桜にとって“魔術師”であることは、苦しみ以外の何物でもなかった。
他は知らず、間桐の魔術は淫虫と呼ばれる蟲の扱いのみ。

蟲に食われ、蟲に弄ばれ、蟲に犯されながら、蟲に媚を売り、蟲を悦ばせ、蟲を逝かせて、蟲を支配する。
犯され、悦ばされ、逝かされながらも、醒めた意識を保ち続け、手綱を放さずに相手を制御する。いわば娼婦のてくだ。娼婦との違いは相手が人か蟲かの違いだけ。
それこそが、桜が“魔術師”として身体に叩き込まれたわざだった。

遠いあの日、桜は一番最初に間桐となる為に、何の準備も無く蟲蔵に叩き落された。
蟲に心を犯され、弄ばれ、ついに身体を犯され、間桐の“水”を身体の隅々にまで染み渡らされた。心を激しい悦楽に犯され、幼い身体を無残に引き裂かれながら、それでも桜は、本当の父から、わずかばかりに手ほどきされたすべに必死で縋り、理性の一欠けらを保ち続けることが出来た。

だが、耐え切ったことこそが、地獄の始まりだった。もしかすると、耐え切れずにそのまま狂ってしまった方が幸せだったかもしれない。

毎夜、毎夜、毎夜、蟲に犯され続けた。
蟲への耐性がつくと、手足の感覚を奪われた。外科医の正確さで、常にギリギリまで心を暴かれ、身体を辱され続けた。

ついには、その蟲達が己が身に同化し尽くすまで。

あの初めての日に桜を犯した、三・七、二十一匹の刻印虫。
これこそが間桐の魔術刻印。特別に選び抜かれ、育て上げられた淫虫に、臓硯自らが手を加えた変異体。
他の淫虫など、とうに手なずけた桜が、最後まで支配できなかった蟲達。それは同時に臓硯の使い魔でもあった。

桜は、慎二が思っているほど、魔術師としての知識を持っていないわけではない。
幼い日、ほんの僅かな時間ながら父の手ほどきで身につけた“虚”の術式。臓硯が、何のつもりか戯れに教え込んだ“水”の術式。遠坂凛やルヴィアゼリッタのように系統立てた知識ではなくとも、桜は魔術師として最低限の知識と術は身につけていた。

だから、理解できた。
自分が、臓硯の為の蟲蔵に過ぎない事を。
全身の神経に同化し、休眠状態でも桜の魔力を貪り続ける蟲。だが、蟲を飼うだけならさほどの魔力は必要ない。臓硯は鍛錬の為と甘い声で言うが、吸い出される量が魔力の成長につれ増え続けているのを見れば、理由など明白だ。
喰われているのだ。
使い魔である刻印虫を通し、臓硯に貪られているのだ。あの醜悪で恐ろしい祖父の命を保つ為。

二十二匹目の蟲、臓硯自らが桜の心臓に巣食った時、桜は確信した。
間桐の後継者の正体。それは、生かさぬよう、殺さぬよう、生きたまま臓硯に貪り食われる家畜。必死で糸を吐き繭を作っても、決して孵る事のない家蚕。それこそが間桐の“魔術師”であることなのだ。





くろいまゆ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第三話 前編
Beelzebul





聖杯戦争と呼ばれる戦いが終わり、お爺さまが消え、兄が魔術師になったあの日。兄は高らかに言った。お前はもう後継者じゃない。僕が間桐の後継者だと。
その意味さえも知らず、蟲なんか要らないと蟲蔵を焼き尽くした兄の笑顔を、わたしは痛々しく見ているしかなかった。

――だって、お爺さまはまだ居るのだから。

お爺さまが居る限り、例え兄が魔術師になっても、本当の意味で“間桐の後継者”はわたしでしかありえない。魔術師になったことで、昔のように蔑みながらもわたしに優しくしてくれる兄。けれど、それもお爺さまが帰るまで。そうなれば、兄はまた狂気に犯されたように、わたしに辛く当たるだろう。
けれど、それを自分の手で壊すことは出来なかった。唯一つの夢だった先輩は、遠坂先輩のものになってしまった。もう、わたしは兄さんに縋るしかなかった。

だから、わたしの中の刻印虫を、必死で自分のものにしようとする兄にも黙って従った。神父様に全てを告解して味方につけろという命令にも従った。どうせお爺さまが帰ってきたならば、全ては壊れるのだ。その程度なんでもない。
今の平穏が一日でも長く続くなら、ただそれだけで良かった。

「兄さん……」

そんな日々が崩壊し始めたのは、丁度一年ほど前。先輩と遠坂先輩が留学の為に倫敦へ旅立った後のことだった。
兄の右腕が腐り始めたのだ。
兄が聖杯にされてしまったことは知っていた。知りたくなど無かったが、知ってしまっていた。兄の右腕はその時、聖杯によって再生されたものだ。

腐りゆく理由も薄々気がついていた。お爺さまの身体が長持ちしないのと同じ理由だ。
数百年を生き続けたあの老人おじいさまは、すでに魂が磨耗し、蟲を使って何度でも再生できるとはいえ、その形を長くイメージし続けることが出来なくなっていた。
兄も同じ、元々無かった魔術回路を持った右腕。兄はその魔術回路をイメージし切れていないのだ。だから腐り落ちる。

その日から兄の狂気が再開した。わたしを罵倒し、蔑み、懲打し、最後には助けてくれと縋りついてくる。
わたしは兄に応えるしかなかった。今日の為、優しい兄であり続けてもらう為。
幸い兄とわたしにはパスが通っている。兄の右腕に魔力とともに魔術回路のイメージを送り込み、崩壊を食い止めることは出来る。

ただし、これも一時凌ぎ。元々兄は魔術師ではないのだ、他人の回路のイメージなど尚更保てるわけが無い。ただ崩壊の速度を早めるだけ。効果もどんどん薄くなる。それでも、わたしは縋るように兄に力を送り続けた。

けれど、兄はそれを知らない。わたしの力さえ手に入れば、自分の魔術回路も安泰だとばかりに、神父様と共に、益々刻印虫の研究にのめりこんでいった。

計ったように、お爺さまの声が再び響いてきたのは、丁度そんな時だった。



「――桜」

小さく、囁くような声に、わたしは記憶の奥に沈んでいた意識を引き戻した。
先輩だ。いつの間にか、そっと開かれた襖の向こうから、この一年でまた一回り大きくなった身体を縮めるように顔を覗かせている。

「先輩?」

「ああ、慎二は寝たのか?」

「はい、よく眠っています」

「じゃ、桜も寝ろ。部屋の用意したから」

相変わらずぶっきら棒な先輩の物言い。けれど、その声音には、眠る兄さんとわたしへの気遣いが伺われた。相変わらず先輩は優しい。
わたしは、ふと兄さんの寝顔を見詰める。良いのだろうか、このまま置いて行ってしまって。
結局わたしは一抹の罪悪感を抱いたまま、先輩に従って用意された部屋に向かうことにした。

「なんのかの言って、やっぱり慎二も兄貴なんだな」

「え?」

部屋に向かう道すがら、先輩が何処か嬉しそうな声で呟いた。

「相変わらずきつい皮肉たっぷりだったけど、慎二は桜をその臓硯って奴から助け出す為に頑張ったんだろ?」

「……あ、はい……」

違う、兄はただ自分のものにしたかっただけだ。わたしを、間桐の力を……

「俺たちも力を貸す。絶対救い出してやるからな」

本当に何気なしに、先輩の手がわたしの頭を優しく撫でる。背筋に甘美な煌めきが走った。
駄目、わたしは先輩にそんな事をしてもらえる女ではない。今も嘘をついたばかり。姑息に今を保つ為、誤魔化す為に嘘を吐き続ける穢れた女。それがわたしの正体だ。
にっこりと微笑みかける先輩の顔が見れない。わたしは俯いて沸きあがる涙を隠すので精一杯だ。
この人は、先輩はちっとも変わっていない。遠坂先輩の、姉さんのものになっても、わたしの事を知った今でも、以前のままだ。それが、今はとても辛い。

「あ、くそ!」

ふいに、先輩の声音が変わった。わたしへの優しさとは違う、もっと開けっ広げで、遠慮の無い声音。何故か、それがとても羨ましくて、わたしは顔を上げた。

「あ……」

一瞬息をするのを忘れた。

銀河が流れる星空の下、そこにはとても美しい幻想があった。

白銀の月の光を浴び、瞬く星よりもなお美しく、きらきらと煌きながら言霊を紡いく真紅と黄金。

ルヴィアさんと姉さんだ。庭の中央で背中合わせに両手をつなぎ、瞑目しながら歌うように、唱和するように呪を紡ぐ。
上空に舞うのは黒い影。きらきらと月光を映した軌跡を残し、天と地の狭間に新たな銀河を描いていく。

「綺麗……」

いくら魔術に疎いとはいえ、これはわたしでも分かる。防御を固める為、衛宮邸の結界の上に、もう一つ結界を被せているのだ。この家の結界は弱い。とはいえ他者の魔術を強化するのはロスが多い。だから結界の大外から別の結界を敷いているのだ。しかも、上空から。

息を呑むほど見事だった。見蕩れてしまうほど綺麗だった。そしてとても妬ましかった。

どうしてこの人たちの魔術はここまで綺麗なのだろう。同じ魔術師で、どうしてここまで違うのだろう。わたしの魔術が汚泥に濁った溝川なら、この人たちの魔術は、今、空に煌めく銀河のようだ。

けれど、綺麗なだけでは羨ましくはあっても、妬んだりはしない。

妬ましかったのは、あの人だ。
姉さんと、まるで姉妹のように呪を合わせる金色の光。
姿かたちは違うけれど、背中合わせの二人はまるで双子のようだった。他人の魔力は馴染まない。そのはずなのにあの二人は、あの真紅と金色の宝玉は、釣りあった天秤のように完璧な呪を合わせ、これほど綺麗な魔術を編んでいる。それこそ本当の姉妹でも無ければ、ここまで相性は良くないだろう。

――わたしには無理だ

ぐつぐつと、黒い何かが心に湧き上ってくる。舌打ちしながら、それでも尚、優しく二人を見詰める先輩の瞳が、益々それに勢いをつける。
あの人は先輩の心の中に居る。姉さんよりも少ないとはいえ、それでも間違い無くあの人はいる。こんな綺麗な魔術を編み、先輩の心に住み、姉さんすらあの人の物。

泥が、止まらない……

「こら、お前らまたランスを勝手に使ったな」

「勝手では有りませんわ。きちんと了承は取りましたわ。ランスから」

「そうよ、セイバーも良いって言ったし。何でも“ご婦人の頼みを断ることなど出来かねる”んだって」

そんなわたしの心に気づくこと無く、先輩は施術が終わった二人に話しかけた。その気安さが、益々わたしの心を闇に染める。

「ちょっと待て。一応俺がランスの主なんだぞ。こら、ランス! お前もそ知らぬ顔をしてるんじゃない」

笑い合いながら、楽しげに話す三人の姿を、わたしは少し離れた場所で俯いて見ていることしか出来なかった。わたしには眩しすぎる……

「……サクラ、貴女、どうかなさったの?」

そんな思いでぽつんと一人立ち尽くしていたわたしに、ルヴィアさんが訝しげに声をかけてくる。

「あ、その。あんまり綺麗だったんで見蕩れちゃったんです」

「そうでもないわよ。ルヴィア、あんた二小節目とちったでしょ?」

「貴女こそ、五小節目はリフレインですのよ。勝手な節をつけないでくださる?」

「お前ら、素直に褒められろよ……」

楽しげにいがみ合う二人に、先輩の呆れたような声。それで居てやっぱり優しい。けれど、わたしはその輪に混ざれなかった。
駄目、わたしにはあの輪に加わる資格は無い。
でも、それでもせめて誰かに応えて欲しかった。あそこはあんなに明るいのに、どうしてわたしの立っている所はこんなに暗いのかを。

「明日、遠坂わたしの家まで行って来る。こっちじゃちょっと道具が足りないし」

そんな光の中から、姉さんがわたしに向かって告げる。昔からちっとも変わらない、まるで、言葉にした事は必ず実現すると宣言するような、断固とした口調。

「でも……」

ここと遠坂の家の間には間桐の家がある。あそこには、あの恐ろしい祖父が手薬煉を引いて待っている。

「だから、俺とセイバー、それに遠坂の三人で突っ切る。まさか遠坂の家までは追って来れないだろうってね」

先輩が、わたしの心配を先取りするように言葉を続けた。それじゃあ、この家は……

「その為にも、この家の守りを強化していましたのよ。サクラ、貴女と貴女のお兄様はわたくしが守ります」

それをも見越したように、ルヴィアさんが朗らかにわたしに向かって微笑みかける。
ああ、そうか。わたしが下がっている間に三人で決めていたんですね。
月光の下きらきらと煌めく三人を前に、わたしは闇の中で納得した。やっぱり違うんだ。こことあそこは、別の世界なんだ。

だから、

だから、その事を知らせるのには何の躊躇も無かった。




――Crow……

朝日を浴び、俺の手にランスが舞い降りてくる。鴉の癖に難しげに眉を顰め。済まないとばかりに頭を垂れる。

「駄目だ、外からだと何も分からなかったらしい」

「やっぱりね、わたしだって十数年間隣にいて、ついぞ気配を掴めなかったんだから」

俺の隣で腕を組んでいるのは遠坂。朝早く偵察の為、まずランスを間桐の家に飛ばしたのだ。

「ってことは一発勝負か」

「昼間だし、おかしな手は出してこないと思うけど」

遠坂は難しい表情で俺と顔を見合わせた。
今から赴こうという遠坂のいえ、それと衛宮邸おれのいえの間に間桐の家がある。果たしてそこに間桐臓硯がいるのか? はっきり言って不安だ。なにせ、この間桐臓硯。名前と慎二の言葉以外、どんな奴なのか姿形すら分かっていないのだ。

蟲が夜行性でもあるのか、慎二の言葉によると、間桐臓硯自身は陽光の元に出られないらしい。本当に吸血鬼みたいな奴だ。とはいえ、あの蜘蛛の玄室と教会での暴れっぷりを見ると、何をしでかすか分からない不気味さがある。その目と鼻の先を掠めて隣へ向かおうというのだ、警戒してしすぎることは無いだろう。

「シロウ、凛。私が居ます」

そんな俺たちに、セイバーの凛とした声が掛かる。厳しくも頼もしい表情で既に完全武装を整えている。

「どのような敵であれ、それが御二人の前に立ち塞がるならば、見事退けてご覧にいれます」

気負いも自負も無い、淡々とした言葉、しかしそれこそがセイバーの自信の表れであり、その実力に裏付けられた確固たる事実でもあった。俺も遠坂も、ふっと肩から力が抜ける。そうだった、俺たちには英霊がついているのだ。ただの食いしん坊な女の子じゃないんだった。最近どうも忘れがちだけど。

「でも、あいつ妙な泥使うわよ?」

「凛、甘く見てもらっては困る。あの時は相手にそのような手があると知らなかった。ですが、今は知っている。知っている以上、同じ手を食らうほど、私はやわでは有りません」

遠坂の心配にも、きっぱりとした返事が返ってきた。そうだな、いかに収奪に長けてようとも、身構えた英霊をどうこうできる相手はそういない。とはいえ、

「警戒は怠らないで行こう。相手は何百年も生きてるんだろ? だったら聖杯戦争だって何度も見てきたはずだ。英霊がどんなものかも知ってると見たほうが良い」

「だからセイバー、無茶な突っ込みは無しよ」

俺の意見に頷いて、遠坂もセイバーに念を押す。大丈夫だとは思うが、セイバーは時々脇が甘くなるし。

「それはどういう意味でしょう。無茶な突込みで言えばシロウが一番怪しい」

だが、セイバーさんは俺たちのそんな心配に、半眼になって反論してくる。更に凛も自分で思っているほど慎重ではありません、と痛いところを突いて来た。そのままむぅ――と睨みあう、マスター&サーヴァント。最近セイバーも遠坂に似てきたなぁ。

「仲が良いんですね」

「ええ、まったく妬けるほどですわ」

と、そこに桜とルヴィア嬢が、呆れたように言葉を交わしながら仲良く肩を並べてやって来た。

「おはよう。桜、ルヴィアさん。慎二の具合はどうなんだ」

「おはようございます、先輩。まだ寝てますけど、傷はだいぶ良くなりました」

それは良かった、昨日は皮肉全開だったが、かなり辛そうでもあったからな。

「おはよう、シェロ、リン、セイバー。サクラが朝食を作ってくれましたわ」

「悪いわね、桜」

「いえ、わたしにはこれくらいしか出来ませんから……」

ルヴィア嬢の挨拶に、遠坂は腕組みしたまま桜に向かって応える。ちょっと怖いぞ、桜が縮こまっちまったじゃないか、これじゃあ桜は姉さんなんて当分言えそうに無いな。

「そんな事は有りませんわ。貴女にはもっと色々な事がお出来になるはずよ」

遠坂の腕組みに対峙するように、今度はルヴィア嬢が腕組みして桜の傍らに立つ。なんか、妙なことになってきた。ルヴィア嬢が桜と仲良くなるのは良いんだが、それで遠坂とぶつかるってのは、何か違う気がした。

「桜の朝食は久しぶりですね。楽しみです」

そんな微妙な雰囲気をセイバーの柔らかな声が破る。ふと空気が和んだ。本気で楽しみにしているセイバーに、遠坂もルヴィア嬢も苦笑するしかない。桜も、何処かほっとしたように微笑んでいる。

「そうだな、朝飯を食ったら、出発するぞ」

そして、準備を整えて今夜には片をつけてやる。これから何が待っているかは知らないが、最後は必ず今のように笑ってみせる。




「気に入らない」

遠坂邸の玄関前、遠坂は憮然とした表情で呟いた。

「なにも無かったんだから、喜ぶべきじゃないのか?」

周囲の警戒をセイバーに任せ、俺は遠坂に声をかけた。
衛宮邸おれのうちを出て、間桐の家の脇を通り抜け、遠坂邸とおさかのうちへ。
結局何も起こらなかった。朝とはいえ既にかなり強い日差しの中、俺たちは拍子抜けするほど簡単にここまで辿り着いてしまった。

「あの屋敷にも、おかしなものは感じませんでした。些か生臭い気はありましたが……」

セイバーも不満そうだ。気持ちは分かる。俺も何か引っかかってはいるのだが、何も起こっていない以上対処のしようが無い。

「ともかく、中に入ろう。道具の持ち出しと、霊脈の確認だっけ?」

「うん、ここはいっぺん閉じるわ。金庫に鍵かける様にカチンと、時間が来ないとわたしでも開けられないくらいの特殊な鍵をね」

片がつくまで誰にも入らせない様にする為だ。今のままでは守らなきゃいけない場所が多すぎる。脇を固めて正面を絞るのだ。下手な小細工抜きで、真正面からのぶつかり合いになれば、セイバーの居る俺たちは多少のことでは遅れを取らない。

「じゃあ、とっとと済まそう。桜やルヴィアさんが待ってるんだし」

俺たちは御互い頷き合うと、意気込みも新たに遠坂邸に入っていった。

「鍵も結界も異常なし……か」

まずは遠坂の部屋から道具や宝石を一山持ち出す。
そこでも特に異常は無かったのだが、やっぱり遠坂は浮かない顔だ。何か起こって欲しいわけじゃないが、何も無いのはそれはそれで不安だ。二律相反、贅沢な話だが、俺にも気持ちは分かる。
が、ともかく次だ、俺たちは霊脈を管制する地下室に向かった。

「なにが心配なんだ?」

「うん、ほら。教会が襲われたでしょ?」

「ああ」

「あそこにはね、ここに入る為の“鍵”があったの」

なるほど、確かに管理代行をお願いしている以上、ここに入れないと何かと不便だろう。掃除とか屋敷の手入れもあるし。待てよ、ってことは。

「じゃあ、もしかしてこっそり?」

既に、ここで待ち伏せしているとか?

「ううん、それもありえない。“鍵”があっても、ここは遠坂以外のものが入ったならそれなりの反応を示すの。神父様の匂いは残ってるし……」

「じゃあ、何が心配なんだ?」

「心配って言うより、分からないのよ。“鍵”を持ってるのよ? なのになんでここの霊脈に手を出さないの?」

遠坂は睨みつけるように俺と顔を見合わせる。何故って、それは……

「凛、心配は無用です」

難しい顔を見合わせている俺達に、先頭を歩いていたセイバーの重い声が響いた。

「敵は既に此処を手に入れています」

「なんですって!」
「なんだって!」

俺たちは慌てて、セイバーの前に出た。地下室への階段。そこを一段ほど下ったところで……

「埋まってる?」

どこかで見たことがあるような漆喰の壁。俺はかがみこんで、階段を塗りこめている壁に手をついた。

「なんでよ、ここに残ってるのはわたし達と神父様の気配だけよ。余所者の気配なんか全然残ってないんだから……」

遠坂の悲鳴にも似た呟きを余所に、俺はじっと漆喰を確かめる。木屑、細かく砕かれた土塊、それを何かで捏ねて固めてある。

「教会と同じだ」

教会の霊脈への階段を固めたのと同じ材質。つまり神父様を倒したのと同じ奴がここに居たって事だ。

「ああ、もう! 悩むの止め。士郎、下がって。撃ち抜くわよ!」

とうとう遠坂が切れた。今までの鬱積が一気に爆発したのか、目が据わっている。わたしの家に何てことしてくれるのよ、と呟きながら、なにやらごそごそ取り出している。ちょっと待て、それって大師父の宝石じゃないか!

「――――Strum und Drang疾 風 怒 濤)!」
「どわぁ!」

いきなり第一級の呪が爆発する。ただでさえ、一級の遺物アーティフィクトを触媒にした呪だ、それに此処は遠坂の地、相乗効果で凄まじい破壊力だ。粉塵が舞い散り何も見えなくなる。ぺっ、口に入った、なんか酸っぱいぞ。

「遠坂!」

見ると、遠坂も粉塵まみれで呆然としている。

「あはは……ごめん、わたしの呪が狙い甘いの忘れてた」

何とも情けない顔で、謝ってきた。こら、笑って誤魔化すな!

「……遠坂、お前、時々たまにもの凄く頭悪くなるな」

「な! なによ、士郎に馬鹿って言われると本当に馬鹿みたいじゃない」

ああ言えばこう言う……。遠坂、それは俺が馬鹿だと言っているのか?

「凛、シロウ。お楽しみのところ申し訳ないのですが」

こら、セイバー。俺たちは楽しんでなんか……え?

「どうやら、もうひと汚れしなければならないようです」

厳しい表情で剣を握るセイバーの視線の先は、ぽっかり開いた地下室への階段。その向こうからは胸糞の悪くなる匂いと共に、なにか硝子を擦るような音が響いてくる。ぞろぞろと、ぐしゃぐしゃと、何かが見えない瞳で俺たちを睨めつけてくる。

「遠坂……」

「ええ、ちょっと大掃除しなきゃいけないみたい……」

じっとりと迫る冷たい悪寒に動じることなく、遠坂は再び宝石を一掴み取り出しながら身構える。俺も同じだ、こんな奴らに遠坂の家を侵させたままで居れるもんか。両手を下ろし、俺は空を掴んだ。

「――投影開始トレース・オン




そこは広大でありながら閉ざされていた。闇に包まれながら煌めき輝いていた。乾いていながら湿っていた。聳え立ちながら沈み込んでいた。
そんな輝く闇の一角、湿ったものが蠢いている。這いずる様な姿で、輝きの中心に向かい膝行っていく。

「久しいのぉ」

懐かしむように、哂うように蠢くものが囀った。

「いやいや、ワシも斯様かようなことはしたくは無い。保険よ保険、誰が好き好んで無駄をする。違うかな?」

誰に言うとも無く蠢くものは呟いた。

間桐臓硯。それがこの醜歪な肉塊の名だ。
先の聖杯戦争で、その手足を失い。さらにその身体を形作るはずの蟲達も孫の手によって根絶やしにされ、その姿を消していたはずの妖物。が、この老人は、今でもこうやって蠢いている。

小さな蟲の中で、半ば眠りながら時が来るのを待っていたこの老人が、ようやくこの姿を取り戻したのは、今から半年程前のことだった。



―― 臓々 ――

蟲が群がる。醜悪な蟲がずぶずぶと肉に潜り込み、己が魂の形に整えていく。皮だけを残し、肉を喰らい血潮となり徐々に中身に取って代わっていく。
怖気を振るほど醜悪な聖餐の末、最後にぽとりと首が落ち、代わりに皺だらけの老人の首が姿を現した。

「……随分と時をかけたものよ」

その首が目の前の影に、揶揄するように呟いた。
臓硯にとってもこれは余り気持ちの良い行為ではない。ことに、寄り代となる肉が屍肉となれば尚更だ。

「し、しかたがないだろ? あいつが人殺しを嫌がるのはいつものことなんだから」

この屍体だって随分苦労して集めたんだ、と目の前の影は怯えながらも、憮然と言い放つ。

「ほう……」

目の前の影が、自分の思ったものと違うことに気がついて、臓硯は目を細める。ほほう、なるほど、そういう事か……

「これはめでたい。満願成就といったところかな?」

「ああ、そうかお爺さまは知らなかったんだっけ。聖杯のおかげさ」

目の前の影――慎二は得々と、まるで自分の手柄のように話を続ける。愚かな孫、あれはそのような物ではない。が、これで合点が行った。この愚かな孫が、何ゆえここまで大きく出たか。元々心の脆い孫であったが、ここまで半可通に増長するとは……
まあ良い、臓硯は心の中で思い直し哂った。これで手駒が一つ手に入ったとするならば、そう悪い取引でもない。

「それはそうと、些か蟲が足りぬようだな」

不満があるとすれば、その一点だ。既に魂の磨耗した臓硯には、ここに居る蟲ではせいぜい一年か二年しか持たない。次の聖杯戦争が、先回同様そう遠からず起こるとしても、これでは些か心もとない。

「そ、それなんだけど、僕だけじゃ限界なんだ。お爺さまの助けが要るんだよ……」

引きつった笑顔で、孫は媚びるようにへつらううように話し始めた。
はなはだ身勝手なことに、この孫は自分に助けを求めてきているようだ。
蟲を焼き払い、あれに手をつけようと躍起になったことを、気付かれなかったと思っているのだろうか。なんとも救いようの無い愚か者だ。

「やれやれ、この爺をこき使おうというのか?」

「あ、その……お、お爺さまの為だよ。あ、あいつらの身体ならお爺さまだって長生きできるだろ?」

事はそれほど簡単なことではない。だが、この不出来な孫はそんな事にも気がついていない。身体は魔術師になったとはいえ、この孫は所詮この程度の器だということか。

「まあ、良い。此処は一つ、この爺が骨を折ってやろう。可愛い孫の頼みよ、無下にはせん」


あの時は、本当に愚かだと思った。孫可愛さに頷き、準備は整えたものの、臓硯本人はこんな愚かな企てに乗るつもりは毛頭無かった。

――遠坂を捕まえて、桜同様、間桐の蟲蔵にする――

完成した、十全たる魔術師を、殺したり壊したりするならともかく、乗っ取り制御することなど出来るはずも無い。間桐の支配と吸収の秘儀を以ってしても、精々、普通より少しばかり出来の良い“寄り代からだ”にすることくらいしか出来はしない。

「とは言え、瓢箪から駒とはこのことよ」

だが、あれなら話は別だ、あれなら支配できる。しかもあれは英霊に繋がっている。慎重に、的確に事を進めるならば、あの英霊さえも手に入るかもしれない。
少しばかり計画は修正したが、話が違うとごねる孫の尻を叩き、臓硯自らが事を推し進めたのはそういったわけがあったからだ。

「どうせあと僅かしか持たん。使い潰すのも悪くは無い」

次までの間の座興で、こうまで楽しめようとは。
ぼろぼろと腐りながら肉魁は笑った。
狂ったように舞い踊る孫達は、それはそれは面白い座興だ。久々に心から笑えるかもしれない。
楽しげに頬を緩ませ、臓硯は哀れな孫たちを嘲った。
尤も、臓硯は孫達を憎んでいるわけではない。不出来で脆弱で、勝手ばかりをする孫達であったが、愛しているといって良いかもしれない。
無論、それは臓硯なりの愛し方であったが。




「ふうっ」

居間でお茶を飲みながら、ルヴィアは退屈していた。
時刻はまだ午前。臓硯という男が、どんな魔術師なのか今ひとつ掴めていないが、この時間から派手な動きを仕掛けてくるとは思えない。

それに守りも堅い。別段、遠坂凛とルヴィアで敷いた結界が特別なわけではない。今、屋敷の上空を周回しているランス同様に、この結界はあくまで警戒装置だ。
何らかの敵を発見したならば、遠距離でそれを捕える為の蜘蛛の巣。それがあの結界。
堅い守りとは、それではなく自分自身、そして

――桜だ

はじめて会った日、遠坂凛と衛宮士郎が席を外した直後に垣間見せた、あの闇。
正直怖気を奮った。深く硬い飲み込まれそうな影。更には、その影をあそこまで隠し通す自制心。
ルヴィアはそこに紛れなく一流の魔術師の資質を見た。
確かに技量こそ未熟だが、ルヴィアは己の目を信じた。

いや、技量の未熟さには、怒りを覚えたほどだ。遠坂凛にしろマキリにしろ、あれほどの素材を今までどう扱ってきたのだ。
遠坂凛についてははっきりしている。身内の卑下か、それとも妹を放っておいた罪の意識か、目が曇っている。それは遠坂凛と話をしてはっきりした。
だが、マキリは何故? 後継者ではなかったのか?

だから、慎二の話にも合点が言った。そのやり方には腹が立つが、器としてというのならば、桜の価値を知らなかったわけではないという事だ。

「些か趣には欠けますけれどね、人は万能の器、それを単能の器にするなんて」

だが、これで声を掛けたのも無駄にはならない。桜は開花するだろう。あの暗い闇、あれを制した魔術師なのだ。
実のところ、ここに臓硯とやらが来てくれるのを楽しみにしているほどだ。ギリギリにまで追い詰められれば、あの些か優柔不断な娘も踏ん切りがつくだろう。そこで桜の本当の力が見れるはずなのだ。

「……本当に楽しみ」

ルヴィアは浮き立つような気持ちを抑えきれず、思わず微笑んでいた。現状の危機は十分承知している。それが判らぬほど愚かではない。だが、それでも尚、嘗て祖母が屈辱を舐めた地で、エーデルフェルトがその半身を失った地で、自分はこれほどの物を拾い上げたのだ。これが喜ばずにいられようか。

「やあ、レディルヴィアゼリッタ」

そんな楽しい夢想にふけっているところに、慎二が現れた。
この男は知っている。ごくごく普通の魔術師だ。倫敦でも腐るほどいた。

「何の御用ですの? ミスタ間桐」

「やだなぁ、用事がないと顔を見にきちゃいけないのかい?」

馴れ馴れしく声をかけ、慎二はルヴィアの傍らに座った。そのまま、嘗めるような粘つくような視線をルヴィアに投げかけてくる。
溜息が出る。この男は今の状況を理解していないのか? 

「御部屋には結界が敷いてありますのよ? こちらに来られては意味がありませんわ」

「結界? ははは、もしかして僕があの爺を怖がってると思ってるのかい?」

ふと、違和感を感じた。その下卑た視線にではない。この科白が虚勢だということも確かだ、この男は怖がっている。だが……

「馬鹿だなぁ、そんなこと心配することは無いんだよ」

恐れていない、恐れるほどの想像力が無いのだろうか。

「恐れることは、悪いことではありませんわ。まして相手が見えないのですから」

「へえ、君は怖いんだ」

「勝てないとは思いませんが、恐れては居ますわ。侮って良い相手ではありませんもの」

恐れながらも見下した目、間違いない。この男は勇気と侮りの区別もつかないのだ。なんとも品下がる、相手にするのも馬鹿らしい。桜の兄と遠慮をしていたがそろそろ仕舞いにしよう。

「ああ、安心してくれて良いよ。君は殺さないから」

が、ルヴィアが動く前に慎二の表情が変わった。ぎらぎらと粘つく視線はそのまま、全身に狂気が広がっていく。

「ミスタ間桐?」

「慎二って呼んでくれないかな? これからずっと仲良くなるんだから」

広がっていく醜悪な狂気にルヴィアは却って落ち着いていった。成程、これで納得がいった。この男は正面の敵ではなく、後の味方を怖がっているのだ。しかし、

「貴方馬鹿ですわね」

心底あきれ返った、この男はルヴィアに勝つつもりなのだ。

「……なんだと!……っ!」

思わず掴みかかってくる慎二の腕を、ルヴィアは素早く掴んで捻り上げる。流石に関節を外すのは遠慮したが、きっちり腱を押さえ肘を極めてやった。さぞ痛いことだろう。

「がっ!」

そのまま崩して投げ捨てる。つくづく期待を裏切らない。思ったとおり威勢の良いわりに御粗末なものだ。

「馬鹿な真似は御止めなさい。貴方程度がどうこうできるものではなくてよ?」

ゆっくり立ち上がり、ルヴィアは慎二を見下した。既に両手には宝石を握り締めている。何かおかしな動きをすれば、いつでも消炭に出来る。尤も、そこまでやるつもりは無い。自分でも甘くなったと思うが、これは一応桜の兄だ。

「こ、これでもそんなことが言えるのかよ!」

腰でも抜かしてしまったのだろう、そのまま後ろに膝行ながら慎二は悲鳴のような声を上げる。

―― 臓々 ――

その声に呼応するかのように、周囲の影から蟲が湧き出してきた。
百足、蠍、蜘蛛、それに何とも形容しようの無い形の芋蟲。なるほど、これがマキリの蟲か、既に中に入って居られては結界も意味をなさないというわけか。だが、

「言えますわ
――――Coup droit瞳 針)!

ルヴィアは微笑みながら呪式を解放する。鮮やかな閃光が醜悪な影を飲み込む。ルヴィアの握り締めた拳から漏れ出す光が、次々と蟲達を弾き飛ばし燃やしていく。

集束光弾ダイヤモンド・アイ。鏡面呪刻したダイヤで光の波長を揃え、魔力を乗せて打ち出す術式、ルヴィアが独自に工夫した攻撃呪だ。この呪の強みは何より精度。狭い部屋でもかなりの威力を集中できる。

「口ほどにも無い……っ!」

ただ弱点はある、光であるだけに煙や霧には弱いのだが、熱でもあるだけに煙を起こしやすいのだ。今も畳を焦がした煙のせいか、蟲は焼き尽くしたが慎二を取り逃がしてしまった。

「少しばかり調子に乗りすぎましたかしら……」

ルヴィアはそう呟くが早いか、離れに向かって駆け出した。あちらには桜が居る。いかに裏切り者とはいえ。あの気の弱い桜では兄とは戦えまい。
ただ、この時ルヴィアはもう一つの可能性を完全に失念していた。強い魔術師が弱い魔術師に従う、ルヴィアにとってはそんな事は完全に想定外であった。




「サクラ!」

無事だった。桜はベッドに腰をかけ、いつものように顔を伏せている。

「よかった、さ、こちらへ。残念ですけど、貴方のお兄様は敵方につきましたわ」

「兄が?……」

「ええ、早く」

呆けたような顔の桜を、ルヴィアは手を取って立ち上がらせた。

―― 臓々 ――

「ああ、やっぱりここか、さっきは驚いたけどね。もうこれで終わりだ」

またも影から蟲が湧き出してくる。戸口には先ほどの醜態は何処へやら、勝ち誇った慎二の姿、まったく、

「ええ、終わりですわね。貴方、本当に死にたいの?」

先ほどこの男は何を見ていたのだろう? ルヴィアは桜を背中に庇い、うんざりした表情で慎二に対峙した。実力差は分かっているはずだ……これでは仕方が無い。ルヴィアは決意した。桜の前ではあるが此処は……

―― 刺 ――

「え?」

「ごめんなさい……」

盆の窪にちくりとした微かな痛み、視界が……急に狭まっていく。
狂ったように高笑いする慎二の顔と、ぽつりと謝罪を呟く桜の声、それを最後にルヴィアの意識は闇に沈んで行った。


くろいまゆ 第三話。承から転へと向かうお話です。
さて、桜の闇が深まり臓硯が蠢きだす中、未だふりまわされるBritain 一行。ついに犠牲者が出ました。
ルヴィア嬢の運命や如何に。それでは後編をお楽しみください。


By dain

2004/9/15初稿
2005/11/13改稿


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