それはわかっていた事だった。
目の前の剣を抜く事、その意味。
それは人でなく王になるという事。人より多くを殺し、人より多くを破壊するものになる事。人より多くの悲劇を、悪夢を見続けると言う事。
だが、それはわかっている事だった。覚悟はとうについていた。
幼い日から毎夜震えながらも、心に決めた事だった。
だが、それでもこの時、少女の心は悲鳴を上げた。
――こんな事は知らなかった。こんな事の覚悟はできていなかった――
剣を抜き、王となった少女の足元にひれ伏しているのは、父と、兄と呼んだ二人の騎士。
頭を垂れ、二なき忠誠を誓う父の口から紡ぎだされる言葉が胸を刺さる。
「わたしはあなたの父でもなければ、あなたはわたしの息子でもありません。はるかに高貴な御血筋なのです」
幼き日からの思い出が走馬灯のように流れる。素朴で賢明な、厳しくも優しく、穏やかでありながら勇敢な騎士。父として慕い、息子としてその背をずっと追い続けてきた老騎士。
いつか彼の息子として、恥ずかしくない騎士になる事が彼女の夢だった。それこそが、王となる事、人々を守る事に繋がると信じてきた。そうであるが故に人間である事を失い、殺し奪い悪夢を見続ける事に耐えられると思ってきた。
それが、今この瞬間終った。
「貴方の恩に、何を以って報いれば良いのだろうか?」
自分の声がまるで他人の声のように耳朶に響く。これは王の声だ。王として臣下に対する声だ。決してそれ以上でもそれ以下でも無い声だ。
「願わくば我が息子を、陛下の執事に」
頭を上げた老騎士の瞳になにかが光った。それは息子の栄達を喜ぶ光ではなく、何かを失った事を悲しむ光だった。
「諾」
少女はそれだけ告げると、初めての臣下に背を向け、王事の始まりを告げるべく剣を掲げた。
――わたしはあなたの父でもなければ、あなたはわたしの息子でもありません――
王となるべく、少女の捧げた最初の生贄は父を失う事だった。老人から息子を奪う事だった。
剣を掲げた王の初めての王事は、夢破れた少女の悲鳴を押し殺す事だった。
おうさまのけん | |
「剣の王」 | −King Aruthoria− 第七話 中編 |
Saber |
「……セイバー」
私を現実に引き戻したのは凛の声だった。脳裏に残った夢の残滓にぼんやり心を漂わせていた私は、慌てて意識を現実に蹴りだした。
それにしても何故今あんな夢を……しつこくしがみ付く夢の残滓を、もう一度頭を振って追いやり、私は冷静な騎士の仮面を被りなおす。まずは現状を把握、サークルに走った閃光、それに、私も凛も飲み込まれ……
「私は大丈夫です、凛、貴女は?」
「何とか、生きてる」
身体に異常がない事を確認する間ももどかしく、素早く跳ね起きた私は、視線をサークルの西側にへたり込む凛に向け無事を確認する。大丈夫、肩で息をしているが怪我は無いようだ。
私は地に落とした剣を拾い上げると、即座に凛の傍らまで駆けつけその身を抱き起こした。
「なにがあったと思いますか?」
「霊脈震のバックファイヤーをまともに受けちゃったみたいね。もう収まったみたいだけど」
私の問いに俯いたまま応える凛。その微かに震える声にどこか違和感を覚える。
「っ! 凛、まさかシロウが……」
背筋に冷たい戦慄が走る、素早く見渡した周囲に他の人影はない。いや、シロウだけでない、サークルの周りの陣も此処まで乗ってきた車も見当たらない。
「……わたしが目を覚ました時にはもういなかった」
一つ息をつくと、凛は厳しい表情で顔を上げる。先ほどの震えはもうない。ああ、凛。貴女も仮面を被ったのですね。
「それよりセイバー。もう一度周りを見て。貴女の時と違わない?」
「私の時?」
奇妙な物言いだ。私は改めて周囲に視線を走らせた。
ふと違和感を覚えた。確かにおかしい。車や陣が無い事もさることながら、周りはいつの間にか湧き出した霧に包まれ、空の月も形を判別できないほど滲んでいる。私は視線を西向きの正面から背後の東に回した。
「……なっ!」
私は声を失った。
小径を辿った東の先、低く垂れ込める霧の中に島のように浮かぶ小高い丘。その上に聳えるのは、夜空を背景に霧に滲んだ月光に照らされた、小さなそれでいて頑強な石の城壁。
それは紛れなく私が十五年の月日を過ごした、懐かしい我が家。
「……サヴェジ城……」
我が養父、エクター卿の城、サヴェジ城に他ならなかった。
「それで、セイバー。周りの風景はどう? わたしにはさっきまでと余り変わらないように見えるけど?」
愕然とする私に、凛の厳しい声が掛かる。成程、これでわかった。東を背にしていた私と違い、東面していた凛は気がついた時、既にこの城を見ていたのか。
私は一つ息をつくと気持ちを引き締めなおし、今一度周囲の風景を確認する。シロウが見当たらずに動揺しているはずの凛でさえ、仮面を被り必死で感情を殺しているのだ。私も負けてはいられない。
「周りの風景は、先ほどと変わらないかと。やはり私の時代とは違います」
「ってことはあの城と、この霧だけね……車
ぶつぶつと独り言のように呟く凛の言葉を聞きながら、私も状況について思考をめぐらせた。
目の前のサークルは僅かに魔力を感じるものの、先ほどまでの爆発的な力は発せられていない。代わりに周囲一面の空気に潜む異質な魔力の香り。そして、あったはずの車や陣の消失、無い筈の城の顕現。確証は無いが、先ほどの閃光で何処か異界へ飛ばされたと見るのはあながち間違いではないだろう。
「シロウはこのサークルの周囲には居ませんでした。だとすればあの閃光から上手く逃れられたのでは?」
「可能性はあるわね。或いは此処でない別の異界に飲まれたのかも」
あくまで可能性、楽観は出来ない。本当の感情を押し殺しつつ、私達はこの状況を打破する手段を講じなければならない。
「凛、貴女のラインでシロウを辿れ無いのですか?」
「それが、切れちゃってるみたいなの。わたしのラインじゃ異界越しは辿れないし……」
私の疑問に、凛は額に指を当てながら、落ち着いた物腰で説明してくれた。凛とシロウの繋がりは主
シロウが心配ではあるが、一つだけ助かった事がある。残されたのが私とシロウだったならば、私はシロウに引きずられて此処まで冷静になれなかったろう。凛も同じだ。
“マスターとサーヴァントは似たもの同士”本義の契約ではなかったとはいえ、そういう意味で私と凛は似たもの同士なのかもしれない。
「では、凛。まず何処から始めましょうか?」
「あの城に行ってみましょう。わたしこの格好じゃない、道具も宝石もセイバーに預けた分だけなの。まずは足場が欲しいわ」
消えたのはシロウと車、現れたのは城。だとすれば繋がりがあるかもしれない。そういう意味でも良い選択だ。
私は凛に手を貸して立ち上がらせた。今の状況で確認できる事は全て確認した、後は行動あるのみ。
と、思ったのだが、どこか引っかかりを感じた。はて、何を忘れていると言うのだろうか……
「……ランス……ランスは居ないのでしょうか?」
「そういや……そうね」
私だけでなく凛もすっかり忘れていたようだ。ランス、彼はどうしたのだろう。確か最後に確認した時は、私達とシロウの半ば辺りの空中に居たはず、どのような形であれ、彼がむざむざと消えたりはしないと思うのだが。
――Coo……
私達はランスを探す為、もう一度周囲に気を配った。しんと静まった夜の闇、それでも耳を澄ますとその闇を透いて東の方から微かに鴉の鳴き声が聞こえてくる。改めて視線をそちらに向けると砦の上空、霧を通して黒い影がちらついているのも伺えた。
「彼もこちらに飛ばされたようですね」
「……よかった。あいつが居るなら、何処にいるにしろ士郎へのラインが辿れるわ」
私達は顔を見合わせて、ほっと息をつく。私もだが凛の声にも仮面を透いて安堵の色が伺える。如何に感情を殺すのが慣れているとはいえ、好きで慣れたわけではない。特に最近、こちらに現界してからは益々それが苦痛になってきていた。
「とにかく、あいつをとっ捕まえて……」
「凛、待ってください」
と、そちらに向かって歩き出そうとした時だ。
城へむかう石柱の小径の先、霧の向こうから鴉の鳴き声以外の音が響いてくる。
「馬?」
「……軍馬です。しかもこれは……」
騎士の騎馬だ。
地に食い込むように響く蹄の音。これは重い、完全武装の騎士を載せた軍馬の足音だ。
「……凛、下がって」
「……わかった、任せる」
私は凛を背に庇い、剣を手に蹄の音に対峙する。今の凛は道具なしの魔術師、無力とは言わないがいつもと違い即応性に乏しい。何をするにせよ、まず私が当たらねばならない。
「……え?」
が、かつかつと重々しい蹄の音を響かせて、その相手が霧の中から姿を現した時、私は一瞬だけ状況を忘れてしまった。
堂々たる体格の軍馬の上に跨った漆黒の鎧の騎士。鎧同様漆黒の盾には白い十字、そして鎧に羽織った真っ赤なサーコートには銀の猪。
それはコーンウォルの紋章と私が下賜した野猪の紋。私の義兄、サー・ケイのものだった。
「セイバー! どうしたの?」
「も、申し訳ない凛。あの騎士が義兄
いけない、そんなはずはないのだ。凛の声に私は剣を取り直す。が、同時にもしやという気持ちも生まれた。今、向かおうとしているのは義父の城。そしてそちらから近づく義兄の鎧。符丁が合いすぎている。
「……声をかけます。何かの理由で万が一と言うこともありますから」
「わかった気をつけなさい」
凛の応えに、私は僅かに剣を下げ一歩前に出る。
「貴方は何者です。その鎧はサー・ケイのもの。名乗りなさい!?」
返答を期待せぬ問いかけであったが、騎士は馬を降りると、面覆こそ上げぬものの私に一礼して徐に口を開いた。
「王よ、真に申し訳なき事ながら、名乗るわけには参りません」
鎧の奥からのくぐもった声が響く。誰と判別は出来かねるものの思いのほか若い。少なくとも義兄ではない。
だが、私を“王”と呼んだ。つまり、この騎士は私を知るものだという事だ。
「ならば道をあけなさい。私を王と呼ぶならばそれが礼儀のはずです」
私は剣を構えなおして、騎士に対峙する。とはいえ、この状況で相手が引くとは思えない。
「真に申し訳なき事ながら、それも出来かねます。もしどうしてもと仰るのならば……」
案の定、騎士は盾を構え、腰の剣に手をかけた。
「この身を倒してお進みください」
「承知!」
私は抜く間も与えずに一気に間合いを詰めた。
―― 烈!――
「――ちっ!」
が、私は舌打ちと共に踏みしめた足を軸に、強引に身を横に滑らす。
私の剣は、見事に騎士の盾を両断しはしたが、騎士は既に一気に飛び退き、腰の剣ではなく馬腹の槍を手に、盾越しに私に向かって穂先を伸ばしてきたのだ。
「腰の剣は飾りですか」
一旦間合いを外し、私は剣を構えなおす。
今の一撃、盾ごとこの騎士を両断するつもりで踏み込んだ。それをああも容易く見切るとは。
「――ふっ!」
だが騎士は動じない。面覆の下で微かにくぐもった気合と共に、次々と穂先を繰り出してくる。
―― 轟!――
二合、三合、隙あらば踏み込むつもりで受ける槍に、私の心に僅かずつ焦燥が募ってくる。
槍も鎧も、そして騎士そのものからも、強い魔力が流れ込んでくる。全てが強力な神秘だ。しかも、その技量も半端ではない。
ランサーのように速いわけでも、アサシンのように上手い訳でもない。だが、それでもランサーの槍筋を思い起こさせるこの穂先は異様に重いのだ。
その一合一合の重さが、流す事も踏み込む事も許さず、私をして受ける事のみに専念させているのだ。
「くっ!」
私は再び飛び退いて間合いを空けた。拙い。
この騎士は確かに強いが、倒せぬ相手でもない。だが、それは私の宝具
私の宝具であれば、あの重い槍をそのまま両断も出来よう。だが、今、手にある新鍛の剣
「ならば……」
私は心の中で一つシロウに謝罪すると、一気に騎士の間合いに踏み込んだ。
当然、あの重い槍が繰り出される。私は、その槍をそのまま上から叩き落すと、そのまま一気に新鍛の剣を鍔元まで地に突き立て、槍の穂先を縫い付ける。
「――ぬっ!?」
「貰った!」
素早く槍から手を離した騎士。だが、遅い。私はそのまま両手を振りかぶり、宝具
「――なっ!?」
……られなかった。
私の両手は空を切り。ただ虚しく振り下ろされた。宝具が……私の宝具
「セイバー!」
しまった! 一瞬の呆然、僅かな隙。気が付けば既にかの騎士は、私の目の前まで迫ってきていた。捕まる! 避けきれない!
「――!」
が、私はぎりぎりで騎士の手を逃れられた。鈍い轟音と共に、身体ごと襲い掛かってきていた騎士の鎧が僅かにぐらつく。
凛だ。いつの間にか騎士の後ろまで回っていた凛が、ここで即撃できる唯一の呪。最大級のガンドを叩き込んだのだ。
無論、その程度では鎧の表面を焼くだけだろう。だが、この僅かな隙で私には十分。気を取り直し、地に突き立てた新鍛の剣を引き抜く事が出来た。
「凛! すまない!」
「挨拶は後、さっさと片付けなさい!」
「はい!」
兄の鎧を着たこの騎士が何者かはわからない。勝てぬとは言わないが、それでもこの騎士は恐ろしく手練だ。だが、得物を失い、バランスを崩した今ならば宝具なしでも一撃で決められる。私は一気にその鎧を両断すべく、剣を振り下ろした。
―― 交!――
だが、騎士は私の必殺の一撃を、鎧の背から抜き出した見えない何か
「え?」
じりじりと押し返される剣を、私は呆然と見ているしかなかった。
見えない剣。だが、私はこれを知っている。
否、知っているどころでは無い。これは間違いなく……
―― 投!――
騎士はそのまま、唖然と剣を受ける私の胸倉を掴むと、目を覚ませといわんばかりに、思い切り投げ飛ばした。
「――がっ!」
不覚、屈辱、色々な思いがない交ぜになって脳裏をよぎる。戦いの最中、戦いを忘れるとは、例え敵手があれを持つのを見たからといって許されるものではない。しかも、その忘我を敵手の手で覚ませられるとは……
「……嘘……」
ギリギリで受身を取り、転がりざまに立ち上がった私の背で、凛が呆然と呟いている。私はもう一度歯噛みした。
風が舞っている。騎士を中心に。否、騎士の手にある剣を中心に突風が吐き出されるように巻き上がっている。
「私の宝具
黒い騎士の手で燦然と黄金に光り輝く剣。それは紛れも無く私の宝具。エクスカリバーだった。
―― 斬!――
「――つっ!」
即座に繰り出される斬撃。息をつく間もなかった。しかも、先ほどまでよりはるかに強い。私の宝具
「がっ!」
「セイバー!」
必死で支える私の手から、ついに新鍛の剣
だがそれでも私は、左手の手甲で宝具
「凛、逃げてください」
私は片膝をついたまま、先ほどまでとは比べ物にならぬほどの圧力を以って立つ騎士に対峙しながら心を決めた。幸い今の投擲でサヴェジの城を背に出来た。今ならば凛だけでも逃げられる。
「冗談でしょ。逃げたからってどうなるってのよ。でかいの行くわよ、時間稼げる?」
だが、凛は承知しない。それどころか私の応えを聞く間もなく魔術刻印を煌かせ、長詠唱の準備にさえ入っている。私は眼前の騎士を睨みながら歯噛みした。私の宝具
もはやこれまでか、そう覚悟を決めた時、私達の背後から一本の矢が騎士に向かって放たれた。
―― 琴!――
しかし、矢は騎士の兜に当りはしたが、面覆を叩き落したにとどまり、虚しく地に弾かれる。
「ちっ……」
だが、不可思議な事に騎士はこれに動揺した。片手で顔を覆い軽く舌打ちすると、宝具
「凛、一体……」
如何に背を向けたとはいえ、傷を負い得物を失った私に騎士を追い討ちする事は出来ない。歯噛みしながらその背を見送った私は、背中の凛に声をかけた。
「わかんないけど、何とか助かったみたい……」
一拍遅れて凛の応えが返ってくる。騎士の姿が見えなくなるのを待って振り返ると、凛は厳しい顔でじっとサヴェジの城を見据えていた。
「凛?」
私は凛に声をかけ、その視線を辿ってみる。! 人影!?
「セイバー、立てる?」
「はい、なんとか」
「じゃ行くわよ。セイバーも見たでしょ?」
「はい」
私たちは視線を城に向けたまま頷きあった。
サヴェジの城壁の上、霧を透かした人影。私たちの視線の先で徐に身を翻し城に戻ったその人影は、黒い鎧に赤い衣を羽織っていた。
「……ついさっきまで誰かが住んでたみたいね」
「……はい、あの頃と少しも変わっていません」
城門に止まるランスに迎え入れられたサヴェジ城は無人だった。ただどの建物も、今の今まで誰かが居たかのように、きちんと手入れされ整頓されていた。城壁の篝火や廊下を照らす松明も、たった今点けたかのように煌々と輝いている。
「剣が……」
城に入り、ひとまず落ち着いた私は唇を噛んで新鍛の剣
「セイバー、剣よりまず自分の心配しなさい」
「しかし凛、あの人影の事もあります、戦いの用意は……」
「その話は後。まずあんたの傷の手当てから。ふさがって無いんでしょ? その傷」
台所が良いわね案内しなさい、と凛は私に肩を貸して引き摺るように歩き出す。
「凛、待ってください!」
とはいえこのまま為すがままになるわけにはいかない。私は慌てて声を上げた。
「なに? 自分は大丈夫ってのは無しよ。あんた何時だってそう言うんだから」
「いえ、治療は構いません。ですが、その……方向が逆です」
「うっ……」
一瞬言葉に詰った凛だが、だったら先に言いなさいと真っ赤になって唸ると、私の示す方向に向きを変えた。
こんな状況にもかかわらず、私は益々赤くなってずんずんと進む凛に身を任せ、思わず微笑んでしまった。シロウではないが、凛の可愛らしさは本当にわかりにくい。
「こんなもんね、どう?」
「何とか、凛の呪が利いてきたようです」
台所で湯を沸かし、凛は私の傷を洗うと、治癒の呪を唱えてきつく縛ってくれた。この程度の傷、本来なら自分の魔力で治せるはずだが、己の宝具
「落ち着いたら、ちょっと案内して。わたし達を助けてくれた人影とか、確かめておきたい事もあるし」
凛は沸かしたお湯で割ったワインを、真鍮の杯に注いで渡してくれた。有難い、血の抜けた体が中から温まる。
「うげ、なにこれ?」
「胡椒です。たっぷり入れるのが歓待の証となりますので」
一口つけていきなりに顔を顰めた凛に、私は苦笑しながら答える。これは養父秘蔵のワインだ。義兄と共にひと樽空けてしまった時の、養父の怒り様は今でも鮮明に覚えている。
「よく、こんなもの飲めたわねぇ……」
私にとっては懐かしい味だが、、凛の口には合わなかったようだ。慌てて水で口を濯いでいる。
「道具も食料も、全て当時のままのようですね……」
そんな凛を余所に、私は手酌でワインを注ぐともう一度喉を潤した。確かに美味いとは言い切れないが、それでもやはりこの味は懐かしい。
「みたいね、庭の井戸も懇々と水が湧いてた」
「良くわかりましたね」
城の水源は、防衛上の大事な秘密だ。確かこの城の井戸も、巧妙に隠していたはず。この城は構造も古い、現代人の凛によく見つけられたものだ。
「あ? うん、ランスが止まって教えてくれたの」
成程、彼ならば知っていよう。何度かこの城に訪れた事もあった。
「そういえば、ランスは?」
「わたしに井戸の場所教えてくれたら一声鳴いて、このお城の上に昇がったわ、見張りって事だと思う」
シロウが居ない今、ランスと正確に意思の疎通をするのはかなり難しい。それでも勤めは果たしているという事なのだろう。
「わかりました。それでは参りましょう」
ならば私も勤めを果たそう。私は杯に残ったワインを一気に飲み干して立ち上がった。
「大丈夫? 無理は駄目だからね」
「直ぐに戦うというのならばともかく、動くだけでしたらこの程度の傷は支障ありません」
私は英霊なのですよ、と言うと。凛は、ごめんそうだったわねと幾分照れたように頭をかく。まったく、シロウだけでなく凛も近頃、私に対して心配性すぎる。どこか暖かい気持ちになりながら、私は凛を先導して懐かしい我が養父の城を巡る事にした。
「確かここだったわね」
「はい、私たちが戦った場所も見えます。ここからあの矢が飛んできました」
私達はまず館を、続いて私たちを救った矢の放たれた胸壁に上った。城はやはり無人だった。人どころか鼠一匹居ない。
この胸壁からの風景も同じ、周囲を見渡しても所々木々の梢が見え隠れはするものの、霧の海が広がっているだけだ。と、何かに気付いたように凛が霧にかすんだ月を睨みだした。
「セイバー、時計持ってた?」
「あ、はい」
月を睨んだまま口を開いた凛に応え、私は凛から預かった時計を差し出す。
「……ちゃんと動いてるわね、月の位置もばっちり……ってことは……」
シロウの言う“内面モード”という奴だ。ぶつぶつ何事か呟きながら、ああでも無いこうでも無いと、顎に、額に指を当てている。
こうなると暫くは考えに没頭させておくしかない。私は視線を返し、今度は胸壁から城内を見渡した。
「……あ」
館と胸壁は回った、後は本丸と幾つかの塔だけ。そう思いそちらに視線を向けた時、塔の一つに灯がともっているのに気が付いた。あそこは……
「となると問題は士郎か……よし、セイバー。今のうちにこのお城の残りを……って、どうしたの?」
あそこは、私の部屋だ。私が十年近く、エクター卿の子として過ごした部屋だ。必要最低限の物しか置いていない殺風景な部屋。なのに、なぜか胸が痛くなる。
「セイバー?」
「あ、凛。申し訳ない」
いつの間にか内面モードから戻ってきた凛が、訝しげに私の顔を覗き込んでいた。いけない、いけない、これでは私が凛では無いか。
「私の部屋に灯がともっていたものですから」
「セイバーの部屋? 昔のってこと?」
「はい」
「ふうん……じゃ、次はそこに行ってみましょう」
「良いのですか?」
あんなところ何も無い。それは私が一番良く知っている。
「どの道、虱潰しのつもりだし、灯がともってるなら何かあるかもしれないから」
凛はそのままとっとと先に立って塔へ向かう。一瞬躊躇したが、私も慌てて凛の後を追った。
「なに? この塔って階段とセイバーの部屋しかないの?」
「元々は見張り塔でしたから」
ただ一番高い塔であった。此処から見える郷の風景が好きで、物心付いてからずっと此処に上っては郷
「……女の子の部屋じゃないわね」
「凛、私は男として育ったのです」
壁にずらりと立てかけられている、大小さまざまな剣を眺めながら呟く凛に、私は些か呆れながら応える。どうも最近私がアーサー王であった事を忘れられている気がする。これでも、あの頃はずっと男として過ごしてきたのだ。
「でもセイバー、それじゃこれって何?」
「そ、それは……」
そのようなわけで些か憮然としていた私に、凛はまるで鬼の首でも取ったような顔で、部屋の隅に場違いなほどぽつんと置かれた瀟洒な宝石箱を指し示して聞いてきた。更に蓋を開けて、へえと小さく感嘆の声を上げる。
「そりゃ高価なものじゃないけど、時代を考えれば安物ってわけでもないわよ、これ」
そこには、色とりどりの硝子玉と金銀で出来た婦人物の装飾品が、一つ一つ丁寧に包まれて収められていた。何かとても恥ずかしい気持ちになって来る。丁度シロウが、自分の部屋に隠しておいた微妙な本を、凛に見つかった時のような気持ちだろうか。
「その、養父がどうしてもと、捨てるわけにもいきませんでしたから」
この部屋を頂いた五つの誕生日から、養父は私の誕生日には常に二品の贈り物を用意するようになった。一つは身の丈にあった剣、そしてもう一つはこの箱に収められているような宝飾品。
私は五つの時からずっと剣を取り続けてきたというのに、養父はそれでも毎年、美しい宝飾品を私の為に用意していた。
「ふうん、良い趣味してるじゃない。貴女の養父さん」
凛はどこか意地の悪い顔をしながら、続けて隣の衣装櫃を開けた。
「あ! 凛!」
拙い、あそこには……
「へえ……」
遅かった。凛は獲物を捕まえた猫の顔で、ばさりと一着のドレスを取り出した。腰を絞り胸元を強調したデザインで、金糸の縁取りのある蒼のドレス。
十五の誕生日に、鎧一式と共に送られた、最後の誕生日プレゼント……
「ねえ、セイバー?」
「な、なんでしょう。凛」
凛の顔に意地の悪い笑みが広がる。それに比例して私の顔が赤くなる。くっ、しくじった……
「前々から不思議だったのよね、セイバーって王様時代は男って事になってたんでしょ? なのに何故現界したときドレス姿だったのかなって」
何も言えない。確かに王を勤めていた時、私は今のドレスと同じ色調で、似たような雰囲気を持った服を着ていたが、流石にこのドレスを着ていたわけではない。
「お養父さんの事、好きだったのね」
不意に凛の表情が変わった。暖かく優しい。シロウが“素の遠坂”と言うあの表情だ。
「……はい。私は養父
今はもう、嘗てのように王になった事を、王として努めてきた事を悔いているわけでは無い。しかし、それでも騎士として十全であっただろうかと言う悔いはある。養父の息子になれなかったという心残りはある。
それが、きっと現界した時に父からの最後の贈り物を身につけさせたのだろう。
――わたしはあなたの父でもなければ、あなたはわたしの息子でもありません――
あの言葉の痛みだけはずっと残っている。否、シロウたちの時代に現界し、人がましい心を知るにつれ、その痛みは増しているような気さえする。
今なら正直に言える。私は養父
「でもセイバー。もしかして貴女の養父って貴女を……」
そんな私の表情をじっと見ていた凛が、真剣な表情で何かを言いかけると、何故かそのままじっと黙り込んでしまう。
「凛?」
「良い。これ以上は推測だし、第一わたしが言っても意味なんか無いもの。さ、お城の残りを調べて見ましょう」
「あ、はい」
それから私たちは再び城の探索を続けた。厩、矢倉、塔、そして最後に本丸の前に進んだ。
「ここで最後ね。ここは?」
「本丸です。倉庫と広間があるだけですが」
生活の場である館と違い、本丸は最後の防壁。普段はめったに使われる事の無い建物だ。私たちは二層目に繋がる跳ね橋を渡り、本丸の中に入った。
「セイバー!」
途端、いきなり凛が身構える。かと言っておかしな気配は感じない。何事かと肩越しに除いてみると。成程、そういうことですか。
「凛、落ち着いてください」
「落ち着けって、セイバー! あれって!?」
「養父の武具です」
「へ?」
私の言葉にきょとんと口を開けた凛を余所に、私は真っ直ぐ進む。
目の前には白い十字の刻まれた盾と剣を持ち、弓や槍と言った武具と共に屹立する真っ赤なサーコートを羽織った漆黒の鎧。
あの騎士の鎧そっくりだが、一点だけ違いがある。
「銀の猪がありません。あれは私がサー・ケイに下賜した紋章でしたから」
つまりこの武具がサヴェジ本来の様式なのだ。もし、仮に私が養父の子のまま騎士となったのなら、多分この赤いサーコートに金か銀で熊の紋様を刻んだろう。
――我が子よ
一瞬よぎった幻影を、私は軽く頭を振って追い出した。それは存在しない可能性だ。
「ちょ、ちょっと勘違いしただけじゃない」
一方凛は、それにお城の中に馬まで居るんだもん、と鎧の隣の石像をむぅーッと睨みつけている。
「養父の愛馬セクエンスの像です。私の愛馬ドゥン・スタリオンの父親で、私が成人する時にはかなり老いて、もう乗る事は出来なくなっていました。代わりにこうして石像を造り、養父の武具と共に置かれたのです」
「ねえ、セイバー。これってかなり良い剣じゃ無い?」
が、凛は私の解説を余所に、養父の鎧に歩み寄ると、その手の剣を指差した。
「家伝の名剣です。幼い頃せがんでは養父に怒られたものでした」
――お前の剣は別にある。それまで待ちなさい――
ふと、この剣を持ち出した時の事が思い出された。あの時養父は怒るでもなく、まるで諭すようにそう言ったものだ。もしかしたら、養父は知っていたのかもしれない。
「ふうん、そう。セイバー、ちょっと剣
「はい?」
余りの何気なさに、つられる様に渡してしまった剣を手に、凛は養父の鎧の前まで進むと、とんでもない事を言い出した。
「えっと、養父
そのまま養父の鎧から剣を取ると新鍛の剣を握らせる。
「り、凛!」
貴女は何をして、いや言っているのですか!?
「大丈夫、今度はお父さん怒らないから」
慌てて突っかかる私に凛は、ほら全然怒ってないし、と鎧の肩に手を置いて口の端を歪めて笑うだけだ。
「そういう事を言っているのでは無いのです!」
「セイバー」
尚も、文句を言おうと前に出ると、凛は又あの優しい笑顔になって言葉を続ける。
「貴女の養父さんは、貴女を愛してる。わたしが保証して上げる。それじゃ足りない?」
「……凛」
凛はそのまま真っ向から私の瞳を見据え、養父の剣を握らせる。気圧された私には、黙って剣を受け取る事しか出来なかった。
――わたしはあなたの父でもなければ、あなたはわたしの息子でもありません――
脳裏に又あの言葉が蘇る。凛の言葉が信じられたら、どれほど嬉しい事だろうか……
私はただ静かに思い出をかみ締め、この場の探索に専念する事で苦い思いを打ち消すのだった。
万魔節
凛とセイバーだけで放り出された、謎のお城。そして失われたエクスカリバーと謎の騎士。
ここは何処なのか? あの人影は? 騎士は? そして士郎は?
それでは、解決編。後編に進みください。
By dain
2004/11/24 初稿