「天にましますわれらの父よ、願わくば、御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを……」

神父は祭壇に額づき神に祈った。
どうか、あの子たちに幸あれと。これからも続くであろう茨の道が、幾許かでも軽くならん事をと。

告解は守秘されなければならない。故に遠坂凛に、間桐兄妹の事を全て話すわけにはいかなかった。いや、義務でなくても全てを話すことは出来なかったろう。

――かの子供等の運命は余りに過酷だ。

神父は聖職者だった。魔道を心得、異端を討つ事に微塵も躊躇もしないとはいえ、神父の本当の心は、儚き者を守り哀しき者を救う聖職者だった。
陰惨で救いの無い外道畜生道。あの兄妹が肩を並べて歩んできたのは、そういう道であった。無垢であるべき時に堕とされ、穢された魂。それは、それこそは救われなければならない魂だった。

――その為ならば、この身、冥府魔道に堕ちるとも悔いはなし。

それこそ神父がこの道教会の裏側に踏み込んだ理由だった。
その為に外法を黙認し、人を騙し、更なる陰惨な道に進むことに手を貸した。
だから神父は神に祈った。己ではなく、あの兄妹の救済の為に。

「神父様……」

頭を垂れる神父の背に、慌しく礼拝堂の扉が開かれる音が響いた。荒い息と共に、ふらつく足音が二つ祭壇に近づく。

「何事かな?」

「兄が……お爺さまが……」

落ち着き払って振り返った視線の先には、がっくりと崩折れた兄の身体を、健気にも支えるか細い少女の姿。

「ふむ……」

神父は一歩前に出る。と同時に両手に左右三本ずつ、計六本の刃が鈍く光った。

―― 弾! 弾! 弾! ――

礼拝堂の入口で、続けざまに黒い影が弾ける。既に神父の手には刃は無い。一瞬のうちに、六本の剣を扉から這い入ろうとした影に叩き付けたのだ。
無骨な刃が墓碑のように礼拝堂の床に突き立つ。黒鍵、聖別され呪を以って魔を殲滅する、代行者の代名詞とも言うべき得物。

「桜君、運転は出来たね?」

神父はその身体に似合わぬ、優しいと言えるほどの微笑を浮かべ、桜の手に車の鍵を握らせた。

「裏に車がある。遠坂嬢の許へ赴きなさい。彼女の許が、今、この町で一番守りが堅い」

神父は桜を促しつつ、説教壇を押し開いた。
そこにずらりと並んだ黒鍵を、神父は矢継ぎ早に礼拝堂に這い入ろうとする影に向かい投げつけていく。

「神父様……」

「早くお行きなさい」

神父のいつもと変わらぬ声音、それに背中を押されるように、桜は俯いたまま、兄を引きずり奥へと駆けて行く。

「ふむ、やはりこのように薄っぺらな板切れでは、埒が明かぬか」

黒鍵を投げきり、初めて神父の表情が動いた。素早く祭壇に駆け寄ると、おもむろに十字架に手をかける。

―― 轟!――

風を呼んで引き抜かれた十字架の根元は、優に二メートルはある鋼の鉄杖。更にその先には鍛床と見まごう程に巨大な鉄鎚。
神父はそんな得物を軽々と抱え、礼拝堂の入口に立ち塞がる。
教会の外に広がっているのは黒々とした無数の影。地を覆い、まるで流れる水のように礼拝堂に迫ってくる。

「ふん」

一閃、神父が振るった鉄鎚は、ただ一撃で数十の影を叩き潰す。一瞬迫り来る黒い波が止まった。

「此処は神の城。吾身は神の城門。一度錠が下ろされたからには。ただの一匹も此処よりは通さん!」

一歩も引かず朗と響く神父の音声。次の瞬間、黒い津波と鋼の破城鎚が激突した。





くろいまゆ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第二話 後編
Beelzebul





「遅かった?」

新都の市街を抜け、長い坂を上った所にある冬木教会。
俺たちの車がその前庭に飛び込んだ時には、既に虫の声さえ聞こえぬほどの静寂に包まれていた。

「なんだこりゃ?」

車を降り見渡す教会はいつもと変わらぬ様子、と思ったのは一瞬。真夏の最中、ここだけが冬のように枯れているのだ。
前庭の芝生も立ち木も、まるで蝗の群れが通った後のように、貪り尽くされていた。

「気配がありません。既に事は終わった後かと」

完全武装に身を包み周囲を警戒していたセイバーが、口惜しそうに俺たちに告げた。

「とにかく、中へ入るぞ」

打ち砕かれた教会の扉を潜り、俺たちが飛び込んだ礼拝堂。そこは瓦礫の山だった。ベンチは根こそぎ叩き潰され、祭壇は原形を留めぬまでに砕かれていた。

「神父さん!」

その崩れた祭壇の前、聖体に向かい祈るように跪いた大きな人影。俺たちは慌ててそこに駆け寄った。

「……酷い」

遠坂が息を呑んで立ちすくむ。まるで懺悔する様に頭を垂れた神父さんの姿は、壮絶の一言だった。体中、何かに噛まれた様な、刺された様な傷で紫色に腫上り、更に余す所無く切り裂かれ文字通り血達磨だ。

「息はあります。凛!」

素早く脈と呼吸を確かめたセイバーが、唖然としている遠坂に声をかける。

「あ、うん!」

慌てて屈み込んだ遠坂は、神父さんの傷の具合を診ると、ポーチから石を取り出し応急処置に取り掛かった。

「毒……なにこれ? 虫かな、こっちは燐粉?……それと切り傷。うん、致命傷は無いわね……」

ぶつぶつと呟きながらも、次々と宝石を砕いて治療を続ける遠坂。暫くして、ふうと立ち上がると、俺に向かって安心させるように小さく笑った。

「大丈夫、何とかなりそう。普通の人だったら三度は死ぬような毒だけど、流石は神父様。鍛え方が違うわね」

「そ、そうか。取敢えず病院へ運ぼう」

俺は神父さんを抱え上げ、車まで運ぼうとした……が、びくとも動かない。

「と、遠坂、手伝ってくれ」

「なに言ってんのよ、わたしひとり手伝ったって、どうなるもんじゃないわ。セイバー、神父様を車まで運んで。わたしはまだちょっと調べなきゃならないことがあるから」

「はい」

遠坂の言葉に、セイバーは一つ頷いて応えると、神父さんを軽々と抱え上げて車に向かって歩き出した。……毎度の事ながら、英霊って凄いな。

「俺も手伝おうか?」

「私の方は問題ありません。それより、シロウは凛を」

俺の言葉にセイバーは、お願いしますと微笑んだ。おっと、そう言えば、何か調べることがあるって言ってたな。俺は、セイバーに神父さんを託すと、奥へ向かおうとする遠坂の背中を追った。

「なにを調べるんだ?」

「なにって、ここが襲われたのは霊脈が目的でしょ? それを確かめるの」

俺の間抜けな質問に、遠坂は神父様を襲う事だけが目的なわけないじゃない、と半眼で見据えてくる。あう、確かに。そうでもなきゃ神父さんが襲われる理由なんか無いもんな。

「地下礼拝堂と、それに続く祭具室。そこがこの教会の核よ」

教会の奥、中庭の回廊を抜け。俺たちは地下礼拝堂の入口へと向かう。手の込んだ造りの円柱に囲まれた中庭。その一角、柱の影に隠れるように地下へと続く階段がある。

「……っ」

だが、そこから先には進めなかった。階段は一段降りた辺りから、何か漆喰のようなもので塗り固められて居るのだ。

「なんだこりゃ?」

爪で擦ればぼろぼろ崩れはするが、かなり分厚い。木切れ? ベンチの残りかすだろうか、それと大鋸屑おがくずのようなものが練って固められている。それこそ地面を掘り返すつもりでやらなければ、取り除けないだろう。

「……やっぱり、中も結界で括られてる」

俺が漆喰の現物を確認している間、漆喰の壁に手を当てて瞑目していた遠坂が、歯軋りするように言葉を搾り出した。

「なんとかならないのか?」

ふっと、あの蜘蛛の玄室で見た光景が頭をよぎった。あんなものをまた作らせやしない。なんとしてでもぶっ壊してやる。

「手持ちの道具じゃ無理ね。遠坂邸わたしのうちに帰って道具を揃え直さなきゃ。ルヴィアにも手伝ってもらうわ」

「じゃあ一旦、衛宮邸おれのうちに戻ろう。神父さんの治療もあるし、桜のことも心配だ」

神父様が倒れてしまった以上、事後処理を頼む相手が居ない。俺たちは人払いの結界を設え、当座をしのいだ形で教会を後にした。

「教会に手を出したって事は、相手は一週間以内に事を終わらせるつもりよ」

家に帰る車の中で、遠坂が難しい顔で呟いた。

「聖堂教会の実戦部隊か?」

「うん、聖杯戦争のとばっちりってんなら、まだ黙ってるんだろうけど、何も無いこの時期に自分達の教会を襲撃されたんだもの。黙ってるわけ無いわ」

日本の“こちら側”の世界は、教会からも協会からも独立した組織で運営されている。その為、教会が襲われたという情報が入って、聖堂教会の実戦部隊が日本に入るまでは、各種手続きでどうしても一週間ほどは掛かる。何せ面子に関わる問題だ、やってくる実戦部隊って言うのも、生半可な連中じゃない。

「こっちも同じだけどね。連中が来るまでに片を付けるわよ。あんな連中に冬木を荒らされたくないから」

が、こいつら。強力は強力だが、その反面とんでもない連中でもある。何せ、目標の殲滅以外にはなんら拘泥しない。それこそ、目標が潰せるなら、冬木の街ごと吹き飛ばそうが気にもしないような連中なのだ。
冬木の街の平穏の為には、そんな連中が来る前に事件を解決するしかない。

「くそ、振り回されてばかりだ」

思わず拳を握り締める。あの蜘蛛の玄室を見つけてから、ずっと後手後手だ。まるで蜘蛛の巣にでも捕まったように、動けば動くほど危地に追いやられていく。

「でも参った、神父様の線も断たれちゃった。教会を襲ったってことは、冬木の霊脈を狙ってるのは確かなんだろうけど……」

遠坂も同じ気持ちなのだろう、かなり苛ついていて、ぶつぶつと呟きながら腕組みして眉間に皺を寄せている。

「ところで遠坂」

「なに?」

「なんで桜と慎二が襲われたんだろう? あの二人は関係ないだろ?」

俺は、さっきからどうも引っかかっていた事を遠坂に尋ねてみた。間桐がまだ魔術師の家系だって言うなら、いくらかは関係があるんだろうけど、春先に当主が亡くなって、もはや桜たちは魔術師とは縁が切れたはずだ。
たまたま教会に居たにしても、こんな夜更けに何をしていたんだろう?

「……」

が、返事が無い。遠坂は俺の言葉に、車の天井を睨みつけるように見上げて、黙り込んでしまった。

「遠さ……」

「家に帰ったら話すわ」

俺の掛けた声を遮り、遠坂は俺に顔を向ける。どこか、目を合わせにくそうな、それでいてそんなことじゃいけないと心を励ますような。そんな視線だ。

「こうなったら、桜や慎二にも手を貸してもらうから、隠していても仕方ないし」

それだけ言うと、遠坂はじっと前を見据えて黙り込む。桜や慎二に手を借りる? 隠し事? ……妙な考えが頭の隅をよぎる。まさか、そんな……俺は頭を振って、遠坂同様に前だけを見据え口を閉ざした。ともかく家に帰ってからだ。遠坂は話してくれるといっているのだから。




――五年前。

それは五年前、間桐慎二にとって最初の転機が訪れた。

間桐の家は慎二が生まれた時点で既に終わっていた。
父の代で魔術を伝える血は枯れ果て、間桐は“唯の人間”として意味の無い知識を積重ねるだけの家に成り下がっていた。幼い日から、彼はかつては間桐が秘蹟を伝える家系“だった”と教えられて育ってきた。

既に終わったこと、間桐はこれからは唯人として生きていく。それは動かしようの無い決定であった。
だが、彼にとってはそれだけでも意味はあった。自分が魔術師になれない事は分かっていた。名のみの間桐だとは重々承知していた。
それでも、名家間桐の子であることには変わり無かった。
知識を、“特別な秘蹟を知っていた”ことで十分特別であると信じてきた。自分は特別であると、そのことだけを自負として生き続けてきた。

一人の少女が、養女としてこの家に来てからも、それは変わらなかった。いや、益々募っていったと言って良い。
無口でまるで影に怯えるように暮らす桜と言う名の“妹”
そんな存在が間桐の名を名乗るかと思えば業腹だが、その程度の存在に腹を立てるのも大人気ない。何より、所詮“妹”に過ぎないのだ。

魔術師の家系は一子相伝。そして間桐の魔術書に触れられるのも自分だけ。だとすれば答は明白、自分こそが間桐の後継者なのだ。
だからこそ、秘蹟を読み漁り、使えぬ魔術を覚えてきた。営々と無意味な事を積重ねてきた。無駄な努力を続けてきた。
そう思えば、妹も哀れなものだ。間桐という選ばれた家系の一員になりながらも、その事を知らず唯人として生き、死んでいく妹。いっそ愛らしかった。
優越感から来る自尊ゆえの愛情。だが間違いなく、間桐慎二は間桐桜を愛していた。

――真実を知るまでは。

その日、自分の知らない部屋を見つけたのは偶然だった。
ふと目に付いた、不自然な壁の隙間。それを押し広げて進んだ先には慎二の知らない部屋があった。
そして、そこに居たのはあの“妹”だった。
蟲に囲まれ、あの恐ろしい祖父と父から、慎二の知らない秘儀を授けられていたのは、哀れまれるはずの、無意味な生を送るはずの桜だった。

まるで路傍の石でも見るような目つきをした父親に追い立てられ、この部屋を出た瞬間、慎二の世界は完全に裏返った。

道化は自分、哀れまれていたのは自分、無意味な生を送るのは自分。慎二の価値観は己をまったく無価値なものと弾劾した。
が同時に間桐にとって、これが喜ばしいことであると言う事も慎二は理解していた。
間桐は後継者を得ていた。魔術を伝える為の正当な後継者を得ていたのだ。これで間桐はまた特別に戻れる。

なのに、なのに、その誇るべき後継者は慎二に向かってこう言った。

――ごめんなさい、兄さん。

腸が煮えくり返った。誇れ! そう叫びたかった。自分から全てを奪った者が、自分の全てだった物を、まるで無価値なものとして扱っている。許せるものではなかった。

だが慎二は耐えた。魔術師にとって後継だけが全て、それは今までの自分の誇りであった。自尊、唯それだけが慎二の全てであった以上、耐えねばその自尊さえ失ってしまう。
もはや、誰憚ることなく慎二を無視し、桜にのみ目を向ける父と祖父。後継で無い以上自分が無価値なのは当然。慎二は己の自尊に殉じるつもりで耐えた。

が、それにも限度があった。

――ごめんなさい、兄さん。

何時まで経っても桜は、そう訴えかけてくる。誇ることなく、慎二の全てを頑なに否定し続ける。言葉にしなくとも、その怯えた態度で、その気弱な視線で、桜は常に慎二に訴えかけてくる。こんなつまらないものを、こんな薄汚れたものを譲ってもらって御免なさいと。

――なら返せよ!――

ついに堪え切れなくなった。返せ、慎二は叫んだ。無意味なことは知っている。無駄なことも知っている。だが、その無駄で無意味なことだけが慎二の全てだった。
無論、出来る筈も無い。唯の戯言、負け犬の遠吠えに過ぎないはずだった。

だが、慎二は一つのすべがあることに気がついてしまった。
無意味と知りつつ学び続けてきた、魔術師の術の一つ。“足りなければ他から調達すれば良い”
間桐の後継、その地位が魔術回路にあるならば、それを譲らすことは出来ない。だが、間桐の後継者そのものが自分のものになれば?

――じゃあ、おまえは今から僕のものだ――

無慈悲に頭を垂れ、傲慢にも謝罪を繰り返し続ける妹に、慎二は冷たく言い放った。どう足掻いても間桐の後継者にはなれない、だったら間桐の後継者の持主になってやる。謝ると言うことは償いを差し出すという事だ、お前が要らないという物を、僕はお前ごと貰ってやる。
この日から、間桐桜は間桐慎二の所有物になった。


「……兄さん……」

薄暗い和室の中央、桜は自分の所有者たる兄の枕元で呟いた。右腕を抱えおこりが付いたようにうなされる兄。
“所有者と所有物”
その関係は兄が魔術師となっても変わっていない。いや、今では魔術師であるがゆえに、尚も強く結びついていると言って良い。何故なら……

「サクラ」

と、煌く声と共に、襖が開き金色の光が部屋に差し込んできた。

「ルヴィアさん……」

「シェロたちが帰ってきましたわ。先ほどのお話、もう一度御伺いして宜しいですわね?」

「……はい」

桜は重い心で立ち上がり、ルヴィアに従い歩みだした。
ふっと、部屋の敷居をまたぐ直前、桜の歩みが止まる。

「どうしたのです? サクラ」

この一線。これを越えればもう引き返せない。なのに、金色の光は煌々と輝きながらその決断を迫る。

「……すいません、ルヴィアさん」

桜は一線を越えた。
いつもそうだ。いつも誰かに促され、急かされて一線を越える。とうに諦めていたことなのに、何故か今は、そのことが無性に腹立たしかった。




「良かった、桜は無事だったんだな」

玄関まで迎えに出た桜の両肩に手を置き、士郎はほっと息をついている。まったく、相変わらずの考えなしだ。桜が固まっちゃってるじゃないの。
とはいえ、ほっとしたのはわたしも一緒。どうやら桜には怪我はないようだ。玄関先でスクラップになっていたコルベットを見た時は、息が止まるかと思ったのだが。

「あ、はい。でも兄さんが……」

あんな奴の何処が良いんだか、桜は顔を伏せながら心配そうに呟いた。ただ、あんな奴でも桜にちゃんと“兄”と思われているかと思うと、何か心にちくりと刺さるものがある。

「教会は如何でしたの?」

こちらはちょっと顔色の悪いルヴィア。二日目だから仕方ないか。

「かなりの重態ですが、何とか一命は取り留められると思います。神父殿は頑強ですから」

そんなルヴィアに、セイバーが応える。こっそりと“その筋”御用達の病院に担ぎ込んだ神父様は、わたしが見た限りでも蠍、百足、蜘蛛、蜂、はては蟻酸や燐粉と多種多様な虫の毒に侵されていた。本当によく無事だったものだ。

「居間に集合しましょ、色々と相談を纏めたいから」

「おう、じゃお茶でも入れよう」

何時までも玄関先に居ても仕方がない。ともかく奥へというわたしの指示に、士郎は元気に応えてセイバー共々奥へと向かっていく。

「わたしも手伝います」

「あ、桜。ちょっと待って」

わたしは、士郎に続いて一緒に行こうとする桜を、引き止めた。

「なんでしょう、遠坂先輩」

「……士郎には全部話すことになると思う。良いわね?」

「……はい」

視線を合わさず、口早にそれだけ告げると、わたしは顔を伏せ、表情を暗くした桜を残し居間へ向かう。
くそ、心に決めたって言うのに、何だってこうも後ろめたいのよ。わたしは心に活を入れながら、居間で皆が集まるのを待った。

「桜、何があったんだ?」

席に着くなり、まず士郎は口を開いた。心配そうに桜を見詰め。同時にわたし達にちらちらと目配せをする。それはそうよね、士郎はまだ桜が魔術師だって事も、桜の方でも皆が魔術師だと知ってることも知らないんだから。

「はい、実は……」

「ちょっと待って」

だから、わたしは桜の言葉を遮った。このままじゃ話が面倒になるだけ。

「まず御互いの立ち居地をはっきりさせましょう」

「立ち居地って、なにさ?」

「士郎、聖杯戦争の時わたしが言ったこと覚えてる? 学園にもう一人魔術師が居るって話」

「ちょっと待て! 桜の前で……」

驚き叫びながら士郎が顔色を変えて立ち上がる。だが、わたしの顔と、黙って俯いている桜の顔を交互に見ると、別の意味で顔色が変わっていった。

「遠坂、まさか……」

「そ、そのもう一人の魔術師ってのが桜。間桐桜、間桐家当代の魔術師よ」

わたしの応えに、士郎は一瞬棒立ちになる。目がうつろに泳ぎ、口もパクパクさせている。まったく陸に上がった金魚じゃないんだから、ちっとは落ち着きなさい。

「……ちょっと待ってくれ、それって変じゃないのか? 間桐は魔術の家系が途絶えたんだろ? 慎二だってそう言ってたし、第一あの時、桜は関係ないと……」

「まず、慎二だけど、それは嘘、多分あいつのおかしなプライドのせいでしょうね」

「む、それは……そのなんとなく分かるけど」

わたしの言葉に、桜の顔を伺いながらも、士郎はぼそぼそと呟きながらも頷いた。

「で、もう一つの方。なんで魔術の途絶えた間桐の家に、魔術師である桜が居るかって話ね。ちょっと長くなるから、座って話を聞きなさい」

「お、おう」

へたり込むようにぺたんと座りなおした士郎に、わたしは順を追って話をした。

「土地が合わなかったのか、原因は知らないけど、間桐の魔術の血は代を重ねるごとにどんどん薄くなっていったらしいの。系統を続けるだけなら弟子でも取ればよかったんだけど、間桐は名家の誇りのせいかそれを拒み続けた。そして、ついに慎二の代で魔術師の証たる魔術回路も消えうせてしまったわ。本来なら間桐はそこで終わり。だけど諦め切れ無かったんでしょうね。慎二のお父さんは他から養子を取って間桐の魔術を伝えたの、それが桜よ」

「そうだったのか……」

わたしの説明を聞いて、士郎は力の抜けたような顔で、桜を見やる。

「ごめんなさい、先輩。わたし、遠坂先輩が魔術師だって事も知ってました」

「ってことは俺のこともか、参ったな。もっと早く言ってくれればよかったのに」

小さくなった桜の蚊の鳴くような告白。それに士郎は溜息をついて応え、膝をそろえて座りなおした。

「先輩……」

「そうすりゃ桜に隠し事をすることも無かったのにな。すまん、桜、今まで黙っていて」

桜に向かって深々と頭を下げる士郎に、わたしと桜は思わず顔を見合わせてしまった。参った、こいつがこういう奴だって知ってたけど、どうしよう、もう一つあるんだけど……

「サクラ、リン。いい加減腹を決められたら? これ以上隠し事は余り意味がありませんわよ」

更に追い討ち、ルヴィアの奴。人事だと思いやがって。

「ええと、それって桜が遠坂の関係者だったってことか?」

仕方がないと腹を括って口を開きかけたところで、士郎の奴が罪の無い顔でとんでもない事を言い出した。

「ちょ、ちょっと!何で知ってるのよ!」

「いや、知ってるっていうより、桜はどう見ても日本人だろ? 俺は遠坂以外の日本人の魔術師なんか知らないし、お隣さんなんだから間桐が養子を取るのに遠坂を頼るって、ごく普通の発想だと思うぞ。二人は親戚か何かかな?」

妙に見当外れながら正鵠を射た士郎の答え。さすが弓使いね……更にまさか姉妹ってわけじゃないよな、なんて言いながらはははと笑いやがる。

「……悪かったわね、その姉妹よ……」

「へ?」

「……遠坂先輩はわたしの一つ上の姉に当たります」

一瞬、士郎がとんでもない間抜け面になる。実はこの顔、ちょっと気に入ってたりする。

「……え〜〜〜〜!! だって全然似てないじゃないか!」

一拍置いて、再び立ち上がって驚愕する士郎、こいつ……何処見て似てないって言うのよ! これでも気にしてるんだから。

「あ、いや。……すまん、失言だった」

わたしや桜だけで無く、セイバーやルヴィアにまで虫けらでも見るような目で睨みつけられて、士郎は謝罪しながら再び腰を下ろした。

「でも水臭いぞ、もう少し早く教えてくれても良かったんじゃないか?」

「そうもいかないでしょ。魔術師は相互不干渉。例え血がつながっていても他家に行ったものは他人に過ぎないわ」

「御免なさい……先輩」

わたしの言葉に小さな声で謝る桜。
まただ、わたしはこんな事を言いたかったわけじゃない。だが、魔術師としてのわたしはこれ以上の言葉を言うわけにはいかない。魔術師として、わたしは桜と血のつながった他人でいるしかないのだ。

「そうは言うけど、遠坂ずっと桜を気にしてたじゃないか」

だってのに、こいつはなんて事を言い出すんだ。

「学園の時も弓道部によく顔を出してたし、呼び名だって桜だけ名前を呼び捨てだろ? 変だとは思ってたんだ」

兄弟話にも妙に突っかかるしな、気にしてなかったわけ無いじゃないか、となんでもないことのように言いながら微笑みやがる。くそ、何だってそんなとこ見てるのよ、本当に妙なことにだけ鋭いんだから。

「あの、遠坂先輩?」

プルプルと震えながら爆発寸前のわたしに、桜の心配そうな声が掛かる。我ながらものすごい顔してるだろうな、もしかして顔が赤いかもしれない。

「お姉さんで良いんじゃないか? 他の家といっても血の繋がった姉妹なんだし」

遠坂だって桜を呼び捨てだぞ、と妙に和んだ顔で言う士郎。そんなわけ……

「そんなわけにはいかないよ。桜は遠坂の物じゃない。マキリの物なんだからね」

突然、居間の入口から声が掛かった。

「……慎二」

右腕を包帯に包み、柱にもたれる様に立っているのは。幽鬼のようにやせ細った、間桐慎二の姿だった。




「兄さん……」

「やあ、桜。お前まさか遠坂になりたいなんて言わないよな?」

「……はい、わたしは間桐です」

「ああ、それを聞いて安心した。こんな身体だ、今お前に見捨てられたら生きていけないからね」

どこか陰湿で空々しい慎二と桜の会話。わたしは奥歯を噛み締めてぐっ堪える。こんな奴でも、こいつは桜の兄なのだ。

「慎二、大丈夫なのか?」

「やあ、有難う衛宮。僕を気遣ってくれる友人はお前だけだよ」

桜に助けられ、腰を下ろした慎二は、明るいくせに妙に引っかかる表情で士郎に答えた。

「でも、僕は間桐の当主だからね。事の顛末を話すのは僕の責務だろ?」

「間桐の当主って……お前魔術師じゃないだろ?」

「僕は魔術師だ!……あ、いや済まない。遠坂から聞いていないのかい? 聖杯戦争の影響でね、僕も魔術師になったんだよ」

士郎の言葉に、慎二は一瞬激昂しかけたが、息を整えなおすと空々しい笑みを浮かべて言い直した。
そうなのか? と聞いてきた士郎に、わたしは教会で聞いた話のあらましを説明した。

「まあ、そんな事はどうでも良いじゃないか? 聞きたいのは、教会でのことだろう?」

流石に桜が魔具だという話はぼかしたが、あらましを説明し終えた頃、慎二が僅かに苛付いた様子で割って入ってきた。

「ま、良いわ、聞かせて頂戴。桜も、何か補足があったら言って良いから」

少しばかり嫌味かと思ったが、わたしは敢えて桜にも話を振った。正直今ひとつ慎二は信用し切れない。

「僕たちを襲った犯人は僕の祖父、間桐臓硯だ」

「ちょっと待って、間桐のご隠居は春に亡くなったんじゃないの?」

「ああ、死んだと思っていたよ、でも死に切れてなかったようだね。何ともしぶといじじいだ」

慎二の話は驚くべきものだった。
間桐臓硯。こいつは言わば魔力の吸血鬼のような存在だったという。自身を蟲の群体に変えて長命を手に入れる。これは良い、趣味は良くないが魔術師としてはそう外れた術ではない。だが、それを維持する方法が問題だ。
間桐臓硯はその肉体の維持に人の肉を使い、更に自身の後継者達に使い魔を埋め込み、その魔力を食らって長命を手に入れていたという。

「桜は言わばその犠牲者さ」

その通りだろう。慎二の話が本当なら、間桐の後継者になるということは、間桐臓硯を養うためだけの魔力蔵になるという事だ。これでは、下手に弟子を後継者にというわけにはいかない。桜を養子にしてでも間桐の家系を存続させるはずだ。必要なのは魔術師ではなく、魔術回路を持った魔力蔵なのだから。

「だけど、それもこの間の聖杯戦争までだったのさ。遠坂は覚えているかい? 僕のサーヴァントだった金髪のアーチャーの事を」

金色のサーヴァント、ギルガメッシュを“アーチャー”と呼ぶのが癇に障るが、どうやら慎二があいつのマスターになったのは、綺礼の思惑だったらしい。あいつは間桐に入り込み、間桐臓硯を始末する為にわざわざ“慎二のサーヴァント”なんて無意味な立場になったらしいのだ。

「ちょっと待て。じゃあ、その時。その……臓硯は死んだんだろ? だったら慎二たちを襲ったのは誰さ?」

「衛宮、最後まで話は聞いたほうが良いよ? 慌てて先走っても損するだけだろ? ま、衛宮はそういう奴だけどね」

つまり、この時、ギルガメッシュが殺したのは、あくまで臓硯の“肉体”だけだったという。蟲の群体に形を変えた臓硯は、その魂を込めた蟲を始末しない限り、魔力さえあれば“肉体”はどこからでも調達できるというのだ。

「尤もあいつは徹底的にやったらしくてね。すぐに復活するだけの力がじじいに残っていなかったのが幸いしたわけさ」

予備の蟲まで根こそぎにされ、一から魔力を蓄えなおさねば、復活もままならないところまで破壊されたらしい。

じじいがいなくなった以上、桜に蟲を埋めておく必要も無いだろ? 神父に助けてもらって、こいつらをどうにかしようと思って、妙なことに気が付いたんだ。」

流石に出来たての魔術師には荷が重いと思ったのか、慎二は教会の神父様に助けを求めたという。そして神父様の助けで蟲を何とかしようとした時、桜の魔力が蟲を通じて外へ漏れ出しているのに気が付いたのだと言う。

「それから二年はもう必死だったよ。あんな妖怪に復活されちゃたまらないだろ? だから桜の蟲を何とか抑える事ができた時は、本当にほっとしたよ」

まるで自分ひとりで、全てをやったような顔で鼻を鳴らす慎二。ま、実際殆どが神父様の仕事だったろうけどね。

「……俺たちに言ってくれれば、協力だって出来たぞ」

「衛宮ならそう言ってくれると思ってたよ」

ちらりとわたしに意味ありげな視線を走らせ、慎二が士郎に応える。くそ……本当にやな奴だ。

「でも、桜が嫌がったんだ。衛宮に迷惑はかけられないってね」

「……御免なさい、先輩」

「うっ……水臭いぞ、桜……」

桜にまでこう言われては士郎も引っ込むしかない。わたしだって、そういう話なら協力しないわけでもなかったけど……

「それが半年ほど前さ、何とか桜の蟲を抑えることが出来た。魔力を断たれたらもう復活は無いだろうから、後は野垂れ死にするだけだと安心していたところだったんだ」

それなのに今夜、いきなり間桐の家に臓硯が現れたという。その場では特に手出しされることも拘束されることも無かったが、却ってそれが不気味だと、桜共々こっそり逃げ出そうとしたところで襲われ、必死で教会へ庇護を求めに走ったという。

「……半年前ですの? 半年前にそのゾウケンの魔力源を断ったのですわね?」

ここで初めてルヴィアが口を開いた。

「ええ、そうですよ、レディルヴィアゼリッタ」

それに猫なで声で慎二が応える。が、ルヴィアはそんな慎二のそぶりを毛ほども意に介さず、わたしに向かって話しかけてきた。

「例の事件、はじめは半年前ではなくて?」

「そうね、半年前……あ」

半年前に魔力源を断たれた臓硯、そして半年前から始まった、外法による魔力の蒐集。そして今になっての臓硯の復活。更に言えば、間桐の属性は“水”で魔術は“支配”と“吸収”だったと聞いている。あの蜘蛛を操っていた魔術の系譜にぴたりと一致する。

「おいおい、何の話をしてるんだい? 僕の話を聞くんじゃなかったのか」

ルヴィアが無視したのが気に入らなかったのか、それとも自分から注目が外れたのが気に入らなかったのか、慎二が少しばかり苛付いた口調で話しかけてきた。まったく、堪え性の無い。

「済まん慎二。ちょっと複雑な話なんだが、セントラルパークホテルって知ってるかな? 新都に新しく出来た奴」

が、士郎は何とも丁寧に慎二に対応しようとする。まったく、人の良い。

「セントラル? ああ、あそこなら間桐の資産さ」

「「なんですって?」」

慎二の意外な返事に、わたしとルヴィアの声がはもる。こいつ一体今なんて言った。

「全部ってわけじゃないけどね、うちの資産運用をしている法人が関わってたはずだよ。名義は間桐臓硯のままだけど、確か施工の頃は、まだあいつが生きていたっけな」

繋がった、これで全部繋がった。つまりあのホテルは桜が手を離れた時の為の保険だったってわけだ。

「となると臓硯の目的は明確ね」

皆の視線が桜に集まる。あのホテルに造られていた、蜘蛛の玄室のような出来合いではない。間桐の術者として、それこそ臓硯の為に調整された魔力源。

「でも、桜の蟲はやっつけたんだろ?」

「馬鹿、ちゃんと聞いてなかったの? “抑えた”って言ったのよ。取り出せない理由があるのね?」

士郎の間の抜けた質問にわたしは、慎二と桜を交互に見やりながら応える。

「ああ、流石だね遠坂。その通りだ、蟲どもはもう桜の一部になってしまっているんだ、僕の力じゃ抑えるのが精一杯だったよ」

つまり栓を締めただけ、臓硯のような数百年を経た魔術師が桜を取り戻せば、栓を開けることぐらい容易い事だろう。

「さて、“管理者”さん。僕と桜だけどちゃんと保護してくれるんだろうね?」

「勿論よ、臓硯のような危ない魔術師に桜は渡さないし、放っておくこともしない。桜とあんたはわたしが保護するわ」

「それを聞いて安心したよ、遠坂に見捨てられたら僕たちはお仕舞いだからね。それじゃあ、下がっても良いかな? 逃げ出す時に受けた傷が痛むんだ」

慎二はそう言うと桜に支えられて下がって行く。
残されたわたし達は無言で顔を見合わせた。桜のこと、間桐のこと、神父様のこと、今夜ここで判明した事実は、余りに重く複雑だ。

「臓硯を見つけ出して倒すわ」

わたしは皆に向かって宣言した。それも臓硯の本体を。慎二の言うとおりなら臓硯の肉体を倒しても余り意味は無い。“根”を探し出しそれを倒さなければならない。今、冬木で起こっている事件も、桜のことも、全てそこから発している。

全ての源を断つ。

それこそが、冬木の管理者として、遠坂の当主としてわたしがやらねばならない事なのだ。




二年半前、間桐慎二に二度目の転機が訪れた。

――聖杯戦争――

ほぼ六十年周期で冬木の街で起こる、魔術師同士の死闘。その発端に関わった間桐の家にも当然参加資格があった。
だが、桜はこの責務を拒んだ。ここでも桜は、慎二が欲して止まぬものを塵芥のように扱ったのだ。

――なら、僕が代わりに出てやる。

当然だ、所有物の責務は所有者の責務でもある。臆病者に代わって慎二がこれを行うのは当然の権利だ。祖父もそれを支持した。

そして、慎二は負けた。

ずっと求め続けていた“正規の魔術師”たる遠坂凛に罵倒され、愚かな善人に過ぎない衛宮士郎に嘲られて負けたのだ。間桐が、由緒正しい間桐が、塵芥に一蹴にされたのだ。
もし、自分が正規の後継者だったならば、こんな無様なことにはならなかったはず。もし、正規の後継者が……

蒼いサーヴァントに右腕を突き壊され、黄金のサーヴァントに裏切られ、無理やり聖杯に擬され、聖杯の狂気に理性を破壊されかけた慎二が、最後に縋ったのはそのことだった。

そして、全てが終わり、目覚めた時。失われたはずの右腕は元に戻り、慎二は魔術師となっていた。

狂喜した。
全てが再び裏返ったのだ。世界は慎二の味方だった。
あの黄金のサーヴァントが、実はあの神父と謀って祖父を葬る為に、自分のサーヴァントとなり間桐の家に赴いていた事を知り、この思いは確信となった。
あの恐るべき祖父はもういない。慎二にとって屈辱しか与えなかった蟲蔵も、新しく来たお人良しな神父をたばかり焼いた。腐った蟲を全て処分した時の開放感は、今でも慎二の背筋を喜びに震わせてくれる。慎二に何も与えてくれなかった、あのおぞましい間桐の魔術などはもういらない。今から慎二が新しいマキリとなるのだ。

そうなると妹への見方も変わってくる。
全身を刻印虫という名の祖父の使い魔に蝕まれ、ただ、ただ、魔力を供給するだけの道具に過ぎなかった妹。
なんのことはない、間桐の後継者とは、祖父の長命の為に魔力を送る、魔力タンクに過ぎなかったのだ。祖父が消えた後、問い質した桜が魔術の知識に余りに疎いこともこれで頷ける。道具に知識はいらない、桜が間桐の書庫に入れなかったのも道理だ、家畜が下手に知恵を付けたら困るというわけだ。

魔術師でもなんでもなかった。桜が卑屈なのも当然だ、ああ、かわいそうな妹、唯人でさえなかったとは。哀れみが、再び慎二の自尊を満たした。
こうなると桜の資質が惜しい。魔術師になったとはいえ、右腕に僅かな回路しかない慎二の力は大したものではない。だが、桜は自分のものだ、祖父の刻印虫だって、正当な後継者足る自分の継ぐべきものだ。

二人の今までに同情した神父を謀り、慎二は桜の刻印虫に挑んだ。桜を“解放”して、その全てを自分のものとする為に。桜は慎二の物なのだ、あの爺なんかには決して渡しはしない。


「……兄さん」

慎二の右腕を胸に抱き、桜はそっと呟いた。
先ほどまで居間のやり取りについて興奮して話していた兄は、喋り疲れて今はぐっすりと眠っている。桜が腕を抱いているせいだろうか、もう魘されてはいないようだ。

「始まってしまった……」

始まってしまった。兄は笑えという。皆が自分の為に踊っているのだから、笑えと言う。
だが、桜は笑えなかった。兄の思惑通りになったとしても、祖父の思惑通りになったとしても、はたまた姉の思惑通りになったとしても、桜は何かを失うだろう。
桜の望みがあるとしたら、それは今の平穏が続くことだけだった。
新しい明日などは、今まで一度も望んだことなど無かった。

そんなものが素敵であるはずが無い。
昨日が常に苦しく辛かった桜には、明日を望む術さえも持っていなかった。

ふと、金色の光が脳裏をよぎった。

――「倫敦にいらっしゃい、桜」

――「明日は今日とは違いますの、今日と同じ明日など誰も保障は出来ませんわ」


今日と違う明日など怖いだけ、なのにあの人はそれを少しも恐れていなかった。それどころか、光り輝く可能性としか捕えていなかった。

――わたしには無理だ

わたしはあんな風にはなれない、あんな考えは出来ない。
それがとても哀しかった。とても羨ましかった。


そして、とても憎らしかった。

to be Continued


ついに動き出した冬木の闇 なお話。
刻印虫の働きに一部ちょっと手を加えておりますが。Britainでも桜の状況はHFと概ね同じ状況であるとお考えください。
どうしようもなく歪んでしまった間桐の家、それに取り込まれ、ただじっとしているだけの桜。
まだまだ状況は混沌として、振り回され続けるBritain一行ですが、彼らはこの状況を打破できるのでしょうか?
それでは次回、第三話をお待ちください。


By dain

2004/9/8初稿
2005/11/13改稿


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