尤も、そんな思いもセイバーの気恥ずかしげに漏らした一言で、すっかり氷解していた。
――凛に甘いのは私も一緒ですから。
俺はそんな呟きに苦笑しながら、セイバーと共に工房の後片付けを始める事にした。結局、俺たちは揃ってあいつに甘かったって事らしい。
「よし、それじゃとっとと片付けちまおう」
「はい、シロウ」
尤も、これが終ったあと遠坂にたっぷりと説教食らわせてやろうってのも、俺たち共通の思いだってのは言うまでも無かった。
「シロウ、これは?」
「ええと……そいつは繋がってるっぽいな。一旦置いておいて、その先の道具を一山持ってきてくれ。そっちはこの櫃に収まるはずだから」
こうして遠坂の工房の片づけを始めた俺たちだったが、作業はかなり難航していた。
なにせ、ここは一流の魔術師の工房。如何に弟子
「……こんな物かな?」
「余り片付きませんでしたね」
それでも何とか、中央の作業台周りを残して片付け終わったのだが、そこかしこに未着手
「まぁ仕方ないさ、とっとと終わらせちまおう。セイバー、足元に気を付けてな」
「はい、シロウも気をつけてください」
ともかく手を動かさなければ始まらない。
俺たちは、他の場所同様にいまだ繋がったままの機材を巧みに避けながら、この工房最後の秘境、魔術書や巻物の密林と化した作業台を、文明の光を以って開拓に挑んだ。
「うわぁ……」
艱難辛苦の末、何とか遠坂が作業していた辺りの発掘を終えた俺は、眼前に展開された光景に思わず感嘆の声を上げてしまった。
遠坂が精根尽き果てるはずだ。工房中の道具や魔具を引っ張り出しての施術だって、これなら納得できる。出来れば、もう少し段取り良くやってもらいたかったけどな……
「どうしたのですか? シロウ」
などと感心していたら、手が止まっていますよと軽い叱責の篭った視線のセイバーが、足元の障害物をひょいひょい避けながら俺の傍らまで進んできた。
「すまん、セイバー。ちょっとな。こいつを見てくれよ」
俺はそんなセイバーを手招きし、作業台の一角で大量のフラスコが危なっかしく積み重ねられている辺りを見るようにと促した。
「こちらですか? ……! シロウ、これはまさか……」
そこにあるのは、小さなビロードの台に置かれた一見何の変哲も無い乳白色の宝玉。だが、その周囲の宝石屑や拳二つほどの長さの柄を目にすると、セイバーの顔色が変った。
「そう、そのまさかだ」
そいつは紛れもなく、嘗て俺が投影した宝石剣
「思い切ったことをする物ですね……」
「ああ、遠坂がぶっ倒れるわけだ」
俺たちは改めて工房を、作業台を見渡して溜息を付いた。案の定、工房中の魔具や道具は総てこの一角に繋がれている。
「多分こいつを使ったんだろうな」
感嘆しているセイバーに、俺は更に周囲のフラスコを示しながら話を続けた。
「これは……先ほどシロウが扱っていたフラスコに似ていますね?」
「ああ、理屈は同じだ。万物融化剤
宝石剣の設計図と言っても、俺の作った模造品は外側だけの伽藍堂だ。つまり材質や構成はともかく、魔術的には概念の篭っていないただの品物に過ぎなかった。
勿論、如何に遠坂といえども、魔法の概念を再構築して模造品を本物になんてできるわけが無い。だから遠坂は各種の万物融化剤
「で、多分こいつがルヴィアさんの分だな」
更に俺は、さっきランスから受け取った小さな皮袋を、遠坂の宝玉の脇に置いて広げて見せた。中に入っていたのは色とりどりの六つの宝玉。恐らく何かの術式で模造品を二つに分け、分担して再構成したのだろう。
「つまり、二人はついに魔法に挑むのですか?」
「そこまでは判らないけど、それに近い事を企んでるだろうな。こいつらはもう偽物じゃない」
模造品とはいえ、魔法剣から削りだした純度の高い構成物。既にこいつらは俺が創った模造品とは全く別のものに変っていた。今まで遠坂とルヴィア嬢がやってきたことを考えれば、また一歩魔法に近づく試みである事は確かだろう。
「ま、詳しい事は遠坂が起きてから聞くとして、整理の方を片付けちまおう」
「はい、シロウ」
遠坂やルヴィア嬢からこいつの話を聞くのはそれから。俺はそう思い、宝玉の周囲にシャンペンタワーのように不安定な状態に置かれたフラスコの群に視線を移した。
「あ……」
途端俺の視線は、幾重にも積み重ねられたフラスコ群の一角に釘付けになってしまった。
丁度中央辺り。そろそろ魔力が切れかけているのだろうか、底に描かれた魔法陣が点滅しているそのフラスコには……
「あ、あの馬鹿ぁ!!」
虹色に輝く万物融化剤
「と、とと――同調、開始
だが、頭を抱えている暇は無い。俺は慌ててそのフラスコに飛びつくと、大急ぎで魔術回路を開いて魔法陣へと魔力を流し込んだ。
「……ふう……」
何とか間に合ったようだ。輝きを取り戻した魔法陣を確認し、俺はほっと息をついた。大丈夫、フラスコの中央に浮かぶ液球も、ふらつきを止め安定していく。
危なかった。なにせこいつは“総てを溶かす”んだ、当然フラスコの底なんてあっという間に抜けてしまう。しかも回りは概念溶液の詰まったフラスコだらけ。次々に突き抜け、混ざり合った概念がどんな結果を生み出すかなんて……考えるだけで恐ろしくなる。
しかし、これでまた遠坂へのお小言の種が増えた。あいつ、原液の保存処理しないで寝やがったな。
「シロウ!」
「え? あっ……」
だが、ほっとしたのもつかの間。俺はセイバーの声で再び絶句してしまった。
先ほどまで微妙なバランスで積み重なっていたフラスコの群が、今にも崩れそうに揺れているのだ。
しまった……今度は俺のドジだ。そりゃシャンペンタワーから無造作に真ん中のグラス抜いたら崩れるよなぁ……
「セ、セイバー!」
「はい!」
呆けてる場合じゃなかった。はっと気が付いた俺の叫びに、セイバーは即座に応えてくれる。素早く作業台に駆け上がりフラスコを……っと、拙い。
「あ、宝石踏むなよ!」
「判っています!」
踏み込んだ足先を素早くずらし、セイバーは何とか崩れかけたフラスコの塔を取り押さえてくれた。……のだが。
「シロウ、動かないでください」
両手を広げ、しっかりとフラスコの塔を押さえ込んだ英霊の両足は、文字通り俺の双肩にかかっていた……
「わ、判った……」
とはいえ参ったな。これじゃ身動きが取れない。
――おお、相変わらず主と王は仲睦まじいな。
どうしたものかと頭を抱えていたところに、嫌味なぐらい堂々とした物腰の鴉が、悠然と作業台の上に舞い降りてきた。
「ランス……お前の目にはこれが“仲睦まじい”って見えるのか?」
ランスの奴だ。何時にも増して落ち着き払ったこの態度が無性に腹が立つ。
――いやなに、ちょっとした妬みだ。主は我
「あ……その、悪かった」
そう言われると面目ない。俺はランスに素直に謝った。確か現役を差し置いて前任者に声をかけられたら、やっぱり気分が良いもんじゃないだろう。
――ああ、主よ。我
良かった。ランスもわかってくれた。これで一件……
「シロウ! ランス! 遊んでいる場合ではありません、この状況を!」
落着するわきゃなかった。俺はセイバーの怒声で我に返り、大急ぎでランスに指示を飛ばした。
「そ、そうだ。ランス、遠坂を……」
――それなら心配無用。
だが、鴉になっても流石は完璧の騎士。俺がセイバーに向かって叫んだのとほぼ同時に、ランスは遠坂を起こしに行ってくれていたと言う。
――見られよ主よ、魔女殿がやってきた。
「……もう、なによぉ。いきなり……」
と、そこに早速、遠坂の奴が工房の戸口に姿を現した。やれやれ助かった、ナイスだランス。
「ああ、凛……っ!」
「遠坂、良く来てくれた、実は……っ!」
だが、俺とセイバーはふらふらと歩み寄ってくる遠坂の姿に、言葉を失ってしまった。
「あ、セイバー、シロウ? なんか面白そうな事してる……」
とろんとした目つき、危なっかしい足元。遠坂……お前まだ寝ぼけてるな……
「わたしも混ぜなさい」
ああ。
俺はいっそ感心した。寝ぼけていても遠坂は遠坂だ。「混ぜて」じゃなく「混ぜなさい」。こんな時でも、口から出るのは命令形だ。
「……おはよ、しろう」
だが、そんな現実逃避も、遠坂がにっこりと笑いながら俺の胸に思いっきり体重を掛けて飛び込んできた途端、ものの見事に吹き飛ばされていた。
「と、遠坂!」
「シ、シロウ!」
肩にセイバー、手にフラスコ、そして胸に遠坂。僅かに数秒。それが限界だった。ああ、切嗣
「きゃ!」
「ぐっ! セイバー!」
「は、はい!」
ついに崩れた俺たちの人間ピラミッド。だが、それでも諦めるわけにはいかない。俺は寝ぼけた遠坂を何とか両腕で抱きかかえて庇いながら、最後の希望をセイバーに託した。
―― 速!――
次の瞬間青い閃光が走った。
作業台に押し倒されしたたか背中を打った俺だったが、一瞬だけ今の状況を忘れセイバーの姿に見惚れてしまった。
バランスを崩した時、どうやらただずり落ちるのではなく、あえて俺の肩を蹴り上げて自分の望む軌道を描くように調整したらしい。崩れるフラスコを次々と掬い上げ胸に抱きかかえて行くセイバー。よし、これなら何とか無事に切り抜けられそうだ。
「シ、シロウ! フラスコを!」
なんとかなる、そう思ってほっと息をつこうとしたところで、セイバーが目を見開いて俺に向かって叫び声を上げた。
フラスコ? それなら今セイバーが最後の一個を……
「あ……」
不思議に思い、倒れたまま首を曲げてセイバーに視線を送って気が付いた。
横っ飛びするセイバーと、遠坂を胸に抱きかかえて倒れながら見上げるような形になった俺の丁度中間辺り。そう、作業台の上、例の宝玉の真上辺りだ。
―― 転……
くるくると回転しながら落ちていく一瓶のフラスコが、まるでスローモーションのように俺の瞳に映っていた。
しまった、遠坂を抱き抱えた時に、手に持ったフラスコ放り投げちまってた!
それでも、まだまだ間に合う。俺とセイバーは、同時にそのフラスコに手を伸ばした。
そう、確かに間に合ったはずだ。
もし、フラスコが回転せずに落ちていたら十分間に合ったろう。或いはフラスコの中身があんな物でなかったら……
―― 零……
だが、フラスコは回転していた。そしてフラスコの中身は、万物融化剤
底に描かれた重力呪によって固定されていた液球は、回転の遠心力により振り回され、呪を振りほどいてそのままフラスコの側面を溶かし、作業台に置かれた宝玉に向かって弧を描いていく。
「つぅ!」
「くっ!」
更に万物融化剤
―― 発!――
そして閃光。
融過した液に宝玉が触れるのと、そこに俺とセイバーの伸ばした掌が被さっていくのとほぼ同時に、俺とセイバーの掌を透くように七色の閃光が立ち上り、瞬く間に工房全体を包み込んで行った。
大変長らくお待たせしました。Fate/In Britainの新作です。
魔法に挑む遠坂さんと、それを支える士郎くんとセイバーさん。
とはいえ、魔法に挑むって大仕事に挑んでいる割には、遠坂さんはいつもどおりのだだ漏れっぷりのようです。シロウとセイバー苦労しています。
その苦労が報われるか否か、後編をお楽しみください。
by dain
2005/10/15 初稿