「明日プール行くから、用意するように」

遠坂さんはいつも唐突だ。

その日の遠坂は、教会から帰って来てからずっと妙に情緒不安定だった。わたし今機嫌悪いから近づかないで、のオーラを発しながら、買い物帰りのルヴィア嬢をとっ捕まえてそのまま遠坂邸へ行ったかと思ったら、いきなり帰って来てこう切り出してきたのだ。

「どうしたんだ遠坂。お前、今日なんか変だぞ?」

いやに落ち着きが無いというか、苛々していると言うか、別に怒っていると言うわけでは無いようなのだが、どうにも捕えどころが無い。こういう機嫌の時を知らないわけじゃないけど、

「まだのはずだし……」

「士郎……あんた、なんのこと言ってるの?」

思わず漏れてしまった呟きを、遠坂に耳聡く聞き取られてしまった。地獄耳だな。

「いや、別に、危ないのは確かルヴィアさんの……」

「シェロ……貴方は何の事を仰っているのかしら?」

いや、従者としては主の体調管理も……いえ、何でもありません、失言でした。
半眼で睨みつけながら迫ってくる御二方を前に、俺は後退りしながら逃げ道を探した。

「……先輩。どうしてそんなことまで分かるんですか?」

逃げ道は塞がれてしまった。そんな俺の後ろで、顔を伏せ前髪で表情を隠した桜が、影を纏って立っていた。うわぁ、こう、見えないオーラがゆらゆら揺れてますよ。

「士郎は昔っから、そういうとこが目ざといのよねえ」

そんな修羅場を藤ねえが、居間の戸口から顔を出して眺めている。桜ちゃんもわたしもきっちり把握されてたもんねえと、火に油を注いでくださいます。

「……シロウですから」

その藤ねえの顔の上で、セイバーもまたですかとばかりに溜息をついている。

――主よ、その心配り、なかなか見事なものではあるが。

そのセイバーの更に上で、ランスの奴までしたり顔でうんうんと頷いている。口に出してしまうあたりは、まだまだ修行が足りないとかなんとか。
でもな、ランス。俺はそんな修行積みたくないぞ。

「士郎くんですからね、本当にどんどん切嗣さんに似てきますね」

最後のとどめはミーナさん。何故か藤ねえとセイバーまでも、うんうんと頷いている。
……切嗣おやじ、本当にあんた一体どういう魔術師だったんだ?





くろいまゆ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第一話 後編
Beelzebul





「……つまり探索なわけだな」

プールサイドでフルーツドリンクを手に、俺はようやく遠坂から事の経緯を聞きだすことが出来た。なにせ、昨日いっぱいは不用意発言のせいで、衛宮邸の不可触賤民に押し込められていたからな、家主なのに。

「で、士郎。どう? ここは?」

俺の傍らでサマーチェアーに横たわりながら、水着姿の遠坂が鼻先に引っ掛けたサングラス越しに話し掛けてくる。探索ってわりには、えらくくつろいでるな。

「すっかり雰囲気は変わっちまってるけど。確かに歪んでるって言うか、どこかおかしなところはあるな」

雰囲気は確かに一変していた。
ここは冬木セントラルパークホテルのプール。シティホテルだって言うのに、リゾートホテル並みの規模で、泊り客だけで無く外来客にも解放されているが、それでもかなり高級なせいかさほど混んではいない。
夏の太陽を一杯に浴びたこのプールサイド。ここが十二年ほど前にあの黒い泥で穢された場所だとは到底思えないだろう。
この場所で多くの死を眺め、死にかけ、そして命拾いした俺ですら、初めからここと分かっていなければ、気がつかないほどの変容振りだ。

「なんていうか……蓋をして押し込めてる感じだ。表には僅かに滲み出してる程度だけど、逆に奥のほうはかなり煮詰まってるというか、凝縮されてるんじゃないかな?」

ただ、ここでこうして探りを入れてみると、別の面が見えてくる。あの瘴気を払ったわけじゃない。ただ、どこかに押し込めて出られないようにしただけ。そんな感じだ。

「一種の霊的な蟲毒? わたし達で調査に乗り出してよかったわね。かなり危ない状態じゃない、ここ」

施工主についてもちょっと調べないとね、などと呟きながらも、遠坂さんは美味しそうにデコレーションてんこ盛りのフルーツドリンクをすすっている。台詞のわりには暢気なものだ。

「――ん?」

ちょっと美味そうだったので俺にもくれと手を伸ばした時だ、背筋に何かが走った。なにか異様な気配。……いる。なにかが……近くに……
遠坂も同じものを感じたのだろう、手に持ったフルーツドリンクをすすっと下げて、パラソルを下に降ろしている。はい? パラソル?

―― 射!――

「――ぶはぁ!」

いきなりだった。いきなり、プールから一直線に叩きつけられる水の奔流。なんだこれは! 息が出来ないぞ! あ、遠坂汚いぞ! 俺もパラソルの陰に入れろ!

「ふはははははは! 水遁の術なのだ!」

浮き輪に水中眼鏡とシュノーケル、更に手にはバレーボールを二つ重ねたほどのエアーポンプを装着した水鉄砲。そんな愉快な格好で大口開けて笑う三十路手前の女性なんぞ、藤ねえ以外に居るわけが無い。

「何しやがる!、俺はいまプールサイドで溺れかけたぞ!」

「そんな所で年寄りくさく日向ぼっこしてないで、士郎も泳ごうよお」

俺の抗議もなんのその、へらへらと笑いながら、藤ねえは愉快な格好のままプールサイドに顎を乗っけている。
こいつは……、俺はひとつ注意してやろうと、一歩前に出た。

「敵襲! 攻撃開始!」

愉快な姉は、俺の襲撃を察知したか、プールサイドを一蹴りして、そのまま後ろ向きに泳ぎながら水鉄砲を乱射する。
が、俺だって何時までもやられてばかりじゃない。用心の為、後手に持っていたパラソルを広げ、くるくる回しながら尚も前進する。見たか、熾天覆う七つの円環の威力を。

「覚悟しろ藤ねえ!」

「うぉー、じゃんじゃんじゃんじゃん!」

このまま一気に押し込めてやろうかと思った時、藤ねえが実に奇妙な行動に出た。愉快な口銅鑼を叫びながら、合図でも送っているかのように水鉄砲を左右に振っている。

「どわぁ!」

途端、藤ねえがさっきまで居たプールサイド際の水面左右から、何かが飛沫と共に飛び出してきた。そのまま、さっきの藤ねえ並の奔流が、俺を左右から挟撃してくる。

「士郎くん、ひっかかりましたね!」

「ごめんなさい、先輩。でも引っかかった先輩が悪いんですよ」

ミーナさんに桜……畜生! もう怒ったぞ!

「うがぁ!!」

俺はパラソルを投げ捨て、プールに飛び込んだ。そのまま、左右の挟撃を物ともせず藤ねえに向かって一気に泳ぐ。

「手前ぇが首謀者だろう! 覚悟しやがれ!」

「うわぁい! 士郎がお姉ちゃんを……バフッ……」

直前で一声叫ぶと、俺は水面下に潜り込んで、藤ねえを思いっきり水中に引きずりこむ。
後はもう言わずと知れた大騒ぎ。怒声と歓声、嬌声と笑声、水しぶきと泡に包まれ、俺は三人相手に乱闘を繰り広げてしまった。




「士郎、元気あるのねぇ」

疲れ果ててプールサイドまで戻ってきたところで、俺の頭に遠坂がタオルを被せてくれる。

「流石に三人相手はきつかったぞ……」

助けも来なかったしな、と半眼で睨めつけて、俺は遠坂の手を借りてプールサイドに上がった。うわぁ、ちょっと足に来てるぞ。やっぱり水中運動は利くな。俺は溜息つきつつ視線を上げた。
その先には、俺がさっきまで相手をしていた三人。今度は波のプールではしゃいでいる。藤ねえは相変わらずの黒と黄色の縞々ワンピース。ミーナさんは銀と黒のセパレーツで、桜はピンクのビキニか。……桜、お前また胸でかくなったな……

「衛宮君、何処見てるのかなぁ?」

俺の視線を追っていた遠坂が、にっこり綺麗に微笑んでくださる。何処って……遠坂、お前、胸のことに神経過敏すぎるぞ、俺は遠坂の胸だって好きなんだから。

「お気になさらず、私は成長しませんから」

と、思って遠坂の肩に手をかけようとしたら、競泳用プールで延々泳いでいたセイバーが、いつの間にか傍らに立って半眼で俺を見据えていた。セイバー、お前の胸……ごめんなさい。もう言いません。

「ところで遠坂?」

「なに、衛宮君?」

こほんと一つ咳払いをして、俺は話題を変えた。遠坂さんはにっこりと綺麗な笑顔で何を言ってくれるのかなぁ、と腕組みしているが、ここで負けるわけにはいかない。

「こんな風に遊んでて良いのか?」

「それは……私も感じたのですが……」

散々泳ぎ回っていて気が引けるのだろう、セイバーはちょっと及び腰だ。俺も散々遊びまわっちまったが……うん、それはそれこれはこれだ。

「多分大丈夫、今のところ昼間に事件は起こって無いわ」

肩をすくめてさらりと仰る遠坂さん。それでも表情が一つ引き締まった。俺たちは、プールサイドのテーブルに腰を下ろして、意識を広げながら、低い声で話し合う。

「勝負は夜。士郎はホテルの建物全体を探って。わたし達は魔力を手繰るから」

「分かりました。私はシロウと同道しましょう、凛との繋ぎも出来ますし」

「そうだな、それで一回りしてから結果を付き合わせよう」

つまり、俺とセイバーが機動部隊、遠坂とルヴィア嬢が後方支援と言うわけだ。

「後でIDカード渡すわ。神父様に手を回してもらって、従業員スペースにも出入りできるようにしたから」

一つ一つ段取りを確かめながら、俺たちは夜の行動について相談を続ける。

「でもさ、遠坂」

だが、俺としては一つずっと気になっていた事があった。

「藤ねえや桜を連れてきたのは、拙いんじゃないか?」

一つ表情を改めて、俺は遠坂をじっと見据えた。下手をすると、ドンパチさえありかねない場所に、あの二人を連れてくるのは賛成できない。もし、初めから知っていたら断固反対していたろう。

「それについては考えたわ。でも士郎。わたし達だけで、ここへ泊りがけで出かける事、あの二人が納得する説明できる?」

「むっ」

そんな俺に遠坂もきちんと正対して応えてくれた。
確かにプールに来るだけなら、衛宮の家からでも十分通える場所だ。今日のことも泊まりにしたのは、神父さんからチケットを貰ったからと言うことにしてある。
それに、頑なに連れて行かないと言い張っても、理由を明確に出来ない以上、あの行動力に関してだけは、常人の数倍はある藤ねえの事だ、自前で付いて来かねない。桜だってそうだ、桜はあれで妙に頑固なところがあるからなぁ。

「それに行方不明そのものは、冬木の街全体で起こっている。だったら、目の届く所に居てもらった方が安心かなと思ったわけ」

更に、なんなら夜、藤村先生と桜の部屋に結界敷いておく? と聞いて来る。

「そうだな、その方が安心か。それなら俺はランスを預けておこう。あいつを置いておけば多少のことなら大丈夫だし」

ラインが繋がっている使い魔は視覚も通るし魔術も通せる。それになによりランスなら、大抵のことには対処できる。一番心配なのは、あいつを女性だけの部屋に置く事くらいだが、流石に鴉だおかしな間違いは起こらないだろう。

「今日までの調査内容は、まとめて夕方には神父様が届けてくれる手はずになってる。藤村先生と桜が寝静まったら、集まって最終確認しましょう」

「今からでも出来ることはやっておかないか? ミーナさんは……」

向こうで藤ねえや桜と遊んでいる。それも本気で。あの人はいろんな意味で手抜きはしないなぁ。

「そういえば、ルヴィアゼリッタを見かけませんが」

これは俺も気になっていた。ルヴィアさんは遠坂と同じで、遊べる時に小難しい顔をして忙しい振りをする人じゃない。

「あ〜、ルヴィアは今ちょっとプール拙いから」

「なんだ? 体の調子が悪いのか?」

妙に歯切れの悪い遠坂の答に、ちょっと不安になる。夏風邪でも引いたっていうんなら大変だ、これから大仕事になるかもしれないんだし。

「今朝までは……あ」

俺と同じように不審そうにしていたセイバーが、ふっと言葉を切って遠坂の顔を見やる。何か心当たりがあるのだろうか?

「なんだよ、俺にも教えてくれ。ルヴィアさん何か病気なのか?」

遠坂とセイバーに、こんな顔されると益々不安になってくる。そりゃプールに来る位だから、そんなに悪い容態じゃないんだろうけど……

「部屋に居るのか? ちょっと様子見てくる」

「待ちなさい士郎」

と、立ち上がったところで遠坂に止められた。なんか複雑な表情だ。本当に昨日から遠坂は複雑だなぁ。どうしたんだろう。

「本当に、あんた鋭いくせに鈍いのね」

そのままぎろりと睨まれてしまった。なんでさ?

「シロウ、貴方は昨日、皆から非難されたのは何故か覚えていますか?」

更にセイバーの呆れたような声が掛かる。なんでって、それは女性の月の……

「――あ」

俺の頭の中でカレンダーがパタパタと嵌っていく。ああ、そうか確かルヴィア嬢は……

「そういうこと、ついさっきね。だからプールには来てないの」

「あの……その……すまん」

遠坂とセイバーが、なにか虫けらでも見るような目つきで俺を見ている。うう、ごめんなさい。お願いですから不可触賤民は勘弁してください。




「それじゃあ、遠坂さんとセイバーちゃんと士郎の帰国と、ルヴィアさんとミーナちゃんのご来邦を祝して、かんぱーい」

藤ねえの声が円卓の上に明るくこだまする。
今日の夕食は中華。このホテルの最上階にある、冬木の街を一望に出来るレストランでの夕食会だ。

「帰国祝いならもうやったじゃないか」

「えー、お祝いは何回やっても良いんだよ」

「毎日宴会したいのは藤ねえだけだ」

「じゃあ、じゃあ、ええと……そうだ桜ちゃんの快気一周年で」

「ちょっと待て藤ねえ。その快気って何だ?」

俺の突っ込みに、藤ねえが急に妙な事を言い出した。聞き返されて、あからさまにしまったって顔してる辺り実に怪しい。

「桜。貴女、病気したの?」

遠坂も同じく不審そうな顔だ。倫敦に行っていた俺たちはそんな話まったく聞いていなかった。

「うう、ごめん桜ちゃん」

「あ、良いんです。ほら、今はもうこんなに元気ですから」

俺たちの追及に、しょぼんと肩を竦める藤ねえに、既に手元の皿一杯に料理を盛った桜が、よいしょとばかりに力瘤を作りながら応えた。確かに今は元気そうだな。力瘤がって言うより、その皿の盛り方とかが。

「とにかく、藤ねえ。さっさと吐け」

「うう、士郎は冷たいよお。いいんだいいんだ、遠坂さんにだけ話すんだから」

よよよと、あからさまな芝居で遠坂に抱きつく藤ねえ。まったく、もうすぐ三十路なんだから、もうそういう所作は可愛く無いぞ。

「はいはい、藤村先生。女同士の秘密にしますから」

苦笑してあやす遠坂に、藤ねえは膨れっ面で俺を見据えながら事情を話し出した。まあ、遠坂と俺の席は隣。遠坂にだけ話すったって、当然俺にも聞こえてくる。
それによると去年の夏、桜は内臓を悪くして一月ほど入院したという事なのだ。俺と遠坂は入学前の大事な時期、桜は心配をかけたくないと、連絡をしないように藤ねえに頼んだらしい。幸い、命に関わるようなことではなく、夏休みが終わる前に退院し、今では前と変わらぬ元気な桜に戻っていると言う。

「水臭いぞ、桜」

「すみません先輩。本当に大したことじゃなかったんですよ」

それでも心配さえさせて貰えなかったと言うのは、ちょっと寂しいぞ。

「今度何かあったら絶対連絡するんだぞ、良いな」

だから、俺は桜に念押しをしておいた。何も出来ないかもしれないけれど、知らないうちに、桜がどうかなってしまうのだけは絶対に嫌だ。

「……はい、先輩」

肩を窄め、小さくなって俯きながらも、桜はしっかりと応えてくれた。

「あー、なんかいつの間にか士郎も事情を知ってる」

「あんだけ大声でしゃべくりゃ誰にだって聞こえるぞ」

一方こちらは相変わらずの藤ねえ。いいんだいいんだと涙目になって中華をがっついている。まったく、少しは大人になってくれないと弟分としては哀しいぞ。




「サクラ、貴女もお兄様と一緒に教会に通っていらっしゃるのかしら?」

食事もひと段落着いて、俺たちは次々と藤ねえと桜のグラスを満たしていった。酒で酔いつぶそうと言う姑息な作戦なんだが、二人とも結構強い。まあそれでも、そろそろ出来上がってきたかなといった頃、ふと、何か思い付いたようにルヴィア嬢が桜に声をかけた。

「え? わたしは……その余り行ってはいないんです」

「それはいけませんわね。教会での教えは貴女にとって大切なものになるはずです。細目に通う事をお勧めしますわ」

教会って、あの教会だよな。慎二の奴は聖杯戦争後のこともあって、あそこの世話になってたけど、桜が?

「桜の宗派って教会だっけ?」

「あ、ええ。兄が御世話になったときに一緒に」

ああ、成程。あの時は慎二が随分世話になったし、神父さんは宗教者としては言峰とは比べ物にならないほど優しいからな。色々と心細いこともあったろう、桜がそっちに進んだとしても不思議ではない。

「レディルヴィアゼリッタ。宗教の押し付けはいただけませんわ」

と、ここで遠坂がえらく冷たい声で割り込んできた。昨日から時々見せる態度だ。ピリピリした、それでいて何処か脆さを持った微妙な雰囲気。

「あら、ミストオサカ。サクラは既に信徒。わたくしは先達として助言しているのですよ。当然のことですわ」

「それでも、時と場所を選んでいただけないかしら?」

「選んでいますわ。今だから申し上げているのでしてよ」

なんか空気が妙な具合になって来た。今までの遠坂とルヴィア嬢のいがみ合いとは違う、もっと緊張した、凄く剣呑な空気だ。

「凛さん、ルヴィアさん。士郎くんが怖がってますよ〜」

「ひゃう!」
「な、なんですの!」

そんな空気がいきなり引っくり返された。いつの間にか席を立っていたミーナさんが、遠坂とルヴィア嬢に後ろから抱き付いてきたのだ。頬を真っ赤に染め、とろんとした目でにへらと笑うミーナさん。ちょ、ちょっと貴女まで酔っ払ってどうするんです!!

「ミーナ……酔ってますわね?」

「酔ってませんよ」

「嘘言いなさい。真っ赤じゃないの!」

「やだなぁ、赤は凛さんの色ですよ」

けたけたと心地よさげに笑うミーナさん、おーい、帰って来いよ〜。

「凛、ルヴィアゼリッタ。ヴィルヘルミナをお願いします。大河と桜は私と士郎が部屋まで御連れします」

頃合と見たのか、溜息交じりのセイバーが絡み合っている三人に声をかける。

「えー、わたしまだ酔っ払って無いよお」

さっきからすでに手酌状態の虎。ああ、ああ、酔っ払って無いぞ。だからジョッキにスコッチどぼどぼ注ぐのは止めろ。

「とっとと寝ろ。明日から弓道部の合宿だろ? 二日酔いの引率者なんぞ洒落にならないぞ。セイバー、藤ねえ頼む。俺は桜を連れてくから」

まあ、藤ねえはいくら飲んでも朝にはけろりとしているから大丈夫とは思うが、この夏の合宿はいつもの柳洞寺でなく、電車で小一時間ほど行った所にある別の山で行うという。久々に帰ってきた保護者おとうとぶんとしては、遅刻させるわけにも行かない。

「うー、折角士郎が帰ってきたのに、明日からちょっとお別れだよー、お姉ちゃん寂しいよー」

未亡人の馬鹿やろーと叫びながら、セイバーの胸に泣きつく虎。なんでも柳洞寺で毒蜘蛛が出たと言うことなのだ。一昔前に話題になった何とかゴケグモという奴らしい。きちんと治療をすれば命に別状は無いとは言え、学生相手では大事を取るのは当然だろう。

「あの、でも先輩。遠坂先輩たちわたしのせいで……」

一方こちらは、ほんのり桜色に染まった桜は、小さく肩を窄めて、絡み合う時計塔三巨魁を心配げに眺めている。

「気にするな。遠坂とルヴィアさんのあれはグルーミングみたいなもんだ」

「人をサルにするんじゃない!」
「冗談じゃ有りませんわ! 誰がリンと」
「凛さんはチンパンさんですか? じゃルヴィアさんは金糸猴ですねぇ孫悟空ですよ」

ミーナさん、もうわけが分からなくなってきてる。

「まあ、見ての通りだ。行くぞ桜」

「……あ、はい。きゃ……」

と、立ち上がりかけた桜がよろけた。顔には余り出ていないが相当酔っているのかもしれない。俺はとっさに桜を支えた。

「大丈夫か? 桜」

「だ、大丈夫です、先輩。一人で歩いて行けます」

そう言いながらもやっぱり桜の足元は怪しい。仕方が無いな、俺は思い切って桜を抱き上げた。

…………

「……な、なにさ?」

途端、一同に沈黙が走った。

「……先輩……」

「なにさって……ああ、もう。とっとと桜を部屋まで連れていきなさい」

「大河、私達も」

「あ、うん。士郎大人になったんだねえ」

「……なにか一気に覚めましたわ……」

「やっぱり切嗣さんの息子さんなんですね」

三々五々に散々な事を言われながら。俺は桜を部屋まで運んで行った。なんだよ、いったい。




「大河と桜は寝かしつけました」

「ランスを置いてきたぞ。結界のほうを頼む」

桜と藤ねえを部屋に運び、俺とセイバーは遠坂たちの部屋で合流した。予定ではここで作戦会議をして、ホテルの巡回に向かう手はずになっている。

「あ、士郎くんご苦労様です」

俺たちを迎えてくれたのは、部屋の中央で椅子に腰掛けたミーナさん。すっかり酒気は抜けているようなんだが、なんで魔法陣の中央なんかに腰掛けてるんだ?

「どうしたんだ?」

「どうしたもないわ、こいつの酒気抜き」

「先ほどの酔いは、自分の中の水気を一気に抜いてアルコール濃度を高めてたんですの。そんな事をされてはアメジストよいざまし程度ではどうにもなりませんわ」

俺の問いに、魔法陣の両脇に陣取っていた遠坂とルヴィア嬢が、憮然とした表情で応えてくれた。って、それって凄く危ないことじゃ無いのか?

「なんでそんな……あ」

そこまで考えて気がついた、そうかミーナさんわざと……

「凛、ルヴィアゼリッタ。私も先ほどの喧嘩はいただけないと感じました」

セイバーも事情を察したのだろう。無茶な施術をしたミーナさんにでなく、些か恥ずかしげに顔を背けあっている遠坂とルヴィア嬢に厳しい表情を向けている。

「別に喧嘩したわけじゃないわ」

「ええ、見解の相違ですわ。もう大丈夫」

「うん、ひと段落着いてから、落ち着いて話し合うことにしたから」

御互い漸く顔をあわせて頷きあう二人。そういうことならもう大丈夫だろう。感情的な事を、何時までも引きずる二人じゃないと思うし。

それではと、簡単な打ち合わせを終え。俺たちは行動に出た。
まずは桜と藤ねえの部屋を結界で括り、それから俺とセイバーはホテルの建物を巡回、遠坂たちは部屋で魔法陣を組み、遠視と透視を駆使しての魔力の解析だ。

「どうですか、シロウ?」

「あ、うん。いや、上は関係ないな。ちょっと淀んでるけど」

ひと当たり見回って俺は首を傾げてしまった。空気は確かに多少淀んで瘴気らしきものが見られるものの、建物自体にさほどの歪みは感じられなかった。

「ではやはり地下?」

「そっちなんだが出入り口が見当たらないんだ。下に何かあるにしても、この建物からは繋がっていない」

何とも妙な感触だ。まるでこの建物自体は空っぽの結界のような感じなのだ。

「シロウ、凛から部屋に来るようにと」

そんな時、ふっと視線を泳がせたセイバーが頷くように俺に告げた。何か分かったのかな?




「漬物石よ」

「はい?」

遠坂さんはいつも唐突だ。主語と述語を入れて欲しいぞ。

「この建物自体のことですわ。何かを押え付ける為の重石。シェロが言うようにこの建物自体は特に何をするわけでもありませんの」

遠坂たちの探査の結果はそういう事らしい。この建物自体を結界で一つに取り纏め、中に生きている人間の精神全てを集約して重石にする。精神を歪めたり変えたりするので無く単に総量を集計するだけなので、気づかれること無く、ごく簡単にできると言う。尤も、だからどうしたって類の術なので、本来なら余り意味の無い物だ。

「霊脈の真上ですからね。問題はその押え付けているもの、つまり漬物の方ですね」

ミーナさんが、そこから類推すべき道筋について説明してくれた。漬物なら漬物を取り出すのに重石をどければ良いが、建物自体が重石では、そういうわけにもいかない。だから漬物を取り出したり、入れたりする場所があるはずだという。

「士郎、心当たり無い?」

てことで構造解析な俺の出番と言うことなんだが。

「いや、建物にはそんな所無かったぞ。どんな所を探してるんだ?」

「これだけの重石ですからね」

「かなり広いスペースが必要ですわね」

「完全に別じゃ意味無いわ、何らかの繋がりがあるところ」

「結界も必要ですね、何処かそれをしつらえられるだけの設備が……」

次々と思いつくままに出てくる必要条件。なんかえらく限定されてないか?

「そんな都合の良い場所なんて……あ」

「……プール……ですか」

思い付いた。このホテルの敷地内にあり、建物と連動しながらも独立した設備を持っているかなり広いスペース。確かに、このホテルのプールになら当てはまる。

「でも、昼間はそんな気配感じなかったぞ?」

「時限式かもしれない、行ってみましょう」

俺たちは装備を引っつかみ、ホテルのプールへ急いだ。
夜の間は使用されていないという事で、薄っすらとした街灯程度の明かりしか点いていない人気の無い一群のプール。一見何の変化も無いように見える。
ただ照明のせいか、水面は昼の明るさとは裏腹にタールでも流したようにじっとりと重々しく揺れていた。

「……尋常じゃないわね」

「“蓋”があいていますわよ、これは……」

だが俺たちの目には、もはやプールに湛えられているのは水でさえなかった。黒々と横たわる怨念の影。普通の人が今このプールに飛び込めば、そのまま溺れ死んでしまいかねないほどの濃度だ。

「士郎?」

「機械室の隣にある競泳用のプールだ」

今も滾々と湧き出す瘴気の源、饐えた甘さが流れてくるのはその方向だ。

「急ぎましょう」

道なりに進むのは面倒と、俺たちは生垣やフェンスをショートカットする。これを抜ければ競泳用のプールだという立ち木の生垣を潜り抜けようとして……

「ぶわぁ!」
「きゃ!」

蜘蛛の巣の塊に頭から突っ込んでしまった。

「なによこれ?」

「口に入っちゃいました……」

「うわぁ全然取れないぞ、沸いてくるみたいだ」

「……ちょっとお待ちになって……」

漸く木立を潜り抜け、頭に被さった蜘蛛の巣を取り除いているところで、ルヴィア嬢がぎょっとした声を上げる。

「……太すぎますわ」

そういえば、こいつ木綿糸くらいあるぞ……うわぁ、また掛かってきた。へ? また?

「シロウ!」

いきなりセイバーの白刃が、俺の頭の真上を一閃した。う、髪の先持ってかれた。

「お「避けなさい!」!」

続いて真正面から、遠坂とルヴィア嬢の複合ガンド。どわぁ!
俺は慌てて前転し、そのまま仰向けに寝転んだ。

―― 紗! ――

間近で何かを擦るような叫び。仰向けになって見上げるその視線の先、ぽたりと落ちる白濁した蜜。そして、その落ちてきた元は……

「げっ……蜘蛛?」

人の頭ほどの大きさのぶよぶよと歪んだ蜘蛛の頭。
と、それに続く子牛位ある腹から、先ほどまでとは比べ物にならないほど太い糸が吐き出されてくる。

「どわ!」
「士郎くん!」

姿勢が悪い、この姿勢じゃ横に転がるのが精一杯。駄目だ、間に合わない。

―― 銀!――

が、何とか間に合った。横に転がり一回転する瞬間、畳んだ手足を一気に伸ばして跳び退る。
一息つく間もなく、目の前には重たげにぽとりと落ちる糸の先。そこには一塊の銀糸が絡み付いていた。ミーナさんの髪だ。さっきの声の時に飛ばしてくれたのだ。これがなければ間に合わなかったろう。

「――投影開始トレース・オン

が、感慨にふけっている暇は無い。俺はすぐさま足場を固め、両手に干将・莫耶を投影する。

「凛、ルヴィアゼリッタ。これは!?」

その俺の一歩斜め前、同じように蜘蛛に対峙するセイバー。視線を外さず遠坂たちに、この蜘蛛についての情報を求める。

土蜘蛛アラクネ……の一種だと思う、糸と牙だけに注意していれば、そう厄介な相手じゃないはず」

「ちょっと属性に混乱が見られますけど。大丈夫、セイバーの敵ではありませんわ」

即座に遠坂とルヴィア嬢の応えが返ってきた。とっさのガンドで時間を稼ぎ、今は本格的な呪の用意と、宝石袋を取り出している。

「では、一気に行きます」

二人の声を確認し、剣の柄を握りなおしたセイバーは、それこそ目にも留まらぬ速度で踏み込むと、そのまま、蜘蛛を真っ二つに切り裂いた。

―― 摺 ――

「――え?」

確かに、確かにセイバーの剣は蜘蛛を真っ二つにしたはず。俺の目にもそう見えた。
ただし、それはまるで水を切ったような手応えの無さでもあった。

―― 愚沙 ――

本当に水を切ったようなものだったのだろう、余りの手応えの無さに一瞬バランスを崩して、踏鞴たたらを踏んでしまったセイバー。その上で、蜘蛛はまるで水風船のように弾けた。

「――くぅ!」

「セイバー!」

避けきれない。セイバーは一瞬蜘蛛の泥に包みこまれる。

「へ?――はうっ!」

ほぼ同時に宝石を用意していた遠坂が、セイバーに引き摺られる様に膝を折る。何事だ!?

「――風王結界インヴィジブル・エア――展開!――」

と、セイバーを包んでいた泥が再び弾けた。そのまま一気に俺の隣まで跳び退ったセイバーは、遠坂同様ここで膝をついた。

「―――― Ich heisse LEGION我が名は レギオン.……」

そうこうしている間に、飛び散った泥は小さな蜘蛛の形をとりながら、再び集まろうとする。それに、素早く切り取られたミーナさんの髪が、そうはさせじと針のように襲いかかっていく。

「準備不足です。足りません」

ミーナさんの悔しそうな声、それでも多少は潰せたろうか、集まった蜘蛛は先ほどより一回りほど小さくなった大蜘蛛に姿を変え、そのまま競泳用のプールに跳び込んで行った。

「セイバー、大丈夫か?」

「……はい、魔力を多少抜かれてしまいましたが……」

俺は肩で息をするセイバーに駆け寄った。かなり苦しいのだろう、既に武装は解除している。

「排水溝です。そこから先は追えませんでした」

とっさに後を追いかけたミーナさんが、口惜しそうに戻ってきた。俺はセイバーに肩を貸し、ミーナさんと一緒に倒れた遠坂たちと合流した。

「遠坂!」

「……ああ、士郎。……大丈夫、ちょっと魔力抜かれただけだから」

主従共に簡単に言ってくれるよ、まったく。

「ルヴィア、まずセイバーの方よろしく」

「分かりましたわ。セイバー、いらっしゃい」

遠坂の言葉に、ルヴィア嬢は唇に軽く歯を立ながら頷くと、俺の肩からセイバーを抱き取った。

「士郎くん、ちょっとあっち向いてましょうね」

いや、俺もこれを見るのは初めてってわけじゃ……はい、向こう向いてます。

「本当に大丈夫か? 遠坂」

些か顔が赤いが、何とか持ち直したセイバーを含め。俺たちは、呼吸を整えながら腰を降ろした遠坂の周りに集まった。

「うん、もう大丈夫。いきなりだったんでちょっと身体がびっくりしただけだから」

「それで、リン。貴女の見立ては?」

ルヴィア嬢の問いに、遠坂は一つ頷くと話をはじめた。
魔力を抜き取られる際に、そのラインを逆手にとって向こうの中に潜り込んだと言う。どうも一種の使い魔らしかったのだが、そっちのラインは辿り損ねたと、些か悔しげだ。

土蜘蛛アラクネね。ただし腐った水で無理やり水属に変換されてた。半ば狂ってたわよあいつ」

土蜘蛛アラクネという魔獣はその名前の通り、土属性の存在だ。機織娘が女神の嫉妬で形を代えられたという伝承を持つ存在で、本来はその姿かたちとは裏腹にさほど凶暴な存在ではない。土地によっては母性の神格さえ持っているほどだ。それに……

「セイバーや遠坂が魔力抜かれたってのは? そんな話聞いたことがないぞ」

遠坂の背中を撫でながら聞いてみる。まったく、こんな小っちゃい背中で良くそんなことまで出来たもんだ。

「うん、士郎は聖杯の泥を覚えてる?」

「ああ……あれなのか!?」

「まんまじゃないわ。もしあれだったら今頃セイバー溶かされちゃってる。でも原理は同じね、エーテルに瘴気を思いっきり詰め込んで水に溶かし込んだようなものだった。セイバーの身体ってエーテルの顕現化じゃない。抵抗力が低いのよ」

でも、今回みたいな不意打ちじゃない限りどうにでもできるわね、とセイバーに微笑みかける。

「勿論です。このような不覚、二度はありません」

「おっけー、じゃ片をつけましょう。士郎、どっかその辺に地下に入れる出入り口があるはず、そこを探して。セイバーはとどめの役目ね、わたし達は施術の準備するから」

さて、とっとと片付けますかと立ち上がる遠坂。ミーナさんとルヴィア嬢もうんと一つ頷くと、宝石や魔具の用意を始めた。

「探すのは良いけど、とどめって? セイバーの剣だと、あいつまた泥になっちまうんじゃないか?」

とはいえ、俺にはさっぱり分からない。正体が分かった以上倒せるとは思うけど。かなり厄介な相手じゃないのか?

「ああ、それね」

ここで遠坂は思いっきり綺麗な笑みを浮かべた。底意地の悪い会心の笑みだ。

「士郎、泥ってのはね、水を抜くとただの土塊になるのよ」




「足元に気をつけてくれよ」

ぽたぽたと嫌な匂いがする水の滴る下水を、俺は先頭に立って進んだ。
あの後、調べてみるとプールの機械室には通常より大き目のマンホールがあった。そこから下水に降り、ホテルの下へ繋がる下水道沿いに蜘蛛の住処を探索しているのだ。

「……ひどい匂いですわ」

「この服もう駄目ね。洗ってどうなる匂いじゃないわ」

文句の多い御二人に比べてミーナさんは結構平気そうだ。聞いてみると慣れてますから、と言う事だ。一体どんなことしてるんですか? シュトラウスって。

「シロウ……」

「ああ、ここだ」

俺の構造解析も必要じゃなかった。目の前に崩れた下水の壁、その奥からは下水の匂いさえ甘く香るほどの異臭が漏れ出している。

「はい、これが士郎くんの分です」

息を殺しながら最後の準備をしていると、ミーナさんが俺に結界の基点を呪刻した石を渡してくれた。
段取りは単純。セイバーが蜘蛛を押さえている間に、俺とミーナさんが蜘蛛の周りに結界を敷く石を配置し、遠坂とルヴィア嬢が呪を発動、最後にセイバーが止めを刺す。
これで、あの蜘蛛は倒せるはずだ。遠坂としては出来得るならばあいつの主を探りたいと言っていたが、そこまで出来るかどうかは運次第だろう。

「用意は良いわね?」

小さい声で遠坂が呟く。そっと覗く巣穴の中央あたりに濁った赤い光点が数個、更になにかぺちゃぺちゃと嘗めるようなまさぐるような音が低く陰鬱に響いている。

「では……行きます!」

中央にセイバー、左右に俺とミーナさん、揃って一気に突っ込む。
同時にめくらましをかねた光弾が、遠坂とルヴィア嬢の手から放たれた。

―― 射! ――

土蜘蛛アラクネが悲鳴のような叫びを上げる中、一気に間合いを詰めるセイバーと、次々に石を配置するミーナさん。が、俺は一瞬、立ちすくんでしまった。
まるで教会の玄室のような巣穴。床一面はくるぶしまで埋まりそうな腐った水と泥、そして両壁に並んでいるのは、繭?
が、ただの繭でない。人ほどの大きさの繭、半ば透け、その中で蠢いているのは……人。
やせ衰え、幽鬼のようになった女性が、何を求めるでも無く蠢き、悶え、声にならない叫びを上げていた。
もし、その顔に浮かぶのが苦悶の表情なら、俺はそこまでショックは受けなかったろう。だが、そこに浮かんでいたのは歓喜。蠢き呻きながら、その女性達は悦楽に身悶え、淫靡なほどに歓喜に打ち震えていた。

「士郎!」

遠坂の声で我に返る。セイバーは、蜘蛛の本体に触れられぬよう、素早く身を翻しながら剣の平で必死に蜘蛛を抑えている。ミーナさんも着実に石を置いていく。まずい、遠坂たちも詠唱を始めている。

俺は出来る限り壁を視界に入れないように石を配置していく。すまない、すぐ、すぐ助け出すから!

「――――heisen Sonnenbrand焔に焼かれ――Hebt jetzt ein groses Jagen an大いなる狩り  始まらん

「――――Transfoment l'eau.水は 姿を変え――Morte est la Seine河は 死に絶えん――」


呪が成った。俺たちは素早く陣の外に出る。次々に発光し光の線を結び陣を築く石達。続いて立ち上る七つの光束。纏まり、絡み、まるで蛇の頭のように、土蜘蛛アラクネに纏わりつく。

―― 沙! ――

土蜘蛛アラクネが身悶える。貫き絡まる光線は土蜘蛛アラクネの身体に当たる都度、蒸気を発し水気を大気に変換する。土蜘蛛アラクネから見る見るうちに水気が失せ、歪んだ皮膚に亀裂が走る。

水属分離ヒュドラゲン・デストロイヤー

存在の構成元素から、水属を無理やり引き剥がす呪式。本来、こんな呪式で魔力の篭った魔獣をしとめることなどは出来ない。せいぜい……そう、夕食の時のミーナさんのように水分を飛ばして、アルコール濃度を高めるくらいが精一杯だ。
しかし、この土蜘蛛アラクネは違う。もともとは土属性の存在を無理やり歪めて水属性にしたもの、端から不自然な繋がりである上に触媒たる構成物質も、先ほどミーナさんが手に入れていた。きちんと準備さえしておけば、その不安定な結合を砕くことは可能なのだ。

―― 蒸 ――

呪式が完成した。結界内の水気は全て大気に還元され、蒸気となって霧散する。残されたのは子犬大の干からびた蜘蛛と、同じく干からびた腐った泥。

―― 哀! ――

止め、とセイバーが剣を振り上げた時、干乾びた蜘蛛が泣いた。鳴いたのではない泣いたのだ。

「……!」

地を覆っていたのは腐った泥ではなかった。乾いた泥から現れたのは、割れ、砕かれ、潰された無数の卵。生み出されながら孵ることなく、地に叩きつけられた蜘蛛の子供達。
その子供達をかき抱き、干乾びた蜘蛛が干乾びた涙を流して泣いていた。ちょっと待て、それじゃ……
俺は素早く両壁の繭に視線を走らせた。繭の隙間から、何か蠢くものが潮を引くように闇の中に沈んでいく。それにつれ表情が消えていく女性達。俺はもう一度、蜘蛛に目をやった。ああ、つまりこいつも……

「セイバー!」

「……はい」

遠坂の声で。振り上げられ、一瞬止まっていた剣が振り下ろされた。蜘蛛は砕かれ、その子供達と共に崩れ土に還って行った。

「遠坂!」

分かる、分かっている。でもこれは余りに哀しすぎる。

「士郎、文句は後。今は生きている人間の事を考えなさい。まだ、助かるかもしれないんだから」

厳しい顔のまま遠坂は、壁際の繭に鋭い視線を走らせる。

「……なんとか、なるかもしれません。かなり衰弱してますけど、生きては居ますから」

素早く繭を切り開いたミーナさんが、中の女性の脈を取りながら俺たちに告げる。

「神父様に連絡を取りましょう。わたくし達だけで運び出すのは無理ですわ」

「ああ……」

俺は土塊に還った蜘蛛の親子を眺めながら応えた。
遠坂はこいつが、誰かの使い魔だって言っていた。たとえ使い魔だといっても、無理やり歪め、騙し、利用し、打ち捨てる。それは到底許せることじゃない。何処かで、ここに有る全てのものを嘲う声が聞こえてくるようだ。
それが誰かは分からない、何処に居るかも分からない。だが俺は心に決めた。

「俺はお前を許さない……」




虫が蠢いている。
暗い、湿った、爛れた部屋で、蛞蝓なめくじのような、蛭のような虫が蠢いている

唯の虫ではない。これは魔物、人の精を、血を、髄を喰らう蟲。
“淫虫”、それがこの蛭の名だ。

一度、これにたかられたなら、男は髄と脳を喰い尽くされ。女は形を変え神経に同化され、隅々にまで触手を張り巡らされて、その精を貪りつくされる。

淫虫は女の肉は喰わない。ただ、だらだらと漏らす粘液で女の肌を犯し、精神を弄び、肉では無く悦楽を、絶頂を喰らう。
更に淫虫は、どんな理由があるのか、女の身体で唯一箇所だけ好む臓器がある。
子宮、子を育てる揺籠。そこだけは、胎だけは喰らおうとする。

肌を犯し、理性を快楽で堕としながら、淫虫は女の胎へと潜り込み、そこだけを喰らう。女の肉を喰らわぬ淫虫の通り道は一つ。
女の心と身体、その双方を犯しつつ、喰らい壊す。それ故にこの蟲は淫虫と称されるのだろう。

「……ふむ……」

その蟲の真っ只中。群がり集い、蠢き貪る淫虫の群の中央で、ぐしゃぐしゃと音を立て蠢く肉塊が口の端を歪めた。

「あやつの策。どうにも救いのないほど愚かしいと思っておったが……」

腐敗の塊が、淫虫に集られながらも、徐々に形を成しながら蠢き身震いする。

「思いのほか面白い素材であったわ。ふむ、成程、これならば時を潰す座興に相応しかろう」

霊脈を一つ捨てたのは惜しいが、と腐臭の漂う笑い声を上げ、肉魁は楽しげに震える。その笑いに誘われるように蟲が更に集る。ぐじゅぐじゅと音を立て、まるで蜜に集まる蟻の様に肉魁に集り、喰らいつく。この肉塊がどのような存在であれ、これだけの淫蟲に集られては、そう長く……

いや、違う。

じくじくと蟲が集る都度に肉魁は力に満ちていく。喰われているのではない。喰っているのだ。
噛みつかれ、潜り込まれながらも肉魁は蟲を喰らい、消化し、肉魁に変えていく。
ついには部屋中の蟲が喰い尽くされ、音を立てるものは、この腐った肉塊一つとなった。

「やれやれ、不肖よのぉ。些か足りぬが。まあ良い。上手く行けば次までは持とう」

上手く行かずとも、持たす術もある。それまでには少しばかり準備も要るか、やれやれ年寄りに苦労をかけさせる。
腐肉が嘲った。
腐りながら、膨れながら、喰らわれながら、喰らいながら。腐肉は、くつくつとまるで人のように嘲っていた。

to be Continued


取敢えずは一本目。はじまりなお話です。
はい、蟲爺、生きてました。説明だけでくたばる爺さんではありません。闇の中で暗く腐りながら生きてます。
色々と趣向を凝らした発端。これが如何動いていきますか……
それでは、次回をお楽しみに。


By dain

2004/9/1初稿
2005/11/12改稿


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