多重次元屈折現象キシュア・ゼルレッチ」という物がある。
遠坂の家における魔術師としての祖にして、魔法使いたるキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ師。こいつは、この魔法使いが使う第二魔法――無限に列なる並行世界を自由に制御する則――の一形態で、これまた遠坂の家に宿題として与えられた課題、宝石剣によって制御しうる魔法なのだと言う。
ちなみにこの魔法の前提になっている「平行世界」。俺たちの世界とほぼ同一で、ほんの少しだけ選んだ選択肢が違っていた世界ってのは、合わせ鏡のように無窮に存在しているらしい。
つまり、「多重次元屈折現象」と言うのは、今現在俺たちが生きている「この世界」と殆ど変り無い他の「隣の世界」との間に穴を開け、そっちの物を勝手に使ってしまえる則の事なのだそうだ。

尤も、遠坂やルヴィア嬢をしても、そんなことをそう簡単に出来るわけじゃない。
それでも何とか「隣の世界」を覗く事くらいまでは行きたいと必死で頑張って、漸くその戸口まではたどり着いたといったところらしい。
そして遠坂たちは今回、その戸口から一歩中へと踏み込む施術を行う……筈だった。

“筈だった”と言うのは。それがちょっとした手違いで、違った結末に向かってしまったからだ。





おうさまのけん
「剣の王」 −King Aruthoria− 第九話 後編
Saber





「シロウ! 凛! 無事ですか!?」

どのくらい意識を失っていただろう。俺の目を覚ましたのは、そんなセイバーの声だった。

「ああ、なんとか……つっ!」

立ち上がろう手を付いた所で掌に痛みが走る。慌てて引き戻してみるとそこには綺麗な孔になった傷と血まみれの宝玉。どうやら無意識のうちに掴み取っていたようだ。

「あたたたた……もう、なんだったの?」

僅かに遅れて、俺の腕の中で遠坂も身じろぎを始めた。今度は寝とぼけてはいないらしく、少しばかり不機嫌な目つきではあったが、俺に向かってはっきりとした強い視線を送ってくる。

「いや、俺にもさっぱり。セイバー、あれからどうなったんだ?」

とはいえ、俺も意識を失っていたもんでさっぱりわからない。俺は改めて身を起こし、遠坂を床に下ろしながらセイバーに尋ねてみた。

「あれからも何も、一瞬だけおかしな光に包まれただけで。私にもさっぱり……」

だが、セイバーも首を傾げるだけだ。そう言われて改めて見渡すと、確かに、別に変った様子は見られない。変わったところと言えば、恐らくセイバーが立ち上がるときに片付けたのだろう、作業台の上にフラスコの列がきちんと並んでいる事くらいだ。

「あれ?」

いや、それだけかな? なんか工房全体が妙に小ざっぱりして無いか?

「ああもう、いきなり叩き起こしといて何の騒ぎ? きっちり説明して欲しいわね」

だが、そう思ってもう一度見渡そうとしたところで、遠坂に首を引っつかまれ、真正面から睨みつけられてしまった。まぁ言いたい事はわかるが、こればっかりは聞き捨てなら無い。

「凛……」

「ちょっと待て、遠坂」

幸い実害はなかったようだけど、こうなったのは誰のせいですか?
俺とセイバーは視線にそんな思いを込め、逆に遠坂を睨み返してやった。

「な、なによ……」

「なによ、じゃないだろ?」

「そ、そりゃあ、工房を散らかしっぱなしだった事とか、ランスを黙って借り続けてた事は悪かったと思ってるわよ……」

ほほう、そっちについては確信犯、いや故意犯だったってわけか。

「それはいい」

そう、それについては俺もセイバーも決着が付いている。

「ランスの事は俺が放っておいたのもいけないし、工房の後片付けも、この通りほぼ終わった。その後の事だ」

俺は綺麗に整頓された工房内を指し示しながら、もう一度遠坂の顔を覗き込んだ。

「へ?」

だが、遠坂はきょとんとした顔で、俺とセイバーの顔を交互に見つめるだけだ。そうかそうか、お前覚えてないんだな……

「凛、それよりもこの工房に入ってきた時からの事を思い出して頂きたい」

「えっと、それってランスの奴に起こされてからって事?」

「そうだ」

「ええと……」

暫くはてなマークを浮かべて、可愛らしく小首をかしげていた遠坂だったが、俺とセイバーの無言の圧力に、流石に少しばかり気圧されたらしく、指折り数えながら自分の行動を反芻しだした。

「あいつに起こされて……ここに来たら、士郎とセイバーがなんか人間ピラミッドみたいなことしてて、面白そうだなって……あっ!」

ここで漸く思い出したようだ。遠坂はしまったとばかりに手を口に当て、作業台のフラスコ、セイバーの顔、俺の顔と順番に視線を彷徨わせ出した。

「えっと……もしかして……わたしのせい?」

「そうだ!」
「そうです!」

「ご、ごめん」

頭を抱えて謝る遠坂を、俺たちは暫くの間睨み据え続けてやった。




「とにかくごめん。わたしの不注意だったわ」

「まぁ、寝起きだったしな」

とはいえ、深々と頭を下げる遠坂を前に、俺もセイバーも何時までも睨んでいるわけには行かなかった。迷惑をかけたら素直に謝る、失敗したら反省する。これもまた俺たちの間での約束だった。

「ところで、士郎。さっきの光だけど、なんだったのかしら?」

「遠坂、そっちは俺たちが謝らなきゃならない」

となれば今度はこっちの番だ。俺はランスがルヴィア嬢からの届け物を持ってきたところから、工房の片付け、フラスコの崖崩れ、そして最後に取りこぼしたフラスコから零れ落ちた万物融化剤アルカヘストが、あの宝玉に降りかかった事までを遠坂に説明した。

「そ……それじゃ、わたしの石は?」

「それならここにある。取敢えず無事っぽいけど……」

流石に、話の最後の頃には遠坂の顔色が変っていた。だから俺は、少しでも安心させようと掌に収まっていた宝玉を手渡した。

「士郎……」

だが遠坂は石を持ったまま、安心どころか今度は不安そうな顔になって俺の顔を見詰めてくる。はて?

「怪我したの?」

「え? ああ言ったろ、液を受けようとしたんだけど溶かされちまったんだ」

どうやら俺の怪我を心配してくれたようだ。大変有難いのだが、それでも結局あんな事になってしまっただけに、どうにも後ろめたい。

「そっか、だから原液じゃなくなって……。有難う士郎。石は無事みたい」

遠坂はそう言うと、ハンケチを取り出して俺の掌を縛りながら治癒の呪まで掛けてくれる。なんか、こう……凄くこそばゆい。

「いや、感謝される謂れは無いぞ。それどころか謝らなきゃいけないくらいだ。俺がしっかりフラスコを持ってれば、端っからこんな事にはならなかった」

「でも、それってわたしが抱きついたからでしょ? やっぱりわたしのせいよ」

「それはさっき決着付いたろ? 俺の仕挫りだ」

「士郎は頑固ね……」

「……遠坂だって同じだろ?」

お互い一歩も譲らず、ついに睨み合うようになってしまった俺と遠坂。が、次の瞬間お互いに噴き出していた。

「馬鹿みたい、お互い様って事にしましょ」

「だな、何やってたんだろう?」

本当に馬鹿みたいだ。俺たちはひとしきり笑いあった後、何時しか肩を寄せ合って見詰め合っていた。

「士郎、凛……」

と、ここでセイバーの声が割ってはいってきた。し、しまった!

「セ、セイバー。忘れてたわけじゃないぞ!」

「そ、そうよ。別にじゃれあってたわけでもないのよ?」

慌ててセイバーに向き直って必死に弁解する俺と遠坂。

「いえ、そうではないのです」

だがセイバーは俺たちのそんな様子を一睨みこそしたものの、一つ咳払いしただけで真摯な表情に戻ると、作業台の一角を指し示した。

「……え?」

「……へ?」

なんだろう? セイバーの指先に誘われるように視線を移した俺たちは、途端、言葉を失って顔を見合わせてしまった。

「それでは、あれは一体何なのでしょう?」

俺同様に、万物融化剤アルカヘストに透化されて血塗られたセイバーの指先が指し示した場所、些か血で汚れたビロードの台の上には、紛れもなく俺が手に取った物と同じ乳白色の宝玉が置いてあったのだから。





「どうだった? 遠坂」

余りに予想外の出来事に、暫く呆然と面付き合わせていた俺たちだったが、何時までもそんな事はしていられない。とにかく、一体どうなっているのか、遠坂が早速調べる事になった。

「それが、ちょっと不思議なの。両方とも本物っぽいのよ、少しだけ違うんだけど……」

だが結果は、ほぼ同一と言う、益々分けのわらない物だった。
尤も、石そのものが若干変化した事は不思議で無いと言う。確かに、俺とセイバーの混ざった概念溶液を浴びて、あんな光を発したのだ、元のままと言う方がおかしいだろう。
なんでも、最初は俺の血を溶かした溶液を被った事で、一種の投影じみた複製が作られたのかとも思ったらしいのだが、それなら全く同じになるはずなので、その仮説は除外って事になったらしい。
それにまあ、武器でないしかも単体の鉱物をここまで完璧に複製なんて、俺にだって出来はしない。

「しかし、では何故このようなことが?」

「やっぱり、溶液を被った事で何らかの反応が起こったと思う。ちょっと本格的に調べてみるわ」

そう言うと、遠坂は立ち上がって本格的な検査のために、そこいら中の道具を引っ掻き回しだした。

「ちょっと待て、遠坂」

「何が欲しいか言って頂ければ、私達が用意します」

このままじゃ、またさっきの二の舞だ。俺とセイバーは、遠坂を押し止めようと慌てて立ち上がった。

――主よ。

と、後ろから遠坂を羽交い絞めしたところで、工房の入り口から怪訝そうな表情のランスが飛び込んできた。

「なんだランス。今ちょっと取り込んでるんだが」

――実は些か気にかかることがあってな、来て欲しい。

「実は今、遠坂の破壊活動を阻止しているとこなんだが、後じゃ拙いか?」

――ふむ、では主よ。ちと辺りを見渡してもらいたい。おかしいと思わぬか?

ランスの言葉に俺は、破壊活動って何よ! と言う遠坂の声を右から左に流しながら、辺りを見渡してみる事にした。
ええと……別に変ったところは……あれ?

「工房が……きちんとしすぎています……」

俺同様に、ランスの言葉に従って周りを見渡していたセイバーが不振そうに呟く。そうか、セイバーもやっぱりそう思うか。

「確かにそうだな。さっき片付けた時は、遠坂が思いっきり出鱈目に道具を並べてたんでぐちゃぐちゃだったけど……」

「今のここは、まるで士郎か私が手伝ったかのようにきちんとしています……」

「……整理が不自由で悪かったわね……」

取敢えず、遠坂の戯言は聞き流してランスにその辺りを尋ねてみると、ランスも同じように感じて他の部屋を回ってみていたのだと言う。

「それで、どうだったんだ?」

――実際に見てもらったほうが早かろう。

俺たちは、尚もぶつぶつと文句を言っている遠坂を引き摺りながら、ランスの言葉に従い他の部屋を見て廻る事にした。




「本当だ、お前の檻が無い」

――それだけではない。わたしの集めた収集物はおろか羽一本落ちておらん。

自分の居た痕跡が無い。ランスにそう聞いて確認のために戻った俺の部屋には、確かにランスがいたという証が何一つ残っていなかった。しかも、それは持ち去られたとか消えたとかではない。最初からそんな物は無かったとでも言いたいような状態なのだ。

「遠坂、こっちは?」

「やっぱりランスの食器は無かったわ。それに……セイバーの食器も」

居間に戻って、厨房を調べてもらっていた遠坂の答えも一緒だ。それどころかこっちにはセイバーの物さえ…… え?

「……なんだって?」

ちょっと待て! セイバーのものも無い? 俺は大急ぎで厨房に飛び込むと、片っ端から食器棚を開けて回った。
無い、無い、無い、ない、ない、ない……
俺の食器、遠坂の食器、客用の食器、特別な時のための取って置きの食器。そういったものは全部きちんとあるのに、セイバーとランスの為の品だけが綺麗さっぱり消えてる。
いや、違う。棚はきちんと整理されているし、空いているスペースがあるわけでもない。そう、まるで最初からそんな物は無かったかのように……

「一体どう言う事さ!?」

「怒鳴らないで、士郎。ちょっと考えてみるから」

思わず怒鳴ってしまった俺を、遠坂の冷静な声が遮る。尤も遠坂も平静ではない。口元に手を当て、何か考え込んでいる表情には、抑えては居るが苦虫を噛み潰したような苦渋が窺える。お蔭で少しだけだが落ち着くことが出来た。そうだな、俺たちが焦ってどうする? この状態で一番不安なのは……

「セイバー?」

と、そこに自分の部屋を確認に行っていたセイバーも帰ってきた。何処か足元が覚束無ず、顔だって少し蒼い。ってことは……

「はい……私の部屋は物置になっていました……」

やっぱり……
俺と遠坂は、暫し顔を見合わると互いに頷き合った。セイバーはきっと不安になっている。俺たちが支えないと。

「セイバー、大丈夫だ。俺たちが何とかする」

「そうよセイバー。これって間違いなくさっきの事件が原因よ。何としてでも解決して見せるから」

「シロウ? 凛?」

だが、セイバーに駆け寄った俺たちの言動は、セイバーが不審に思うほど何処か浮き足立った物だった。
そんなセイバーの表情で俺たちは我に返った。なにしてるんだ? 俺たちが焦ってどうする? これじゃ却ってセイバーが不安になっちまう。なんでこんなに……
そう思い遠坂と顔を合わせて気が付いた。何の事は無い。不安なのは俺たちの方だった。セイバーの痕跡の無いこの部屋を目の当たりにした事で、セイバーを失う不安に駆られていたのだ。
だからだろう、俺たちはその時セイバーが返してくれた笑顔に、本当に力付けられた。

「私は大丈夫です。シロウ、凛、有難う」

「あ、いや……うん、いいんだ別に。ひとまず落ち着こう……そうだ、お茶でも淹れようか」

「そ、そうね、わたしもちょっと調べ物してくる」

それはとても綺麗で、とても優しくて、とても暖かい笑顔だった。




「大体判ったわ。まぁ推測だけど」

セイバーの笑顔で気を取り直し、紅茶を入れて一息ついたところで、工房や自室を引っ掻き回していた遠坂が戻ってきた。

「早かったな」

「うん、やっぱりちょっと寝ぼけてたみたい。落ち着いて考えれば、そう難しいことじゃなかったわ」

とはいえ、紅茶一杯淹れる間に判るなんて、たいした物だと聞いてみたら、遠坂は手に持ったアルバムやら手帳やらを脇に置き、居間のソファーに腰をおろした。

「それで、一体どういうことだったのでしょう?」

「“ここ”はね、セイバーの居ない世界なの」

セイバーから紅茶を受け取りながらの遠坂の何気ない言葉。俺は思わず息を呑んだ。

「ちょっと待て、どういうことなんだ!?」

「落ち着きなさい、士郎。“わたし達”のセイバーが居ないわけじゃないんだから」

だが、勢い込んだ俺は遠坂にぴしゃりと制されてしまった。とうのセイバーも厳しい表情であるが暗さは無い。なんだか予測していたような顔つきだ。

――成程、「多重次元屈折現象」か……

そこに、俺同様セイバーと遠坂の顔を交互に見据えていたランスの意識が流れ込んできた。

「“多重次元屈折現象”?」

「そう、つまりここはセイバーのいない、正確に言えばセイバーの居なくなった並行世界って事ね」

そんなランスの言葉を反芻した俺に、遠坂が良く出来ましたと脇に置いた手帳を手渡してくる。

「なんだ、これ?」

「日記、って言うかメモみたいなものよ。“聖杯戦争”の時のね」

そう言いながらの遠坂に示された頁には、確かにあの戦いの記録が記されていた。アーチャーの召喚、衛宮邸での俺やセイバーとの出会い、数々の戦いとアーチャーの裏切り、最後の決戦。そして勤めを果たしたセイバーが…… え?

「遠坂、これ……」

「そ、わたし達の記憶と違うわよね」

俺の言葉に、遠坂は更に続きをと視線を落とした俺の手から手帳を抜き取ると、パタンと閉じ言葉を続けた。

「ここはセイバーがあの後まで残らずに消えてしまった世界。まぁこの家を見る限り、わたしと士郎は倫敦に来てるみたいだし、それ以外は余り変ってないみたいだけど」

更に遠坂は、何故かランスの事を一睨みしてから俺たちに視線を戻した。

「じゃここは、別の世界だっていうのか? でもどうして?」

「だから、“多重次元屈折現象”よ? 士郎、判ってたんじゃないの?」

「あ、いや……その……」

あんた何言ってるの? と眉を顰めて迫ってくる遠坂。なんか、こうランスの言葉を鸚鵡返ししただけですって言えない雰囲気だ……

「成程、つまり凛はあの石を使って。宝石剣を再現しようとしていたのですね?」

そこに今まで黙っていたセイバーが、頷きながら割り込んでくれた。

「あぁ、そこまで大事は考えてなかったわ。宝石剣の類感で、隣の世界を覗ければなぁ……って位だったんだけど」

「それが、あの事故でこんな事になっちまったってわけか」

「そっ、そういう事ね」

多分、俺の組成が遠坂の家系として認識され、英霊セイバーの組成と化合して世界に穴を穿ち、俺たちをこの世界に放り込んでしまったのではないかと言うのだ。
そこまで聞いて漸く俺も理解できた。
つまり遠坂がやろうとしていた魔法への挑戦が、偶然に偶然が重なって全く違った、それでいて一種の魔法じみた現象を起こしてしまったと言う事らしい。

「現状はわかりました。それで、これからどうするのですか?」

「勿論、わたし達の元居た世界に帰るわよ」

セイバーの問いかけに遠坂は明確に応えた。それはそうだろう。第一この世界にだって俺や遠坂は居たはず。俺たちと入れ替わったのか、それとも単に今この時点でここに居ないだけなのか、或いは俺たちに弾かれて他の何処かに飛ばされたのか。それはわからないが、何時までもここに居るわけにはいかないってのも事実だ。俺たちはこの世界の異分子だ。何が起こるかわかったもんじゃない。

「その……出来るのか?」

だが、その方法ってのが俺には見当すらつかない。ここに来ちまったって事だって、本当のところ完全に理解しているとは言い切れないところがある。

「やってみなきゃ判らない。でもヒントはあるわ」

尤も、流石に遠坂は俺とは違うらしい。例の二つの宝玉を取り出して、徐に解説を始めた。

「この二つね。さっきちょっと削って確かめたんだけど、基本的に同じなんだけど概念構成に少しだけ違いがあったの」

「どんな違いなんだ?」

「うん、ルヴィアから受け取った石あったでしょ? わたし達の実験では、わたしの石を基石に、ルヴィアの石を一種のアンテナにしてそれぞれ別の平行世界へのラインを手繰ろうと思ってたの……」

今、この二つの宝玉のうち一つには、あの時ルヴィア嬢から届いた石の中の、とある一つの概念が混在していると言う事らしいのだ。

「恐らくクリーンな方はわたし達の世界の石。で、こっちの混じった方はこの世界にあった石でしょうね」

遠坂の推測ではあの発光の瞬間、もろもろの偶然により“多重次元屈折現象”のような現象がおこり、観測のためのラインだけでなくルヴィア嬢の石の概念までをこっちの世界に飛ばしてしまったのではないかと言う事らしい。

「それが、万物融化剤アルカヘストの影響でこっちの基石に融合しちゃって、基石同士の共鳴で穴が広がってわたし達ごとこっちに飛ばされたんだと思うの」

「それで、どうやって戻るんだ?」

「類感の逆用を使おうと思うわ」

俺たちがこっちに来た理由はわかった。だが、俺には戻り方の方はさっぱり見当が付かないと尋ねてみたら。遠坂は混ざっていると言ったほうの宝玉を指し示して説明を続けた。

「こいつはこっちの世界の石に、わたし達の世界の石が混じった状態よね? つまり石は今の私たちの状態そのものなの」

俺たちが今この世界で安定しているのは、この石に類感しているからだと遠坂は類推したのだ。

「成程、じゃそっからルヴィアさんの石の概念を抜けば……」

「そ、私たちの存在はこの世界で不安定になる。で、それをこっちのわたしたちの世界の石に溶け込ませれば……」

「類感の作用で元の世界に放り出されるってわけか」

「そういう事。勿論、平行世界移動なんてとんでもない事しようってんだから、補助のための施術はがっちり固めなきゃいけないけど」

それはそうだろう、ただ理屈だけで魔法に届くなら世話は無い。俺は遠坂の顔をもう一度真正面から見据えなおした。

「出来るのか?」

「理屈だけだったら躊躇したでしょうね」

そんな俺の疑問に、僅かに肩を竦めて苦笑して見せた遠坂だったが、次の瞬間その瞳に自信をみなぎらせて言い切りやがった。

「でも、偶然とはいえ実際にわたし達はこうやって平行世界移動をした。実績がある以上、一度穴が開いた以上わたしはやり遂げて見せるわ」

見事な物だ。一辺の躊躇も無い。だとすれば俺のやる事は一つだ。俺は俺同様に遠坂をじっと見据えていたセイバーと頷きあった。

「凛がやるというならば否はありません」

「ああ、何でも言ってくれ。俺たちに手助けできることなら何でもやるぞ」

「有難う。士郎、セイバー」

こうして俺たちは自分たちの世界に、セイバーがちゃんといる世界に戻る為に、魔法と言うとんでもない事業に挑む事になった。




「遠坂、万物融化剤アルカヘストできたぞ」

「凛、私の方はいつでも」

「うん、わたしの方も準備完了。それじゃ始めるわよ」

俺たちはそれから、工房中の機材や道具を総動員して、大車輪で施術の準備を整えた。
何せここは別世界、結局は他人の物ってことで、俺としてはこうした道具類を勝手に使うのは少しばかり抵抗があったのだが、遠坂に言わせるとわたしの物をわたしが使って何が悪いって事らしい。なんだか詭弁くさくもあるが、背に腹は変えられない。許せ、この世界の遠坂。

「――――Anfangセット

そして施術が始まった。
術の規模そのものはそう大きくない。基本は、遠坂とルヴィア嬢が行おうとしていた施術に、俺とセイバーの血を溶かして作った万物融化剤アルカヘストの概念溶液を加える事で再構成したもので、術に必要な陣や構成そのものは、元々石に刻み付けてあるのだそうだ。
考えてみれば、俺たちがここに飛ばされた事件自体、そういった準備があったからこそ起こったことなのだろう。

「――Einmal kehren wir heim.ただ  一度  戻らん――Doch anders wird niemals Ein Ziel erreicht.今はただ  其れだけを  求めん

遠坂の呪が進む。まずは基石からのルヴィア嬢の石の概念分離だ。
俺とセイバーが息を詰めて見守る中、遠坂は両手に持ったフラスコから、基石に向かって静かに俺とセイバーの概念溶液を、滴らせていく。

「え?」

その瞬間、遠坂の奴がいきなり呪を止めて素っ頓狂な声を上げた。

―― 発!――

同時にあの時と同じ虹色の閃光が立ち上る。ちょ、ちょっと待て! こんな事は予定に無いぞ!

「遠坂!」

「凛!」

慌てて遠坂に駆け寄った時には、俺たち全員、再びあの閃光に包まれてしまっていた。




「凛! シロウ!」

「俺は無事だ。遠坂!?」

閃光は一瞬。今度は俺も意識を失わなかった。

「……」

遠坂も無事のようだ。ただ呆けたような顔で突っ立っている辺り、今の事態が完全に予想外の出来事だって事が窺える。これは拙い。俺は遠坂の肩を掴み思いっきり怒鳴りつけた。

「しっかりしろ! 遠坂!」

「……え? ……あ……うん」

俺の怒声で漸く我に返った遠坂の顔が、見る見る蒼くなっていく。

「な、なんだったのよ……今の……」

「おかしな事が起こっちまったってのは確かだ。とにかく、何が起こったかしっかり確かめよう」

「そ、そうね。呆けてる場合じゃなかった」

やっぱりこいつは不意打ちにはめっぽう弱い。だが、同時に切り替えの早さも遠坂の長所だ。こうして一時だけでも支えてやれば、すぐに立ち直ってくれる。

「シロウ、凛」

――主よ。

と、そこにセイバーとランスの微かに緊張した声が響いて来た。

「どうした……え?」

それで気が付いた。
今、俺たちのいるのは遠坂の工房のはずなのだが、それが妙に狭いのだ。

「ちょっと見てくる」

どうやら、俺たちはまた別の世界に飛ばされてしまったようだ。少なくともさっきの世界や、俺たちの世界じゃない。俺は早足で工房を後にし、家の中を確認して廻った。

「シロウ、どうでした?」

「……やっぱり、ここはうちじゃない」

セイバーの心配そうな声に迎えられ、工房に戻ってきた俺の顔は少しばかり蒼かったと思う。ここは確かに倫敦ではあるようだったが、俺たちの“遠坂邸うち”ではなかった。
多分、俺たちの住んでいた物と同じアパートメントだとは思う。だが、部屋数も全体のスペースもせいぜい半分と言ったところだ。更に言えば、どう見てもここには一人しか住んでいなかった。

「ごめん士郎。わたし勘違いしてた。これ見て」

そこに遠坂が、厳しい表情で歩み寄ってきた。手には例の宝玉。俺はそれを、ただ促されるままに受け取っていた。

「士郎にも判ると思うけど、赤い反射がさっきのルヴィアの石の痕跡ね。それに蒼い反射が加わってるでしょ?」

確かに、乳白色だったその石には、微かな赤い乱反射と蒼い乱反射が加わり、何処か神秘的な色合いをかもし出していた。

「多分、これがわたしたちの世界の、士郎が持ってた方の石ね。わたしの推測は間違ってた。ラインを伝って転移してたのはルヴィアの石じゃなくわたしの方の石だったみたい。それだけじゃないわ」

遠坂は説明しながら、工房の隅にある小さな窓に向かうと徐に窓を引き開けた。

「凛、これは……」

――ほほう……

俺と同様に、遠坂の説明を聞いていたセイバー達が驚愕の声を上げた。
それはそうだろう、そこには文字通りの虚空。漆黒のまさに“何も無い”状態が広がっていたのだ。

「世界と世界の狭間よ。この部屋自体一つの世界となって、そこにぽっかり浮いてるってわけ」

遠坂は慎重に窓を閉め、俺たちに向き直った。さっきまでの虚空は消え、窓に映る風景はいつもの人や車が行きかう倫敦の街に戻っていた。

「固有結界ですね……」

「そう、士郎の力ね。恐らく士郎の概念から構築したんだと思うわ」

それを確認するようなセイバーの呟きに、遠坂が頷いた。

「さっきは外まで確認しなかったから気づかなかったけど、恐らくわたし達は純粋に平行世界を移動したんじゃないわね。士郎やセイバーの概念に共鳴する平行世界の影を世界の狭間に投影し、同じように士郎の結界能力を抽出して泡沫世界を構築。そこにわたしたちを送り込んでた。そういうことだと思うわ」

「それでは、凛。その石そのものが」

「そう、どんな偶然か知らないけど、この石自身がこんな魔法じみた現象を引き起こせる遺物アーティフィクトになっちゃってるって事」

恐らく、素材として実際に魔法を行使できるであろう宝石剣の設計図を使ったことが一番の原因だろうと、遠坂は難しい表情で付け加えた。

「では、それを使えば元の世界に戻れるのですか?」

「完成すればね。残念だけどこれはまだ未完成。後四つ、狭間に浮かんでる世界の種を拾い集めなきゃ駄目みたい」

遠坂はそこまで言うと、腕を組み厳しい表情で虚空を睨んだ。つまり、後四回。こういった世界に行かなければいけないって事らしい。俺は正直怖気を奮った。勿論、あの不可思議な移動が怖いわけじゃない。そこで見るものが怖かったのだ。

「じゃ、早速施術に入るわよ。ここにいたって始まらないんだから。って……士郎、どうしたの?」

ここで漸く遠坂が俺の異常に気がついた。セイバーも心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。そしてランスは……ああ、こいつは気が付いたか。厳しい表情で俺の顔を睨んでやがる……

「なぁ、遠坂。この世界……っていうか本物のこの世界ってのは実際にあるんだな?」

「そういう事だけど。なに?」

俺の唐突な質問に、遠坂は訝しげに眉を顰める。俺は一瞬だけ躊躇したが、それでも手に持った写真立てを遠坂に手渡した。

「ああ、ここは遠坂しか倫敦に来なかった世界って事らしい」

「この工房見たときからそれくらい、見当ついて……っ!」

何を言っているの? と益々不審そうな顔で写真立てを受け取った遠坂だったが、その写真立てに視線を移した途端、表情が一変した。

「……そっか、ここだったのね」

厳しく結んだ口元、何処か寂しげな目元、それで居て微かに嬉しげな懐かしげな横顔。一瞬、俺はそれを遠坂に見せたことを後悔した。
何の変哲も無いはずの写真。今より少しだけ成長した俺と遠坂が写っているだけの写真。だが、その写真の中の俺は、浅黒い肌と純白の頭髪を持っていたのだ。

「凛、シロウ……」

遠坂の肩越しに写真立てに覗き込んだセイバーも、一瞬息を呑んで心配そうに俺たちの顔を見渡している。
長いようで、ほんの僅かな沈黙の後、遠坂は写真立てを伏せるように作業台の上に置き、微かに顔を伏せた。

「さあ、作業を始めるわよ」

だがそれすらも一瞬。再び顔を上げた遠坂はいつもの、自信に溢れ何者をも恐れない遠坂に戻っていた。

「い、良いのか? 遠坂?」

俺は思わず聞き返してしまった。玄肌白髪の俺。恐らくさっきの世界同様セイバーが還り、遠坂とも何度か交差しながらも別に道を進んでしまった俺だ。あの俺はあいつアーチャーだ。あいつになるだろう俺だ。
俺はあいつと遠坂が、ただのサーヴァントとマスター以上の関係であったことを知っている。遠坂は、あいつがあいつになってしまった運命を怒っていた。それこそ火の出るほどの怒りを抱いていた。それを、そうなるだろうあいつの姿を目の当たりにしたってのに、良いのか? 遠坂?

「良いって、なにが?」

「何がって……」

だが、挑むような遠坂の問いかけに、俺は言葉に詰まってしまった。
そう、どうする事も出来ない。それを見たからって、俺たちに何が出来るってわけではない。これは別の世界での出来事だ。更に言えば、今俺たちが居るここさえもその世界の影にしか過ぎない。

「で、でも遠坂!」

なんとも出来ない事はわかっている。だがそれでも胸の痞えが取れない、何とかなるんじゃないか、何とかしたい。その思いが胸に溢れる。

「士郎の気持ちはわかるわ。でもね」

そんな俺の口を指先で塞ぎ、遠坂は今一度写真立てを手に取った。そして俺の口元から指を離し、まず写真の中の俺を、そして俺の胸元を指差した。

「こいつはわたしの士郎じゃない。わたしの士郎はこいつよ」

そして、写真の中の“遠坂”を何処か寂しげに指差した。

「それにね、士郎。わたしはこいつの“わたし”じゃないの。こいつの“わたし”はここにいるわ」

「遠坂……」

俺は写真盾の中の俺と遠坂に視線を落とした。
つんと顎を上げ、見上げているのに見下すような視線で、何処か人の悪い笑みを浮かべる遠坂。そしてそんな遠坂を仕方ないとばかりに苦笑しながら見つめる俺。
ああ……そういう事か……
俺は遠坂が何を言いたいのか理解した。写真の中の“俺たち”が、一体何処で俺たちと違った運命を選んだかはわからない。だが、それはこの世界の“俺たち”が悩み、苦しみ掴み取った運命の筈だ。
だとすれば、その運命を選ばなかった俺たちに何が出来る、何が言える。これから先どんな運命を掴むとしても、それはこの世界の“俺たち”だけが掴みえる事なのだ。
俺たちに出来る事は、この世界の事はこの世界を掴み取った“俺たち”に任せ、俺たちの世界で精一杯、俺たち自身の運命を掴み取っていくことだけだろう。

「判った遠坂。それじゃ、俺たちの世界に帰ろう」

俺たちは揃って頷きあい、もう一度世界を越える準備を始めた。俺たちの世界に向かって旅立つ為に。




―― 発!――

工房に虹色の閃光が溢れた。

「ぶはっ!」

「きゃ!」

「ふう……」

七色の光が晴れた時、そこには四つの影が生まれていた。

「凛、ここは?」

「ええと……」

セイバーの声に、遠坂が何処か疲れた様子で腰をさすりながら応えを返し、工房を見渡す。

――ううむ、主よ。実に見事な混沌ぶりだな。

「ああ、そうだな」

そんな様子を眺めながら。俺はランスのどこか皮肉げに響く声に応えた。確かに、この全く統一性の無い雑然さはあの懐かしい“俺たちの”遠坂の工房だ。

「わたしの部屋はありました」

――我のケージもあるな。

「食器もちゃんと全員分確認っと、士郎そっちは?」

「おう、ちゃんと“外”もある」

とにかく家中を駆け回り、片っ端から知人に連絡を取りまくった俺たちは、漸くここが“俺たちの世界”である事を確認し、ふらふらと居間のソファーへと雪崩れ込んだ。

「帰ってきたのね」

「皆、無事で何よりです」

「何度か死に掛けたからなぁ……」

あの後巡った四つの世界は、確かに俺たちの世界と近似の世界ではあったが、それ以前の二つと違って空間軸も時間軸もかなりばらばらな世界だった。木乃伊に追いかけられたり、大聖杯に飲み込みかけたりと、かなり波乱に飛んだ世界の数々。
特に最後の世界など、俺たちは全員が違う世界に飛ばされてしまったらしく、遠坂があの宝玉を完成させて全員を纏めてここに引っ張ってくれなければ、一体どうなっていた事か……

「ですが、シロウと凛の子供時代は大変可愛らしいかった。二人の子供を抱きあげるのが楽しみです」

「そ、そんな事もあったわね……」

「あ、あれはなぁ……」

確か三度目か四度目の世界だ。そこの公園で、俺たちは今にも掴みあいの喧嘩を始めようかと言う、赤毛の男の子と黒髪の女の子を見かけたのだ。
とは言っても実際、直接二人が喧嘩していたわけでもなさそうだった。こっそり覗いて見ていた状況からすると、二人でへこました苛めっ子の処遇でもめていたらしい。言わずもがなだが“俺”が穏健派で、“遠坂”が過激派だった。
まぁ結局俺たちが手を出すまでも無く、上手い事落ち着いたようだったが……遠坂、いくら苛めっ子だからって、小学生を逆さ磔は酷いぞ……

「なによ、良いじゃない。別に、命まで取ろうってんじゃないんだから。女の子泣かすような奴は、あれでもまだ足りない位よ」

そんなことをこそっと漏らしたら、目の前の遠坂がこんな事を言いながら睨みつけてきた。お前、全然変ってないんだな……
まあ、そんなこんなで皆へとへとだった。俺たちは揃ってソファーに深く身を沈め、暫くの間は一時の休息を楽しんだ。

「それでは、お茶でも淹れましょう」

とはいえ、何時までもへたってはいられない。まず立ち上がったのはセイバーだった。

「俺も手伝うぞ」

最近とみにセイバーがお茶を淹れる回数が増えていた。腕の方もめきめき上がってはいたが、そう毎度毎度セイバーにお茶汲みさせるわけにはいかない。

「いえ、シロウは凛を」

だが、立ち上がりかけた俺はセイバーにそっと制されてしまった。そのまま苦笑しながら向けられた視線の先で遠坂は……

「…………」

ぐっすりとお休みになられていた。

「全く、寝るならちゃんと片付けてから寝ろよな」

俺はセイバーの好意に甘えてお茶汲みを任せ、そんな遠坂の手から、今にも零れ落ちそうな小さな宝玉をそっと取り上げた。
きらきらと虹色に輝く準魔法玉デミ・ゼルレッチ
その力で送り出すべき泡沫世界こそ総て消えてしまってはいたが、それでも尚この石は俺が作り出した伽藍堂フェイクの宝石剣や、遠坂たちが挑もうとした施術よりも、更に一歩魔法に踏み込んだ力を秘めていると言う。

「遠坂は凄いな」

俺は、この小さな宝玉を幾重にも包みこみながら、溜息を漏らした。何せ遠坂はこんなとんでもない代物を、偶然と失敗、思い付きとやっつけ仕事の中から掴み取って魅せたのだ。

「やっぱり、俺は遠坂に甘いかな?」

宝玉を工房に収め、代わりに持ってきたタオルケットを遠坂に掛けながら、俺は呟くようにそんな言葉を口にしていた。

「ええ、シロウは凛に甘い」

そんな俺に苦笑しながら、セイバーは入れてきた紅茶を差し出してくれた。

「ですが、シロウは誰にでも甘い」

更に半眼になって、拗ねるような口調で付け加えてくださる。ははは……

だが、何時までも笑ってはいられなかった。

「だからシロウ。私も甘えさせて頂きます」

一瞬だけ決意を込めたように瞼を閉じたセイバーが、再び開けた瞳には、何処までも真摯な光が湛えられていただから。





「だからシロウ。私も甘えさせて頂きます」

言ってしまった。口にしてしまった。私はこれからシロウに甘える。これは凛とも、ルヴィアゼリッタや桜とも違った甘え方だ。もしかしたら、これはシロウを傷つけてしまうかもしれない、裏切ってしまうかもしれない甘え方だ。
だがそれでもこの時、私はシロウに甘える事を我慢できなかった。




「セ……セイバーなのか?」

あの時。最後の世界に、皆が別々に飛ばされてしまった時。私が飛ばされた先は、薄暗いほんの僅かな光しか差さぬ小さな蔵の中だった。

「……シロウ?」

そこにシロウが居た。草臥れたつなぎを着て、倫敦のシロウの工房と変らぬほどのガラクタに囲まれたシロウが、呆然と私を見つめていた。

「セイバー!」

「っ!」

私はそこでいきなり抱きすくめられてしまった。
避けられなかった。いや、もしかしたら避けたくなかったのかもしれない。強く逞しい腕の中で、私は身動き一つ出来なくなってしまった。一言、そう一言呟くので精一杯だった。

「シロウ……その……困る」

「あ。す、すまないセイバー。いきなりで驚いて……また会えるなんて思ってもいなかったからな」

また会えるなんて? その応えを聞いた途端、私は体の自由を取り戻した。同時に心の中で何かが爪弾かれた。ああ……

「セイバー?」

私は微かに緩んだシロウの腕をすり抜け、一歩距離を置いた。それ以上近づく勇気も、それ以上離れる勇気も、この時の私には無かったからだ。

「……元気でしたか? シロウ」

何故そんな言葉を選んだのか、それは判らない。ただこの時はそう聞くのが正しい。それだけは間違いないと確信していた。

「ああ……」

シロウはわたしの言葉に力強く頷いてくれた。

「あれからも俺は頑張っている。出来ない事、届かない事はいっぱいあるけれど、俺は、俺が大切だと信じた物を汚したりはしていない。大丈夫だ、セイバー」

ああ……
これで私は確信した。力強く真摯で、決して枉げられる事など出来ない程強い言葉なのに、そこにはほんの僅かだが空疎な響きが感じられた。
シロウだ、この目の前のシロウは間違いなくシロウだ。けれど、私のシロウではない……
だが、それが判っていても心が乱れた。どうしようもないほど乱れていた。何故なら同時に、このシロウが“私”を愛してくれているシロウでもあると確信したからだ。

「シロウ……私は……行かなければいけない」

だが。いや、だからこそ私は拒まねばならない。私は“私”ではないのだから。

「そうか、判った。セイバー有難う」

まっすぐな、透けるほどまっすぐな瞳。泣きたくなるほど嬉しく、泣きたくなるほど誇らしく、泣きたくなるほど悲しい瞳だった。
“私”はこの人をこれほど高めたのか、“私”はこの人にこれほどのものを遺したのか、そして“私”はこの人をこれほどまで……

「シロウ!」

だから私は思わず叫んでしまった。この世界のシロウに私は何を与える事も、何を言う事も出来ない。今、シロウの目の前に居ることさえ幻に過ぎない、夢のような物に過ぎないのだ。何故なら、私は“私”ではないのだから……
だが、それでも尚、出来る事は無いのだろうか、何か、何か手立ては無いのだろうか?

「セイバー?」

そんな私の姿に、士郎が心配そうな表情で半歩前だけ前に出た。
ああ、やはりシロウはシロウだ。私のシロウと同じだ。どんな時も、何があろうと何時だって優しく暖かい……自分の重荷には気づかず、何時だって人の重荷にだけ気を使う……

「……!」

それで気が付いた。そう、やれる事があった。確かに私には何も出来ない、何も言えない。だが、託す事は出来る。

「シロウ、皆は……元気ですか?」

「皆? ああ、皆嫌になる位元気だぞ。遠坂は相変わらず遠坂だし、藤ねえは言わずもがなだ。イリヤだって同じさ、最近は桜と一緒に俺の世話を焼きたがって困る位だ」

ああ……
安堵で膝が挫けそうになる。希望はあった。シロウは一人ではない。彼女たちが傍に居るならば、シロウは決して……

「シロウ、お願いがあります」

「なんだ? セイバー」

薄暗がりの中から、きらきらと虹色の光が広がる中。私はシロウとの間の半歩を詰めた。もう怖くない。

「彼女たちを大切にしてください。そして信じてください」

「セイバー?」

虹色の光に包まれながら、私は士郎の頬にそっと手を触れた。無理をしないで、自分を大切に、何故なら貴方は……

「とても大切な人だから。覚えていてください。貴方は私にとっても、彼女たちにとっても、とても大切な人。貴方は……貴方が思っているよりも……ずっと大事な人なのです……」




「最後にシロウは頷いてくれたと思います」

「……セイバー」

私はシロウに全てを話した。これは甘えだ。何故なら私は今、私のシロウに……

「俺もね、セイバーに会った」

「え?」

私の驚愕を他所に、シロウはわたしの肩に手を置くと、淡々と“私”との出会いを語り続けた。
霧に包まれた木立での“私”との出会い。“私”が私でないとわかった時の驚愕。“私”がシロウに愛されていたと聞いた時の衝撃。そして、“私”がその時既に全てを終えた存在だと知った時の思い……

「だから、俺は“セイバー”に謝った」

「“私”に? 何故ですか?」

「“俺”はね、“セイバー”の答えを見つけることが出来たらしいんだ。でも俺はまだ見つけていないから。本当にすまない。セイバーは“俺”の為にそこまでしてくれたのに……俺はセイバーにも“セイバー”にも何にも出来なかった」

そのまま私にまで頭を下げるシロウ。暫く私は呆気に取られてしまった。確かにその心遣いはとても嬉しい。ですがシロウ、貴方はそちらに頭が行きますか……

「でも何故か知らないけど“セイバー”は俺に言ってくれた。“有難う、シロウ”って」

本気で判らないのだろう。更にそう付け加えて真剣に首を傾げるシロウ。私は徐々にこみ上げてくる笑いの発作を堪えながら、シロウを見つめる事しか出来なかった。
ああ、やはりシロウはシロウだ。“私”は気づいたのだ。だから私のためにシロウに礼を言ってくれたのだ。なのに、とうのシロウは気づいていない。だめだ……もう我慢できない……

「な! なんだよセイバー。何でいきなり笑うんだよ!」

「いえ……良いのです。シロウはやっぱりシロウなのですね」

私はむくれるシロウを前に思い切り笑い転げてしまった。ああ、“私”も判ったのだ。シロウはシロウだと。だからこそ気が付いたのだろう、私がシロウに愛されている事を。
だから私はひとしきり笑い終えた後、シロウに向かって最高の笑みを浮かべて言う事が出来た。

「有難う、シロウ」

私を、愛してくれて。

END


平行世界での、Britain一行のお話でした。
最初、おおさまのけん で書き始め、魔法関係から あかいあくま でいくかと変更しましたが、やはり最後の締めはセイバーでしたので おうさまのけん として書き上げてみました。
実は若干取りこぼしがあるのですが、どうにも纏め切れませんでした。残念。 

by dain

2005/10/15 初稿

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