「――桜」

ノックもされず扉が開いた。

「……兄さん」

この瞬間、わたしはつかの間の安らぎが終わった事を知った。
泡沫の夢。先輩が帰国した時から、ただいまこの瞬間までの僅かな時間。それだけが、わたしに与えられていた最後の執行猶予だった。

じじいが動き出す。始めるぞ」

兄は口の端を醜く歪め、嘲りの篭った声で吐き捨てるように言う。聖杯戦争の後、魔術師となりマキリの真実を探り出した時から、兄はお爺さまへの侮蔑をわたしの前では隠さなくなった。
ただ、恐れてはいる。額に浮かぶ玉のような汗、かすかに震える指の先。暴力的なまでにわたしの身体を睨めまわす視線。それは、この芯は気弱な兄の怯えた時の表情なのだ。

「兄さん……止めましょう」

わたしはそんな兄に向かって、縋るような声で呟いていた。
今ならまだ間に合う、引き返せる。わたしが、わたしさえずっと我慢していれば、もう暫くは今の平穏な生活を続けることが出来る。今のままが続いたとしても、結局、最後には破局しか待っていないのかもしれない。でも、それでも……
わたしは兄に殴られるのを覚悟の上で、もう一度だけ口にしてしまった。“止めましょう、兄さん……”

「……桜」

けれど、拳は飛んでこなかった。代わりに兄の右掌が、そっとわたしの頬を撫でる。

「お前の為なんだ。僕はお前を救いたいんだぞ」

優しい声、だが嘘だ。
兄は自分自身のことしか見ていない。それはこの十数年で痛いほど分かっていた。
わたしのことなど、この兄は欠片も考えていない。ただ必要なだけだ。わたしという器が、わたしと言う力が。だが、それでも……
わたしはもう一度縋るような視線で兄を見詰めた。
それでも、この兄だけなのだ。薄汚れ穢され、何の価値もないわたしを求めてくれるのは、縋ってくれるのは、触れてくれるのは。
姉さんは助けてくれなかった。先輩でさえ、真実を知れば今までとは違った視線を向けてくるだろう。それに、先輩はもう……

「わかりました……兄さん」

わたしの言葉に、兄さんは優しく微笑み返してくれた。これは偽りの笑み、自分自身の為の笑み。だが、そんな偽りの笑みさえも、わたしには手放せなかった。
偽りでも、それはわたしに向けられたもの。それだけが、たった一つ残された、わたしだけのものなのだから。





くろいまゆ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第二話 前編
Beelzebul





「わーん、遅刻しちゃうよ。電車出ちゃうよ」

「うるさい黙れ。桜に起こされたくせに遅刻した藤ねえが悪い」

まだ朝も早いホテルのロビーを、俺は荷物を担いで全速力で駆け抜けた。
一歩前で、泣きながら走るのは虎。案の定、二日酔いの欠片も見せていない藤ねえは、今日から弓道部の合宿だというのに、御約束どおり寝過ごしたのだ。しかも二度寝で。

「うう、余裕もって二時間前に起こしてもらったのにい」

「だからだ馬鹿。藤ねえがそんな余裕持ったら、二度寝しちまうのは目に見えてるだろう。いつもどおりギリギリに起こしてもらえば良かったんだ」

「シロウ、急いでください。後十分です」

見事なタイミングで、セイバーがホテルの正面に車を滑り込ませる。俺は、藤ねえと荷物を一纏めにして、後部座席に叩き込んだ。

「セイバー、頼む」

ドアを閉める間ももどかしく、俺はセイバーに声をかける。
セイバーはこくんと一つ頷くと、そのまま勇ましいホイルスピンの音を響かせ、駅に向かって一気に車をダッシュさせた。

「御土産買って来るねー。お姉ちゃんが帰ってくるまで帰っちゃやだよー」

「そんなに早く帰るか! 生徒に迷惑かけるんじゃないぞ!」

猛スピードで去り行く車から、ドップラー効果に負けじと叫ぶ藤ねえの声。それに俺も大声で怒鳴り返す。まったく、スケールが多少でかくなったが、昔とちっとも変わりゃしない。

「藤村先生……って、もう行っちゃったんだ」

大きく溜息をついた俺の隣に、藤ねえのチェックアウトを代行していた遠坂が、呆れた顔でやってきた。

「運転がセイバーだからな、もう見えないぞ」

「みたいね、大丈夫かな?」

あっという間に見えなくなった車を見送りながら、遠坂は苦笑交じりに小首を傾けた。

「おう、藤ねえは丈夫だぞ。セイバーの運転位じゃへこたれない」

「そういう意味じゃないんだけど。ま、セイバーなら大丈夫か」

間に合うのかなってこと、と苦笑を大きくしながら遠坂が応える。ああ、そっちの意味か。ま、そっちも何とかなるだろう。セイバーの運転はレーサー並みだからな、普通なら二十分は掛かるここから駅まででも、ものの五分と掛から無いだろう。同乗者の身体が持てばの話だけど。

「一週間だっけ?」

「ああ、ちょっと寂しいけど、こういう時だ。却って好都合だったかもな」

一瞬、昨日の繭が心に浮かぶ。あの中の一人が藤ねえだったら、背筋に悪寒が走る。

「その事だけど、命に別状はなかったって」

ロビーへと戻りながら、遠坂が声を低くして報告してくれた。
あの後、俺たちは神父さんに連絡して事後処理をお願いしておいた。繭の中の女性達は、秘密裏に病院に担ぎ込まれ丁寧な治療を受けたと言う。

「そいつは良かった」

ただ、遠坂も病状を詳しくは言わない。あれほどの衰弱とあの表情。命は助かったといっても、それがそのまま全員、前の通りとは行かないだろう。
分かっていた。命が助かっただけで僥倖だ、それ以上は望むべくも無いと分かっていた。だが、もう少し早かったら、もう少し何とかなったんじゃないか。そう思うと心が暗くなる。

「士郎、考えすぎない。わたし達はやれる事をやったんだから」

「分かってる」

そんな俺の表情を目ざとく見つけたのだろうか、遠坂がすっと身を寄せてきた。冷たい口調ではあるが、その気使いは有難い。

「すまん、俺、今甘えてる」

だから、素直に遠坂の体温に身をゆだねた。俺は弱くなっちまったのかもしれない。

「良いわよ、このくらい」

そんな俺に遠坂は、ちゃんと前に進まなきゃいけなくなったら、思いっきり蹴り飛ばしてあげるから、と物騒な笑顔を向けてくれる。

「取敢えず朝ご飯。士郎まだでしょ?」

そういや、藤ねえの仕度に追われてまだだったな。それじゃあ行こうかと伸ばした手は、そのままするりと空をきった。既に一歩前に出ていた遠坂が、何やってんのよ、と訝しげに眉を顰める。はは、大したことじゃないぞ。
俺は慌てて遠坂の後に続いていく。いつも一歩先んじられるな。でも覚えてろよ、いずれは、俺がお前を引っ張っていけるようになって見せるからな。




「どうした遠坂、飯食いに行くんじゃないのか?」

藤村先生を見送って、士郎と一緒に朝食をとロビーに入ったところで、わたしはふと気になるものを見つけて足を止めた。

「士郎、ちょっとごめん。先行ってて」

ロビーの外れにある喫茶室。差し向かいでルヴィアと桜が話し込んでいる。いや、ちょっと違うか、ルヴィアが一方的に話してる感じ。
まあ、それだけなら気にしない。問題はその二人の周りにあるうっすらとした魔力の流れ。さほど距離は離れていないせいか、話している声は聞こえているのだが、何を話しているかはさっぱり分からない。つまり何らかの結界で括っての話し合い。となると話は別だ。

「ああ、ルヴィアさんと桜か。分かった、席取っとくぞ」

わたしの視線を追った士郎は、軽く首を傾げたものの、一つ頷くと手を振って食堂へ向かって行った。まったく、こいつがどれだけ鋭いか、あんただって知ってるでしょ?
少しだけルヴィアに腹を立て、わたしは喫茶室に向かって歩みを進めた。

「倫敦にいらっしゃい、桜。向こうでの事は、わたくしに任せて頂いて宜しいですから」

「あの……ルヴィアさん。それって……」

「ええ、一年もすれば、時計塔がくいんへ行けるようにして差し上げますわ、大丈夫、貴女なら出来ましてよ?」

「でも……」

「でもじゃありませんの。宜しくて? “虚数” 架空元素でしたわね、シェロの“剣”ほど特殊でも、わたくしやリンの“五大元素”ほど特別でもありませんけれど、それでも特異な才に違いはありませんわ。正直、惜しいんですの」

人払いの効果も併せ持った、薄い障壁を通り抜けた途端、二人の会話が意味を持ってわたしの耳に聞こえるようになった。
こいつは……桜に一体なに勧めてんのよ!

「レディルヴィアゼリッタ、わたしの後輩に、何を吹き込んでいらっしゃるのかしら?」

どんどん小さくなって俯く桜とは対照的に、ルヴィアは胸を張り腕組みして、にこやかに微笑みながら怪しい勧誘をしている。わたしはそんなルヴィアを一睨みしながら、冷然と声をかけた。

「あら、ミストオサカ。大した事をしているわけではありませんわ。先達として当然の事をしているだけ。稀有の才を持った後進を導くのは、得意な技術者の責任ではなくて?」

そんなわたしに、ルヴィアのやつは、貴女今まで何をなさっていたの、とばかりに真っ向から視線をぶつけてくる。これは腰をすえて話し合わなきゃならないようだ。桜の前で魔術の話はしたくなかったが、こうなっては仕方がない。
わたしは腹を決めて桜の隣にどっかと腰を下ろした。

「貴女だって知ってるでしょ? 魔術師は相互不干渉。いくら管理者だからって他家の魔術師に干渉なんか出来ないって」

「存じていますわ。ですけれども、己に足りない部分を他で補うのもまた魔術師。前に進む為の手段は何物にも優先しますのよ」

魔術師の独立性を言えば、目的達成の手段に何をこだわると切り返してくる。建前は相互不干渉だが、本音は自分の為ならタブーなど無いと言い切りやがったわけだ。
桜の属性はわたし達の盲点、だったら唾くらい付けておけって言いたいのだろう。

「なによ、魔術師の規範を無視しろっていうわけ?」

が、これはそんな簡単な問題じゃない。二百年来の遠坂と間桐の関係に根ざしたことなのだ。とはいえ、そんな事をルヴィアに言っても始まらない。わたしは、あくまで一般論で論旨を進めることにした。

「相互不干渉は規範ではなく慣習ですわ。それより優先するものは、いくらでもあるのではなくて?」

片眉を上げ、複雑な思惑を乗せた視線でルヴィアが切り返して来た。くそ、ここでようやくわたしはルヴィアの真意に気がついた。つまり、今になって気にするぐらいなら、どうしてこれまで妹を放って置いたんだと言っているのだ。痛いところをついてくる。

「必要ないものを手に入れる為に、犯せるリスクじゃないわ」

だが、わたしはあえて冷たく言い切った。一瞬、俯いた桜がびくっと震える。本当はこんな事を言いたかったわけじゃない。
でも、それでもこれは本音の一つだ。桜を気にかけていたとはいえ、魔術師ののりを犯してまで何とかしたいと思っていたわけじゃない。何とかできないかと、思ってなかったわけじゃないけど……

「まあ、確かに他家の後継者に手を出すのは、リスクが大きすぎますわね」

何が気に入らないのか、ルヴィアは憮然とした表情でわたしに同意した。

「でも、今は違うと聞いていますわ。マキリの後継者は、その……シンジでしたっけ? サクラの兄に決まったのではなくて?」

だが、一つ息をつくと、もう一度身を起こして確認するように言葉を続けた。って、何であんたそんなこと知ってるのよ!

「ルヴィア、それ何処で聞いた?」

「ミーナですわ」

……あの娘はぁ! なんて余計な事を……。わたしはルヴィアの表情を伺った、こいつ一体何処まで聞いてる?

「だとすれば、サクラの立場はもうフリーですわね? その後継者との話もつけましょう。そうすれば、サクラをわたくしの弟子にするのに何の問題もないんじゃなくて?」

ちょっとまて! 倫敦へ連れてくって、その為? あ、いや。確かに弟子にでもしなきゃ、他家の魔術師の世話をする意味なんて無いけど、ちょっと驚いちゃったわよ。
とはいえ一つほっとする。ミーナのやつ、桜が魔術師とはいえない存在だってことまでは言ってなかったんだ。考えてみれば、桜が間桐の生きた魔具だって知ってるなら、弟子にするとか、慎二に話をつけるなんて言えるわけないか。

「でも、桜にその気は無いわよ」

だが、こんな話、桜の前で言えたもんじゃない。わたしは、俯いた桜をそっと伺いながら、ルヴィアに告げた。
この十数年間、影ながらずっと見詰めてきた桜。俯いて、ただ何かに耐えるように物静かに時を過ごしてきた妹。
この娘が魔術師に向いているわけがない。この娘が笑顔を見せていたのは士郎の家でだけだった。その理由はわたしにも分かる気がする。あそこだけは、桜が魔術師で居なくて良い場所だったんだから。

「直接お聞きになったことはあって?」

「それは……」

だが、ルヴィアは容赦ない。言われて初めて気がついた。思わずぐっと詰まってしまう。考えてみたら、桜と魔術師同士として相対したことなど一度もなかった。御互い暗黙の了解として知ってはいたが、あくまで一般人としてしか接してこなかった。今ここで、二人並んでルヴィアに対しているのが、桜を魔術師と認めて同席する初めての機会なのかもしれない。

「だからわたくしが聞いていますの。ねえ、サクラ。貴女の御気持ちはどうなのかしら?」

「あ、あの……わたし……」

いきなり話を振られた桜がびくんと肩を振るわせた。そのままルヴィアともわたしとも視線を合わさず、誤魔化すように立ち上がる。

「わ、わたし、兄さんの世話がありますのでお先に失礼します。……ルヴィアさん、その……御免なさい」

慌ててぺこりと一礼すると、桜は逃げるように去っていった。
なんだか、ほっとしたような残念なような、複雑な気持ちだ。とはいえ、まだ目の前のこいつとの対決が残っている。わたしは座りなおして、ルヴィアに正対した。

「まったく、勝手なことしないで欲しいわ」

何方どなたかが、妙に手をこまねいているから、仕方なしにですわ」

わたしが睨みつけながら文句を言うと、ルヴィアもふんと、鼻を鳴らして睨み返してくる。くそ、言ってくれる。

「それに、貴女の事情に関わりが無くとも、サクラになら声を掛けましたわ。だって彼女“虚数”でしょ?」

あれは結構珍しいんですのよ、と口元に手を当てふむと唸る。士郎の時も思ったけど、こいつ妙に才能コレクターな所がある。
自己という内宇宙に没頭し、時には親兄弟さえも邪魔物としてしか捉えない魔術師としては、かなりの変人になるだろう。まるで、自分は何処か欠けているとでも言いたいような……
ふと浮かんだそんな思いを、わたしは頭を振って追い出した。そんなはずは無い。ルヴィアは十全足る魔術師、そんな甘い奴じゃない。
第一それを言ったら、わたしと真正面から張り合ってるって事も、かなり珍しいことで……ってことはわたしも一緒? いや、やっぱりそんなはずは無い。単にこいつが変わり者なだけだ

「変わってるわね。でも、桜は無理だと思う。間桐が桜を手放すとは思えないわ」

「……何か事情をご存知のようね。どういうことですの?」

ルヴィアはわたしの言葉に、微かに眉を顰め真顔で聞き返してきた。それはそうだろう、養子として取って魔術を伝えたにもかかわらず、後継者にもせずそのまま抱え込むと言うのは、一子相伝の魔術師としては、かなり異常な行為だ。
一瞬躊躇したが、わたしは慎二から聞いた事情を説明することにした。ミーナも知っている事だし、ルヴィアになら話しておいても良いだろう。
桜が魔術師としてでなく魔具として教育を受けてきた事、魔術師としての教育は殆どなかったらしい事。わたしは概略だが、その事をルヴィアに告げた。

「……」

が、ルヴィアはそんなわたしの説明を聞くと、どんどん厳しい表情になって考え込んでしまった。

「どうしたの?」

「いえ……ちょっと引っかかったことがありましたの。それより、リン。貴女は気づいていないの? それとも気づきたくないの?」

「な、なによ?」

「人格を持ったまま、魔術師として教育されず魔具として作られたもの。そんなものが長く持つと思って?」

そんなもの遠からずどこかが壊れる。身体か、精神か、どちらにせよ持つわけがない。気付いてはいたが考えたくなかった事を、ルヴィアは真正面から突きつけて来た。

「確かに、どこかアンバランスだとは思っていましたわ……ならば尚更です。リン、貴女がやらないのならわたくしが手を打ちます。折角の才がむざむざ壊されるのを、黙って見ている気はありませんわ」

「……分かった。ちょっと待ってくれる? 昨日の問題もあるし、すぐには動けない。ひと段落着いたら、わたしの方で何とかできないかやって見るから」

「了解しましたわ。ここは遠坂の地、桜への縁も貴女の方が強いですしね、優先権は認めましょう。この一件が片付くまでサクラの事は保留といたしましょう」

わたしが決心したと確認すると、ルヴィアは一つ頷いて言葉を続けた。

「ですけれど、できるだけ早くお願いしますわ。わたくし達が倫敦へ帰るまでには結論を出して頂きますからね」

難しい宿題を一つ残し、ルヴィアは優雅に席を立った。腹が立つほど品のある後姿を見送りながら、わたしは肩から力を抜き、そのまま椅子にへたりこんだ。

「逃げてただけだって言うの……」

目頭を揉みながら小さく口の中で呟く。結局はわたしが臆病だった。
手も出せないくせに見守って居たい心。気にかけているくせに、士郎へはその事を知られたくないと言う思い。ただ、今の平穏がそのまま続けば良いと、ずるずると先延ばしにしてきただけ。一番たちの悪い執行猶予じゃないの。

「くそ、やってやろうじゃないの」

わたしはもう一度、身体に力を入れなおして立ち上がった。ともかく、今のごたごたが片付いたら、桜と話そう。慎二とも話をつけて、士郎にも相談しよう。
“今のごたごたが片付いたら”これもまた一種の先延ばしに過ぎないと気がついてはいたが、わたしはもう少しだけ時間が欲しかった。




「取敢えずおさらいしましょう」

遠坂が、上座で腕を組んだまま難しい顔で切り出した。
ここは衛宮邸おれのうちの居間。朝食を終えてからホテルをチェックアウトし、ここで改めて作戦会議をというわけだ。
遠坂のうちの方が良いんじゃないかと言ったのだが、なんでもあちらの方は守るには良いが、打って出たり、情報収集をするには、偏りすぎているのだと言う。

「ホテルの地下はどうしますの? 蟲毒じみた呪刻は削り落としましたけど、それでも放っておけば益々淀んでしまいますわ」

神父さんから届いた報告書を、眉間に皺を寄せて読んでいたルヴィア嬢が、気難しげに聞いてくる。昨日からちょっと機嫌が悪い、原因は……まあ、そのなんだ、女の子の日だ。

「蓋を外しちゃえば散るんでしょうけど、そしたら今度はホテルがお化け屋敷になっちゃいますからね」

ミーナさんも、困ったような顔で如何したものでしょうかと首を傾げる。
瘴気の漬物。あの蜘蛛が居た玄室の状態は、一言で言えばそれだった。
十数年前の大災害、その怨念を閉じ込めて重石を置いて圧縮する。あの場所が一種の霊脈の基点だったこともあって、かなり濃縮された状態になっていた。その蓋を何の準備も無くいきなり外せば、ホテルの宿泊客の集団自殺くらいは起こりかねない。

「弱りましたわね、どこかにラインを通して流すにしろ、余り気味の良い物では有りませんものね」

「ううん、一旦、遠坂邸うちの霊脈に流して濾過して散らすことは出来るけど、蓋が外せない以上、定期的に洗浄繰り返すしかないわね」

結局遠坂が、はぁと溜息をつきながら結論を言う。あそこまで濃くなった怨念というものは、もはや対処療法しか出来ないという事だ。

「ところで、あの蜘蛛は何をやってたんだ? 本人って言うか、あの蜘蛛自身は子供を育ててたつもりだったんだろうけど……」

誰かに騙されて、女性達を捕まえ、生かさぬよう殺さぬように管理していたとはいえ、あの蜘蛛自身はあの場所から何かを得ていたわけじゃない。あの女性達にしてもそうだ。生命力を吸い取られていたような状態だったが、魔術師ではどれほど大きくとも他人の生命力を直に利用することは出来ない。

「それについては神父さんから、ちょっと面白い報告が来てますね」

ミーナさんが視線でこれを、と手にした書類を指し示しながら俺たちの注意を促す。

「……全員魔術回路持ち?」

神父さんの報告によると、助け出された女性は全員が一本か二本、不活性ながらも魔術回路を有していたと言う。魔術師ではない一般人でも魔術回路を持っている事はそう稀有ではないが、全員と言うことであるならば、これは何か関連があると考えて良いだろう。

「濾過器ですわね」

ルヴィア嬢が吐き捨てるように呟いた。
魔術師が魔術を使えるのは、魔術回路を通して魔力オドを魔術に編めるからだ。で、その魔力オドをどうやって作るかと言えば、これも同じ魔術回路を通して自分の生命力やマナを魔力に精製出来るからだ。
魔術回路の数や魔力のキャパがあるため、無制限にマナを魔力に精製出来るわけではないが、魔術回路を使えば、マナや自分の生命力を魔力に変換出来ることに変わりはない。
ただ、魔力そのものは個性を持ち、他人の魔力を何の繋がりもない他者が使えるわけではない。が、これにも裏道がある。
俺と遠坂のようにパスを通して魔力を共有してしまう方法だ、使い魔なんかも、このパスが通っているからこそ魔力の共有が出来るのだ。
つまり、あの場所に封じ込められていた女性達は、無理やり魔術回路を活性化され濁ったマナを魔力に精製させられていたと言うのだ。あのように心も身体もがんじがらめに縛られてしまっていたのだ、一度、魔力にしてしまえば、それを吸い上げる方法は何とでもなる。

「パスが通ってたなら、ラインを手繰って、相手を突き止められるんじゃないのか?」

直接あの女性たちにラインを繋いでいたのなら手繰ることは不可能ではないはずだ。ここ一年の研究で、ルヴィアさんや遠坂はその道においてはかなりの使い手になっている。

「直接ラインの痕跡はなかったんですの」

俺の質問にルヴィアさんが肩を竦めて応えてくれた、遠坂の表情からすると、どうもこれは検討済みだったらしい。

「だから、使い魔の餌って線だと思うの。ミーナ、あそこで見たあの変な影、そっちでは何か手掛かりなかった?」

人の庭先で外道なことしてくれるじゃない、と悔しそうに奥歯を噛み締め、遠坂はミーナさんに顔を向けた。あの時、蜘蛛を倒すと同時に文字通り影の様に引いていった蠢く物。俺たちは結局それを捕まえることは出来なかった。

「蜘蛛以外と思われる妙な粘液は、何種類かあったんですけど……」

ノートPCを操作しながら、ミーナさんが済まなそうに言う。どうも特殊なものらしく、手持ちのデータベースでは該当なしだったそうだ。

「そうですね……三日貰えますか? 香港まで行けば協会の支局が有りますので、詳しい調査が出来ますから」

日本には管理地はあっても協会の施設はない。詳しい調査は国外に一旦出なければならないと言うことらしい。

「悪いわね、正式な要請出す?」

個人的プライベートな貸しで良いですよ。協会通すと面倒ですからね」

ミーナさんはにっこり怪しく笑うと、それでは香港行きの手配しますねと席を立った。脇で控えているセイバーも含めて、遠坂一門はすこしばかり渋い顔になる。またつけが増えちまったよ……

「でも、悔しいぞ……」

手掛かりが皆無ってわけじゃない、だのに辿る線が繋がらない。

「かなり巧妙で陰湿よね。腕も悪くない、半ば狂い掛けた土蜘蛛を支配しきってた。あの玄室だってよっぽど吸収に長けてなきゃ……っ!」

いろんな意味で渋い顔になった俺の呟きに応えかけて、いきなり遠坂が固まった。
口に手を当てうんうん頷いては首を振り、そうかと思うと明後日を睨みつけ、腕組みしてはこめかみに指を添えたりしている。いつもの内面モードだが、今日ばかりは早めに突っ込んでみた。

「どうしたんだ、遠坂」

「へ? あ、うん。たぶん勘違い。それだけの術者はもう居ないはずだし……」

それでもまだぶつぶつと悩んでいる。何か手掛かりがあるなら言って欲しいな。ここは一つ突ついてみるか。

「ホテルの施工主が不明? どういうことですの?」

と、俺より先にルヴィア嬢が別件で突っ込んできた。

「神父様からの報告書の奴? それなら、どうもペーパーカンパニーだったらしくて、出資先の持ち株会社調べてもらってる。こっちは明日には返答できるって言ってた」

「怪しいな」

「ですわね、構造そのものが最初から意図されていなければ、あれほどの瘴気を封じられませんわ」

あれだけ大きなホテルの施工主がペーパーカンパニーってだけで十分怪しいのに、あの建物はその構造を始め、随所にかなり高度な術を施されていた。怪しさは二乗されてる。

「これで大体の方針は決まったわね、ホテルの施工主と、遺留品の解析。これが出揃えばかなり見えてくるはずよ」

結果が出るのが少しばかり先だが、それでもこの悪質な施術の源を辿れるすべは手に入れた。

「明日以降の事は分かりました。それで今日はどうするのですか? 凛も言っていたように、相手はかなり狡猾。このままむざむざ引き下がったままとも思えません」

ひと段落着いたところで、今まで黙っていたセイバーが初めて口を開いた。相手は恐らく魔術師、ならば方針の決定までは魔術師に任せるべきだと判断していたのだろう。ただ、行動に移す段階となれば、今度はセイバーの出番だ。やはりセイバーが一番優れているし経験も豊かだ。

「昼間から動くような馬鹿だと、助かるんだけど」

「それは無いでしょうね、警戒すべきは夜と言うことになりますわね」

遠坂とルヴィア嬢が、顔を見合わせて御互いの判断を確認する。となると、聖杯戦争の時のように巡回か、でも今回は基点がつかめない。魔力を集めてるって事なんだろうけど、それはあくまで手段のはずだ。本来の目的が何か分からない以上、闇雲に動き回っても余り意味は無い。

「心当たりが無いわけじゃないわ」

尤も、そんな事は承知の上だったのだろう。腹案があると、遠坂が腕組みしたまま俺たちの顔を見渡した。

「相手が魔力を求めるなら霊脈を狙うはず、冬木の霊脈の基点は四箇所。一箇所はあのホテルでここは潰したし、遠坂の家と冬木教会は守りの堅さから除外して良い。そうすると残りは一箇所」

「柳洞寺か」

「そ、今晩はそこで網を張りましょう。セイバー宜しくね、それとランス、あんたも目一杯頑張ってもらうわよ」

「はい」
――Crow

仲良く頷くキャメロット軍団。でもさ、遠坂。ランスは俺の使い魔なんだから、出来れば俺を通して欲しいぞ。そりゃ最近、とみに主としての存在感は薄いかもしれないけどさ。




「それじゃあ、出来るだけ早く結果を持って帰ってきますから。頑張ってくださいね」

夕方、用意の出来たミーナさんを駅まで送り、俺たちはそのまま柳洞寺へ車を向ける。柳洞寺組は俺と遠坂、それにセイバーのオリジナルチームだ。体調が些か怪しいルヴィア嬢には、ランスをつけて衛宮邸に待機してもらっている。ランスが居れば俺たちとの連絡はすぐつくし、もし万が一の時もルヴィア嬢を逃がすくらいのことはやってのけるだろう。

「なあ、遠坂?」

「なに、士郎」

柳洞寺の階段を上りながら俺は遠坂に声をかけた。お盆とはいえ日の暮れた後の参道には、もう墓参客も見当たらない。

「ここが霊脈だって事は知ってたけど、あんまりそんな空気じゃないな」

前の聖杯戦争で聖杯が降臨し、キャスターが“神殿”としたほどの場所だ。あの時は凄まじいものだったし、それは位置や流れ的には基点になるとは分かる。だが、今の柳洞寺は霊脈の持つ玄妙な雰囲気に欠けていた。

「まあね、今のここは霊脈といっても活動はしてないから」

元々はこの柳洞寺が冬木の霊脈で最高のものだったらしい。それを大昔、とある施術を実行する為に利用され、その結果として今のように塞がってしまったのだと言う。

「へえ、そんな昔に霊脈が枯れるほどの魔術使ったんだ。なんか凄い話だな」

「シロウ、貴方は気づいていないのですか?」

俺が感心していると、一緒に話を聞いていたセイバーが少しばかり呆れ顔で呟いた。

「なにをさ?」

「凛、心中お察しします」

「良いのよセイバー。わたし達、士郎がこういう奴だって知ってて一緒に居るんだから」

俺の言葉に、仲良く揃って大きな溜息を付くマスター&サーヴァント。む、傷つくぞ、そういう態度。

「ねえ、衛宮君。わたしは昔、そうね二百年ほど前かな、ここで大魔術が行われたって言ったのよね?」

文句の一つも言ってやろうとした所で、遠坂が素敵な笑顔で話しかけてきた。“衛宮君”か、これは何かやばそうだな。

「おう、そう聞いたぞ」

とはいえ、何を仕掛けてくるか皆目見当が付かない。ここは素直に応えておく。

「じゃ、質問を変えましょう。聖杯戦争の一番初めって、どうやって始まったと思う?」

「そりゃ、最初は聖杯から造らなきゃならないんだし」

きっと、とんでもない大魔術が行われたんだろうな。

「……あ」

それは多分、霊脈が一個枯れ兼ねないほどの大魔術だったに違いない……確か最初の聖杯戦争ってのは二百年ほど前。ということは……

「えっと、此処?」

「そうよ、柳洞寺こそが聖杯戦争発祥の地。此処で最初の聖杯降霊と聖杯戦争が行われたのよ」

そんな大魔術、一箇所でそうバンバンやれるわけ無いじゃない、とにっこり綺麗な笑顔で遠坂さんは罵倒してくださいます。ご尤も、返す言葉もございません。

「でも、それなら此処へ来る理由あるのか? 枯れてるんだろ?」

だが、そうなると、ここに蜘蛛の主が現れる可能性も低いって事じゃないかな?

「うん、そうなんだけど、ちょっと気になることもあるし……」

そのまま遠坂は、難しい顔で黙り込んでしまった。

「なんて言うか。聖杯戦争の後、色々調べて思いついたことなんだけど、確信は無いの。今回の帰国では、そのことも調べてみようと思ってた。大師父の書庫に何かあるかもしれないし、父さんの遺稿も調べなおそうかなって」

漸く開いた口も、些か歯切れが悪い、結論を言わず遠回しにくだくだ言うの、遠坂は余り好きじゃなかったはずなんだが。

「まあ良い。俺が聞いて分かる事とは限らないしな。つまり、今は枯れてるけど、例の奴が狙いそうな物があるかもしれないってことだろ」

「うん、悪いわね、士郎」

はっきりしたら、その時はちゃんと士郎にも言うから、と遠坂は珍しく気弱な笑みを浮かべる。らしくはないんだが、こういう顔もなんというか、新鮮で魅力的ではあるな。




「やっぱり、なしか……」

それから数時間。俺たちは柳洞寺の境内や墓地を、警戒しながら巡回した。
特に怪しい人影も、空気の変化も見当たらない。静かな夏の夜、気の早い虫の擦れる様な鳴き声が虚しく響いているだけだ。

「どうする、遠坂。さっき言ってたことでも調べるか?」

これ以上はここに居ても収穫はないだろう。俺は遠坂に聞いてみた。ついでで出来る事なら付き合っても良いし。

「んん、それはこの一件が片付いてからで良いわ。時間もまだあるし、遠坂の家と教会の方を廻ってみましょう」

「それでは、此処は撤収ですね。車を回してきます」

ここでの収穫は無くとも、他の場所で残滓の一つも見つけられるかもしれない。俺たちはこの晩を有効に使う為、別の場所も回ってみることにした。昔と違って今は足もある、回ること自体はさほど手間じゃない。
セイバーを先頭に、俺たちは参道を降りようとした。と、その時だ。

――主よ、大事が起こった。

ランスの落ち着いた、それでいて緊迫感の篭った声が俺の頭に響いた。

「どうした? 何があった」

――桜嬢と兄君が駆け込んで来た。なんでも教会で襲われたそうだ。

「ちょっと待て! 何で桜が!?」

「シロウ?」
「士郎、なに? 桜がどうかしたの?」

いきなり叫んだ俺に、遠坂とセイバーが不審そうに尋ねてくる。

「教会だ、向こうをやられたらしい」

「ちっ、まさか教会に手を出すなんて……神父様が居るから大丈夫と思ってたんだけど」

俺の応えに遠坂とセイバーの表情が固くなる。何せ裏をかかれた形だ。

「それと桜と慎二が家に駆け込んできたらしい」

「へ? 何で? 何であの二人が?」

「待て、今ランスに詳しい事情を聞いてみる」

俺はランスに詳しい説明をするようにと指示を送った。
ただ、聞いてはみたものの、ランスとしてもそう詳しいことが分かっているわけではないようだ。
慎二は怪我をして意識が無いと言うし、桜もショックで碌に口が利けない状態だと言う。それでも何とか聞き出した内容によると、二人は教会で化け物に襲われ、神父さんが戦いながら二人を遠坂の居る衛宮邸おれのいえに逃がしたという事らしい。

「って事だ、急いで帰ろう」

俺は、遠坂とセイバーに事の顛末を告げ、駆け出そうとした。

「……待って、教会へ向かうわ」

だが俺は、その場で腕組みをして表情を引き締めた遠坂に止められた。

「桜や慎二が心配じゃないのか?」

「心配はしてる。でも、衛宮邸しろうのうちにはルヴィアもランスも居る。あの二人が居るなら当面は大丈夫。それより、襲われたって教会で相手の事をとっ捕まえるのが先。神父様が戦ってるわけでしょ、そう簡単にやられる人じゃない」

焦る俺を落ち着かすように、遠坂はゆっくりと話してくれた。そうだった。あの巌のような神父さんが、そう易々とやられるわけが無い。とすると、今からでも間に合うかもしれない。

「急ぎます!」

そうなればと、まずはセイバーが脱兎の如く走り出した。俺たちも慌てて後を追う。
後手に廻ってしまったが、だからって引っ込んではいられない。待ってろ、ここで尻尾を掴んでやる。


じっとりと水面下にあるものが、ぼこぼこと湧き上って参りました。
日常の象徴である藤ねえが退場し、くろいまゆ 第二話はこれより“起”から“承”に移ります。
それでは後編、動き始めます。


By dain

2004/9/8初稿
2005/11/13改稿


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