「こ、ここに居たんですか、お爺さま」

輝く闇の向こうから、無様に怯えた声が掛かってくる。その情けなさには怒りより笑みが浮かぶ程だ。無論失笑だが。

「慎二か、また蟲を無駄に使ったな」

「仕方ないだろ。あいつら英霊まで居るんだから」

卑怯じゃないか、とわけの分からない戯言を叫ぶ。無論それも本心だろう、だがこの愚かな孫の思惑は別にある。

「ちゃ、ちゃんと代わりの蟲も連れてきたんだし……」

孫はぞろぞろと不快な虫を足元に侍らして悦にいる。百足、蠍、蜘蛛……何処で身につけたか孫の蟲術。ただ蟲の群を操るだけの下等な術。益体も無い。

―― 餓!――

「ひっ!」

慎二の足元に別の何かが湧き出し、哀れな虫どもを貪り食らう。

「ほう、少しは食いでがあるか。いやいや爺孝行な孫よ、これで些かは腹の足しになる」

臓硯は僅かばかり、己の足元だけを残し、びっしりと蟲に囲まれた孫に笑いかけた。面白いように怯えている。これではかりごとをなそうというのだから、可愛らしくて笑みもこぼれようと言うものだ。

「で、首尾は?」

「ひっ……あ、ああ、あの金髪ならちゃんと攫ったよ。言い付けどおりさ」

「ふむ、おかしな手は出して居らぬだろうな?」

臓硯は孫に念を押す。今、脅かしたのもその為だ。この愚か者は処女の魔女にどれほどの価値があるか分かっていない。

「べ、別に良いじゃないか、早いか遅いかの違いだけだろ?」

やはり、本気でわかっていない。此処はもう一つ脅しておかねばなるまい。ああ、可愛い孫に、どうしてこんな事をしなければならないのだろう。臓硯は心の奥底でほくそ笑んだ。

「慎二、此処に来い」

「へ?……」

「慎二よ、この哀れな爺にお前の顔を見せて欲しいと言っておるのだ」

慎二の足元の蟲が、狭い足場を更に狭めるように蠢きだす。

「ひぃ!」

ついに孫は蟲に押し出されるように、暗く煌く呪刻の場に踏み出した。そのまま一歩、また一歩と臓硯の元に近づいてくる。その都度、暗い煌きがその色を濃くする。

「あぐっ……」

と、慎二が右腕を押さえて立ち止まった。共鳴しているのだ、慎二の右腕と、この暗い闇に輝く巨大な魔法陣が。

「さあ、早く爺に顔を見せてくれ」

もう蟲で急かす必要もない。あの右腕の痛みを止めるには、陣の中央、臓硯の居る祭壇に向かうしかない。

「はぁ……はぁ……」

のたうち回り泣き叫びながら、涙と涎で顔を汚した可愛い孫は、転がり込むように臓硯の元にたどり着いた。

「をを、をを、苦しかろう。優しい孫よ、ワシと痛みを共にしてくれたのだからのぉ」

苦しむ孫を、臓硯はくつくつと笑いながら優しく迎え入れた。抱きとめるように肩に手をかけると、情け無く涙を流す孫の耳元で、穏やかといって良い口調で囁きかける。

「今の苦しみ、あれがワシにとって生きるということよ。生きながら腐り爛れていく。お前は腕だけだが、ワシはこの肉の全てが、魂の全てが常に腐り続けておる。お前はそれを和らげてくれようと、あの娘を用意したのであろう? ならばこの爺の為、いま少し自重してはくれぬか?」

涙と涎にまみれながらこくこくと頷く孫を、満足そうに眺め、臓硯は視線を輝く闇に戻した。
冬木で最も巨大な力を秘めた霊脈、柳洞寺地下の洞窟。その地に城砦の如く聳え立つ輝く闇。

大聖杯。

全ての始まりは、未だ開く時を待ちつつ、深い眠りに沈んでいた。





くろいまゆ
「妖術師の裔」  −MAKIRI− 第三話 後編
Beelzebul





ギリッ……

遠坂の地下室に歯軋りの音が響いた。

「凛、これは……」

「ええ……囮よ!」

セイバーの無念そうな声に、遠坂の吐き捨てるような声が応える。
謎の漆喰を吹き飛ばし、醜悪な蟲達を残らず叩き潰したこの地下室。
だがここはそれ以外、何も手は加えられていなかった。霊脈も無事なら、呪刻の一つも刻まれていない。遠坂の言うとおりここは囮、ただ俺たちの時間を潰さす為だけに用意された場所だったのだ。

「――っ! じゃあ、家か!」

俺たちをこんな所で足止めをした理由、他に考えようが無い。何せ桜が狙われているのだ。

「急ぐわよ、ルヴィアがいるんだし、急げばまだ間に合うかもしれない」

俺たちは顔を見合すと大急ぎで遠坂邸の外に飛び出した。くそ、また後手か!

「――がっ!」

大急ぎで地下室から駆け上がり、ちょうど玄関を潜ったあたりだ。俺の全身に激痛が走った。

「士郎!」
「シロウ!」

「だ、大丈夫だ……」

慌てて駆け寄る遠坂とセイバーを制し、俺は自分の内側に手を伸ばした。大丈夫、傷は無い。まだちくちくと痛むが、先ほどの激痛は無い。しかし、これは……

「ランス!」

俺ははたと気がついて天に向かって叫んだ。そのまま自分の中に伸ばした手を、ライン伝いにランスまで延ばす。

「つぅ!」

ランスへ手が届いた瞬間、再び激痛が全身を襲った。あの馬鹿、自分でラインを抑えてやがったな。ふざけろ、俺とお前は主従なんだぞ!

「くそっ! なんだってんだ」

「シロウ、何事です」

繰り返す激痛に、今度は流石にセイバーの手を借りた。ランスの知覚を通して状況が脳裏に浮かぶ、何か雲霞のような物に囲まれ、ランスは全力で上下左右へと急降下急旋回を続けている。

これは……ぶんぶんと唸るような羽音、毒々しい黒と黄色の縞……蜂?

そうだ蜂だ、ランスにまとわり付き、隙有らばとランスを刺し貫いているのは、巨大なスズメバチの群だった。くそ、どうすれば……

「士郎!」

遠坂も俺に寄り添い、どうしたんだと詰め寄ってくる。うわぁ目が霞んで来た。やばいな、このままじゃ流石のランスも持たない、かといってこの状態じゃ複雑なことは出来ない。どうすれば…………ええい、しかたない!

「遠坂、すまん!」

一言叫ぶと、俺は遠坂を力いっぱい抱きしめた。そのまま遠坂とのパスを確認すると、俺はこの手で掴める限度一杯の魔力を鷲掴みにして、ラインを通してランスに向かって投げつけた。

―― 覇!――

何の打ち合わせも無しだったが、ランスは見事に俺の期待に応えてくれた。俺から流し込まれた目一杯の魔力を、自分の魔術回路を素通しして、物理的な衝撃を伴うほどの勢いで、そのまま全方向へ一斉に叩き付けたのだ。
数は多いが、蜂の一匹一匹はさほど強い力で結ばれていたわけではない。そのまま弾き飛ばされると、制御も一緒に解けたのだろう、我に返ったように霧散していく。

「士郎……これって一種の強姦よ……」

ほっと一息ついたところで、腕の中の遠坂が、何か搾り出すように呟いた。慌てて手を緩めると、遠坂は俺の手を振り払うようにセイバーの元に駆け寄り、涙目で俺を睨みつけてきた。

「凛……大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫セイバー。野良犬にでも噛まれたと思うから」

ちょっとまて、それって酷くないか? 俺だって好きで……あ、……う……

「ごめん……」

遠坂だけでなく、セイバーまで冷たい、まるで汚物でも見るような視線を俺に向けてくる。俺は世間体に負けた。

「なにやったかは分かった。でもね、わたしだって女の子なんだから、次からはもっと優しくしてよね」

「お、おう……」

なんか微妙な言い回しに顔が赤くなる。その、目じりに溜まった涙を振り払う遠坂のしぐさも妙に色っぽいし……

――主よ、お取り込み中、真に申し訳ないのだが……

と、此処で苦しげなランスの声が響いてきた。そうだ、肝心な事を聞かなきゃ。

――「ランスか! 何があった? 桜は? ルヴィアさんは?」

―― ……済まない。遅れを取った。

一瞬置いて沈痛な声が伝わってくる。ちょっと待て、じゃあ……

「ちょっと、どういうこと? 説明なさい」

俺の顔色が変わったのに気が付いたか、遠坂の表情も変わった。ともかく、俺はランスの報告を皆に伝えることにした。

――いきなりであった。いきなり結界が途切れた。

慌てて結界が消えた家に飛び込んだ時には、もはや衛宮邸うちは無人だったという。更に詳しく調べようとしたところで、雲霞の様に湧き上って来たあの蜂に襲われたとの事だ。

「ちょっと待ちなさい。その前はどうしたのよ、あの結界は警戒陣よ、あんたも居たんでしょ? どっから来たって言うのよ」

初っ端から遠坂の突っ込み。だが気持ちは分かる、俺だって怒鳴りつけたい気分だ。

「ランス……内から城門が開かれたというのですか……」

慌てて勢い込む俺たちの中で、一人セイバーだけは冷静だった。沈痛な面持ちのまま、俺を通してランスに問い質す。おい、それって……

――うむ……いかに堅固な城壁があるといえど、内通されては如何ともしがたい。

「誰が……誰が裏切ったって言うんだよ!」

うっすらと浮かぶ疑惑を俺は振り払う。そんなこと、考えたくも、無い。

「慎二ね、どうもおかしいと思ってた」

「遠坂!」

思わず叫んだ。そんなこと……

「士郎、貴方は怪しいと思わなかったの?」

「そ、それは……」

……あるわけが無いとは言いきれなかった。ずっと目を瞑ってきた事だが、こちらに帰ってきてから見た慎二は、明らかに何処かおかしかった。やせ細った体、鬼気迫る表情。昨日だって、あれは皮肉なというよりもっと暗い怨念じみたものを感じた。そう、まるで聖杯戦争時の慎二に戻ったような……

「それにね、士郎。わたしは慎二だけだと思ってるわけじゃないわ」

言うな、それ以上言うな遠坂!

「桜も共犯の可能性が高いわ」

「遠坂! お前の妹だろう! 信じられないのか!」

思わず怒鳴りつけた。そんなこと……思ってたって口にするもんじゃない!

「桜は間桐よ」

だが、遠坂は冷たいほどに冷静な態度で、俺の激昂を受け流した。

「もう遠坂じゃないわ。今のわたしとは関係ない。間桐の魔術師が間桐の家長に従うのは当たり前。それに……逆らえる娘じゃないわ……」

「そんな……」

もう一度食って掛かろうと声を出しかけたが、結局、俺は唇をかみ締めることしか出来なかった。最後の言葉、そこに含まれた苦渋には、俺が口を挟むことの出来ない何かがあった。

「ともかく、今後の方針を決める必要があるかと」

険しい顔で睨みあう俺と遠坂に、セイバーが諌めるように割って入ってくる。互いの気持ちは分かるが、今はそんな時じゃない。セイバーの瞳は暗にそう言っていた。

「そうね、じゃあ、まずあそこからいきましょう」

遠坂は、口惜しそうに俺から目を逸らすと、睨みつけるように視線を別の方向に向けた。って、そこは間桐の家じゃないか。

「家に帰らなくて良いのか?」

ルヴィア嬢のこともある。まず真っ先にそっちじゃないのか?

「ランスが気が付いた時にはもう居なかったんでしょ? だったら急いで帰っても無駄よ。それより、こっちが先」

「しかし、凛。こちらには……」

セイバーも不審そうに問いかける。

「ええ、分かってる。多分誰も居ないでしょうね。でも何かつかめるかもしれない。臓硯について、慎二について、それに桜について。わたし達は知らないことだらけよ?」

ぶつぶつと小さく人の家に随分と勝手やってくれるじゃない、などと呟いているところを見ると、それだけでもないようなのだが、そう言われると何も言えない。確かに情報が不足しすぎだ。

「士郎、セイバー。徹底的に家捜しするわよ」

それだけ言うと、遠坂はずんずんと間桐の家に向かって進み出した。顔をずっと背けたままだから、今、遠坂がどんな顔をしているかは分からない。ただ、その背中は怒りに燃えていると同時に、泣きそうなほど哀しげだった。




「やあ、レディルヴィアゼリッタ。御目覚めかい」

そこは暗かった、そして異臭に包まれていた。ルヴィアは目の前の声を一切無視してまず現状を確認した。
椅子だろうか、両手両足を両手足首、更には肘と膝でもがっちりと縛り付けられ座らされている。なにかの魔具だろう、呪を編もうと努めても魔力を外に出した途端霧散する。しかし、中は大丈夫、他者の魔力の侵入は無い。尤も、ルヴィアほどの魔術刻印になると大抵の呪に対しては自動防衛をしてくれる、これを破るには相当の手間が掛かるだろう。そんなことをする位なら、いっそナイフでも突き刺して殺してしまった方が早い。
ただ、なにか薬を飲まされてはいるようだ、身体が異様に熱い。特に胎の一部が。

「こっち向けよ! 無視してんじゃない!」

いきなり頬を殴られた。が、それでもルヴィアは目の前の存在は無視する。これは脅威ではない。脅威はその後に居る……

「カカカ、流石はフィンの名家、エーデルフェルト家の姫君ですな。我が不肖の孫たちとは気概が違いますな」

慎二の後ろにゆっくりと滲み出すように浮かび上がる影。脅威はこれだ、これは断じて人ではない。
人でなしだ。

「慎二、手は出すなと言っておらんかったかな?」

「だ、だってこいつ!」

「ワシは手は出すなと言っておいた筈なのだがな……お前は下がっておれ」

―― 臓々 ――

その言葉と同時に闇から別の何かが滲み出す。ざわざわとねちゃねちゃと、何かがじっとりと這いよってくる。

「ふん、そんな顔をしていられるのも今だけだ」

その音に怯えながらも、慎二は捨て台詞を残して後ろに下がる。そのまま臓硯の隣に並ぶと、醜悪なほど下卑た顔つきで、ルヴィアを嘗めるように睨めまわした。

「なにをなさろうとしているかは存じませんけど、無駄ですわ。わたくし魔術師ですのよ?」

生かしておいたという事は、何かに使うつもりだろうが、魔術師とはいわば生きた魔具。殺すなり壊すなりして完全に分解でもしない限り、特にルヴィアのように強力な魔術刻印を持った魔術師を加工することは、よほどの術者であってもまず不可能だ。

「確かに、エーデルフェルト家の姫君ほどの魔術師をどうこうする術は、我がマキリの支配を以ってしても難事……」

やれやれ困ったとばかりに首を振る。が、それは擬態。その瞳を見れば分かる。臓硯は切り札を取り出した。

「尤も、貴女が処女でなければの話ですがな」

「!……っ!」

ルヴィアの背にじっとりといやな汗が流れた。
魔術師というものは自分の身体を、魔術回路と魔力を用いて完全に支配している存在だ。しかし、それがこと女性の魔術師となると一つだけ弱点がある。
未通の子宮には自分では魔力を通せない。未通のままでは、子を育む揺籠は無垢のまま。一度そこに道を通して、初めて胎にまで魔力を通し己が物にできるのだ。
中世期の魔女がその通過儀礼で破瓜を経験したことや、生贄に乙女を用いたのもそのためだ。前者は完全な魔女となる為の、後者は支配しやすくする為の経験則。
つまり、臓硯はルヴィアを……

「なに、痛みはさほど有りませんでな、いやいや、初めてとはいえ気持ちが良いくらいですわ」

呵々と笑う臓硯の声に促されるように、足元の蟲達がルヴィアの足を伝い上りだした。

「うっ……はぅ! くっ……」

途端、脊椎に電流が走った。これほどおぞましく、醜悪な存在にルヴィアの身体が反応しているのだ。じわじわと肌を濡らす粘液が心を犯すように染み込んでくる。

「つぅ……ぁ……あぅ!」

臓硯の被験物を見る目と、慎二の下卑た視線の中。蟲達はルヴィアの足を、太股を撫で、擦り、弄び、徐々に徐々にその付け根へと這い寄って行く。

「……ぅぅ……くっ! あ……っぅ……」

ルヴィアは耐えた。それが無駄と知りつつ、全力で耐えた。肌を浸し心を犯す快楽に身悶えながら、それでも刻印を輝かせ己が内に魔力を送り続けた。それさえも啜られ、無為に蟲どもの力になると分かっても、抵抗をやめることだけは断じて出来なかった。

「はん、どこまでその強気が続くのかな?」

慎二の厭らしい笑みに促されたように、ついに這い登った蟲達が目的地にたどり着いた。下着を引き剥がし、ルヴィアの中に潜り込もうとする……

「……むっ」

が、その瞬間、臓硯の眉が曇った。
真っ先にルヴィアに己が頭を沈み込まそうとした蟲が、その直前に身も世も無い悲鳴を上げて息絶えたのだ。それを期に、ルヴィアの下肢に群がっていた蟲が一斉に引いた。

「むむ……まさか……」

臓硯の表情から笑みが消える。つかつかとルヴィアに歩み寄ると、胸元に手をかけ、一気に服を引き裂いた。たわわな胸が曝け出され、下着を剥ぎ取られ、無理やり広げられた下肢が闇の中でくっきりと白く浮かび上がる。

「月の障りか……」

絞り出すような臓硯の声。初めて憎悪にも似たものがそこに現れていた。

「残念……でした……わね」

荒い息でルヴィアは臓硯に笑いかけた。月に一度の苦しみが、今日この日だけは何よりも愛おしい。

「なんだよ、こんなことで止めちまうのかよ!」

闇の中から慎二の狂ったような声が響いた。

「ふん、こんなもの僕には関係ないさ。一発ぶち込んじまえば後は言いなりになるさ」

ずかずかと近づき、剥き出しの乳房を無遠慮に弄る。

「痴れ者が! まだ分からんのか、未通でなくては意味が無いのだ!」

その掌を臓硯の杖が叩き落した。

「蟲さえ通せば後は好きにさせてやる。己はサルか! とく去ね!」

そのまま、臓硯は呪殺せんばかりの視線で慎二を睨みつける。一瞬、殺気だった視線を向けた慎二だったが、結局狂気じみた目を泳がせ、おどおどと後に下がっていった。
そんな慎二を虫けらのように見据えていた臓硯だが、一転、優しげな表情をとりくつくろうと、更に一歩ルヴィアに近づいた。

「やれやれ、行儀の悪い孫でしてな。それでは失礼いたしますぞ」

「……ん、っ!」

そのまま、ルヴィアの秘所に手を当てると、経血を掬い取り口に含む。

「ふむ、あと三日……いや二日というところですかな?」

臓硯は唇に付いた経血を嘗め取ると、優しげな表情でルヴィアの顔を覗き込んだ。猶予はそれだけ、どんな抵抗をしようと、その日が来ればルヴィアは堕ちると、罪の無い好々爺の顔で親しげに囁く。

「そ……それだけあれば……分かりませんわ……」

背筋を這い上る悪寒と快感にさいなまれながら、それでもルヴィアは言い放った。

「ご尤も、それゆえ次善の策を取らせていただきますぞ。なに、逝けぬだけで心地よさは変らぬゆえ、ご安心を」

ざわざわと、蟲が再びルヴィアに迫る。ルヴィアは覚悟を決めた。狂気にだけは決して逃げ込みはしないと。




間桐の家はやはり無人だった。桜も、慎二も臓硯も居らず。蟲の陰さえも何処にも見当たらなかった。

「士郎、そっちは?」

遠坂が何か大きな包みを抱えて、俺に聞いてきた。
ずんずんと進んでいたわりに、玄関先では妙に躊躇していた遠坂だが、一旦入ってしまえば、まるで自分の家のように堂々と荒らしまわっていた。
なんか、士郎のせいで父さんの言い付けにそむいてばかりと、文句を言われたが、そんなこと俺に言われても困るぞ。

「何ってわけじゃないが、気になるところがあった」

ひと当たり廻って気が付いたのだが、屋敷の間取りに二箇所ほど空白が有るのだ。二階から狭いスペースが一階に向けて。たぶん地下に通じているのだろう。

「凛」

「ええ、多分そこが間桐の“工房”ね」

セイバーの呟きに遠坂が険しい顔で応える。魔術師はいなくとも、そこには間桐という魔術の真実がある。俺たちは互いに頷きあうと、慎重に二階へと歩みを進めた。

「士郎、お願い」

魔術と機械式の複合鍵。となると吹き飛ばしでもしない限り、遠坂より俺の出番になる。構造を解析し、鍵を想定して抉じ開ける。前にも言われたが、本当に魔術師って言うより盗賊だな。

「開けるぞ」

一声掛けて慎重に隠し扉を開いた途端、腐臭が吹き上げてきた。遠坂の地下でも同じ匂いをかいだが、その密度が違う、ねっとりと質量さえも感じるような臭いだ。俺たちはその腐臭に耐え、間桐の地下工房へ降りていく。

「これが……間桐なのですか」

「なんだよ……これは……」

階段を下り、地下に入って俺たちは絶句した。深い緑色をした闇。腐った闇、膿んだ闇。湿った石に覆われたその場所は、一言で言えば腐敗していた。
床や壁に空いた幾つもの穴は墓だろうか? 既に何も残っていないが、それでも分かる。これは蟲葬の棺だ。

「……蟲は殆ど居ないな。ここももぬけの殻か」

往時はびっしりと蟲で溢れていたのだろうが、今、蟲は此処には殆ど居ない。墓穴や中央のプールのような窪みに蟲の屍は無数にあるのだが、生きた蟲は、逃げ遅れたように物陰で震えているほんの数匹だけだ。

「……一度、焼かれたような跡が見受けられます」

セイバーが石壁に掌を当てながら、感情を殺した声で呟いた。つまり、此処は一度焼いた上で尚も此処まで腐っているってことか。

「これが……間桐の魔術だって言うの……」

ここまで黙ったままだった遠坂が搾り出すように、吐き捨てるように言い放った。
それはそうだろう。此処は俺たちの知っている魔術とはまったく異質の世界だ。そりゃ確かに魔術は血塗られている。前へ進む度に、自分の他人の血が限りなく流れる真っ赤な道だ。
だが、これは違う。これは魔術師の工房じゃない、魔術蟲の飼育所だ。蟲の為に魔術師がその血肉を蟲にまみれさせる所だ。
桜が間桐の魔術師だったと聞いて、俺は漠然と自分の知っている魔術師に当てはめていた。臓硯ってやつの魔力源にされていたと聞いても、一種の使い魔のようなものだとばかり思っていた。
だが、これはそんなもんじゃなかった。そんな綺麗なもんじゃなかった。ここで、桜がどんな思いで生きてきたかと思うと……

「行きましょう。空っぽの巣に用は無いわ」

「ああ、行こう。ここに用は無い」

遠坂の声に俺は新たな決意で応えた。たとえ桜がこいつらの仲間だったなんて事であっても知ったことか。もしそうだとしても。俺は殴ってでも桜をこっちに引っ張り込んでやる。二度と桜をこんなところに帰しはしない。だから、もう、此処に用は無い。用無しにしてみせる。




吐き捨てたくなるような間桐邸を離れ、俺たちは衛宮邸に戻った。やはりここには誰も居ない。蟲の死骸の散乱する焼け焦げた居間。それがここであったらしい戦いの痕跡だ。ただ、血の跡が無いことや、残留思念の乱れの少なさから、ここで誰かが死んだって事は無いようだ。

「ところで、遠坂、それは何なんだ?」

とにかく、遠坂邸から持ってきた荷物を片付け、怪我をしたランスの手当てを終わらせ、ひと段落着いたところで、俺は遠坂に尋ねた。どうやら間桐の家で見つけたものらしいんだが。なにか手掛かりになるものなのかな。

「ん? ああ、これね本よ」

「本?」

「うん、本っていっても草稿だからノートみたいなものだけど、慎二の部屋で見つけたの。残念だけど、これで桜があいつらの仲間だって確定しちゃった」

「どういう事だ? 慎二の部屋だったんだろ?」

「ちょっと見てみなさいよ、この本」

遠坂は、包みを開けて本を俺に指し示した。うへ、ドイツ語じゃないか。ええと、じょじょおお……

「『上級種蟲吸概要』に『蟲群女王種支配要綱』よ。覚えが無い?」

ええと、聞き覚えがあるような無いような……

「確か大師父の書庫にあった本ではないでしょうか? 凛が見せてくれた目録にあった様な気がします」

「そ、士郎は分からないようだから説明してあげるけど。この本があったのは虚数の書庫。わたしやルヴィアでさえ入れないけど。桜なら入れるわ。あの娘の属性は間桐の“水”に変えられてるけど、いまだ虚数を保持してる」

「で、でもあそこに入るのは遠坂……あ」

「そ、遠坂の血が必要。でも桜には遠坂の血が流れている。遠坂邸うちの地下が蟲蔵にされたのもこれで納得行ったわ。あの娘だったら遠坂邸の警報装置は身内と判断する」

そのまま遠坂は黙り込んでしまった。俺も口を開くことが出来ない。桜が……桜が敵だなんて……だが、それでも。

「遠坂」

「なによ」

「俺は桜を助け出す」

一瞬、遠坂が言葉を失った。が、すぐに真っ赤になって怒鳴りつけてきた。

「っ! なに聞いてたの!? わたしは桜が敵だって言ったのよ?」

「敵だからって助けられないわけじゃない。俺には桜が進んでこんな事をやっているとは思えない」

「そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。あの蜘蛛の巣。あれだって桜がやったのかもしれない」

今度は俺が言葉を失う番だ。桜が自分から進んであんな事をするわけは無い。もし桜が関わったとしてもそれは強要されてだと信じたい。詭弁かも知れないが……

「……だとしてもだ。もしそうだとしても、俺は殴ってでも桜をこっちに引き戻す。もうあんな事をさせないために」

「馬鹿、魔術師が殴ってどうかなるもんですか!」

「どうせ馬鹿だ。だけど、助けられる可能性を絶対に捨てるつもりは無いぞ!」

俺たちは睨みあった。御互い一歩も引く気はない。

「……もし、もし桜が敵であり続けるなら。桜はわたしが殺す」

「俺は断じて遠坂に桜を殺させない。俺は遠坂に愛するものを殺させたくないし。桜が愛するものに殺されるのも御免だ」

遠坂は桜を愛している。これは絶対確実だ。さも無きゃずっと見守ってなんか居ない。俺に隠し続けたりなんかしない、帰ってきてからずっと悩んでたりしない。それに、今だって、もし、もしと必死で仮定に縋ったりはしない。

「凛、シロウ。今は、そんな事を、している時では……ありません」

一瞬、泣きそうな顔で何か言いかけた遠坂だが、その前にセイバーが割り込んできた。文字通り身体を俺と遠坂の間に割り込ませて、止めに……って、おいセイバー。

「ちょっと、セイバー! あんたどうしたのよ!?」

遠坂も気が付いた。俺と遠坂の間に割り込んだセイバーは額に玉の汗を浮かべ肩で息をしている。

「申し訳ない、凛。力が……」

「おい、セイバー! と、遠坂、どうなってるんだ?」

「待って……」

俺と一緒にセイバーを支えながら、遠坂はセイバーの胸、そして額に手を当てる。

「セイバー今の感覚、覚えがあるんじゃない?」

そのまま唇を噛み締め、じっとセイバーの顔を見据えたまま遠坂がたずねた。

「……はい、龍の時と、ペリシア王の時、それに……」

「キャスターの時ね?」

最後の一つは、遠坂が引き取った。静かに頷くセイバーを俺に預け、こんどは自分の右腕に左腕を沿え瞑目する。右腕? ふっと考え俺は思いついた。あそこは遠坂の令呪があった場所だ。聖杯戦争が終わり、明確な形をなしては居ないが、それでも痕跡が残っている。

「……やっぱり、乱されてる。ということは……」

遠坂はそのまま内面モードに突入した。いつもなら合いの手を入れるところだが、今回は余りに真摯だ。俺とセイバーは固唾を呑んで結論が出るのを待った。

「良いニュースと悪いニュースがあるわ。どっちから聞きたい?」

暫く考え込んでいた遠坂が、厳しい表情で口を開いた。

「良いニュースからにしてくれ。このところ悪いニュースしか無かったからな」

「じゃ、良いニュース。ルヴィアは生きてる」

ほっと息をついた。そう簡単に死ぬ人じゃないし、死体も血も無かったって事は少なくとも生きているだろうと思っていたが、それでも遠坂が確約してくれると安堵する。

「で、悪いニュース。そのルヴィアを通じてセイバーの魔力を抜かれている」

遠坂が表情をひときわ険しくして言う。どうやら令呪がらみの技術らしい。元々令呪は間桐が開発したものらしく、ルヴィア嬢がセイバーとの間に通したパスを利用して、遠坂の令呪を乱しながら魔力を抜き取っているらしい。

「ちょっと待て、それって」

「ええ、ルヴィアを通じてセイバーも人質に取られてるようなものね」

唇を噛み、遠坂が俺の推測に頷く。つまり今、現在まともに動けるのは俺と遠坂だけってことになる。
ってことは……

「これを何とかしない限り、わたし達に勝ち目は無いわ」




準備には夜まで掛かった。
俺も手助けしたとはいえ、これから仕掛ける施術はかなり高度だ。
臓硯に支配されているセイバーとルヴィア嬢を結ぶラインを手繰り、向こうの状況を偵察する。さらに可能ならばそのラインの支配権を取り返す。

時計塔でルヴィア嬢と協力していた研究の成果を踏まえた、異世界へのラインを手繰って見せようかという、遠坂ならではの施術だ。流石に、俺では手助けできる部分には限りがあった。

「申し訳ない、凛、シロウ」

魔力の消費を極力抑えるため、横になって魔法陣の中央に寝ているセイバーが、口惜しそうに言う。一昔前のセイバーなら、こうも大人しくはしてくれなかったろう。経験は人を育てる。成長しないはずの英霊だが、セイバーは例外なのだろうか。

「ラインそのものを断ち切るって出来ないのか?」

一つ思い付いた事を遠坂に聞いてみた。状況から考えて、それで少なくともセイバーのフリーハンドが確保できると思うのだが。

「うん、最悪場所だけでも見極めて。そうするつもり」

「で、突撃か?」

「芸は無いけどね。まずはルヴィアを取り返さないと」

あいつには借りもあるし、と呟く遠坂。でも、それだけじゃない。ルヴィア嬢も遠坂を助ける努力は決して怠らなかったように、遠坂だって同じなのだ。じっと見据えていると、少しだけ頬を染めて視線を逸らすのがその証拠。なんのかの言って、お前ら良い友達だぞ。

「よし、それじゃあ始めるわ。士郎、いざと言うときは宜しく」

「ああ、任せとけ」

俺の返事に不敵に笑みを返すと、遠坂はセイバーの横たわる魔法陣の脇に立った。

「――――Anfangセット!」

詠唱が始まる、瞑目し、呪を紡ぐ遠坂の額には徐々に汗が浮かぶ。セイバーも一緒だ、微かに光りだした魔法陣の中央で、胸の上に手を組んでじっと何かに耐えるようにしている。

「――――Sie verkundet unsres Macht力もて、    知らしめん)――Denn wir fahren我ら 永久に 進まん――」

一瞬、魔法陣全体が輝く。と同時にセイバーの身体から目に見えない何かが放たれた、螺旋を描き、糸を引き、目に見えない何かがぐんぐん伸びていく。

「――――Denn wir fahren我ら  征かん)――Denn wir fahren gegen Der Neur Welt- aho!いざ!   我ら   新たなる地平へ   征かん――」


掴んだ! はたで見ている俺にさえ分かる確かな手応え。さすが遠坂、異世界へも届かそうという術だ、同じ世界の場所ならば多少の結界くらいで防げるものじゃない。

「――っ! がぁっ!」

が、ここまで来て、いきなり遠坂の身体が跳ねた。まるで瘧のように、海老のように反り返り、目を見開いて歯を食いしばる。

「遠坂!」

「……くっ……こ、来ないで!!」

慌てて駆け寄ろうとした俺を、遠坂が絞り出すような声で叫び、押し止める。

「……ぁ……――Wir kommen wieder還り  来たれ)――……ぅ、ん……はぅ――Wir kommen wieder zu Euch nach Haus!懐かしき  故地へ  還り  来たれ!――」

身悶えながら、震えながら、それでも遠坂は呪を紡ぐ。これは……
遠坂の呪に従い、徐々に魔法陣は光を失い、啜り泣く様な遠坂の声に合わせる様に静かに力を失っていった。閉じたのだ、いきなりのショックで制御を失いかけたのを、閉じることで収めたのだ。

「と、遠坂……」

「駄目!」

今度こそと駆け寄りかけた俺を、遠坂がまたも必死な声で止めた。両肩を抱くように座り込み、伏せた顔には涙さえ浮かんでいるかもしれない。畜生、なんだよ何だって言うんだよ。俺もそろそろ自制が利かなくなってきた。

「シロウ……今しばらく、待って頂きたい」

そんな俺をセイバーまでもが押し止めた。ゆっくりと立ち上がり、へたり込み俯いた遠坂の傍らに身を寄せると、なにやらぼそぼそと言葉を交わしている。いったい……なんなんだよ!?

「……ごめん、士郎。もう大丈夫」

暫くして漸く落ち着いたか、セイバーに助けられて遠坂がふらふらと立ち上がった。

「一体、何があったんだ?」

状況がまったく掴めない。ルヴィア嬢へのラインを辿っていた遠坂が、あんなに衝撃を受けておかしくなったってことは、なにかルヴィア嬢の身に……

「……」

が、遠坂は応えてくれない、険しい、それで居て困ったような顔で黙り込む。

「……遠坂?」

「……今は無事。でも、持って二日ね」

それでもぼそりと、遠坂は搾り出すように言ってくれた。

「ルヴィアさんか? なにが……」

更に詳しい事を聞こうとして、俺は絶句した。遠坂の顔、聞いてくれるなと訴えている。セイバーも同じ顔つきだ……ちょっと待て、ってことはルヴィアさんは……視界が狭まる。背筋が凍る。

「セイバーの魔力を断つのも駄目。今、セイバーからの魔力供給を断ったら、その場でルヴィアは堕ちるわ。そうなればセイバーまで引っ張られちゃう……」

俺の質問には答えず。遠坂は淡々と事実だけを話す。くそ、じゃあどうすれば……

「そうだ、場所は? ルヴィアさんが何処にいるか分かれば」

「ごめん、探りきれなかった。でも、楔は打ったわ。もう少し休んだら探索術式ダウジングで見つけ出せる」

「よし、それで行こう。乗り込んで、ルヴィアさんを助け出すぞ」

具体的には何も教えてくれなかった。だが、さっきの遠坂を見ればルヴィア嬢がどんな目にあってるかは想像が付く。一瞬、あの蜘蛛の繭に掴まった女性達が目に浮かんだ。その一人の顔がルヴィア嬢に変わる……ぞっとした。我慢できない。畜生、こんなこと、許せない。




「……あ……あ……ぁ……ん……っ!」

暗い部屋に艶声が響く。

「――ひぐぅ! っ……あ、ん……」

ぽたぽたと、濁った蜜のような雫が床に伝い落ちる。引きつった爪先が、何かを求めるように床を掻きむしる。

「んんんん――っ!」

金糸が乱れ靡く。見開いた鳶色の瞳からはとめどなく涙がこぼれ、縛り付けられた掌は必死で握り締められる。

「まったく……なんとも、しぶとい」

が、それでもその瞳から力は失せていなかった。魔術刻印は輝きを失わず。唇は噛み締められたまま、喉の奥で呪を紡ぎ続けている。

既に服といえるものは両袖周りに僅かしか残っていない、縛り付けられ開かされた肢体は淫靡なほどに濡れ、闇の中に白く浮かび上がっている。
そして、その肌を這うのは、蟲。
何十もの淫虫が、螺旋を、文字を、紋様を描くように、その白い肌を撫で、擦り、弄び、嬲り、はしたなくも垂れ流す白濁した粘液を擦り付けている。

「やれやれ、やはり二日待たねばならんか」

だが、そんな言葉に反して臓硯の瞳は嬉しげに細められている。所詮無駄な抵抗。否、こうして抵抗し魔力を使う都度、英霊からも魔力を絞り取ることになる。
淫虫によりルヴィアの肌に描かれた呪刻は偽臣の呪刻。ルヴィアの肌から神経に染み込み、令呪の支配を乱し、こちらへのラインを強化する。ただ、それだけであるのだが、今はそれだけで十分なのだ。

ルヴィアが諦めれば、その心を捕えるのは容易い事、偽臣の呪刻はルヴィアを通し英霊を支配するだろう。
諦めなければ、それもまた良し、ルヴィアの魔術刻印がルヴィアを救う為に、そこから魔力を汲み出し続ける。

何をしようがここで繋がれている限り、ルヴィアの魂は真綿で首を絞められるかのように、刻一刻と終わりに近づいていくだけなのだ。

「……お爺さま」

「おお、来たか。桜」

闇の中から暗く俯いた孫が姿を現した。二年ぶりに会ったこの可愛い弟子は少しも変わっていなかった。臓硯が驚くほどその魔力は成長していたが、心は昔と同じ。硬い城壁に守られていても、その中にある脆弱さは、耐えるという逃避によってしか守られていない。
確かに城壁を突き崩すことは出来ない。だが、逃げる心を追い散らし誘導することは、左程難しいことではない。

「すまんな、桜。詰らん虫は扱えても慎二にマキリの蟲は扱いきれん」

臓硯は優しげな声で桜に語り掛ける。臓硯は桜に声を荒げたことなどは無い。そんな必要は無いからだ。

「フィンの姫君が強情でな、保険に些か力を割かねばならん。後はお前に任せようと思うのだ。生かさぬよう、殺さぬよう、適当に休ませては責めよ。なに、お前にされていた事と同じようにすれば良い。慣れておろう」

声は優しげだが、その言葉には揶揄と毒が込められている。甚振り弄ぶ、これが臓硯の孫への常に変わらぬ愛情なのだ。

「……はい、お爺さま」

そして、いつもと変わらず桜はその愛情を受け入れる。耐えながら、俯きながら、震えながらいつもと同じように受け入れた。




「――――Die hungrigen aber wandern aus飢えたる者   渡り去り行くべし).――」

「――っ! はぐぅ!」

わたしの呪にこだまする様なひときわ大きな嬌声と共に、ルヴィアさんの身体から一斉に蟲が引いていく。けれど、蟲達の粘液で描かれた呪刻はそのまま。呪刻はわたしが引き継ぐことになる。たとえ僅かな休息の間でも最低限の収奪は続けるように言い渡されているのだ。

「……食事……ですわね?」

驚いたことにルヴィアさんは、はっきりとした意識のまま顔をあげた。着衣を引き裂かれ、全身を粘液に塗れさせながらも、尚も頭を上げわたしに向かって話し掛けてくる。

「……食べるんですか?」

腐臭にも似たものを漂わせる木のボウルを手に、わたしは思わず聞き返した。この状態で、こんなものを食べようとは……第一これは、

「媚薬ですわね、徹底していますこと」

小さく溜息はついたものの、それでもわたしに向かって食べさせろと促してくる。

「……何故です?」

言われるままにルヴィアさんの口元に食餌を運びながら、それでもわたしは聞いてしまった。苦しむ為に、何故そこまで必死になるのだろう。

「だって、持ちませんもの、うっ……」

眉を顰め、それでも緑黒い粥を一気に啜って、ルヴィアさんは言った。

「僅かでも力の源は断れませんわ。わたくし例え一秒でも長く耐えて見せます。それが勝負の分かれ目になるかもしれませんもの」

「無駄です」

そんなルヴィアさんに、わたしは自分でも驚くほどきっぱりと断定していた。

「そんな生易しいものじゃありません、その……」

「貫かれれば分かる……そう仰りたいの?」

わたしが言いよどんだ事をルヴィアさんはさらりと言ってのけた。一瞬、心に殺意が芽生えた。
どうして、どうしてこの人は此処まで輝く。蟲に嬲られ、薬に汚され、それでいて何故まだ金色に輝き続けられる。

「知らないから言えるんです」

「ええ、知らないから言えるんですの。それに、明日は何が起こるかわかりませんわ」

無知をあげつらえば、無知を武器にする。この人は……明日が来るなんて希望は叩き潰されるに決まっている。

「先輩が来るって言うんですか?」

黒々としたものが疼く。わたしは叩き潰されてきた。わたしには誰も来なかった。そんな希望は真っ先に潰されていった。

「シェロ? ええ、その可能性もありますわね。でもそれだけじゃありませんのよ
――faire une ronde舞 い 踊 れ).――

今もまだ呪刻に犯され続けているというのに、微かに口の端で薄く笑うとルヴィアさんは小さく呪をつむいだ。と、

―― 臓 ――

一瞬だけ、蟲達がざわめいた。

「――!」

馬鹿な、この半日で蟲達の制御を? いや、それだけではない。今のルヴィアさんは外に魔力を出せないはず……

「蟲術の弱点ですわね。染み込むということは、繋がるということなんですのよ」

びっしりと額に汗を浮かべ、唇に付いた粥を嘗めとりながらルヴィアさんは嫣然と笑って見せた。そうか、自分の体液を蟲に嘗め取らせ、中からパスを……なんて人……

「それでも無駄です」

確かに見事だ、けれどこの程度の施術でお爺さまの支配に打ち勝つことなど出来ない。それに、結局月が降り切れば、中から支配される。

「二日はありますわ。それまでに必ず道を開いて見せます」

いざとなれば貴女のお兄様を利用させていただくかもしれませんわ、と呟きながら、それでもルヴィアさんの瞳は力を失わない。やるだろう、この人ならやりかねない。兄は、弱い。
ぐつぐつと何かが湧き上ってくる。
明日、明日、明日。どうしてここまで意味の無い明日に希望を持ち続けられる。塞ぎたい。この人の明日を閉ざしてやりたい。
唇を噛み締め、わたしはルヴィアさんから一歩引いた。やれる。胸の中に手を伸ばし、それの動きを確認する。大丈夫、それ位なら気づかれずにやりおおせられる。

「今からでも、手はあるんですよ」

わたしはこれまで浮かべたことの無い笑みを浮かべた。とても、冷ややかで暗い笑み。

なのに、なのにこの人は……

「ようやく、その気になってくれましたわね」

にっこりと、それこそ花開くように微笑んで見せた。白濁に覆われ、その全てを曝け出しているというのに、この人は、どうしてここまで綺麗に笑える。

「どういう意味ですか?」

「不思議でしたの、マキリで貴女が一番強いのに何故従っているか」

「わたしが、強い?」

「ええ、だって」

じっとわたしの陰を見詰めながら、ルヴィアさんは言葉を続けた。

「貴女もう全部支配しているんでしょ?」

その視線の先にあるものは、わたしの陰の中で蠢く蟲。二十一匹の刻印虫。マキリ最強の蟲達。

「……流石に、その蟲には勝てそうにありませんわね……」

「はい、月の澱もこの子達なら潜り抜けて見せます」

わたしの言葉に呼応するように、影の中の蟲達は嬉々として囀っている。まるで親に褒められた子供のように無邪気に笑っている。

「でも宜しくて? それをすれば貴女、御祖父様に逆らうことになりますわよ?」

一瞬心が凍る。だが、それでも、それでも砕かねばならない。この金色の光を、この輝きを堕とさなければ、余りに自分が惨めだ。

「関係ありません。お爺さまが手に入れるか、わたしが手に入れるかの違いだけです」

そう、それはわたしとお爺さまとの関係。この人にとっては結果も過程も寸分も変わらない。汚され穢され堕とされるだけ。それに、

「わたしが一番強いと言ったのはルヴィアさんです」

勝った。嬉々として影から這い出そうとする蟲達を見やり、わたしは確信した。これで堕とせる。この金色を闇に変えれる。同じだ、わたしと、同じものに出来る。

「宜しくてよ」

「え?」

なのに、なのに金色は尚も輝いて轟然と言い放った。

「宜しくてと言ったの。最初はシェロをと思っていましたけど……貴女なら、間桐の器で無くマキリの魔術師の貴女になら……わたくしの最初、差し上げてよ」

この人はなにを言っているんだ? 意味が分からない。わたしになら勝てる? 違う、それはこの人が一番良く分かっているはず。わたしになら耐えられると言うのか? だとしたら考え違いだ、なぜなら、

「わたしでもお爺さまでも……違いなんて無いんですよ?」

「違いはありますわ」

これは脅しではない、事実だ。なのにこの人は、苦しい息を整えるように瞑目したかと思えば、直ぐに挑みかかるようにわたしに視線を送ってくる。

「貴女を選んだのはわたくしですもの」

わたしを……選んだ? 誰が? この人だ、この輝きがわたしを選んだと言ったのだ。何のために? ……堕ちる為にだ。自分が汚され、穢される為にわたしを選んだと言うのだ。

「……何故です?」

分からなかった。何処へ堕ちようと、堕ち行く闇は同じはず。汚されるのは、穢されるのは一緒のはずだ。

「そうですわね、貴女のことが好きだからではいけなくて?……ええ、そういう貴女、嫌いではなくてよ」

微かに微笑みながら、あの土蔵でわたしを照らした光と同じ光が、あのホテルでわたしに差し出され光と同じ光がわたしに応えてくれた。あの時とは違う、わたしがこんなに汚れて醜いと知った上なのに、この光は少しも変わらず照らしている。

「わたしがやろうとしている事は、凄く辛いことなんですよ?」

わたしは何を言っているのだろう。わたしは、これからこの人を犯そうとしているのに。この人の希望を打ち砕き、地獄へ落そうとしているのに。

「そうでしょうね、わたくしにだって経験はありませんもの。知りもしないことには備えられませんわ、泣き叫んで助けを求めることになるかもしれませんわね」

「だったら!」

「でも、そんなものやってみなくては分かりませんわ。今この瞬間、貴女になら奪われて良いと思ったのは事実。自分の決断には責任を持ちますわ」

これから酷い事をしようとしているのはわたしなのに、まるでわたしの方が責められている様な悲鳴を上げてしまう。汚され、嬲られ、堕とされようとしているのに、金色の光は益々輝きを増していく。それは、とても綺麗なのにとても恐ろしい輝きだった。

「それにね、サクラ。わたくしたち魔術師はこの道に足を踏み入れた時から、地獄におちると決めたようなものなの。後はどうやって堕ちるか、それだけですのよ」

背筋が凍るほど暗く輝く笑みを湛えたまま、この人はわたしとならそれも悪くはない、と言ってのける。
ああ、そうか。何故かとても腑に落ちた。堕とされるのはわたしの方だ。
一つ分かった。この人は金色に輝いている。でも同時に闇でもある。この人は金色の獣なのだ。

わたしはルヴィアさんを見詰めながら納得した。これからの事、自分でも言ったように、この人は泣き叫ぶこともあるだろう、助けを求めて悲鳴を上げさえもするだろう。だが、堕ちはしない。だって、この人は元々そこの住人なのだから。
ならば、

「分かりました。後悔しても知りませんから」

わたしは、闇と共に陰と共に蟲と共に、一歩前に出た。生まれて始めて自分から沸き起こった決意を込めて。

to be Continued


なにも申しません。
桜の為にルヴィア嬢に一肌脱いでいただきました。
桜に対峙するには、言葉だけではなく身体を張らねばどうにもならないと思いましたので。
ルヴィアの、桜の、士郎たちの運命や如何に。
それでは次回。くろいまゆ 第四話をお待ちください。


By dain

2004/9/15初稿
2005/11/13改稿


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